7話 押す前
翌日の火曜日。
講義が終わると、講義室の空気が一斉にほどけた。教授の声に代わって、椅子を引く音や話し声が広がっていく。
僕はノートを閉じ、鞄へ入れた。白銀が鞄を肩にかけたところで、こちらを見る。
「次は、三号館ですか」
「はい」
「私も途中まで同じです」
以前なら、それでも別々に歩いていたかもしれない。今日はそのまま、並んで講義室を出た。
廊下は次の講義へ向かう学生で混んでいた。
壁際に立つ男子学生が目に入った。片手にはスマホを持っている。身体に沿っていた輪郭の一部だけが、通路の方へ細く伸びていた。
白銀がその前を通り過ぎると、男子学生は一瞬だけ顔を上げた。視線は白銀の背中を追うように動き、少し遅れて、通路へ伸びていた輪郭も身体の近くへ戻った。
男子学生はすぐにスマホへ視線を落としたが、画面を操作する様子はなかった。
白銀は気づいた様子もなく、そのまま歩いていく。
何だったのか気にはなったが、僕も足を進めた。
人の流れに合わせて歩いているうちに、何度か足を緩めたり、少し進路をずらしたりした。
ふと隣を見ると、白銀がこちらを見ていた。
「どうしました?」
「いえ」
それだけで、白銀は前へ視線を戻した。
その少し先で、前を歩く学生との距離が縮まり、自然と歩幅が緩んだ。
一拍遅れて、男子学生が急に左へ曲がる。そのまま歩いていたら肩がぶつかっていたはずだが、相手はこちらに気づかないまま階段へ入っていった。
階段へ消える男子学生を見送る。視線を感じて隣を見ると、白銀と目が合ったが、白銀はすぐに前へ視線を戻した。
そのまま廊下の突き当たりにある扉へ近づく。前を歩く女子学生は、両腕でファイルを抱えていた。
扉の前まで来ると、考えるより先に手が伸びた。開けた直後、女子学生がファイルを片腕へ移す。
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
通り過ぎるまで扉を押さえる。続いて白銀もその横を通ったところで、さっき女子学生の右側へ輪郭が寄っていたことを思い出した。
「ありがとうございます」
「白銀さんまで言わなくても」
僕が手を離すと、扉がゆっくり閉じた。
白銀は数歩進んだところで足を止めた。
「朝倉さん」
「はい」
「さっきから、少し気になっていました」
「何がですか」
「人が動く前に、朝倉さんが先に動いています」
「僕が?」
「はい。さっきの人が曲がる前にも速度を落としていました。今も、あの人がファイルを持ち替える前に扉を開けていましたし」
言われて、さっきの男子学生を思い返す。直前まで正面を向いていて、足の向きも変わっていなかった。それでも、身体の左側へ輪郭が細く偏っていたことだけは覚えている。
その前にも、似たようなことがあったのかもしれない。けれど、どれも考えてやった覚えはなかった。
「……意識したことはないです」
「そうなんですね」
見ているつもりだった。自分が見られているとは、考えていなかった。
「変ですか」
「少し」
正直だった。
白銀は閉じた扉の方を見た。
「でも、助かる人はいると思います。さっきの人も、ファイルを落とさずに済みました」
「それなら、悪い癖ではなさそうですね」
白銀は小さく頷いた。
それで話は終わった。
けれど、僕の中には引っかかりが残った。
曲がる前と、扉へ手を伸ばす前。どちらも、輪郭を見てから考えて動いた覚えはなかった。それでも思い返せば、身体が動くより先に輪郭だけが向きを変えている。
昨日の学食でも、席を立つ学生の輪郭が返却口の方へ偏るのを見ていた。あの時は意味が分からず、感情の一部だと思っていたが、今日見たものも同じだったのかもしれない。
白銀が隣にいるから、輪郭の細かな変化まで見えているだけなのか。それとも、以前から見えていたものの意味に、今まで気づいていなかっただけなのか。自分がいつからそれに反応していたのかも、まだ分からなかった。
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階段を下りると、冷房の効いた廊下に出た。壁際には自動販売機が三台並んでいた。その前に男子学生が一人立ち、隣り合う缶コーヒーとスポーツドリンクを交互に見ている。
そのまま通り過ぎかけたが、男子学生の指が途中で止まるのを見て、僕の足も止まった。
気になって輪郭へ意識を向けると、一部が左右へ短く分かれ、どちらともつかないまま揺れていた。
男子学生は硬貨を入れたが、すぐには押さなかった。指を上げては止め、もう一度商品を見る。その間も、輪郭は二つに分かれたままだった。
やがて片側へ伸びていた部分が消え、輪郭全体が缶コーヒーのある方へわずかにずれた。そのあとで指が動き、缶コーヒーのボタンが光り、機械の中で缶が落ちた。
今度は、はっきり分かった。
輪郭が変わったのは、ボタンを押す前だった。さっき廊下で見たものも、同じだったのかもしれない。
男子学生が缶を取り出して離れていく。
「今の人がコーヒーを選ぶのも、分かっていたんですか」
隣から声がして白銀を見ると、いつの間にか足を止め、僕と同じ自動販売機の前に立っていた。
「……押す少し前には、そうかなと思いました」
白銀は男子学生が去った方を一度見てから、自動販売機へ視線を移した。
「では、私でも試せますか」
「何をですか」
「私がどれを買うか、押す前に分かるかです」
「白銀さんが?」
「はい」
白銀は並んだ飲み物を上から順に眺めていく。
水。お茶。炭酸飲料。コーヒー。ミルクティー。
白銀の身体には、いつも通り何も重なっていない。どの商品へ目を向けても、それだけだった。迷っているのか、もう決めているのかも分からない。
「もう決めたんですか」
「まだです」
「それなら、ただの予想になりますけど」
白銀は小銭入れを取り出した。
「では、押す時に決めます」
「それだと、もっと難しくないですか」
「試してみます」
「お茶か水。いえ、やっぱり水で」
「水」
「昨日も、お昼は難易度で選んでいましたし」
「水だと簡単ですか」
「……そう言われると、あまり関係ないですね」
確かに、水を選ぶのに難易度も何もない。それでも昨日の学食では、うどんを「早くて簡単だから」と選んでいた。飲み物なら、水かお茶。少なくとも、甘いものを選ぶ印象はあまりない。
「今のところは」
白銀は一度だけこちらを見て、小銭入れから硬貨を取り出し、自動販売機へ入れた。
右手が上がる。僕は白銀の身体の周囲へ目を凝らした。わかりきってはいたが、何も見えない。
指先が一度止まり、次の瞬間、ミルクティーの、しかも温かい方のボタンを押した。機械の中で缶が落ちる。
白銀は取り出し口から缶を取り、両手で持った。ほんの少し間を置いて、僕の方を見る。
いつもと同じ顔のはずなのに、少しだけ得意そうに見えた。
「外れです」
「……そうですね」
「はい」
「いつ決めたんですか」
「指を上げた時です。急に、甘いものが飲みたくなりました」
白銀は缶へ視線を落とした。
さっきの男子学生は、輪郭が変わってから指が動いた。白銀には、その変化自体がない。いつ決めたのかは、本人に聞いて初めて分かった。
「朝倉さんでも、分からないことがあるんですね」
「そんなに分かっているように見えましたか」
「私が言う前に気づくことが多いので」
猫のことになると反応が早い。熱いものが苦手で、腕輪を大切にしている。
それに、白銀が近くにいると、周囲の輪郭が強くなる。
「分からないことの方が多いです」
「もっと分かっているのかと思っていました」
白銀は缶のプルタブに指をかけた。まだ開けないまま、言った。
「分からない時は、聞いてください」
「答えてくれるんですか」
「答えられることなら」
プルタブが小さな音を立てて開く。
白銀は缶を両手で包み、歩き出した。
「次の講義へ行きましょう」
「あ、はい」
自動販売機の前を離れる。
背後で、次の学生が自動販売機へ硬貨を入れる音がした。
白銀は缶に口をつけ、すぐに離した。
「まだ熱いです」
聞いてはいなかった。
僕は少し遅れて、「そうですか」と返した。
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