第106話 抵抗
那戯は倒れた八号機に一瞥くれて、すぐに背中を向けた。
「――、始末しておけ」
いつの間にか彼は、アーウィズォウトを従えていた。
ネーレイスになってまでどうかは知らないけれど、メソアメリカの神話ではトラロックという神の眷属で、元来は湖の底に住まい、溺死させた人間の死体から、目や爪や歯など抜き取っていくんだとか。
そんなものに、とどめを刺されようなんて。
あんまり、痛くしないで欲し――
「――ッ!!?」
流石に眼球を抉られそうになっては、死に物狂いで横転するしかない。
那戯の望んだ白夜の空の下、負けが確定しているのに不毛な取っ組み合いを浅瀬で繰り広げる。
「くそっ、こんな、ところで……みんな!」
大して長い時間を、一緒に過ごしてきたわけでもない。
仲間と呼ぶには、短い付き合いしかなかった人々。
だけれど、僕は――歪んだ道理のなかだったとしても、生きているかぎり、那戯の言い分を否定したい。
(まだ、姉さんの復讐だって、果たせていない)
空っぽだった自分に、美岬が持ち掛けたひとつだけの。
「――ぁあああああああああ!!!!?」
左目を潰されるとほぼ同時で、絡みついていた奴を引きはがし、蹴り飛ばす。
「助けて、姉さん……このまま……終わりたくない……まだなにも、僕はっ。護れてない、なにも!
手に入れられてないのに、こんなクソったれがッ」
我ながら、支離滅裂なことこの上ない。
祭壇に横たわるセドナ、その結界を前にして、枸櫞は最期の特攻を試みる。
「ずっと、怖かった。
姉さんが何を考えてるか、わからなくて、苦しくて――だけどあんたを嫌いにはなれないんだ。
もういない……この世界の何処にもいないかもしれない、けど!」
那戯の四神が貼った結界へ、自殺同然に飛び入った。
「せめて意味のあることをさせてくれ――もう取り戻せないモノに、報いるだけでいい、《《俺》》は!!!」
八号機の全身が砕けてなお、彼は突き進もうとする。
『手間取っているな。
……きみがその結界を越えることはないのに、なにを必死になっている?』
だがそのとき、向こう側からセドナの首が動いた。
その目が、自壊しかかった八号機を捉えて、結界の内側から手が伸びて――
『セドナ、なぜ』
枸櫞が最後に聞いたのは、那戯の困惑した声だった。
*
共鳴者とはなにか。
今日、複数の呼び名が与えられているけれど、交叉神社に最古、遺された文献には「泡沫人」なる記載がある。
テルクの海原に関しても同様、「泡沫の海原」と呼ばれた。
鮫人を用い、ネーレイスこと「物怪魚」なる異形と世代を超えた戦いは実質慣例と化して続き、泡沫に消える幻界を解明する手立てもろくにないまま、二十一世紀の中頃になってようやく、泉客グループが先史文明の遺跡を本格的に調査し始めた。
「おにーさま……?」
那戯には欠片も思い入れなどないが、亀のぬいぐるみは、当初こそ引っ込み思案だった彼女がクレーンゲームで欲しがったので、彼が取ってあげたものだ。
彼のいるところ、彼女はいつもそれを持って駆けてきた。
子どもっぽいとは想わないでもなかったが、それ以前、
「遺跡にそれを持ってくるな。汚してしまうだろう」
「はい……」
それをもらったことのよっぽど嬉しかったんだろうけれど、失くして苦しい思いをするのは自分だろう。那戯は彼女の稚拙さに、やや呆れていた。
それでも、関わる以上は兄の役を演じる程度の義務はある。
形式でしかなかったが、人間ならそうする――亡き母の猿真似でしかなかったかもしれないが、彼女の頭に手を置いた。
那戯にとって美岬は、《《最初の一歩》》に過ぎない。
彼女という個に関心はなく、彼女を造れてしまった、そしてこの先も同様の再現ができる確信があったから。
セドナの髪と粘土があれば、いくらでも再現性のある科学的な存在で、実際に男の代替品を造って立てようとしたこともある。美岬のときに味わった身分の調達が面倒で、命を吹き込む直前、器は壊したが。
美岬という個人に関心はなかったけれど、彼女という存在は、テルクの海原の開拓とヤヲ因子の研究における、誇るべきトロフィーであった。
だからこそ、そのような道具として以上に、彼女を扱えなかった。
美岬にとって不幸なのは、那戯が亡母の再演をそつなくこなし、父親よりはるかに親代わりとしての振る舞いができていたことだ。
彼女の望む親を、確かにこなしてくれて、必要なものはなんだって買い与えてくれた。――ただしそれは、那戯の関心が俗世や即物的なところになかったから、でしかない。
「私も鮫人に乗って、ネーレイスと戦います!」
「できるだろうが……なぜだ?」
那戯は最初のうち、美岬の自我を縛るようなプロトコルを使わなかった。彼女の感受性の発達を、自ら統計するのはそれなり、純粋で知的な愉しみであったから。ひとが愛情と呼ぶものにはとんと共感が湧かないけれど、どうすれば彼女が自由と喜びを感じ、能動的に物事へ取り組めるのか――テルクの解析、事業の能率化の一環として、彼女の成長をまだ期待できていた頃のことだ。
「お兄様の夢を叶えたいんです!」
「夢……」
もっと媚びた、つまらない言葉を予想していたが。
これはいい意味で、予想外だったのやもしれない。




