9話 向こうから
木曜日。
今日は白銀と講義が重ならない。講義が終わると、ノートを鞄へ入れる前にスマホを取り出し、トーク画面を開いた。
『今日、まだ大学にいますか』
送ってから、机の上のノートを閉じる。既読がついた。
『います。図書館です。ですが、もう帰ります』
続けて、もう一件届く。
『気づいたら、かなり時間が経っていました』
『僕も今終わりました』と送ってから、少し考える。
『昨日の猫じゃらしのことで、少し』
そこまで打って、消した。それならメッセージで済む。別の理由を考えたが、うまく出てこなかった。
『帰る前に、少しだけ会えますか』
今度は、返事が来るまで少し間があった。
『はい』
スマホをしまい、鞄を持って立ち上がると、隣で高橋も鞄を肩にかけた。
「どこ行くの?」
「図書館の方」
「お前も?」
「も?」
「俺もそっち。前で人待ってる」
「そうなんだ」
二人で講義室を出る。
「お前は何しに?」
「ちょっと寄るだけ」
「何か借りるの?」
「いや」
「じゃあ何しに行くんだよ」
「……ちょっと」
「さっきも聞いた」
「別にいいだろ」
高橋がこちらを見る。
「誰かと会うの?」
「……まあ」
「なるほど」
それ以上は聞いてこなかった。図書館の前まで来ると、高橋は入口から少し離れたベンチを指した。
「俺、あっちいるわ」
「うん」
『着きました』と送ると、一分もしないうちに自動扉が開いた。
白銀が出てくる。片手にノートとペンケースを持ち、肩には鞄をかけていた。こちらを見つけると、最後の数歩だけ歩幅が広くなった。
少し離れたベンチでは、高橋の視線が僕から隣の白銀へ移った。輪郭の一部も、同じ方向へわずかに傾く。
「お待たせしました」
「ノートとペンケース、しまってからでよかったのに」
「待たせるよりは、持って出た方がいいと思いました」
「一分も待ってないです」
「それでもです」
声がいつもより少し高い気がした。
「よく図書館で勉強するんですか」
「はい」
「家じゃなくて?」
「家だと、静かすぎるので」
「静かな方が集中できません?」
「ここは、ページをめくる音とか、誰かが歩く音がするので。その方が集中しやすいです」
「それなら、長くいたのも分かります」
鞄からスマホを取り出した。
「昨日、ナギの動画を一応撮ったんですけど」
白銀の視線が、すぐに画面へ落ちた。
「動画。見てもいいですか」
やっぱり、食いついた。
「どうぞ」
図書館前のベンチへ移る。白銀はノートとペンケースを鞄へしまい、僕の隣へ座った。少し離れたところでは、高橋がスマホを見ながら待っていた。
昨日、送らずに保存した動画を開く。画面の中で、ナギが猫じゃらしを前足の間に置いている。白銀は黙って最後まで見た。
再生が終わる。
「もう一度いいですか」
「はい」
もう一度再生する。
前足で押さえる。
こちらを見る。
耳が動く。
布の先を押す。
鳴く。
見張る。
白銀は画面を見つめたまま、ほとんど瞬きをしなかった。
「……守っています」
「猫じゃらしを?」
「はい」
「獲物扱いかもしれません」
「でも、取られないようにしています」
「まあ、そうですね」
「大事にしています」
「たぶん」
白銀は再生の終わった画面を見たまま、スマホを差し出した。手を離すのは、僕が受け取ってから一拍遅れた。
「この動画も、送ってもらえますか」
「いいですよ」
その場で白銀へ送った。
「朝倉さん」
「はい」
「今、かなり真剣に考えていることがあります」
「何ですか」
「ナギのことです。写真と動画だけでは、限界があります」
白銀は何も持っていない両手を一度見た。
「重さとか、毛の感じとか、実際にどう動くのかとか、画面では分からないことが多すぎます」
白銀の言葉がいつもより多い。
「あと、昨日の猫じゃらしを本当に気に入っているのか、直接確認したいです。次に活かします」
「じゃあ、うち来ますか」
「行きます」
白銀の返事は、僕が自分の発言を理解するより早かった。
「え」
「行きます」
二回言った。
しかも、かなりはっきり。
「いや、でも」
「ナギに会えるんですよね」
「会えますけど」
「では、行きます」
僕はそこでようやく、自分が何を言ったのか理解した。完全に失言だった。
「今日ですか?」
「今日ではないんですか」
「いや、今日でも大丈夫ですけど」
「では、今日でお願いします」
決定した。
「一応、部屋を片付ける時間が」
「散らかっているんですか」
「普通です」
「普通」
「人を呼ぶ想定の普通ではないです」
「ナギがいる部屋なら、多少は仕方ないと思います」
「まあ、そうですね」
高橋がこちらを見ながら、ベンチから立ち上がった。
「何いまの?」
「何でもない」
「今、すごい勢いで予定決まってなかった?」
「気のせい」
「白銀さん、どこ行くの?」
白銀が答える。
「ナギに会いに行きます」
高橋の顔が一瞬で変わった。
「へえ」
最悪の「へえ」だった。
「高橋」
「何も言ってないだろ」
「顔がうるさい」
嫌な笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「おやつは買った方がいいですか」
白銀はもう高橋を見ていなかった。
「家にあります」
「ブラシは」
「あります」
「手は洗います」
「それはお願いします」
「急に触らない方がいいですよね」
「まあ、向こうから来るのを待つ方がいいと思います」
「向こうから、来ますか」
「どうでしょう。ちょっと分からないです。ナギはわりと人を見るので」
「見られますか」
「かなり見ますね」
「緊張します」
ナギとの面接準備みたいになっていた。
僕はスマホをポケットへ戻し、ベンチから立ち上がった。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
白銀も立ち上がった。スマホを見ていた高橋へ片手を上げる。
「じゃあ、また」
「ああ、また」
高橋をその場に残し、僕と白銀は大学の出口へ向かった。
中庭を抜ける頃、向こうから見覚えのある男子学生が歩いてきた。前に、白銀が通り過ぎたあとでスマホへ視線を落としていた学生だった。
男子学生の視線が、まず僕で止まった。僕を見た瞬間、輪郭の外周が硬さを増し、こちら側に現れた短い尖りがまっすぐ僕へ向いた。
その視線が僕の左右へ移り、白銀で止まった。僕へ向いていた尖りは消えたが、輪郭の硬さは残っている。外周の一部だけが、わずかに揺れた。
白銀は気づかないまま、その前を通り過ぎた。
「何を見て決めるんでしょうか」
歩きながら、白銀が上半身ごとこちらへ向く。肩にかけた鞄が腰から離れ、戻った。
「匂いとか、動きだと思います」
答えながら、白銀の肩越しに男子学生を見る。
男子学生は足を止め、こちらへ一歩踏み出そうとしていた。
けれど、輪郭の一部が足元へ細く向く。視線も下へ落ち、踏み出しかけた足が止まった。
「朝倉さん?」
白銀の声で前を向く。
「何でもないです」
大学を出るまで、白銀の質問は途切れなかった。その勢いがおかしくて、僕の方も失言の衝撃を忘れかけていた。
駅へ向かう途中、耳の奥が詰まった。
白銀の声が遠くなる。
道路へ目を向ける。
昨日の白いトラックを探した。
通りにも、交差点の先にも、それらしい車は見当たらない。
「朝倉さん?」
「大丈夫です」
ほどなく、白銀の声が元の距離へ戻った。
駅に着いて電車に乗る。席が空いていなかったので、二人でドア付近に立った。
ドアが閉まると、それまで途切れなかった質問が止まった。電車の揺れに合わせて吊り革が小さく動く。車内には帰宅する学生や会社員がいて、それぞれの身体に輪郭が重なっていた。
白銀は窓の外へ顔を向け、同じあたりを見ていた。僕もドアの上にある路線図を見た。
今さらだった。ナギに会うために、白銀が僕の家へ来る。言葉にすると簡単だ。
でも実際には、白銀を僕の一人暮らしの部屋へ招くということだった。
「……あの」
白銀が小さく言った。
「はい」
「少し、冷静になりました」
「僕もです」
「ですよね」
「はい」
電車の音がやけに大きく聞こえる。
「やっぱり、今日はやめますか」
僕が言うと、白銀はこちらを見た。
「嫌なんですか」
「嫌ではないです」
「迷惑ですか」
「迷惑でもないです」
「では、行きます」
結論は変わらなかった。ただ、さっきより声が落ち着いている。落ち着いている分、余計にこちらが落ち着かない。
「でも、白銀さんが気まずいなら」
「気まずいです」
正直だった。
「気まずいけど、行きます」
「そこまでナギに」
「はい」
笑いそうになるが、怒られそうな気がして我慢した。
白銀は窓からこちらへ視線を戻した。
「それに」
「それに?」
「朝倉さんなら、大丈夫だと思いました」
返事が、すぐに出てこなかった。
大丈夫。その言葉は、思ったより重かった。
信用されている。少なくとも、警戒されてはいない。それは嬉しいことのはずなのに、同時に背筋が伸びる。
「……変なことはしません」
言ってから、自分で墓穴を掘った気がした。電車が次の駅へ滑り込み、扉が開いた。
「それを言われると、変な感じになります」
「すみません」
「いえ」
扉が閉じ、電車がまた動き出した。白銀は窓の外を見たまま、ほとんど話さなかった。僕も何を話せばいいのか分からないまま、最寄り駅に着いた。
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駅から家までは、歩いて十分ほどだった。住宅街に入ると人通りが少なくなり、冷えた夕方の空気に、どこかの家から夕飯の匂いが混じっていた。
白銀は半歩後ろを歩いている。
「道、こっちです」
「あ、はい」
返事が硬い。僕も硬い。さっきから、家に近づくほど会話が減っている。
どうしよう。部屋は朝出た時のままだ。ナギの毛は落ちているだろうし、クッションはずれているだろう。
洗濯物は干していない。
それはよかった。
いや、そういう問題ではない。
「本当に、無理なら」
「行きます」
「まだ最後まで言ってないです」
「戻ると言われると思ったので」
「言おうとしてました」
「戻りません」
白銀の声は小さいのに、妙に強かった。
「ナギに会うまでは」
そこまで言われると、もう止められなかった。
アパートの前に着き、階段を上がる。鍵を開けたところで、僕は一度だけ息を吐いた。
「たぶん、玄関まで来てます」
「はぃ」
白銀の声が上ずった。
ドアを開ける。
「ただいま」
次の瞬間、廊下の奥から大きな影が現れた。
ナギだった。
いつも通り、堂々と歩いてくる。腹が減っている時の速度ではない。知らない匂いを確認しに来た時の歩き方だ。
白銀は玄関へ入り、僕の隣で足を止めた。
さっきまでの変な空気が、一瞬で消えた。本当に、霧みたいに。
「……大きい」
白銀が呟いた。
何度も写真で見ているはずなのに、実物はやはり違ったらしい。
ナギは玄関の手前で止まり、僕と白銀を順に見た。
白銀はナギから目を離さなかった。
「写真より、黒く見えます」
「そう見えますね」
白銀は、毛の奥を覗くように顔を傾けた。
「根元の色は、実物の方がよく分かります」
身体が動くたび、黒っぽい毛の下から白に近い灰色の根元がのぞく。毛の流れに合わせて、見える幅が変わった。
それから、白銀はナギの顔を見た。
「目は……近くで見る方が綺麗です」
声が小さかった。大げさな褒め方ではなく、見たものをそのまま言葉にしたような声だった。
ナギは白銀の視線を受けても逃げなかった。
普段なら、初対面の相手にすぐ近づかない。距離を取って匂いを確認し、相手の動きを見る。そのはずだった。
ナギは一歩、白銀へ近づいた。
「動かない方がいいです」
僕が小さく言うと、白銀はこくりと頷いた。
両腕は、身体の横に下ろしたままだった。
ナギは白銀の足元まで来ると鼻先を近づけ、靴と鞄の匂いを嗅いだ。
身体に重なる輪郭が、白銀の足元へ向かって柔らかく広がっていた。
警戒している形ではない。
それから、迷いなく白銀の足に身体を擦りつけた。
「……」
白銀の肩がわずかに上がり、そのまま動かなくなった。
ナギはもう一度身体を擦りつけ、尻尾をピンっと立てた。
かなり機嫌がいい。かなり、というか、見たことがないくらい機嫌がいい。
「珍しいな」
思わず呟いた。
「珍しいんですか」
白銀の声は震えていた。
「初対面でこれは、あまりないです」
「そうなんですか」
白銀はしゃがみかけ、途中で僕を見た。
ナギはそんな迷いを無視して、白銀の膝のあたりに頭を押しつける。
「触っても、いいですか」
「たぶん、向こうが要求してます」
白銀はゆっくりしゃがんだ。
白銀が手を出す。ナギはその匂いを嗅ぐと、すぐに手の下へ頭を入れた。
輪郭の外側が、白銀の手に合わせるように丸く膨らむ。
撫でろ、ということらしい。
白銀の指先が、そっとナギの額の毛に沈んだ。毛に埋もれたまま一度止まり、遅れてもう片方の手も上がる。両手が、額から頬の毛並みを包んだ。
「……柔らかい」
声が小さい。
「思っていたより……ずっと」
白銀の手が毛の流れに沿って動き始め、ナギは目を細めた。
喉が鳴った。
低い音は、少し離れた僕のところまではっきり届いた。普段よりずっと大きく、玄関の空気まで震えるような深い音だった。
「鳴ってます」
「喉ですね」
白銀は音を確かめるように、片方の手をナギの首元へ添えた。
「すごい」
さっきまでの気まずさはどこにもない。玄関でしゃがみ込んだまま、大きな猫の頭を両手で撫でている。ナギも逃げず、むしろ白銀の手に身体を預けるようにしていた。
異常なくらい相性がよかった。
「……何でだ」
「何がですか」
「いや、ナギ、人見知りするので」
「そうなんですか」
「そうなんです」
ナギが白銀の膝に前足を乗せると、白銀の両手がその身体の左右で宙に浮いた。
「これは」
「乗るつもりみたいです」
「ここで?」
「ここで」
「どうすれば」
「受け止めるしか」
次の瞬間、ナギは当然のように白銀の膝へ体重をかけた。白銀が後ろへよろけ、片手を床についた。
「重いです」
それでも、ナギを抱えた腕は離れない。白銀は体勢を直すと、大きな身体を胸元へ抱き寄せた。
「でも、すごく、いいです」
その感想は、分かる気がした。
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どうにか靴を脱いで部屋へ上がってもらった。もう今さら、気まずさはほとんどなかった。
ナギはリビングへ案内するように先を歩き、時々振り返る。白銀はその後ろを追っていた。
完全に主導権はナギにあった。
「ここが、いつもの写真の場所ですか」
白銀は部屋に入るなり、床の一角を見て言った。
「よく分かりますね」
「背景で」
「背景」
「あのクッションです」
「そこまで見てるんですか」
「見ています」
怖いくらいだった。
でも、ナギの写真を送っていたのは僕だ。見られて困るものは写していないはずだ。
たぶん。
ナギは部屋の中央で座った。
僕は棚の上に置いていた猫じゃらしを取った。
「昨日のです」
白銀はナギを撫でていた手を止めた。
「まだありますか」
「一応」
布の端から糸が出ているけれど、棒も紐もまだ無事だった。
「端が傷んでいますね」
「昨日の時点でやられました」
「でも、まだ戦えそうです」
「猫じゃらしを戦力扱いしないでください」
白銀は猫じゃらしを両手で受け取った。
「使ってもいいですか」
「もちろんです」
白銀は猫じゃらしを軽く振った。
ナギの目が変わり、低く身を沈める。尻尾が揺れる。
狩る顔だ。
「危ないので、距離を」
言い切る前に、ナギが跳んだ。
白銀は肩を跳ねさせたが、逃げずに猫じゃらしを引いた。ナギが追う。
もう一度振ると、布の先が前足の下を抜けた。ナギは身体ごと向きを変え、再び飛びつく。今度は白銀が先に引き、布が床を滑って逃げた。
ナギは低い姿勢のまま追い、三度目に布を押さえ込んだ。
そこで、白銀が笑った。
声を出して。
今まで見た中で、一番分かりやすく。
猫じゃらしを持つ手まで揺れ、布がまた動く。ナギが前足を伸ばすと、白銀はもう一度笑った。
垂れ気味の目元が、普段よりさらに柔らかくなっていた。
輪郭は見えない。
それでも、白銀が楽しんでいることだけは、見れば分かった。
「朝倉さん」
白銀は猫じゃらしを振りながら言った。
「はい」
「この子、すごいです」
「はい」
「強いです」
「猫じゃらし相手には、かなり」
「いい子」
「それは、まあ」
「とても、いい子」
ナギは褒められているのが分かるのか、さらに機嫌がよくなっている。尻尾が立ち、耳も前を向いていた。
僕は床に座り、離れてその様子を見ていた。
その時、インターホンが鳴った。
白銀の手が止まる。ナギも、僕も止まった。
三者とも、同じ方向を見た。
「……誰だ」
嫌な予感がした。
インターホンの画面を見る。叔母だった。
終わった、と思った。
「すみません」
「はい?」
「叔母です」
「叔母さん」
白銀の手が、ナギの背中で止まった。
指先だけが、少しだけ毛の中に沈んでいる。
「出ないわけにはいかないので」
「もちろんです」
僕は玄関へ向かった。
ドアを開けると、叔母が紙袋を持って立っていた。
「近くまで来たから、これ置いていこうと思って」
「連絡してよ」
「したよ。既読つかなかった」
スマホを見ていなかった。完全に見ていなかった。
叔母は僕の顔を見て、それから玄関にある女物の靴を見た。沈黙した。
「……お邪魔だった?」
「違う。ナギを見に来ただけ」
叔母は紙袋を持ったまま、楽しそうに目を細めた。
その表情に耐えきれず、言い訳を重ねる。
「同じ講義の人だから」
「へえ」
その「へえ」は、かなり危険だった。
「変な想像しないで」
「してないしてない」
絶対にしている。
白銀が、廊下の角から半分だけ顔を出した。
「こんにちは」
叔母は白銀へ向き直った。
「こんにちは。ごめんね、急に来ちゃって」
「いえ。こちらこそ、お邪魔しています」
「この子が、あの?」
白銀が目を丸くする。
僕も固まった。
「……うん。白銀さん」
「ナギの写真を送ってる子でしょ」
白銀の視線が叔母と僕の間を一度往復した。僕は言い訳を探したが、うまく出てこなかった。
「ナギの写真の話は、しました」
「そうですか」
白銀は小さく頷き、ナギのそばへ戻った。叔母は紙袋を僕に渡す。
「野菜とお惣菜。ちゃんと食べなさい」
「食べてる」
「ナギばっかりいいもの食べてない?」
「それ、この前も聞いた」
「何回でも聞くよ」
叔母はそう言ってから、部屋の中を覗いた。
ナギが白銀の足元に座っている。というより、隣にぴったり寄り添っていた。
叔母の眉が上がる。
「あら」
「何」
「この子、そんなにすぐ懐くタイプだった?」
「違う」
「だよね」
叔母が白銀を見ると、白銀はナギの背中に手を置いたまま、撫でる速度を少し落とした。ナギは喉を鳴らしている。
「相性いいんだね」
叔母が言った。
ナギの背中に手を置いたまま、白銀は頷いた。
「はい。そうだと思います」
「よかった」
叔母の声は、からかいよりも柔らかかった。
「この子、人を見るから」
僕はその言い方に引っかかった。
初めて白銀と話した日、ナギは僕の右手を嗅ぎ、彼女の指が触れたあたりへ何度も鼻先を戻していた。
まさか、あの時の匂いを覚えていたのだろうか。
さすがに考えすぎだ。
「じゃあ、あたしは帰るね」
叔母はあっさり言った。
「上がらないの?」
「若い人の猫面会を邪魔するほど野暮じゃないよ」
「言い方」
「白銀さん」
叔母は僕を無視して、白銀を見る。
「この子、無理して大丈夫って言うこと多いから、変だったら言ってね」
「叔母さん」
「何?」
「何言ってるの」
「必要なこと」
白銀はナギを撫でていた手を止めた。
「分かりました」
分からなくていい。
「あと、ナギもよろしくね」
「はい」
白銀は今度は深く頷いた。
叔母は満足そうに笑い、軽く手を振って帰っていった。ドアが閉まる。
部屋に戻ると、白銀はさっきと同じ場所に座っていた。ナギだけは何も気にせず、その横で丸くなりかけている。
白銀は、閉じたドアの方を見た。
「優しそうな方ですね」
「まあ、そうですね」
「心配されているんですね」
「たぶん」
「大事にされているんだと思います」
そう言われると、返事に困った。
叔母には世話になっている。それは分かっているし、感謝もしている。
けれど、大事にされている、と正面から言われると、落ち着かない。
「白銀さんも、変に巻き込まれてすみません」
「いえ」
白銀はナギの背中を撫でた。ナギがその手に頭を押しつける。
「いつも、玄関まで来るんですか」
「来ることが多いです」
「帰ったら、迎えてくれるんですね」
以前にも、似たようなことを言われた気がする。
「だいたい、ご飯目当てです」
「それでも」
白銀はナギを見たまま言った。
「待っていてくれるのは、いいことだと思います」
その言葉は、前よりも近く聞こえた。
ナギは白銀の膝へ上半身を預け、顎を乗せて目を閉じかけていた。
「それ、かなり懐いてます」
「そうなんですか」
「はい」
「では、動けませんね」
「まあ、しばらくは」
ナギが少し動くたびに、白銀は両手で支え直している。困ったように言っているのに、声は少しも困っていなかった。むしろ、笑いをこらえきれていない。
僕は笑って、床に座り直す。
変な失言から始まり、途中の帰り道はかなり気まずかった。叔母まで来た。普通なら、もっと疲れていてもいいはずだ。
けれど、部屋の中には思ったより穏やかな空気が流れていた。ナギがいて、白銀がいて、さっきまで叔母がいた。いつもの部屋なのに、どこか違う。違うのに、嫌ではない。
「また、来てもいいですか」
白銀が小さく言った。
僕は白銀を見る。
「ナギに会いに」
付け足すまでに、少し間があった。
「ナギがよければ」
「ナギが」
白銀は膝の上のナギを見る。ナギは目を閉じたまま、喉を鳴らした。
まるで許可を出したみたいだった。
「いいみたいです」
白銀が言った。
「そうですね」
僕もそう答えた。
それでいいことにした。
その日、白銀は帰るまでずっとナギの近くにいた。
帰り際、ナギは玄関まで見送りに来た。白銀がしゃがんで「また来るね」と言うと、ナギは短く鳴いた。
白銀はしゃがんだまま、すぐには立ち上がらずにナギを見ていた。僕は離れて、それを見ていた。
白銀が立ち上がっても、ナギは玄関から動かなかった。外廊下の向こうへ姿が消えたあとも、しばらくその方を見ていた。
「また来るって」
そう言うと、ナギの耳だけがこちらへ動いた。
玄関の扉を閉める。ナギはその場に座ったまま、閉じた扉を見ていた。僕もすぐには部屋へ戻らなかった。
やがて、外から低いエンジン音が近づくのが聞こえた。
乗用車より重い音だった。
その音を聞いた瞬間、閉めたばかりの扉を振り返った。




