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輪郭圏外  作者: ねむZ
第一章 現代編――輪郭のない彼女
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9/14

9話 向こうから

木曜日。


今日は白銀と講義が重ならない。講義が終わると、ノートを鞄へ入れる前にスマホを取り出し、トーク画面を開いた。


『今日、まだ大学にいますか』


送ってから、机の上のノートを閉じる。既読がついた。


『います。図書館です。ですが、もう帰ります』


続けて、もう一件届く。


『気づいたら、かなり時間が経っていました』


『僕も今終わりました』と送ってから、少し考える。


『昨日の猫じゃらしのことで、少し』


そこまで打って、消した。それならメッセージで済む。別の理由を考えたが、うまく出てこなかった。


『帰る前に、少しだけ会えますか』


今度は、返事が来るまで少し間があった。


『はい』


スマホをしまい、鞄を持って立ち上がると、隣で高橋も鞄を肩にかけた。


「どこ行くの?」


「図書館の方」


「お前も?」


「も?」


「俺もそっち。前で人待ってる」


「そうなんだ」


二人で講義室を出る。


「お前は何しに?」


「ちょっと寄るだけ」


「何か借りるの?」


「いや」


「じゃあ何しに行くんだよ」


「……ちょっと」


「さっきも聞いた」


「別にいいだろ」


高橋がこちらを見る。


「誰かと会うの?」


「……まあ」


「なるほど」


それ以上は聞いてこなかった。図書館の前まで来ると、高橋は入口から少し離れたベンチを指した。


「俺、あっちいるわ」


「うん」


『着きました』と送ると、一分もしないうちに自動扉が開いた。


白銀が出てくる。片手にノートとペンケースを持ち、肩には鞄をかけていた。こちらを見つけると、最後の数歩だけ歩幅が広くなった。


少し離れたベンチでは、高橋の視線が僕から隣の白銀へ移った。輪郭の一部も、同じ方向へわずかに傾く。


「お待たせしました」


「ノートとペンケース、しまってからでよかったのに」


「待たせるよりは、持って出た方がいいと思いました」


「一分も待ってないです」


「それでもです」


声がいつもより少し高い気がした。


「よく図書館で勉強するんですか」


「はい」


「家じゃなくて?」


「家だと、静かすぎるので」


「静かな方が集中できません?」


「ここは、ページをめくる音とか、誰かが歩く音がするので。その方が集中しやすいです」


「それなら、長くいたのも分かります」


鞄からスマホを取り出した。


「昨日、ナギの動画を一応撮ったんですけど」


白銀の視線が、すぐに画面へ落ちた。


「動画。見てもいいですか」


やっぱり、食いついた。


「どうぞ」


図書館前のベンチへ移る。白銀はノートとペンケースを鞄へしまい、僕の隣へ座った。少し離れたところでは、高橋がスマホを見ながら待っていた。


昨日、送らずに保存した動画を開く。画面の中で、ナギが猫じゃらしを前足の間に置いている。白銀は黙って最後まで見た。


再生が終わる。


「もう一度いいですか」


「はい」


もう一度再生する。


前足で押さえる。

こちらを見る。

耳が動く。

布の先を押す。

鳴く。

見張る。


白銀は画面を見つめたまま、ほとんど瞬きをしなかった。


「……守っています」


「猫じゃらしを?」


「はい」


「獲物扱いかもしれません」


「でも、取られないようにしています」


「まあ、そうですね」


「大事にしています」


「たぶん」


白銀は再生の終わった画面を見たまま、スマホを差し出した。手を離すのは、僕が受け取ってから一拍遅れた。


「この動画も、送ってもらえますか」


「いいですよ」


その場で白銀へ送った。


「朝倉さん」


「はい」


「今、かなり真剣に考えていることがあります」


「何ですか」


「ナギのことです。写真と動画だけでは、限界があります」


白銀は何も持っていない両手を一度見た。


「重さとか、毛の感じとか、実際にどう動くのかとか、画面では分からないことが多すぎます」


白銀の言葉がいつもより多い。


「あと、昨日の猫じゃらしを本当に気に入っているのか、直接確認したいです。次に活かします」


「じゃあ、うち来ますか」


「行きます」


白銀の返事は、僕が自分の発言を理解するより早かった。


「え」


「行きます」


二回言った。


しかも、かなりはっきり。


「いや、でも」


「ナギに会えるんですよね」


「会えますけど」


「では、行きます」


僕はそこでようやく、自分が何を言ったのか理解した。完全に失言だった。


「今日ですか?」


「今日ではないんですか」


「いや、今日でも大丈夫ですけど」


「では、今日でお願いします」


決定した。


「一応、部屋を片付ける時間が」


「散らかっているんですか」


「普通です」


「普通」


「人を呼ぶ想定の普通ではないです」


「ナギがいる部屋なら、多少は仕方ないと思います」


「まあ、そうですね」


高橋がこちらを見ながら、ベンチから立ち上がった。


「何いまの?」


「何でもない」


「今、すごい勢いで予定決まってなかった?」


「気のせい」


「白銀さん、どこ行くの?」


白銀が答える。


「ナギに会いに行きます」


高橋の顔が一瞬で変わった。


「へえ」


最悪の「へえ」だった。


「高橋」


「何も言ってないだろ」


「顔がうるさい」


嫌な笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「おやつは買った方がいいですか」


白銀はもう高橋を見ていなかった。


「家にあります」


「ブラシは」


「あります」


「手は洗います」


「それはお願いします」


「急に触らない方がいいですよね」


「まあ、向こうから来るのを待つ方がいいと思います」


「向こうから、来ますか」


「どうでしょう。ちょっと分からないです。ナギはわりと人を見るので」


「見られますか」


「かなり見ますね」


「緊張します」


ナギとの面接準備みたいになっていた。


僕はスマホをポケットへ戻し、ベンチから立ち上がった。


「じゃあ、行きましょうか」


「はい」


白銀も立ち上がった。スマホを見ていた高橋へ片手を上げる。


「じゃあ、また」


「ああ、また」


高橋をその場に残し、僕と白銀は大学の出口へ向かった。


中庭を抜ける頃、向こうから見覚えのある男子学生が歩いてきた。前に、白銀が通り過ぎたあとでスマホへ視線を落としていた学生だった。


男子学生の視線が、まず僕で止まった。僕を見た瞬間、輪郭の外周が硬さを増し、こちら側に現れた短い尖りがまっすぐ僕へ向いた。


その視線が僕の左右へ移り、白銀で止まった。僕へ向いていた尖りは消えたが、輪郭の硬さは残っている。外周の一部だけが、わずかに揺れた。


白銀は気づかないまま、その前を通り過ぎた。


「何を見て決めるんでしょうか」


歩きながら、白銀が上半身ごとこちらへ向く。肩にかけた鞄が腰から離れ、戻った。


「匂いとか、動きだと思います」


答えながら、白銀の肩越しに男子学生を見る。


男子学生は足を止め、こちらへ一歩踏み出そうとしていた。


けれど、輪郭の一部が足元へ細く向く。視線も下へ落ち、踏み出しかけた足が止まった。


「朝倉さん?」


白銀の声で前を向く。


「何でもないです」


大学を出るまで、白銀の質問は途切れなかった。その勢いがおかしくて、僕の方も失言の衝撃を忘れかけていた。


駅へ向かう途中、耳の奥が詰まった。


白銀の声が遠くなる。


道路へ目を向ける。


昨日の白いトラックを探した。


通りにも、交差点の先にも、それらしい車は見当たらない。


「朝倉さん?」


「大丈夫です」


ほどなく、白銀の声が元の距離へ戻った。


駅に着いて電車に乗る。席が空いていなかったので、二人でドア付近に立った。


ドアが閉まると、それまで途切れなかった質問が止まった。電車の揺れに合わせて吊り革が小さく動く。車内には帰宅する学生や会社員がいて、それぞれの身体に輪郭が重なっていた。


白銀は窓の外へ顔を向け、同じあたりを見ていた。僕もドアの上にある路線図を見た。


今さらだった。ナギに会うために、白銀が僕の家へ来る。言葉にすると簡単だ。


でも実際には、白銀を僕の一人暮らしの部屋へ招くということだった。


「……あの」


白銀が小さく言った。


「はい」


「少し、冷静になりました」


「僕もです」


「ですよね」


「はい」


電車の音がやけに大きく聞こえる。


「やっぱり、今日はやめますか」


僕が言うと、白銀はこちらを見た。


「嫌なんですか」


「嫌ではないです」


「迷惑ですか」


「迷惑でもないです」


「では、行きます」


結論は変わらなかった。ただ、さっきより声が落ち着いている。落ち着いている分、余計にこちらが落ち着かない。


「でも、白銀さんが気まずいなら」


「気まずいです」


正直だった。


「気まずいけど、行きます」


「そこまでナギに」


「はい」


笑いそうになるが、怒られそうな気がして我慢した。


白銀は窓からこちらへ視線を戻した。


「それに」


「それに?」


「朝倉さんなら、大丈夫だと思いました」


返事が、すぐに出てこなかった。


大丈夫。その言葉は、思ったより重かった。


信用されている。少なくとも、警戒されてはいない。それは嬉しいことのはずなのに、同時に背筋が伸びる。


「……変なことはしません」


言ってから、自分で墓穴を掘った気がした。電車が次の駅へ滑り込み、扉が開いた。


「それを言われると、変な感じになります」


「すみません」


「いえ」


扉が閉じ、電車がまた動き出した。白銀は窓の外を見たまま、ほとんど話さなかった。僕も何を話せばいいのか分からないまま、最寄り駅に着いた。


---


駅から家までは、歩いて十分ほどだった。住宅街に入ると人通りが少なくなり、冷えた夕方の空気に、どこかの家から夕飯の匂いが混じっていた。


白銀は半歩後ろを歩いている。


「道、こっちです」


「あ、はい」


返事が硬い。僕も硬い。さっきから、家に近づくほど会話が減っている。


どうしよう。部屋は朝出た時のままだ。ナギの毛は落ちているだろうし、クッションはずれているだろう。


洗濯物は干していない。


それはよかった。


いや、そういう問題ではない。


「本当に、無理なら」


「行きます」


「まだ最後まで言ってないです」


「戻ると言われると思ったので」


「言おうとしてました」


「戻りません」


白銀の声は小さいのに、妙に強かった。


「ナギに会うまでは」


そこまで言われると、もう止められなかった。


アパートの前に着き、階段を上がる。鍵を開けたところで、僕は一度だけ息を吐いた。


「たぶん、玄関まで来てます」


「はぃ」


白銀の声が上ずった。


ドアを開ける。


「ただいま」


次の瞬間、廊下の奥から大きな影が現れた。


ナギだった。


いつも通り、堂々と歩いてくる。腹が減っている時の速度ではない。知らない匂いを確認しに来た時の歩き方だ。


白銀は玄関へ入り、僕の隣で足を止めた。


さっきまでの変な空気が、一瞬で消えた。本当に、霧みたいに。


「……大きい」


白銀が呟いた。


何度も写真で見ているはずなのに、実物はやはり違ったらしい。


ナギは玄関の手前で止まり、僕と白銀を順に見た。


白銀はナギから目を離さなかった。


「写真より、黒く見えます」


「そう見えますね」


白銀は、毛の奥を覗くように顔を傾けた。


「根元の色は、実物の方がよく分かります」


身体が動くたび、黒っぽい毛の下から白に近い灰色の根元がのぞく。毛の流れに合わせて、見える幅が変わった。


それから、白銀はナギの顔を見た。


「目は……近くで見る方が綺麗です」


声が小さかった。大げさな褒め方ではなく、見たものをそのまま言葉にしたような声だった。


ナギは白銀の視線を受けても逃げなかった。


普段なら、初対面の相手にすぐ近づかない。距離を取って匂いを確認し、相手の動きを見る。そのはずだった。


ナギは一歩、白銀へ近づいた。


「動かない方がいいです」


僕が小さく言うと、白銀はこくりと頷いた。


両腕は、身体の横に下ろしたままだった。


ナギは白銀の足元まで来ると鼻先を近づけ、靴と鞄の匂いを嗅いだ。


身体に重なる輪郭が、白銀の足元へ向かって柔らかく広がっていた。


警戒している形ではない。


それから、迷いなく白銀の足に身体を擦りつけた。


「……」


白銀の肩がわずかに上がり、そのまま動かなくなった。


ナギはもう一度身体を擦りつけ、尻尾をピンっと立てた。


かなり機嫌がいい。かなり、というか、見たことがないくらい機嫌がいい。


「珍しいな」


思わず呟いた。


「珍しいんですか」


白銀の声は震えていた。


「初対面でこれは、あまりないです」


「そうなんですか」


白銀はしゃがみかけ、途中で僕を見た。


ナギはそんな迷いを無視して、白銀の膝のあたりに頭を押しつける。


「触っても、いいですか」


「たぶん、向こうが要求してます」


白銀はゆっくりしゃがんだ。


白銀が手を出す。ナギはその匂いを嗅ぐと、すぐに手の下へ頭を入れた。


輪郭の外側が、白銀の手に合わせるように丸く膨らむ。


撫でろ、ということらしい。


白銀の指先が、そっとナギの額の毛に沈んだ。毛に埋もれたまま一度止まり、遅れてもう片方の手も上がる。両手が、額から頬の毛並みを包んだ。


「……柔らかい」


声が小さい。


「思っていたより……ずっと」


白銀の手が毛の流れに沿って動き始め、ナギは目を細めた。


喉が鳴った。


低い音は、少し離れた僕のところまではっきり届いた。普段よりずっと大きく、玄関の空気まで震えるような深い音だった。


「鳴ってます」


「喉ですね」


白銀は音を確かめるように、片方の手をナギの首元へ添えた。


「すごい」


さっきまでの気まずさはどこにもない。玄関でしゃがみ込んだまま、大きな猫の頭を両手で撫でている。ナギも逃げず、むしろ白銀の手に身体を預けるようにしていた。


異常なくらい相性がよかった。


「……何でだ」


「何がですか」


「いや、ナギ、人見知りするので」


「そうなんですか」


「そうなんです」


ナギが白銀の膝に前足を乗せると、白銀の両手がその身体の左右で宙に浮いた。


「これは」


「乗るつもりみたいです」


「ここで?」


「ここで」


「どうすれば」


「受け止めるしか」


次の瞬間、ナギは当然のように白銀の膝へ体重をかけた。白銀が後ろへよろけ、片手を床についた。


「重いです」


それでも、ナギを抱えた腕は離れない。白銀は体勢を直すと、大きな身体を胸元へ抱き寄せた。


「でも、すごく、いいです」


その感想は、分かる気がした。


---


どうにか靴を脱いで部屋へ上がってもらった。もう今さら、気まずさはほとんどなかった。


ナギはリビングへ案内するように先を歩き、時々振り返る。白銀はその後ろを追っていた。


完全に主導権はナギにあった。


「ここが、いつもの写真の場所ですか」


白銀は部屋に入るなり、床の一角を見て言った。


「よく分かりますね」


「背景で」


「背景」


「あのクッションです」


「そこまで見てるんですか」


「見ています」


怖いくらいだった。


でも、ナギの写真を送っていたのは僕だ。見られて困るものは写していないはずだ。


たぶん。


ナギは部屋の中央で座った。


僕は棚の上に置いていた猫じゃらしを取った。


「昨日のです」


白銀はナギを撫でていた手を止めた。


「まだありますか」


「一応」


布の端から糸が出ているけれど、棒も紐もまだ無事だった。


「端が傷んでいますね」


「昨日の時点でやられました」


「でも、まだ戦えそうです」


「猫じゃらしを戦力扱いしないでください」


白銀は猫じゃらしを両手で受け取った。


「使ってもいいですか」


「もちろんです」


白銀は猫じゃらしを軽く振った。


ナギの目が変わり、低く身を沈める。尻尾が揺れる。


狩る顔だ。


「危ないので、距離を」


言い切る前に、ナギが跳んだ。


白銀は肩を跳ねさせたが、逃げずに猫じゃらしを引いた。ナギが追う。


もう一度振ると、布の先が前足の下を抜けた。ナギは身体ごと向きを変え、再び飛びつく。今度は白銀が先に引き、布が床を滑って逃げた。


ナギは低い姿勢のまま追い、三度目に布を押さえ込んだ。


そこで、白銀が笑った。


声を出して。


今まで見た中で、一番分かりやすく。


猫じゃらしを持つ手まで揺れ、布がまた動く。ナギが前足を伸ばすと、白銀はもう一度笑った。


垂れ気味の目元が、普段よりさらに柔らかくなっていた。


輪郭は見えない。


それでも、白銀が楽しんでいることだけは、見れば分かった。


「朝倉さん」


白銀は猫じゃらしを振りながら言った。


「はい」


「この子、すごいです」


「はい」


「強いです」


「猫じゃらし相手には、かなり」


「いい子」


「それは、まあ」


「とても、いい子」


ナギは褒められているのが分かるのか、さらに機嫌がよくなっている。尻尾が立ち、耳も前を向いていた。


僕は床に座り、離れてその様子を見ていた。


その時、インターホンが鳴った。


白銀の手が止まる。ナギも、僕も止まった。


三者とも、同じ方向を見た。


「……誰だ」


嫌な予感がした。


インターホンの画面を見る。叔母だった。


終わった、と思った。


「すみません」


「はい?」


「叔母です」


「叔母さん」


白銀の手が、ナギの背中で止まった。


指先だけが、少しだけ毛の中に沈んでいる。


「出ないわけにはいかないので」


「もちろんです」


僕は玄関へ向かった。


ドアを開けると、叔母が紙袋を持って立っていた。


「近くまで来たから、これ置いていこうと思って」


「連絡してよ」


「したよ。既読つかなかった」


スマホを見ていなかった。完全に見ていなかった。


叔母は僕の顔を見て、それから玄関にある女物の靴を見た。沈黙した。


「……お邪魔だった?」


「違う。ナギを見に来ただけ」


叔母は紙袋を持ったまま、楽しそうに目を細めた。


その表情に耐えきれず、言い訳を重ねる。


「同じ講義の人だから」


「へえ」


その「へえ」は、かなり危険だった。


「変な想像しないで」


「してないしてない」


絶対にしている。


白銀が、廊下の角から半分だけ顔を出した。


「こんにちは」


叔母は白銀へ向き直った。


「こんにちは。ごめんね、急に来ちゃって」


「いえ。こちらこそ、お邪魔しています」


「この子が、あの?」


白銀が目を丸くする。


僕も固まった。


「……うん。白銀さん」


「ナギの写真を送ってる子でしょ」


白銀の視線が叔母と僕の間を一度往復した。僕は言い訳を探したが、うまく出てこなかった。


「ナギの写真の話は、しました」


「そうですか」


白銀は小さく頷き、ナギのそばへ戻った。叔母は紙袋を僕に渡す。


「野菜とお惣菜。ちゃんと食べなさい」


「食べてる」


「ナギばっかりいいもの食べてない?」


「それ、この前も聞いた」


「何回でも聞くよ」


叔母はそう言ってから、部屋の中を覗いた。


ナギが白銀の足元に座っている。というより、隣にぴったり寄り添っていた。


叔母の眉が上がる。


「あら」


「何」


「この子、そんなにすぐ懐くタイプだった?」


「違う」


「だよね」


叔母が白銀を見ると、白銀はナギの背中に手を置いたまま、撫でる速度を少し落とした。ナギは喉を鳴らしている。


「相性いいんだね」


叔母が言った。


ナギの背中に手を置いたまま、白銀は頷いた。


「はい。そうだと思います」


「よかった」


叔母の声は、からかいよりも柔らかかった。


「この子、人を見るから」


僕はその言い方に引っかかった。


初めて白銀と話した日、ナギは僕の右手を嗅ぎ、彼女の指が触れたあたりへ何度も鼻先を戻していた。


まさか、あの時の匂いを覚えていたのだろうか。


さすがに考えすぎだ。


「じゃあ、あたしは帰るね」


叔母はあっさり言った。


「上がらないの?」


「若い人の猫面会を邪魔するほど野暮じゃないよ」


「言い方」


「白銀さん」


叔母は僕を無視して、白銀を見る。


「この子、無理して大丈夫って言うこと多いから、変だったら言ってね」


「叔母さん」


「何?」


「何言ってるの」


「必要なこと」


白銀はナギを撫でていた手を止めた。


「分かりました」


分からなくていい。


「あと、ナギもよろしくね」


「はい」


白銀は今度は深く頷いた。


叔母は満足そうに笑い、軽く手を振って帰っていった。ドアが閉まる。


部屋に戻ると、白銀はさっきと同じ場所に座っていた。ナギだけは何も気にせず、その横で丸くなりかけている。


白銀は、閉じたドアの方を見た。


「優しそうな方ですね」


「まあ、そうですね」


「心配されているんですね」


「たぶん」


「大事にされているんだと思います」


そう言われると、返事に困った。


叔母には世話になっている。それは分かっているし、感謝もしている。


けれど、大事にされている、と正面から言われると、落ち着かない。


「白銀さんも、変に巻き込まれてすみません」


「いえ」


白銀はナギの背中を撫でた。ナギがその手に頭を押しつける。


「いつも、玄関まで来るんですか」


「来ることが多いです」


「帰ったら、迎えてくれるんですね」


以前にも、似たようなことを言われた気がする。


「だいたい、ご飯目当てです」


「それでも」


白銀はナギを見たまま言った。


「待っていてくれるのは、いいことだと思います」


その言葉は、前よりも近く聞こえた。


ナギは白銀の膝へ上半身を預け、顎を乗せて目を閉じかけていた。


「それ、かなり懐いてます」


「そうなんですか」


「はい」


「では、動けませんね」


「まあ、しばらくは」


ナギが少し動くたびに、白銀は両手で支え直している。困ったように言っているのに、声は少しも困っていなかった。むしろ、笑いをこらえきれていない。


僕は笑って、床に座り直す。


変な失言から始まり、途中の帰り道はかなり気まずかった。叔母まで来た。普通なら、もっと疲れていてもいいはずだ。


けれど、部屋の中には思ったより穏やかな空気が流れていた。ナギがいて、白銀がいて、さっきまで叔母がいた。いつもの部屋なのに、どこか違う。違うのに、嫌ではない。


「また、来てもいいですか」


白銀が小さく言った。


僕は白銀を見る。


「ナギに会いに」


付け足すまでに、少し間があった。


「ナギがよければ」


「ナギが」


白銀は膝の上のナギを見る。ナギは目を閉じたまま、喉を鳴らした。


まるで許可を出したみたいだった。


「いいみたいです」


白銀が言った。


「そうですね」


僕もそう答えた。


それでいいことにした。


その日、白銀は帰るまでずっとナギの近くにいた。


帰り際、ナギは玄関まで見送りに来た。白銀がしゃがんで「また来るね」と言うと、ナギは短く鳴いた。


白銀はしゃがんだまま、すぐには立ち上がらずにナギを見ていた。僕は離れて、それを見ていた。


白銀が立ち上がっても、ナギは玄関から動かなかった。外廊下の向こうへ姿が消えたあとも、しばらくその方を見ていた。


「また来るって」


そう言うと、ナギの耳だけがこちらへ動いた。


玄関の扉を閉める。ナギはその場に座ったまま、閉じた扉を見ていた。僕もすぐには部屋へ戻らなかった。


やがて、外から低いエンジン音が近づくのが聞こえた。


乗用車より重い音だった。


その音を聞いた瞬間、閉めたばかりの扉を振り返った。


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