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輪郭圏外  作者: ねむZ
第一章 現代編――輪郭のない彼女
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5話 いつから

黒い毛並みの後ろにいた。


目の前は暗く、すぐ近くで大きな背中が動いている。その向こうでは、知らない声がぶつかっていた。


言葉は分からない。低い声が強くなると、別の声がすぐに返す。その音だけで、身体が縮こまった。


黒い背中が、こちらを隠すように一歩前へ出る。


琥珀色の目が、ちらりと振り返った。


また声が重なる。黒い背中が、さらに近くなった。


目を開けると、ナギがベッドの横からこちらを見上げていた。


「みゃー」


黒い背中だけが、まだ目の奥に残っている。


前の課題を提出してから、数日が過ぎた。今日は講義のない土曜日だ。


枕元のスマートフォンを手に取った。通知はない。この数日、帰宅するとナギの写真を撮り、白銀へ送っていた。窓際で寝ているところ。餌を待っているところ。ベッドの真ん中を占領しているところ。


返ってくるのは、短い感想だったり、猫のスタンプだったりした。返事は毎回違ったが、そこから会話が続くことはなかった。連絡を始めるのも、いつも僕だった。


画面を閉じる。時刻は七時を少し過ぎている。いつの間にか、ナギはベッドの端へ前脚をかけていた。


「みゃー」


琥珀色の目が、こちらを見下ろしている。輪郭の外側には、短い角がいくつも浮かんでいた。


「……今日は休みなんだけど」


ナギには関係がないらしい。布団から出ると角がいくつか消え、餌を用意する頃には、皿の前で低く鳴いていた。ナギが餌へ顔を埋めたところで、もう一度スマートフォンへ目をやる。画面は暗いままだった。


「何してるんだろうな」


ナギは答えず、餌を食べ続けていた。


---


朝食を済ませた頃、スマートフォンが震えた。白銀かと思って画面を見ると、叔母からの着信だった。


「もしもし」


『起きてた?』


「ナギに起こされた」


『休日でも容赦ないね』


叔母が笑った。


『今日、暇でしょ』


「たぶん」


『じゃあ決まり。押し入れを整理してたら、朔也の箱がいくつか出てきたの。捨てていいのか分からないものばっかりだから、自分で見に来て』


引っ越す時に置いてきた箱だった。中へ何を詰めたかまでは、いちいち覚えていない。


「分かった。昼前には行く」


『お昼、食べる?』


「食べる」


『分かった。じゃあ、待ってる』


通話が切れた。


---


ナギに留守番を頼み、家を出た。駅へ向かう途中、白線の内側に白いトラックが停まっていた。避けるため、車道側へ一歩ずれて横を通る。


数歩進み、角を曲がったところで、耳の奥が詰まった。


「……」


周囲の音が、薄い膜の向こうへ遠ざかる。


足を止める。


信号の電子音も、少し先を走る車の音も、急に遠くなったように聞こえた。


数秒すると、何事もなかったように戻る。


まただ。


バイトのあとだけではない。この数日、同じことが何度かあった。どれもすぐに治るし、痛みもない。それでも、続くようなら一度診てもらった方がいいかもしれない。


耳へ触れながら、そのまま駅へ向かった。電車を乗り継ぎ、叔母の家の最寄り駅から十分ほど歩く。角にある自動販売機も、塀から枝を伸ばした木も変わっていない。見慣れた住宅街だった。


門を開けると、呼び鈴を押す前に玄関の扉が開いた。


「早かったね」


叔母が顔を出す。


「昼前には行くって言ったでしょ」


「言ってたけど、本当にこんな早く来るとは思わなかった」


「どういう意味」


「休みの日の朔也を知ってるから」


叔母の輪郭は、身体から柔らかく離れていた。


「おかえり」


返事が一拍遅れた。


「……ただいま」


靴を脱ぐ。置かれている靴も、廊下の匂いも、以前と変わっていない。それでも、足元だけが落ち着かなかった。


「箱、部屋に置いてあるから」


叔母が廊下の奥を指す。


「勝手に入った?」


「あたしの家なんだけど」


「そうだった」


「朔也の部屋でもあるけどね」


叔母は先に台所へ向かった。廊下の奥にある扉を開けると、机も本棚もカーテンも、壁に残った小さな傷まで前のままだった。


ベッドの上には段ボール箱が三つ置かれている。部屋の隅には、見覚えのない布団袋と買い置きらしいティッシュの箱が積まれ、以前より狭く見えた。


段ボールを一つ開けると、高校の教科書、古い筆箱、何に使ったのか分からないコード、文化祭の写真が出てきた。必要なものと捨てるものを分けていく。


写真の束を持ち上げると、一枚だけ向きの違うものが挟まっていた。


叔母の家へ来たばかりの頃の僕が、居間の床に座っている。頬は今より丸く、前髪は眉の上で切り揃えられていた。その隣で、ナギは今とほとんど変わらない姿をしていた。


「これ、いつ撮ったんだっけ」


入口にいた叔母へ写真を向ける。


「懐かしい。朔也がうちに来て、すぐの頃じゃない?」


「この頃からいたんだ」


「そうみたいね」


叔母は写真を受け取り、表を見てから裏返した。裏には日付しか書かれていない。


「叔母さんが連れてきたんだっけ」


「そうだっけ? 誰かから預かったような気もするけど」


僕も思い出せなかった。写真を見ても、叔母の家でナギと暮らし始めたことしか浮かばない。


「まあ、ずっといるんだからいいでしょ」


「うん」


台所から、湯の沸く音が聞こえる。


「あ、お茶」


叔母は写真を僕へ返し、廊下へ出ていった。


写真の中では、ナギが僕のすぐ隣に座っている。僕はそれを文化祭の写真と同じ束へ戻した。


二つ目の箱を動かすと、その後ろから細長い黒い袋が出てきた。引っ張り出すと、竹刀袋だった。


「それ、まだあったんだ」


戻ってきた叔母が、入口から覗き込む。


袋から竹刀を取り出す。柄革には、使っていた頃についた汚れが残っていた。


「捨てる?」


「捨てない」


竹刀を袋へ戻し、捨てるものとは反対側へ置いた。


「まだやるの?」


「たまには」


「持っていかないの?」


竹刀袋を見下ろす。持っていこうと思えば、持っていける。


「今日は置いていく」


「そう」


竹刀袋を壁へ戻し、机の引き出しを開ける。奥から、青いプラスチックの札がついた鍵が出てきた。以前、この家で使っていたものだった。


「これ、どうする?」


叔母へ見せる。


「持ってれば?」


「もう使わないと思うけど」


「使わなくても、持ってればいいでしょ」


鍵を捨てる箱へ入れかけて、鞄の内側へしまった。ポケットからスマートフォンを取り出して確かめたが、通知はなかった。


---


昼は、叔母が作った焼きそばだった。


「一人暮らしはどう?」


向かいに座った叔母が聞く。


「普通」


「ちゃんと食べてる?」


「食べてる」


「ナギより?」


「値段なら負けてるかもしれない」


「近くまで行く時、惣菜とか持っていこうか」


「来る前に連絡して」


「分かった。大学は?」


「普通」


「それ以外の言葉はないの?」


「便利だから」


「友達はできた?」


「まあ、いる」


高橋の顔が浮かんだ。友達でいいと思う。


話しながら、テーブルの端へ置いたスマートフォンに目をやる。通知は来ていなかった。叔母は箸を置き、僕が見たのと同じ方へ目を向けた。


「それ、さっきから気にしてるね」


「気にしてない」


「何も鳴ってないのに?」


「同じ講義で話す人から、連絡が来るかもしれないだけ」


「ふーん」


「ナギの写真を送ってる」


「え、ナギの写真を送る相手がいるの? なんで?」


「なんか、猫が好きみたいだから」


「ナギ、大きいからね」


叔母はまた箸を動かし始めた。その時、テーブルの上でスマートフォンが震えた。白銀からだった。


壁の陰から顔を半分だけ出した、虚無顔の猫のスタンプ。その下へ、続けてメッセージが届く。


『今日は、ナギの写真はありますか』


画面を見たままになる。


白銀から先にメッセージが届いたのは、初めてだった。


「そのスタンプ、かわいいね」


スタンプを見直す。かわいいのだろうか。


「女の子なんだね」


「スタンプだけで、そこまで分かる?」


「スタンプじゃなくて、朔也を見てたんだけど」


叔母は僕の返事を待たず、焼きそばを口へ運んだ。


「何て?」


「今日はナギの写真があるかって」


「帰るまで待ってもらうしかないね」


『今、叔母の家にいます』


そう返してから、もう一件送る。


『帰ったら送ります』


スマートフォンを伏せると、叔母は焼きそばへ箸を戻した。


---


箱の中身を整理し終えると、午後二時を過ぎていた。残すものの方が多く、捨てる袋は一つだけだった。


「また増えたら呼ぶね」


玄関で靴を履いていると、叔母が言った。


「勝手に捨てていいよ」


「そう言って、竹刀は捨てるなって言ったでしょ」


「それ以外」


「鍵も持っていったし」


鞄の内側へ入れた鍵に触れていると、叔母が扉へ手をかけた。


「無理しなくていいからね」


「うん」


「本当にしんどくなったら、いつでも帰っておいで」


「うん」


「それと、今度はナギも連れて泊まりに来て。この部屋なら、二人でも寝られるでしょ」


「その時は、ナギの布団も一枚出して。最近は暑くて、一緒に寝ると苦しいから」


「分かった。二枚出しておく」


叔母は玄関の扉を開けた。


「気をつけて帰ってね」


「うん」


門を出て振り返ると、叔母はまだ玄関の前に立っていた。手を上げると、叔母も手を上げる。角を曲がるまで、扉の閉まる音は聞こえなかった。


---


電車に乗り、空いている席へ座って白銀とのトーク画面を開く。


『今、叔母の家にいます』


『帰ったら送ります』


二つのメッセージには既読がついていた。その下では、猫が正座していた。


さらに一件、メッセージが届いている。


『待っています』


少しだけ画面を見たままになる。


スマートフォンを閉じた。


駅を出て、いつもの道を歩く。コンビニ、公園、道路沿いの自動販売機。その前を通り、部屋へ戻った。


扉を開けると、玄関の奥に大きな影が座っていた。ナギは鳴かずにこちらを見ている。


「ただいま」


低い声が返ってきた。靴を脱ぐと、ナギが足元へ身体を擦りつけてくる。餌を用意すると、今度はこちらを見なくなった。


食べ終わるまで待ち、ベッドの中央に座ったところを一枚撮る。当然のような顔で、まっすぐカメラを見ていた。


『帰りました。今日のナギです』


写真を送ると、すぐに既読がつく。


『おかえりなさい』


続けて、もう一件届いた。


『今日は少し偉そうですね』


写真を見直す。確かに偉そうだった。


『だいたいいつも偉そうです』


『そうなんですね』


そこで会話が止まった。ナギの話は終わったのだと思ったが、少しして、もう一度スマートフォンが震えた。


『叔母さんの家では、何をしていたんですか?』


ナギのことではなかった。


『前に使っていた部屋の片付けです』


『朝倉さんの部屋ですか』


『大学に入るまで使っていた部屋です』


『どんなものが残っていましたか』


教科書。古い筆箱。文化祭の写真。青い札のついた鍵。


『昔の本や写真です。あと、竹刀が出てきました』


返事はすぐに来た。


『竹刀』


続けて、もう一件届く。


『剣道をしていたんですか?』


『高校までです』


『意外です』


『そんなに意外ですか?』


『はい。朝倉さんは、猫の毛がついていた印象があったので』


『どういう印象ですか』


『家でナギと静かにしている人、みたいな』


『だいぶナギに引っ張られていますね』


『そうかもしれません』


否定しなかった。彼女にとって僕は、ずっと猫の人という認識だったのだろうか。


『竹刀を持っている朝倉さんは、まだ想像できません』


『僕も最近は持っていないので』


『写真はありますか?』


剣道部で撮ったものも、叔母の家のどこかに残っているかもしれない。


『たぶん、叔母の家にあります』


『今度、見てもいいですか』


『いいですよ』


少しして、もう一件届いた。


『朝倉さんの印象が変わりました』


返事を打つ前に、続きが届く。


『変わったというより、増えました』


『猫の人ではなくなりましたか』


『猫の人ではあります』


背後で、ナギが短く鳴いた。


振り向くと、ベッドの上からこちらを睨んでいた。


「猫の人はやめないよ」

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