6話 近すぎる
週が明けた月曜日。二限の講義が終わり、教授が資料を閉じると、講義室の中が一気にざわつき始めた。
一限は白銀と同じ講義だったが、二限は違う。隣でノートを閉じたのは高橋だった。
「朝倉、昼どうする?」
「学食に行こうと思ってる」
「珍しいな」
「たまには」
「お前、混んでるところ避けるだろ」
「だから普段は行かない」
高橋は鞄を肩へかけた。
「俺も途中まで行く。入口で待ち合わせしてるから」
講義室を出て、昼休みの人波に混じる。学食へ近づくにつれて、同じ方向へ向かう学生が増えていった。
入口の手前で、高橋が人の流れから外れた。イヤホンを片方外し、スマートフォンをこちらへ向ける。
画面の中では、小さな鳥が講義室を飛んでいた。その端に、窓を開ける白銀の横顔も映っている。
「この前、俺を廊下で待ってた知り合いが撮ったんだって。あとで見返して、この人が映ってるのに気づいたらしくてさ。知ってるかって聞かれた」
「知ってるって答えたの?」
「うん。白銀さんだなって」
高橋は動画を最初まで戻した。鳥を追う画面の端に、白銀が入ってくる。
「でも、今見ると変なんだよな」
「何が」
「白銀さん。目の色も珍しいし、普通もっと目に入るだろ」
僕も画面を見る。
「……それで?」
「ああ。白銀さんと話してみたいらしくてさ」
「話す?」
思ったより大きな声が出た。
「朝倉さん」
すぐ近くから声がした。顔を上げると、白銀が立っていた。別の講義を終えて学食へ来たらしい。
高橋がスマートフォンを下ろす。
「今の、聞こえた?」
「白銀さんと話したい、というところは」
「無理にとは言ってない。話せたら、くらい」
「何を話せばいいんでしょうか」
「そこから?」
「はい」
高橋は白銀を見たあと、僕の方へ顔を向けた。
「まあ、そうだよな。悪い。今のなしで」
「なしですか」
「なし。本人に頑張れって言っとく」
高橋はスマートフォンをポケットへ戻した。入口の向こうから、高橋を呼ぶ声がする。
「じゃあ、俺はあっち行くから。また午後」
「うん」
「邪魔した」
「なんの」
「間違えた。邪魔しそうだった」
「まだ何も言ってないけど」
「言えばいいだろ」
高橋は待っていた学生たちの方へ入っていった。
「朝倉さんも、学食ですか」
「そのつもりです」
「私もです」
そこで会話が止まった。別に、一緒に食べる約束をしていたわけではない。ただ、行き先が同じだっただけだ。
白銀は入口の先へ続く列を見た。僕も一緒にそこへ向かえばいい。おかしなことは何もないはずなのに、足が動かなかった。
「白銀さん」
「はい」
「よければ、一緒に食べませんか」
「今からだと、学食は混んでいそうですね」
「たぶん」
「一人で探すより、二人の方が席を見つけやすいと思います」
二人なら、二人分の席が必要になる。たぶん、見つけやすくはならない。
「そうですね」
「では、一緒に探しましょう」
白銀が列の最後尾へ向かう。僕もその隣に並び、二人で入口を通った。
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昼休みの学食は混んでいた。券売機の前には列ができ、料理を受け取った学生たちが、トレーを持ったまま空席を探して歩いている。
人の流れへ目を向けるたび、輪郭が次々に浮かぶ。白銀が隣にいるためか、その縁は普段よりはっきりしていたが、先日の講義で感じたような冷たさはない。
列はなかなか進まなかった。
「高橋の知り合いのこと、無理に気にしなくていいと思います」
「気にはしていません。ただ、何を話せばいいのか考えていました」
「……そうですか」
前の学生が一歩進み、白銀もそれに続いた。券売機の上に並ぶ料理の写真へ目を向ける。
「朝倉さんは、いつも何を食べるんですか」
「その時によりますけど、定食が多いです」
「定食」
「一番考えなくていいので」
「考えないために定食を選ぶんですか」
「便利なので」
「合理的です」
「白銀さんは?」
「麺類が多いです。早くて簡単なので」
「僕と同じような理由ですね」
「はい。便利です」
定食と麺類の間に、妙な共通点ができた。
順番が来ると、僕は唐揚げ定食を選んだ。白銀は券売機のボタンを見比べてから、温玉うどんを選んだ。
料理を受け取り、二人で席を探す。空席はなかなか見つからなかった。
窓際の二人席に、一人で座っている学生がいた。何となく目を向けると、身体に沿っていた輪郭が、返却口へ引かれるように細く偏っている。
見たことのない形だった。
学生はスマートフォンをポケットへ入れ、トレーを持って立ち上がった。
「あそこ、空きます」
白銀も窓際を見た。
「はい」
トレーを持ち、席へ向かう白銀の左袖から、古びた銀色が覗いた。歩くたびに袖口が揺れ、すぐに布地の下へ隠れた。
僕たちは向かい合って座った。講義室ではいつも隣にいる白銀が、今日は正面にいる。距離はほとんど変わらないのに、どこを見ればいいのか少し迷った。
白銀は箸を取り、うどんの器を自分の方へ寄せた。
「いただきます」
「いただきます」
唐揚げを一つ口へ入れる。思ったより熱かった。
白銀はうどんから上がる湯気を見ていた。箸で持ち上げ、何度か息を吹きかける。
「熱いものが苦手なんですか」
「少し」
「少し?」
「食べられないわけではありません。ただ、急ぐと後悔します」
「それは苦手でいいと思います」
白銀はしばらくうどんを見つめ、それからもう一度念入りに息を吹きかけ、ようやく口へ運んだ。ひと口食べると、視線が僕の定食へ移った。
「朝倉さんは、自炊するんですか」
「一応します」
白銀はまだこちらを見ていた。
「……肉と野菜を炒めることが多いです」
「料理名ではないんですね」
「味をつければ料理になります」
「そういうものですか」
「たぶん。白銀さんは?」
「お粥とか、うどんとか」
白銀が自分の器を見る。
「それなら今日と同じですね」
「今日の方が具が多いです」
特段、具が多いようには見えなかった。
会話が止まり、学食のざわめきが間へ入り込んだ。白銀はゆっくりうどんを食べ、僕も定食へ戻る。無理に次の話を探さなくても、気まずくはなかった。
ふと、席へ向かう途中に見えた銀色を思い出した。
「その腕輪」
白銀の箸が、器の上で止まった。
少し急だったかもしれない。
「綺麗ですね」
白銀は袖口を少し上げた。
左手首には、細い銀色の帯が二本、隙間なく並んだ腕輪があった。白に近い銀色はところどころ鈍く曇り、それぞれに刻まれた緩やかな線が、中央の境目を挟んで絡み合って見えた。
白銀は自分の左手首を見る。
「ありがとうございます」
「いつも着けてるんですか」
「はい」
「大切なものなんですね」
白銀は腕輪へ指を添えた。
「はい」
それだけ答えると、袖を戻し、箸を持ち直した。
誰にもらったのか。どうして、そこにあることを確かめるように触れるのか。聞こうと思えば聞けたが、今聞くことではない気がした。
「似合ってます」
「ありがとうございます」
さっきより、声が小さかった。
白銀はうどんを丁寧に冷ましてから口へ運んだ。ふと通路の向こうへ目を向け、片手を上げた。
「藤崎さん」
呼ばれた女子学生は周囲を見回し、少し遅れて白銀に気づいた。
「澪。やっと見つけた」
こちらへ歩いてくる。肩までの髪を低い位置で結び、片手には薄いファイルを持っていた。表情は穏やかで、輪郭も身体の近くへ静かに沿っている。ただ、白銀と僕を見比べた時だけ、輪郭が小さく揺れた。
藤崎はファイルから一枚の紙を取り出した。
「学科室の前に、午後の講義の追加資料が置いてあったから。澪の分も取っておいた」
「ありがとうございます」
白銀は受け取り、トレーの脇へ置いた。
藤崎はそこで僕へ軽く頭を下げた。
「食事中にすみません」
「あ、いえ」
「朝倉さんです」
白銀が言った。
「同じ講義を取っています」
「藤崎です」
僕も頭を下げる。
「朝倉です」
藤崎は軽く頷き、それから白銀の器と腕時計を見比べた。
「次の講義までに食べ終わりそう?」
「間に合います」
「ならいいけど。私は向こうにいるから、あとでね」
「分かりました」
それだけ言って、藤崎は離れていった。少し先のテーブルへ戻る途中で、学生の一人にも資料を渡している。
澪。
連絡先にも表示されている、知っていた名前だった。けれど、誰かの声で呼ばれるのを聞いたのは初めてだった。
「下の名前で呼ばれてるんですね」
「はい」
白銀が箸を止めた。
「朝倉さんも、呼び方を変えますか」
「いや、そういう意味では」
言ってから気付く。否定するのも変だった。
「今のままで大丈夫です」
「分かりました」
白銀はうどんへ戻った。トレーの脇には、藤崎から受け取った資料が置かれている。
「それ、次の講義の資料ですか」
「はい。資料を整理する講義です。図書館や記録について学びます」
「そういう講義も取ってるんですね」
「はい。多いです」
白銀は追加資料からこちらへ視線を移した。
「朝倉さんは?」
「僕は、情報とかコミュニケーションが多いです」
「少し近いんですね」
「そうかもしれません」
白銀は手元の資料へ目を戻した。
「白銀さんは、どうしてそういう講義を取ってるんですか」
「資料が残っていれば、あとからでも辿れるので」
白銀は追加資料を鞄へしまい、箸を持ち直した。
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食べ終える頃には、学食の混雑も少し落ち着いていた。白銀は水を飲み、器をトレーの中央へ戻した。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
二人で食器返却口へ向かい、人の流れに合わせて並んで歩く。向かい合って食事をしただけなのに、白銀が今までとは少し違って見えた。
返却口を出たところで、白銀が立ち止まる。
「朝倉さん」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「僕の方こそ」
白銀は人の流れを避け、返却口の脇へ寄った。
「一人で探すより、楽でした」
何のことか一瞬分からなかった。そういえば、一人で探すより二人の方が席を見つけやすい、という話だった。
実際に見つけやすくなったわけではない。白銀があの理由を覚えていたことが、素直に嬉しかった。
「僕も、一人より楽でした」
白銀の口元が、わずかに緩んだ。
「そうですか」
次の講義は別々の建物にあり、廊下の途中で進む方向が分かれる。
「では、また講義で」
「また」
白銀は反対側の廊下へ歩いていく。僕も次の講義室へ向かい、角を曲がる前に一度だけ振り返った。
少し離れた廊下の分岐で、藤崎が人の流れを見ていた。白銀が先に気づき、片手を上げて名前を呼ぶ。
藤崎は声のした方へ顔を向け、白銀を見つけると、同じように手を上げた。
白銀が合流すると、二人は並んで次の講義室の方へ歩き出した。藤崎が僕の歩いてきた方を見て、それから白銀へ顔を寄せ、何かを尋ねる。白銀もそちらへ目を向けてから、短く答えた。
何を話しているのかは聞こえない。
藤崎の輪郭へ意識を向ける。柔らかく外へ膨らんでいて、白銀の返事を聞いたあとも大きな変化はなかった。
少なくとも、困らせるような話ではなさそうだった。
そこまで考えてから、僕は何を確認しているんだろうと思った。
二人はそのまま並んで、廊下の向こうへ歩いていく。その背中を見ていると、藤崎が白銀を見つけた時の声を思い出した。
澪。
口に出すには、まだ近すぎる名前だった。




