5話 いつから
黒い毛並みの後ろにいた。
目の前は暗く、すぐ近くで大きな背中が動いている。その向こうでは、知らない声がぶつかっていた。
言葉は分からない。低い声が強くなると、別の声がすぐに返す。その音だけで、身体が縮こまった。
黒い背中が、こちらを隠すように一歩前へ出る。
琥珀色の目が、ちらりと振り返った。
また声が重なる。黒い背中が、さらに近くなった。
目を開けると、ナギがベッドの横からこちらを見上げていた。
「みゃー」
黒い背中だけが、まだ目の奥に残っている。
前の課題を提出してから、数日が過ぎた。今日は講義のない土曜日だ。
枕元のスマートフォンを手に取った。通知はない。この数日、帰宅するとナギの写真を撮り、白銀へ送っていた。窓際で寝ているところ。餌を待っているところ。ベッドの真ん中を占領しているところ。
返ってくるのは、短い感想だったり、猫のスタンプだったりした。返事は毎回違ったが、そこから会話が続くことはなかった。連絡を始めるのも、いつも僕だった。
画面を閉じる。時刻は七時を少し過ぎている。いつの間にか、ナギはベッドの端へ前脚をかけていた。
「みゃー」
琥珀色の目が、こちらを見下ろしている。輪郭の外側には、短い角がいくつも浮かんでいた。
「……今日は休みなんだけど」
ナギには関係がないらしい。布団から出ると角がいくつか消え、餌を用意する頃には、皿の前で低く鳴いていた。ナギが餌へ顔を埋めたところで、もう一度スマートフォンへ目をやる。画面は暗いままだった。
「何してるんだろうな」
ナギは答えず、餌を食べ続けていた。
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朝食を済ませた頃、スマートフォンが震えた。白銀かと思って画面を見ると、叔母からの着信だった。
「もしもし」
『起きてた?』
「ナギに起こされた」
『休日でも容赦ないね』
叔母が笑った。
『今日、暇でしょ』
「たぶん」
『じゃあ決まり。押し入れを整理してたら、朔也の箱がいくつか出てきたの。捨てていいのか分からないものばっかりだから、自分で見に来て』
引っ越す時に置いてきた箱だった。中へ何を詰めたかまでは、いちいち覚えていない。
「分かった。昼前には行く」
『お昼、食べる?』
「食べる」
『分かった。じゃあ、待ってる』
通話が切れた。
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ナギに留守番を頼み、家を出た。駅へ向かう途中、白線の内側に白いトラックが停まっていた。避けるため、車道側へ一歩ずれて横を通る。
数歩進み、角を曲がったところで、耳の奥が詰まった。
「……」
周囲の音が、薄い膜の向こうへ遠ざかる。
足を止める。
信号の電子音も、少し先を走る車の音も、急に遠くなったように聞こえた。
数秒すると、何事もなかったように戻る。
まただ。
バイトのあとだけではない。この数日、同じことが何度かあった。どれもすぐに治るし、痛みもない。それでも、続くようなら一度診てもらった方がいいかもしれない。
耳へ触れながら、そのまま駅へ向かった。電車を乗り継ぎ、叔母の家の最寄り駅から十分ほど歩く。角にある自動販売機も、塀から枝を伸ばした木も変わっていない。見慣れた住宅街だった。
門を開けると、呼び鈴を押す前に玄関の扉が開いた。
「早かったね」
叔母が顔を出す。
「昼前には行くって言ったでしょ」
「言ってたけど、本当にこんな早く来るとは思わなかった」
「どういう意味」
「休みの日の朔也を知ってるから」
叔母の輪郭は、身体から柔らかく離れていた。
「おかえり」
返事が一拍遅れた。
「……ただいま」
靴を脱ぐ。置かれている靴も、廊下の匂いも、以前と変わっていない。それでも、足元だけが落ち着かなかった。
「箱、部屋に置いてあるから」
叔母が廊下の奥を指す。
「勝手に入った?」
「あたしの家なんだけど」
「そうだった」
「朔也の部屋でもあるけどね」
叔母は先に台所へ向かった。廊下の奥にある扉を開けると、机も本棚もカーテンも、壁に残った小さな傷まで前のままだった。
ベッドの上には段ボール箱が三つ置かれている。部屋の隅には、見覚えのない布団袋と買い置きらしいティッシュの箱が積まれ、以前より狭く見えた。
段ボールを一つ開けると、高校の教科書、古い筆箱、何に使ったのか分からないコード、文化祭の写真が出てきた。必要なものと捨てるものを分けていく。
写真の束を持ち上げると、一枚だけ向きの違うものが挟まっていた。
叔母の家へ来たばかりの頃の僕が、居間の床に座っている。頬は今より丸く、前髪は眉の上で切り揃えられていた。その隣で、ナギは今とほとんど変わらない姿をしていた。
「これ、いつ撮ったんだっけ」
入口にいた叔母へ写真を向ける。
「懐かしい。朔也がうちに来て、すぐの頃じゃない?」
「この頃からいたんだ」
「そうみたいね」
叔母は写真を受け取り、表を見てから裏返した。裏には日付しか書かれていない。
「叔母さんが連れてきたんだっけ」
「そうだっけ? 誰かから預かったような気もするけど」
僕も思い出せなかった。写真を見ても、叔母の家でナギと暮らし始めたことしか浮かばない。
「まあ、ずっといるんだからいいでしょ」
「うん」
台所から、湯の沸く音が聞こえる。
「あ、お茶」
叔母は写真を僕へ返し、廊下へ出ていった。
写真の中では、ナギが僕のすぐ隣に座っている。僕はそれを文化祭の写真と同じ束へ戻した。
二つ目の箱を動かすと、その後ろから細長い黒い袋が出てきた。引っ張り出すと、竹刀袋だった。
「それ、まだあったんだ」
戻ってきた叔母が、入口から覗き込む。
袋から竹刀を取り出す。柄革には、使っていた頃についた汚れが残っていた。
「捨てる?」
「捨てない」
竹刀を袋へ戻し、捨てるものとは反対側へ置いた。
「まだやるの?」
「たまには」
「持っていかないの?」
竹刀袋を見下ろす。持っていこうと思えば、持っていける。
「今日は置いていく」
「そう」
竹刀袋を壁へ戻し、机の引き出しを開ける。奥から、青いプラスチックの札がついた鍵が出てきた。以前、この家で使っていたものだった。
「これ、どうする?」
叔母へ見せる。
「持ってれば?」
「もう使わないと思うけど」
「使わなくても、持ってればいいでしょ」
鍵を捨てる箱へ入れかけて、鞄の内側へしまった。ポケットからスマートフォンを取り出して確かめたが、通知はなかった。
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昼は、叔母が作った焼きそばだった。
「一人暮らしはどう?」
向かいに座った叔母が聞く。
「普通」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「ナギより?」
「値段なら負けてるかもしれない」
「近くまで行く時、惣菜とか持っていこうか」
「来る前に連絡して」
「分かった。大学は?」
「普通」
「それ以外の言葉はないの?」
「便利だから」
「友達はできた?」
「まあ、いる」
高橋の顔が浮かんだ。友達でいいと思う。
話しながら、テーブルの端へ置いたスマートフォンに目をやる。通知は来ていなかった。叔母は箸を置き、僕が見たのと同じ方へ目を向けた。
「それ、さっきから気にしてるね」
「気にしてない」
「何も鳴ってないのに?」
「同じ講義で話す人から、連絡が来るかもしれないだけ」
「ふーん」
「ナギの写真を送ってる」
「え、ナギの写真を送る相手がいるの? なんで?」
「なんか、猫が好きみたいだから」
「ナギ、大きいからね」
叔母はまた箸を動かし始めた。その時、テーブルの上でスマートフォンが震えた。白銀からだった。
壁の陰から顔を半分だけ出した、虚無顔の猫のスタンプ。その下へ、続けてメッセージが届く。
『今日は、ナギの写真はありますか』
画面を見たままになる。
白銀から先にメッセージが届いたのは、初めてだった。
「そのスタンプ、かわいいね」
スタンプを見直す。かわいいのだろうか。
「女の子なんだね」
「スタンプだけで、そこまで分かる?」
「スタンプじゃなくて、朔也を見てたんだけど」
叔母は僕の返事を待たず、焼きそばを口へ運んだ。
「何て?」
「今日はナギの写真があるかって」
「帰るまで待ってもらうしかないね」
『今、叔母の家にいます』
そう返してから、もう一件送る。
『帰ったら送ります』
スマートフォンを伏せると、叔母は焼きそばへ箸を戻した。
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箱の中身を整理し終えると、午後二時を過ぎていた。残すものの方が多く、捨てる袋は一つだけだった。
「また増えたら呼ぶね」
玄関で靴を履いていると、叔母が言った。
「勝手に捨てていいよ」
「そう言って、竹刀は捨てるなって言ったでしょ」
「それ以外」
「鍵も持っていったし」
鞄の内側へ入れた鍵に触れていると、叔母が扉へ手をかけた。
「無理しなくていいからね」
「うん」
「本当にしんどくなったら、いつでも帰っておいで」
「うん」
「それと、今度はナギも連れて泊まりに来て。この部屋なら、二人でも寝られるでしょ」
「その時は、ナギの布団も一枚出して。最近は暑くて、一緒に寝ると苦しいから」
「分かった。二枚出しておく」
叔母は玄関の扉を開けた。
「気をつけて帰ってね」
「うん」
門を出て振り返ると、叔母はまだ玄関の前に立っていた。手を上げると、叔母も手を上げる。角を曲がるまで、扉の閉まる音は聞こえなかった。
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電車に乗り、空いている席へ座って白銀とのトーク画面を開く。
『今、叔母の家にいます』
『帰ったら送ります』
二つのメッセージには既読がついていた。その下では、猫が正座していた。
さらに一件、メッセージが届いている。
『待っています』
少しだけ画面を見たままになる。
スマートフォンを閉じた。
駅を出て、いつもの道を歩く。コンビニ、公園、道路沿いの自動販売機。その前を通り、部屋へ戻った。
扉を開けると、玄関の奥に大きな影が座っていた。ナギは鳴かずにこちらを見ている。
「ただいま」
低い声が返ってきた。靴を脱ぐと、ナギが足元へ身体を擦りつけてくる。餌を用意すると、今度はこちらを見なくなった。
食べ終わるまで待ち、ベッドの中央に座ったところを一枚撮る。当然のような顔で、まっすぐカメラを見ていた。
『帰りました。今日のナギです』
写真を送ると、すぐに既読がつく。
『おかえりなさい』
続けて、もう一件届いた。
『今日は少し偉そうですね』
写真を見直す。確かに偉そうだった。
『だいたいいつも偉そうです』
『そうなんですね』
そこで会話が止まった。ナギの話は終わったのだと思ったが、少しして、もう一度スマートフォンが震えた。
『叔母さんの家では、何をしていたんですか?』
ナギのことではなかった。
『前に使っていた部屋の片付けです』
『朝倉さんの部屋ですか』
『大学に入るまで使っていた部屋です』
『どんなものが残っていましたか』
教科書。古い筆箱。文化祭の写真。青い札のついた鍵。
『昔の本や写真です。あと、竹刀が出てきました』
返事はすぐに来た。
『竹刀』
続けて、もう一件届く。
『剣道をしていたんですか?』
『高校までです』
『意外です』
『そんなに意外ですか?』
『はい。朝倉さんは、猫の毛がついていた印象があったので』
『どういう印象ですか』
『家でナギと静かにしている人、みたいな』
『だいぶナギに引っ張られていますね』
『そうかもしれません』
否定しなかった。彼女にとって僕は、ずっと猫の人という認識だったのだろうか。
『竹刀を持っている朝倉さんは、まだ想像できません』
『僕も最近は持っていないので』
『写真はありますか?』
剣道部で撮ったものも、叔母の家のどこかに残っているかもしれない。
『たぶん、叔母の家にあります』
『今度、見てもいいですか』
『いいですよ』
少しして、もう一件届いた。
『朝倉さんの印象が変わりました』
返事を打つ前に、続きが届く。
『変わったというより、増えました』
『猫の人ではなくなりましたか』
『猫の人ではあります』
背後で、ナギが短く鳴いた。
振り向くと、ベッドの上からこちらを睨んでいた。
「猫の人はやめないよ」




