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輪郭圏外  作者: ねむZ
第一章 現代編――輪郭のない彼女
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8/15

8話 見るだけ

帰宅してナギに餌を出し、食べ終わるのを待ってから床に座った。尻尾の付け根を手のひらで軽く叩く。


ナギは腰を高く持ち上げ、喉を鳴らした。


スマホを向けると、ナギが顔を上げ、大きく口を開けた。ちょうどその瞬間を一枚撮る。


『今日のナギです』


写真を白銀へ送り、スマホをポケットへ戻した直後、振動が伝わった。


『今日はありがとうございました』


何のことだろう。昼間の出来事を思い出しながら、『何がですか』と返す。


既読がついた。


『途中まで一緒に歩いてくれたので』


『同じ方向だっただけです』


『それでもです』


学食の時にも似たようなことを言われた。白銀は、こちらが大したことではないと思っていることにも礼を言う。


トーク画面を閉じようとすると、続けてメッセージが届いた。


『さっきの写真ですが、鳴いているところですか』


『欠伸です』


『そうなんですね。ナギは、よく鳴きますか』


足元を見る。ナギは身体を起こし、こちらを見上げていた。


「よく鳴くかって」


声をかけると、ナギが短く鳴く。今のを聞かせれば早かった。録音を始め、スマホを向ける。


「もう一回」


ナギは黙った。


「さっきみたいに」


琥珀色の目がこちらを見ているだけだった。


録音を止め、仕方なく『割と鳴きます』と送る。すぐに『どんな声ですか』と返ってきた。


低い。猫にしては太い。でも、鳴き方によっては妙に高い時もある。どう書くか迷って、『少し低いです』と送った。


『少し』


そこへ『身体の大きさに合った声です』と付け足す。送ってから、余計に分かりにくくなった気がした。


しばらくして、『聞いてみたいです』と届く。スマホを向け直すと、今度は顔を背けられた。


「協力する気ないだろ」


僕は動画へ切り替え、少し離れたところから撮り始めた。動いているところなら、声が入らなくても写真とは違う。


ナギは床へ身体を横たえた。大きな尻尾が棚の脚に当たり、軽い音がする。そのまま毛づくろいを始めたので、途中からスマホを顔の近くへ寄せた。


撮影を止め、『鳴きませんでした』と添えて送る。


すぐに『動いています』と届いた。


当たり前だった。


『動画なので』


返すと、『写真より大きく見えます』、続けて『尻尾の音も大きいです』と来た。そこまで聞いていたらしい。さらに、もう一件届く。


『途中で、小さい音がしています』


動画を再生する。ナギの顔へ近づけたあたりで、低い音がわずかに入っていた。その部分を聞き直す。


「喉か」


撮っている時には気に留めていなかった。


『喉を鳴らしている音です』と返す。


『思っていたより低い音なんですね』


『近くにいると、音より振動の方が分かります』


ナギに手を伸ばし、首の下を撫でる。低い振動が指先に伝わった。


録音を始めてスマホを近づけると、ナギは喉を鳴らすのをやめた。


「何でだよ」


スマホを離すと、少ししてまた低い音が始まる。近づけると止まる。何度か繰り返したが、結果は同じだった。録音を止める。


『近づけると止まります』


『警戒しているんでしょうか』


『スマホを嫌がってるんだと思います』


少しして、『遠くからだと聞こえないんですね』と返ってきた。


『難しそうです』と送る。


ナギはもうスマホへの興味を失い、僕の足へ前足を乗せている。その時、スマホが震えた。


『通話なら聞こえるでしょうか』


指が止まる。


白銀と通話をしたことはない。連絡先を交換してから、やり取りはすべて文字だった。大学では普通に話しているのに、通話となると少し違うものに思えた。


返事を考えている間に、『今、大丈夫ならですが』ともう一件届く。


断る理由はなかった。


『大丈夫です』


送信すると、既読がついた。


数秒後、画面に白銀の名前が表示される。静かな部屋に着信音が響いた。


一度だけ息を整えてから、通話ボタンを押す。


「もしもし」


『もしもし』


白銀の声が聞こえた。大学で聞く時と同じ、低めで、大きくはないのに語尾までよく聞こえる声だった。


周囲の話し声も、椅子を引く音もない。耳元から聞こえるのは、白銀の声だけだ。


『聞こえますか』


「聞こえます」


『よかったです』


僕はスマホをスピーカーへ切り替え、床へ置いた。画面の光に気づいたナギが、ゆっくり近づいて鼻先を寄せる。


その身体に沿う輪郭は、いつもと変わらなかった。大学で白銀が隣にいる時のように、細かな揺れまで強く浮かび上がることはない。


声だけでは、違うらしい。


「今、スマホの匂いを嗅いでます」


『何か匂いがするんでしょうか』


「床に置いたから、気になったんだと思います」


ナギは画面を一度嗅ぐと、その横へ座った。


『ナギ』


スマホから白銀の声がする。


ナギの耳が動き、顔が少しだけ画面へ向く。


『ナギ』


二度目に呼ばれると、ナギはスマホを見たまま短く鳴いた。


『返事をしました』


白銀の声が一段近くなる。


「偶然だと思います」


『もう一度、呼びます』


白銀が、もう一度ナギの名前を呼ぶ。


今度は耳も動かない。


『今度は返事をしません』


「まあ、猫なので」


『一回は返事をしました』


「一回だけです」


『一回でも、しました』


ナギは話題にされていることなど気にせず、スマホの横で前足を舐め始める。


『夜は、いつも近くにいるんですか』


「だいたいいます」


『寝る時も?』


「足元に乗ります」


『重そうです』


「実際、重いです」


『でも、温かそうです』


「冬はいいですけど、夏は暑くて厳しいです」


『退いてもらわないんですか』


「退かしても戻ってくるので」


『戻ってくるんですね』


その一言だけ、ゆっくりだった。


「白銀さんは、もう夕飯食べましたか」


『食べました』


「何を?」


『うどんです』


「またですか」


『今日は卵も入れました』


「少し増えましたね」


『はい。少し豪華です』


どこまで冗談なのかは分からなかった。


「今日も自分で作ったんですか」


『はい。卵を入れただけですが。朝倉さんは?』


「僕はまだです」


『ナギは食べましたか』


足元では、ナギが前足を舐めていた。


「ナギは食べました」


『朝倉さんより先なんですね』


「毎日そうです」


『ナギが待っているなら、仕方ないです』


なぜか白銀がナギの側に立った。


「僕もお腹減ってるんですけど」


『朝倉さんは、自分で用意できます』


「ナギも待てます」


『待たせるんですか』


「待たせません」


白銀の声が一瞬途切れた。通話が切れたのかと思ったが、小さく息を吐く音が聞こえる。


笑ったのかもしれない。


「今、笑いました?」


『少しだけです』


答えはすぐに返ってきた。


ナギの視線が、部屋の隅へ向いたまま止まった。次の瞬間には立ち上がってそちらへ歩き、棚の下へ前足を伸ばす。


「何してるんだ」


身体を屈めて覗くと、古い猫じゃらしが転がっていた。先端の布はほつれ、棒から伸びる紐も何度か結び直して短くなっている。


ナギが棒の部分を引っかけると、猫じゃらしが床を滑り、棚の脚へ当たった。鈴が鈍く鳴る。


『今の音は何ですか』


「猫じゃらしです」


『猫じゃらし』


「かなり使ってるやつです」


拾って軽く振ると、ナギの目が先端を追う。続けて振った瞬間、大きな前足が伸びる。


『聞こえます』


「鈴ですか」


『それもです。ナギが動く音も』


ナギが猫じゃらしへ飛びつき、僕は反射的に手を引いた。


「危な」


『どうしたんですか』


「大丈夫です。前足が手の近くまで来ただけです」


『短いんですか』


「何度か切れて、そのたびに結び直してます。最初はもう少し長かったです」


『新しいものはないんですか』


「新しいものは、ないですね」


『どこで売っていますか』


「駅前の店にあります。雑貨屋ですけど、ペット用品も置いてるので」


『いろいろありますか』


「猫じゃらしは何種類かあったと思います」


『見てみたいです』


「猫じゃらしをですか」


『はい』


「猫を飼ってないのに?」


『ナギに合うものを見たいので』


ナギは古い猫じゃらしを前足で押さえ、ほつれた布の先端を獲物のように見つめている。


「実物を見ないと、分かりにくいかもしれません」


『そうですね』


短い無音が挟まる。


『朝倉さん』


「はい」


『今度、一緒に見てもらえますか』


返事をする前に、足元でナギが短く鳴いた。


『今のは、返事ですか』


「たぶん」


『では、お願いします』


「ナギが決めるんですか」


『朝倉さんは、嫌ですか』


「嫌ではないです」


『なら、よかったです』


最後だけ、声の硬さが少し抜けた。


---


翌日の水曜日、講義が終わると、白銀は帰り支度を済ませ、こちらを見た。


「朝倉さん」


「はい」


「駅前のお店ですが、今日でも大丈夫ですか」


思っていたより早かった。


「大丈夫です」


「では、お願いします」


僕も鞄を持って立ち上がる。


大学の中で並んで歩くことには、少し慣れてきた。けれど今日は、そのまま門の外まで一緒だった。


門を出てから、何度か隣へ目が向いた。白銀は変わらず、僕の横を歩いていた。


「丈夫なものもありますか」


「店で見ないと分からないですね」


「ナギは、よく壊すんですか」


「結構激しく遊ぶので」


「やっぱり、遊び方も激しいんですね」


「やっぱりって何ですか?」


「昨日、音だけでも勢いがありました」


通話越しに聞いただけで、そこまで分かるものだろうか。


「写真でも大きいですし、長いものの方が安全そうです」


「昨日みたいになるなら、その方がいいかもしれません」


駅前の店は、文具や日用品、雑貨を扱う小さな店だった。奥へ進むと、壁際にペット用品の棚がある。


白銀は棚の前で足を止めた。


「思っていたより、短いものが多いです」


「普通はこのくらいでも遊べますよ」


棚には、棒の先に羽根がついたもの、長い紐の先に布製のネズミがついたもの、鈴の入ったものが並んでいる。


白銀は端から順に手に取っていった。


「これは、音が鳴ります」


「鈴が入ってますね」


「音がある方が反応しますか」


「まあ、音がある方が食いつきがいいのは確かです」


「では、音は必要ですね」


必要とまでは言っていない。


次に白銀が取ったのは、赤い持ち手に短い紐がついたものだった。先端には小さな羽根が三枚ついている。


「これは近すぎませんか」


「紐は短いですね」


「これだと、また手の近くまで来ませんか」


「普通の猫なら、このくらいでも遊べますけど、ナギなら少し厳しいかもしれません」


「では、もっと長いものにします」


短い猫じゃらしを棚へ戻し、今度は長い棒の先に紐がついたものを取る。紐の先には、羽根ではなく厚い布がついていた。


「これはどうですか」


「そのくらい長ければ大丈夫だと思います」


白銀は布の端を指で軽く押さえた。


「こっちも厚いです」


「ナギなら、その方が長持ちはしそうですね」


「これにします」


「買うんですか」


「はい」


「見るだけじゃなかったんですか」


「見たら、必要になりました」


「うちの猫ですよ」


「知っています」


「それなら僕が払います」


「私が選びたかったので」


そこまで言われると、引き下がるしかなかった。


「……分かりました。ありがとうございます」


「お願いします」


会計へ向かいかけた白銀が、隣の棚で止まった。


ブラシが並んでいる。


「ブラシも必要ですか」


「家にはあります」


「どれですか」


僕はナギに使っているものと同じくらいのブラシを指した。


白銀は手に取る。


「小さいです」


「普通の猫用ならこんなものです」


「普通の猫」


白銀は隣にあった大きなブラシを手に取った。


「こちらの方が近い気がします」


「それはたぶん、犬用ですよ」


白銀は表示を確認した。


「大型犬用」


「ナギにも使えなくはないと思いますけど、一応猫なので」


白銀は猫用と大型犬用のブラシを並べて見比べる。


「写真で見慣れて、大きさの感覚を間違えているのかもしれません」


「ナギを基準にすると、普通の猫とはずれますから」


「そうかもしれません」


大型犬用のブラシを棚へ戻すと、それ以上は触れなかった。


会計を済ませると、猫じゃらしは細長い袋へ入れられた。店を出たあとも、白銀はそれを両手で持っている。


「そんなに大事にしなくても、簡単には壊れませんよ」


「渡す前に壊したくないので」


「使ったら、すぐ壊れるかもしれません」


「それは、ナギが使った結果なので仕方ありません」


僕の知らない壊れ方の美学があるのかもしれない。


「気に入ったら写真を送ります」


「本当ですか」


「はい」


「お願いします」


その時、耳の奥が詰まった。


駅前の音が遠のく。


またか。


「朝倉さん?」


「大丈夫です。最近、たまに耳が詰まるので」


耳を押さえたまま顔を上げると、道路の向かい側に白いトラックが停まっていた。


エンジンはかかったままだった。


何となく運転席を見る。


運転席に男が座っていた。こちらへ顔を向けているように見える。


距離があって、表情までは分からない。


それでも目を凝らすと、輪郭は見えた。フロントガラス越しに細く伸び、僕と白銀の方へ向いている。道路や信号へ向いた形ではなかった。


男の輪郭の一部が、ハンドルの下へ伸びた。


その直後、耳の奥が抜けた。


信号の電子音も、行き交う車の音も、一気に元の大きさへ戻る。


その中に、道路の向こうから響く低いエンジン音が混じっていた。


耳から手を離した。


運転席を見る。


男の輪郭は、もう身体の近くへ戻っていた。


一拍遅れて、トラックが動き出す。


信号が変わり、白い車体は人と車の流れの向こうへ消えていった。


「朝倉さん?」


白銀がこちらを見ている。


「どうかしましたか」


「……いえ。もう治りました」


道路の向こうを見る。


もう白い車体は見えなかった。


「……そうですか」


白銀はそれ以上聞かなかった。


「これは、気に入ってくれるでしょうか」


白銀が、両手に持った細長い袋を見た。


「たぶん。こういうのは好きだと思います」


「そうですか」


改札の前で、白銀が袋を差し出した。


「お願いします」


受け取ると、見た目より軽かった。


「気に入らなかったら、教えてください」


「分かりました」


「壊れた時も」


「それも?」


「次を選ぶ必要があるので」


「もう次があるんですね」


「必要なら」


白銀は改札を通り、そのまま向こう側の人の流れへ入っていった。


手元に残った袋を見る。折れないよう、持つ位置を直した。


袋の中には、猫じゃらしが一本入っているだけだった。


駅を出る前に、スマホのメモを開いた。


これまで耳が詰まった時のことを思い返す。覚えている範囲では、外にいた時が多かった気がする。ただ、バイト先の店内で起きたこともある。


耳詰まり。駅前。白いトラック。運転席の男の輪郭がこちらへ向いていた。輪郭の一部がハンドルの下へ伸びた直後、耳詰まりが治った。


関係があるように見えただけかもしれない。


続けて起きたことを、勝手につなげている可能性もある。


それでも、記録しておく分には困らない。


最後に時刻を入れて、保存した。


---


帰宅すると、ナギが玄関まで迎えに来た。


「ただいま」


ナギは低く鳴き、僕の手元を見る。輪郭も、細長い袋の方へ細く伸びていた。


「白銀さんから」


猫じゃらしを取り出すと、ナギの耳が前へ向く。


厚い布が紐の先で揺れた。持ち手を動かすと、布が床の上を滑る。


ナギの身体が低く沈んだ。


次の瞬間、黒い身体が床を蹴る。


「うわ」


反射的に腕を引いた。


ナギの前足が布を捉え、そのまま紐を引く。


長いものを選んで正解だった。短い猫じゃらしなら、今の前足は僕の手元まで届いていたかもしれない。


「白銀さんの言った通りだな」


ナギは布を前足で押さえて噛みついている。一度離すと、また低く構えた。完全に気に入ったらしい。


写真を撮り、白銀へ送る。


『渡しました』


既読がついた。


『かなり食いついているので、気に入ったみたいです』


『よかったです』


そこへ、もう一文届く。


『壊れていませんか』


布の端を見ると、細い糸が一本伸びていた。


『まだ壊れてはいません』


『まだ』


そこだけ拾われた。


『長くは保たないかもしれません』


返事が来るまで、間があった。


『次は、もっと丈夫なものにします』


『次があるんですか』


既読がつく。


『あります』


続けて、両前足を上げた虚無顔の猫のスタンプが届いた。足元では、ナギが猫じゃらしを両前足で抱えている。状態を確かめようと手を伸ばすと、ナギは猫じゃらしの上へ前足を重ねた。


「取らないよ」


それでも手を近づけると、ナギは猫じゃらしを咥え、僕の手が届く前に立ち上がった。そのまま部屋の隅まで運び、壁を背にして座る。前足の間へ猫じゃらしを置いた。


「何?」


声をかけても動かない。視線だけが、僕の手を追っている。


遊びたい時なら、もう一度振るように持ってくる。獲物なら、噛むか前足で転がす。今のナギは、そのどちらでもなかった。


スマホを動画へ切り替える。


「ナギ」


ナギは前足の間に猫じゃらしを置いたまま、こちらを見る。一度だけ耳が動いた。


しばらくすると布の先を鼻で押し、顔を上げて短く鳴いた。


録画を止め、白銀への送信画面を開く。一秒目から、ナギが猫じゃらしを抱え込んでいた。


送信ボタンの上で指が止まる。


講義室の隣の席が浮かんだ。


これを見せた時、白銀は最初に何と言うのだろう。


そのまま、送信画面を閉じる。


動画だけを保存した。


ナギは、猫じゃらしへ前足を重ねたまま動かなかった。


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