8話 見るだけ
帰宅してナギに餌を出し、食べ終わるのを待ってから床に座った。尻尾の付け根を手のひらで軽く叩く。
ナギは腰を高く持ち上げ、喉を鳴らした。
スマホを向けると、ナギが顔を上げ、大きく口を開けた。ちょうどその瞬間を一枚撮る。
『今日のナギです』
写真を白銀へ送り、スマホをポケットへ戻した直後、振動が伝わった。
『今日はありがとうございました』
何のことだろう。昼間の出来事を思い出しながら、『何がですか』と返す。
既読がついた。
『途中まで一緒に歩いてくれたので』
『同じ方向だっただけです』
『それでもです』
学食の時にも似たようなことを言われた。白銀は、こちらが大したことではないと思っていることにも礼を言う。
トーク画面を閉じようとすると、続けてメッセージが届いた。
『さっきの写真ですが、鳴いているところですか』
『欠伸です』
『そうなんですね。ナギは、よく鳴きますか』
足元を見る。ナギは身体を起こし、こちらを見上げていた。
「よく鳴くかって」
声をかけると、ナギが短く鳴く。今のを聞かせれば早かった。録音を始め、スマホを向ける。
「もう一回」
ナギは黙った。
「さっきみたいに」
琥珀色の目がこちらを見ているだけだった。
録音を止め、仕方なく『割と鳴きます』と送る。すぐに『どんな声ですか』と返ってきた。
低い。猫にしては太い。でも、鳴き方によっては妙に高い時もある。どう書くか迷って、『少し低いです』と送った。
『少し』
そこへ『身体の大きさに合った声です』と付け足す。送ってから、余計に分かりにくくなった気がした。
しばらくして、『聞いてみたいです』と届く。スマホを向け直すと、今度は顔を背けられた。
「協力する気ないだろ」
僕は動画へ切り替え、少し離れたところから撮り始めた。動いているところなら、声が入らなくても写真とは違う。
ナギは床へ身体を横たえた。大きな尻尾が棚の脚に当たり、軽い音がする。そのまま毛づくろいを始めたので、途中からスマホを顔の近くへ寄せた。
撮影を止め、『鳴きませんでした』と添えて送る。
すぐに『動いています』と届いた。
当たり前だった。
『動画なので』
返すと、『写真より大きく見えます』、続けて『尻尾の音も大きいです』と来た。そこまで聞いていたらしい。さらに、もう一件届く。
『途中で、小さい音がしています』
動画を再生する。ナギの顔へ近づけたあたりで、低い音がわずかに入っていた。その部分を聞き直す。
「喉か」
撮っている時には気に留めていなかった。
『喉を鳴らしている音です』と返す。
『思っていたより低い音なんですね』
『近くにいると、音より振動の方が分かります』
ナギに手を伸ばし、首の下を撫でる。低い振動が指先に伝わった。
録音を始めてスマホを近づけると、ナギは喉を鳴らすのをやめた。
「何でだよ」
スマホを離すと、少ししてまた低い音が始まる。近づけると止まる。何度か繰り返したが、結果は同じだった。録音を止める。
『近づけると止まります』
『警戒しているんでしょうか』
『スマホを嫌がってるんだと思います』
少しして、『遠くからだと聞こえないんですね』と返ってきた。
『難しそうです』と送る。
ナギはもうスマホへの興味を失い、僕の足へ前足を乗せている。その時、スマホが震えた。
『通話なら聞こえるでしょうか』
指が止まる。
白銀と通話をしたことはない。連絡先を交換してから、やり取りはすべて文字だった。大学では普通に話しているのに、通話となると少し違うものに思えた。
返事を考えている間に、『今、大丈夫ならですが』ともう一件届く。
断る理由はなかった。
『大丈夫です』
送信すると、既読がついた。
数秒後、画面に白銀の名前が表示される。静かな部屋に着信音が響いた。
一度だけ息を整えてから、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし』
白銀の声が聞こえた。大学で聞く時と同じ、低めで、大きくはないのに語尾までよく聞こえる声だった。
周囲の話し声も、椅子を引く音もない。耳元から聞こえるのは、白銀の声だけだ。
『聞こえますか』
「聞こえます」
『よかったです』
僕はスマホをスピーカーへ切り替え、床へ置いた。画面の光に気づいたナギが、ゆっくり近づいて鼻先を寄せる。
その身体に沿う輪郭は、いつもと変わらなかった。大学で白銀が隣にいる時のように、細かな揺れまで強く浮かび上がることはない。
声だけでは、違うらしい。
「今、スマホの匂いを嗅いでます」
『何か匂いがするんでしょうか』
「床に置いたから、気になったんだと思います」
ナギは画面を一度嗅ぐと、その横へ座った。
『ナギ』
スマホから白銀の声がする。
ナギの耳が動き、顔が少しだけ画面へ向く。
『ナギ』
二度目に呼ばれると、ナギはスマホを見たまま短く鳴いた。
『返事をしました』
白銀の声が一段近くなる。
「偶然だと思います」
『もう一度、呼びます』
白銀が、もう一度ナギの名前を呼ぶ。
今度は耳も動かない。
『今度は返事をしません』
「まあ、猫なので」
『一回は返事をしました』
「一回だけです」
『一回でも、しました』
ナギは話題にされていることなど気にせず、スマホの横で前足を舐め始める。
『夜は、いつも近くにいるんですか』
「だいたいいます」
『寝る時も?』
「足元に乗ります」
『重そうです』
「実際、重いです」
『でも、温かそうです』
「冬はいいですけど、夏は暑くて厳しいです」
『退いてもらわないんですか』
「退かしても戻ってくるので」
『戻ってくるんですね』
その一言だけ、ゆっくりだった。
「白銀さんは、もう夕飯食べましたか」
『食べました』
「何を?」
『うどんです』
「またですか」
『今日は卵も入れました』
「少し増えましたね」
『はい。少し豪華です』
どこまで冗談なのかは分からなかった。
「今日も自分で作ったんですか」
『はい。卵を入れただけですが。朝倉さんは?』
「僕はまだです」
『ナギは食べましたか』
足元では、ナギが前足を舐めていた。
「ナギは食べました」
『朝倉さんより先なんですね』
「毎日そうです」
『ナギが待っているなら、仕方ないです』
なぜか白銀がナギの側に立った。
「僕もお腹減ってるんですけど」
『朝倉さんは、自分で用意できます』
「ナギも待てます」
『待たせるんですか』
「待たせません」
白銀の声が一瞬途切れた。通話が切れたのかと思ったが、小さく息を吐く音が聞こえる。
笑ったのかもしれない。
「今、笑いました?」
『少しだけです』
答えはすぐに返ってきた。
ナギの視線が、部屋の隅へ向いたまま止まった。次の瞬間には立ち上がってそちらへ歩き、棚の下へ前足を伸ばす。
「何してるんだ」
身体を屈めて覗くと、古い猫じゃらしが転がっていた。先端の布はほつれ、棒から伸びる紐も何度か結び直して短くなっている。
ナギが棒の部分を引っかけると、猫じゃらしが床を滑り、棚の脚へ当たった。鈴が鈍く鳴る。
『今の音は何ですか』
「猫じゃらしです」
『猫じゃらし』
「かなり使ってるやつです」
拾って軽く振ると、ナギの目が先端を追う。続けて振った瞬間、大きな前足が伸びる。
『聞こえます』
「鈴ですか」
『それもです。ナギが動く音も』
ナギが猫じゃらしへ飛びつき、僕は反射的に手を引いた。
「危な」
『どうしたんですか』
「大丈夫です。前足が手の近くまで来ただけです」
『短いんですか』
「何度か切れて、そのたびに結び直してます。最初はもう少し長かったです」
『新しいものはないんですか』
「新しいものは、ないですね」
『どこで売っていますか』
「駅前の店にあります。雑貨屋ですけど、ペット用品も置いてるので」
『いろいろありますか』
「猫じゃらしは何種類かあったと思います」
『見てみたいです』
「猫じゃらしをですか」
『はい』
「猫を飼ってないのに?」
『ナギに合うものを見たいので』
ナギは古い猫じゃらしを前足で押さえ、ほつれた布の先端を獲物のように見つめている。
「実物を見ないと、分かりにくいかもしれません」
『そうですね』
短い無音が挟まる。
『朝倉さん』
「はい」
『今度、一緒に見てもらえますか』
返事をする前に、足元でナギが短く鳴いた。
『今のは、返事ですか』
「たぶん」
『では、お願いします』
「ナギが決めるんですか」
『朝倉さんは、嫌ですか』
「嫌ではないです」
『なら、よかったです』
最後だけ、声の硬さが少し抜けた。
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翌日の水曜日、講義が終わると、白銀は帰り支度を済ませ、こちらを見た。
「朝倉さん」
「はい」
「駅前のお店ですが、今日でも大丈夫ですか」
思っていたより早かった。
「大丈夫です」
「では、お願いします」
僕も鞄を持って立ち上がる。
大学の中で並んで歩くことには、少し慣れてきた。けれど今日は、そのまま門の外まで一緒だった。
門を出てから、何度か隣へ目が向いた。白銀は変わらず、僕の横を歩いていた。
「丈夫なものもありますか」
「店で見ないと分からないですね」
「ナギは、よく壊すんですか」
「結構激しく遊ぶので」
「やっぱり、遊び方も激しいんですね」
「やっぱりって何ですか?」
「昨日、音だけでも勢いがありました」
通話越しに聞いただけで、そこまで分かるものだろうか。
「写真でも大きいですし、長いものの方が安全そうです」
「昨日みたいになるなら、その方がいいかもしれません」
駅前の店は、文具や日用品、雑貨を扱う小さな店だった。奥へ進むと、壁際にペット用品の棚がある。
白銀は棚の前で足を止めた。
「思っていたより、短いものが多いです」
「普通はこのくらいでも遊べますよ」
棚には、棒の先に羽根がついたもの、長い紐の先に布製のネズミがついたもの、鈴の入ったものが並んでいる。
白銀は端から順に手に取っていった。
「これは、音が鳴ります」
「鈴が入ってますね」
「音がある方が反応しますか」
「まあ、音がある方が食いつきがいいのは確かです」
「では、音は必要ですね」
必要とまでは言っていない。
次に白銀が取ったのは、赤い持ち手に短い紐がついたものだった。先端には小さな羽根が三枚ついている。
「これは近すぎませんか」
「紐は短いですね」
「これだと、また手の近くまで来ませんか」
「普通の猫なら、このくらいでも遊べますけど、ナギなら少し厳しいかもしれません」
「では、もっと長いものにします」
短い猫じゃらしを棚へ戻し、今度は長い棒の先に紐がついたものを取る。紐の先には、羽根ではなく厚い布がついていた。
「これはどうですか」
「そのくらい長ければ大丈夫だと思います」
白銀は布の端を指で軽く押さえた。
「こっちも厚いです」
「ナギなら、その方が長持ちはしそうですね」
「これにします」
「買うんですか」
「はい」
「見るだけじゃなかったんですか」
「見たら、必要になりました」
「うちの猫ですよ」
「知っています」
「それなら僕が払います」
「私が選びたかったので」
そこまで言われると、引き下がるしかなかった。
「……分かりました。ありがとうございます」
「お願いします」
会計へ向かいかけた白銀が、隣の棚で止まった。
ブラシが並んでいる。
「ブラシも必要ですか」
「家にはあります」
「どれですか」
僕はナギに使っているものと同じくらいのブラシを指した。
白銀は手に取る。
「小さいです」
「普通の猫用ならこんなものです」
「普通の猫」
白銀は隣にあった大きなブラシを手に取った。
「こちらの方が近い気がします」
「それはたぶん、犬用ですよ」
白銀は表示を確認した。
「大型犬用」
「ナギにも使えなくはないと思いますけど、一応猫なので」
白銀は猫用と大型犬用のブラシを並べて見比べる。
「写真で見慣れて、大きさの感覚を間違えているのかもしれません」
「ナギを基準にすると、普通の猫とはずれますから」
「そうかもしれません」
大型犬用のブラシを棚へ戻すと、それ以上は触れなかった。
会計を済ませると、猫じゃらしは細長い袋へ入れられた。店を出たあとも、白銀はそれを両手で持っている。
「そんなに大事にしなくても、簡単には壊れませんよ」
「渡す前に壊したくないので」
「使ったら、すぐ壊れるかもしれません」
「それは、ナギが使った結果なので仕方ありません」
僕の知らない壊れ方の美学があるのかもしれない。
「気に入ったら写真を送ります」
「本当ですか」
「はい」
「お願いします」
その時、耳の奥が詰まった。
駅前の音が遠のく。
またか。
「朝倉さん?」
「大丈夫です。最近、たまに耳が詰まるので」
耳を押さえたまま顔を上げると、道路の向かい側に白いトラックが停まっていた。
エンジンはかかったままだった。
何となく運転席を見る。
運転席に男が座っていた。こちらへ顔を向けているように見える。
距離があって、表情までは分からない。
それでも目を凝らすと、輪郭は見えた。フロントガラス越しに細く伸び、僕と白銀の方へ向いている。道路や信号へ向いた形ではなかった。
男の輪郭の一部が、ハンドルの下へ伸びた。
その直後、耳の奥が抜けた。
信号の電子音も、行き交う車の音も、一気に元の大きさへ戻る。
その中に、道路の向こうから響く低いエンジン音が混じっていた。
耳から手を離した。
運転席を見る。
男の輪郭は、もう身体の近くへ戻っていた。
一拍遅れて、トラックが動き出す。
信号が変わり、白い車体は人と車の流れの向こうへ消えていった。
「朝倉さん?」
白銀がこちらを見ている。
「どうかしましたか」
「……いえ。もう治りました」
道路の向こうを見る。
もう白い車体は見えなかった。
「……そうですか」
白銀はそれ以上聞かなかった。
「これは、気に入ってくれるでしょうか」
白銀が、両手に持った細長い袋を見た。
「たぶん。こういうのは好きだと思います」
「そうですか」
改札の前で、白銀が袋を差し出した。
「お願いします」
受け取ると、見た目より軽かった。
「気に入らなかったら、教えてください」
「分かりました」
「壊れた時も」
「それも?」
「次を選ぶ必要があるので」
「もう次があるんですね」
「必要なら」
白銀は改札を通り、そのまま向こう側の人の流れへ入っていった。
手元に残った袋を見る。折れないよう、持つ位置を直した。
袋の中には、猫じゃらしが一本入っているだけだった。
駅を出る前に、スマホのメモを開いた。
これまで耳が詰まった時のことを思い返す。覚えている範囲では、外にいた時が多かった気がする。ただ、バイト先の店内で起きたこともある。
耳詰まり。駅前。白いトラック。運転席の男の輪郭がこちらへ向いていた。輪郭の一部がハンドルの下へ伸びた直後、耳詰まりが治った。
関係があるように見えただけかもしれない。
続けて起きたことを、勝手につなげている可能性もある。
それでも、記録しておく分には困らない。
最後に時刻を入れて、保存した。
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帰宅すると、ナギが玄関まで迎えに来た。
「ただいま」
ナギは低く鳴き、僕の手元を見る。輪郭も、細長い袋の方へ細く伸びていた。
「白銀さんから」
猫じゃらしを取り出すと、ナギの耳が前へ向く。
厚い布が紐の先で揺れた。持ち手を動かすと、布が床の上を滑る。
ナギの身体が低く沈んだ。
次の瞬間、黒い身体が床を蹴る。
「うわ」
反射的に腕を引いた。
ナギの前足が布を捉え、そのまま紐を引く。
長いものを選んで正解だった。短い猫じゃらしなら、今の前足は僕の手元まで届いていたかもしれない。
「白銀さんの言った通りだな」
ナギは布を前足で押さえて噛みついている。一度離すと、また低く構えた。完全に気に入ったらしい。
写真を撮り、白銀へ送る。
『渡しました』
既読がついた。
『かなり食いついているので、気に入ったみたいです』
『よかったです』
そこへ、もう一文届く。
『壊れていませんか』
布の端を見ると、細い糸が一本伸びていた。
『まだ壊れてはいません』
『まだ』
そこだけ拾われた。
『長くは保たないかもしれません』
返事が来るまで、間があった。
『次は、もっと丈夫なものにします』
『次があるんですか』
既読がつく。
『あります』
続けて、両前足を上げた虚無顔の猫のスタンプが届いた。足元では、ナギが猫じゃらしを両前足で抱えている。状態を確かめようと手を伸ばすと、ナギは猫じゃらしの上へ前足を重ねた。
「取らないよ」
それでも手を近づけると、ナギは猫じゃらしを咥え、僕の手が届く前に立ち上がった。そのまま部屋の隅まで運び、壁を背にして座る。前足の間へ猫じゃらしを置いた。
「何?」
声をかけても動かない。視線だけが、僕の手を追っている。
遊びたい時なら、もう一度振るように持ってくる。獲物なら、噛むか前足で転がす。今のナギは、そのどちらでもなかった。
スマホを動画へ切り替える。
「ナギ」
ナギは前足の間に猫じゃらしを置いたまま、こちらを見る。一度だけ耳が動いた。
しばらくすると布の先を鼻で押し、顔を上げて短く鳴いた。
録画を止め、白銀への送信画面を開く。一秒目から、ナギが猫じゃらしを抱え込んでいた。
送信ボタンの上で指が止まる。
講義室の隣の席が浮かんだ。
これを見せた時、白銀は最初に何と言うのだろう。
そのまま、送信画面を閉じる。
動画だけを保存した。
ナギは、猫じゃらしへ前足を重ねたまま動かなかった。




