第102話 琉稀の消失2
「どうして」
枸櫞は呆然としていた。
またオーロラの空間へと戻り――、水鏡の上で琉稀を押し倒している。
彼女の全身が、消えかかっていた。
「これまでだって、なんとかなってきたじゃありませんか。
みんな、あなたを待ってる」
しかし琉稀は首を横に振るのだ。
「残念だけど、私の因果は書き換わらないみたい。
どちらにせよ一度死ぬか、アーウィズォウトにやられる羽目になる。
ほんと、どうして私はこんなに弱いんだろう……いやになっちゃうね」
「そんなこと」
枸櫞は彼女の頬に手を寄せる。
「すべてのネーレイスは、僕の敵じゃないんだ。
いま四号機を取り戻して、美岬さんとふたりとも、助けますから」
「そう、だね……ねぇ枸櫞くん」
「?」
「あなたの強さを、信じてる。
こんなところにまで、会いに来てくれて、本当にありがとう。
あなたは、王様だから。きっと自分を貫ける」
「そんな、これで終わりじゃないんだから――っ」
枸櫞は息を呑む。
水鏡の上に、もう彼女の姿はない。
「――、――」
絶句。
*
あんたは破滅したいだけだ、以前にそう言った枸櫞の顔が浮かぶ。
こうして五体満足を取り戻して、今更ながら想う。
(それがよくも俺なんかに、ふたりの救出を賭けたものだな)
「わかったよ、天充枸櫞――俺は人として、喪ったものを取り戻す」
それこそが、俺を惑わしてきたあのネーレイスに対する、完全なる復讐なのだと、俺はお前から教わった。
『重力場の制御、流石ですね。
それで、アザラシのほうは良かったんですか』
「放っておけ……敵の敵が味方でも、まぁいいんじゃないか、今回ばかりは」
『先輩?』
護斗は翼の丸くなったことに、驚きを隠せないらしい。
「敵の動きは封じたが、分離するには決定打が欲しい。
紅嘴、おまえの力でできないか?」
『やってみます』
できるかできないかは二の次、やるほかになかった。
だが、彼の紅珊瑚が到達してなお、四号機と異形の分離は想うように進まない。
五号機は憔悴したアザラシを、すでに波の収まった洋上で抱えている。
「天充の力が欲しい、あの《《ネーレイスを壊す力》》……なに?」
そう言った直後、枸櫞からの感覚が逆流する。
「これが、王力?
天充、そういうことかよ」
(壱号機の手に、託そうと)
翼はばつの悪く、自分の頭を掻いてから、嘆息する。
直後、壱号機は異形へ正面から飛び込んでいった。
四号機に向けて、掌底を放って――水子だった生ける屍は、あっさりと霧散した。
終わって、メロウ級の持ち物だった帽子がふよふよと宙へ残留し、降ってくる。
弐号機がそれをキャッチして、五号機の傍に移動する。
『ソラの字のやつ……全部俺たちに押し付けていきやがった。
白錫先輩を、取り戻すんじゃなかったのかよ。
こんなところで』
『いや、まだだよ。
まだみっちゃんは、泉客那戯との決着をつけていない。
四号機を回収したんだ、僕たちも北に急ごう、きっと僕らの王様なら、何とかしてくれる』
八号機が消えて後、最初こそ取り乱していた珊瑚だったが、すでに我を取り戻していた。
メロウ級は頭巾を返却されると、穏やかな笑みを浮かべ、身体から力を喪った。
五号機は、アザラシを波間へゆっくりと降ろす。
メロウ級の影が、見えなくなるまで――みなは静かにそれを見送った。
護斗が言う。
『ネーレイスって、なんなんでしょう。
俺には、もう一概に敵として見ることができないんです。
勿論、それを倒すことに、躊躇うわけじゃありません、けど』
「わかっている。
行こう、誰が最初に那戯をぶん殴るのか。
こっからは、そういう競争だ」
*
枸櫞は白夜の空に、ふらりと立ち上がる。
「シトラ……姉さん……僕は、どうすれば良かったんだ?」
四号機の取りついていた水子級は、壱号機の手で排除された。
だけれど、琉稀が戻ってくることへの確信や手ごたえが、感じられない。
珊瑚と護斗は着実に戻っているというのに、
「こんなことって――こんなッ」
アーウィズォウトにやられたとき、本当はもっと覚悟すべきだったのかもしれない。超常によって保たれてきた、奇跡的な彼女という存在の均衡を、那戯の恣意が踏み躙った。助かるべきだった彼女を、このままでは救えない。
「――」
泉客へ来た頃のことを、ふと思い返す。
姉を喪い、父には無視される虚脱の日々。
シトラとの出会いが、新しい家族の時間を培って、寂しさを埋めてくれた。
そんな夢のような時間の傍らで、姉さんを喪ったことの復讐は、どこまでも僕に付きまとった。復讐することの是非ではない、奪われたものを忘れるなと、時間の経過がそのたび、自分へ突き付けてくるのだ。だから僕は、僕の血縁者としての義務を履行した。
そこに僕自身の意思は、大して必要がなかったけれど。
確かに、姉さんを俺から奪った輩が憎たらしくてしょうがなかったけれど――誰かの怒りや正しさを、代弁するためにやったんじゃない。
《《俺》》は姉さんを愛した俺のエゴに狂うと、決めていたから。
琉稀を奪われたいま、自分は誰を殴ればいいんだろう?
那戯か、それともこうなる大本の流れを作った、伏馬翼か。
「美岬……?」
白夜の空の下、すこし遠く。
彼女が静かに立っていた。




