4話 一枚目
講義室を出る直前、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面を見ると、大学の学習システムから通知が届いていた。
『情報社会とコミュニケーション 課題返却のお知らせ』
足を止める。前を歩いていた白銀も、ほぼ同じタイミングで鞄からスマートフォンを取り出した。
「これ、白銀さんとした前回の課題ですね」
「なにか間違っていたのでしょうか」
画面を開く。二人一組で取り組んだ、『SNSは人間関係を広げるか』という課題だった。提出した文章の一部が赤く囲まれている。
『遠くても、知る前よりは近い』
白銀が考えた言葉だった。その横にコメントが付いている。
『「知る前より近い」だけでは、閲覧者の認知が変化しただけなのか、相互的な関係が形成されたのか判別できません。具体例を挙げ、何を「広がった」と定義するのか補足してください』
最後には、『修正版は本日二十三時五十九分まで』とあった。白銀はコメントを上から読み直した。
「『広がった』の定義」
「難しくなりましたね」
「わかりません」
返事が早かった。
「少しは考えませんか」
「考えてから言いました」
僕も画面を見直す。SNSで誰かの投稿を見て、相手の名前を覚える。フォローし、コメントを送る。どこまで進めば、人間関係が広がったと言えるのだろう。
「僕も、すぐにはわかりません」
「困りました」
白銀はスマートフォンを持ったまま、廊下の時計を見た。僕も時刻を確認する。今日は夕方からバイトがある。
「僕、今日は夕方からバイトなので、今から全部やるのは難しいです」
「結論を変えますか」
「早くないですか」
「バイトは何時までですか」
「二十時半くらいです。二人で探せば見つかるかもしれません」
一人なら厳しかったかもしれない。
「使えそうな資料があったら、送ります」
言ってから、白銀がこちらを見た。
「どうやって送りますか」
そこで気づいた。白銀の連絡先を知らない。当然、白銀も僕の連絡先を知らない。
「……そうですね」
我ながら、何の解決にもならない返事だった。白銀は何も言わずに待っている。課題のためなのだから、理由は十分にあるはずだ。
「連絡先、交換してもいいですか」
「はい」
返事はすぐだった。僕が聞くまでに使った時間の方が長い。
白銀は連絡先の画面を開き、表示したコードをこちらへ向けた。読み取ると、短い音が鳴り、画面に名前が表示された。
白銀澪。
グループワークの用紙で知った名前が、今は連絡先の一覧にもある。
登録を終えると、メッセージが届いた。虚無のような顔をした何かが、手を振っている。先程ノートに描かれていたものと、少し似ている気がした。
「これって……」
「はい。確認です」
「あ、はい。届いてます」
「では、お願いします」
「はい。バイトが終わったら連絡します」
白銀は一度頷いた。
「無理に急がなくても大丈夫です。まだ時間はあります」
「白銀さんも、何か見つけたら送ってください」
「分かりました」
スマートフォンを鞄へしまう。
「では、平和を祈っています」
「ただのバイトですけど……」
「はい」
「……」
「では、また」
白銀は廊下の反対側へ歩いていった。冗談なのかどうかは、最後までわからなかった。
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そのあとも大学で講義を受け、夕方になってからバイト先へ向かった。バイト先は、大学から電車で二駅ほど離れた、駅前から少し外れた通り沿いにあるドラッグストアだった。
制服へ着替えて売り場へ出ると、夕方の客が増え始めていた。
「朝倉さん、今日もお願いします」
レジの近くで、村瀬が頭を下げた。僕より一つ年下の高校生で、働き始めてまだ二か月ほどだった。
「お願いします」
村瀬の身体に沿った輪郭は、いつもより細かく揺れていた。
緊張、だろうか。
「何かあった?」
「いえ。今日は店長がしばらく外に出ているらしくて」
「何かあったら呼んで」
「はい」
輪郭の揺れが、少しだけ収まった。
前なら、何を言えばいいのか迷っていた。大丈夫だと言うのは無責任な気がしたし、気にするなと言うのも違う。今は、必要な言葉が少しだけ選びやすい。
便利だ。
本当に、便利だと思う。
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問題が起きたのは、勤務が終わる一時間ほど前だった。レジの方から、大きな声が聞こえた。
「だから、買った時からおかしかったって言ってるだろ」
品出しの手を止める。村瀬の前に、中年の男が立っていた。片手にレシート、もう片方には開封済みの商品を持っている。
「申し訳ありません。開封済みの商品ですと、こちらでは――」
「不良品でも返品できないって言うのか?」
男の輪郭には、短く硬い尖りがいくつも浮かんでいた。苛立っている。そこまでは分かる。
村瀬の輪郭は身体へ張りつき、細かく震えている。僕はレジへ向かった。
「どうしました?」
男がこちらを見る。
「あんた責任者?」
「責任者ではありませんが、状況は確認します」
「責任者じゃないなら話にならないだろ」
男の輪郭が硬くなる。
「店長に連絡します。その間、こちらで話を聞きます」
「さっきから同じ説明しかされてないんだよ」
男は僕ではなく、また村瀬を見た。
「新人か? 話が全然通じないんだけど」
村瀬の輪郭が、さらに内側へ縮む。
男の輪郭には、最初の尖りとは噛み合わない揺れが混じっていた。
男の輪郭へ意識を絞る。
硬く尖った外周。その奥で、柔らかく膨らみ続ける部分が見えた。
相手が困るほど、機嫌がよくなっている。
そう見えた。
気持ちが悪い。
今までなら、外側の角しか見えていなかった。
白銀は近くにいない。
「朝倉さん?」
村瀬の声で我に返る。男の輪郭は、もう元の薄さへ戻っている。考えるのはあとにした。
「村瀬さん。店長へ連絡してきて」
「あ、はい」
村瀬がレジを離れる。男の視線が、その背中を追った。
「逃がすのか」
「確認に行ってもらいました」
「さっきから言い訳ばっかりだな」
「返品については、店長が判断します」
同じ説明を繰り返す。僕が声を荒らげないでいると、男の輪郭にあった膨らみが少しずつしぼんでいった。やがて、輪郭全体が薄く下へ垂れる。
「もういい」
男は商品を袋へ戻した。
「二度と来ないからな」
自動ドアが閉じる。
そうしてくれると助かります。口には出さなかった。
しばらくして、村瀬がバックヤードから戻ってきた。
「すみません」
「村瀬さんが謝ることじゃないよ」
「でも、対応できなくて」
「できてたと思う。相手が話を聞くつもりじゃなかっただけ」
張りついていた村瀬の輪郭が、少しだけ身体から離れた。まだ震えは残っている。
「こういうの、慣れますかね」
「慣れなくていいと思う」
「え?」
「慣れたら、それはそれで嫌じゃない?」
村瀬は目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「たしかに、嫌かもしれないです」
輪郭の震えが弱くなる。
「でも、少しびっくりしました」
「何が?」
「急に、下がるように言われたので」
「ごめん。でも、あのまま続けさせない方がいいと思った」
村瀬の手は、まだエプロンの端を掴んでいた。
「いえ、助かりました」
「店長が戻ったら、僕からも説明しておくから。少し休んで」
「でも、もう大丈夫です」
村瀬はレジへ戻ろうとした。
「店長が戻るまでは、奥で休んでて。レジは僕が代わるから」
戻りかけていた足が止まり、輪郭に残っていた震えがまた強くなる。
「……分かりました」
さっきの客を引きずっているのだと思った。
村瀬が奥へ下がる。
やはり、休んでもらったことは間違っていなかったと思う。
僕はレジに立ち、自動ドアの向こうを見た。男の姿はない。
鋭い角。時々膨らむ部分。最後に下へ垂れた輪郭。
怒っていた。怒っていたはずだ。
けれど、何に一番怒っていたのかまでは分からなかった。
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勤務終了の時間が近づき、レジを離れて閉店作業に回った。
店内は客も少なくなり、閉店前の静けさが広がり始めていた。
外から、低い音がかすかに聞こえた。
どこかで大きな車がアイドリングしているような、鈍い振動の混じった音だった。
その時。
耳の奥が、一瞬だけ詰まった。
「……」
周囲の音が薄い膜の向こうへ遠ざかる。
店内の作業音。
遠くの車の走行音。
誰かが棚を片付ける音。
全部が一度、遠くなり、すぐに戻った。
耳へ指を当てる。
痛みも、めまいもなかった。
今日は妙な客の相手もした。
疲れているのかもしれない。
少し立ち止まり、問題がないことを確かめてから、作業へ戻った。
それからしばらくして勤務を終え、バックヤードでエプロンを畳んだ。
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帰宅すると、ナギが玄関まで迎えに来た。
「ただいま」
低い声で鳴く。遅くなる日は、十九時に餌が出るよう自動給餌器を設定している。その皿は、きれいに空になっていた。
ナギの視線は、餌を置く棚へ向いていた。
「遅くなって悪かったって。追加は少しだけだから」
靴を脱ぐ前に、ナギが足元へ身体を擦りつけてくる。大きな身体に押され、少しよろけた。
餌を少しだけ足すと、ナギはすぐに食べ始めた。
机の前へ座る。時刻は二十一時を少し過ぎたところだった。提出まで、まだ時間はある。
パソコンを開き、白銀とのトーク画面を見る。
トーク画面には、講義室で届いた何かが、まだ無表情で手を振っていた。
その下には、白銀から何件かメッセージが届いている。
『趣味のコミュニティについての記事がありました』
続いて、リンク。
『ただ、これだけでは「広がった」の境目が曖昧です』
僕も検索する。趣味を通じた交流、オンライン上のコミュニティ、共通の関心を持つ人同士のつながり。
いくつか調べるうちに、使えそうな資料が見つかった。同じ趣味の投稿をきっかけに知り合い、コメントや情報交換を重ねることで、継続的な交流へ発展した例が紹介されている。リンクをコピーする。
『これも使えそうです』
ほどなく既読がつく。
『確認します』
返事が来たのは、数分後だった。
『使えると思います』
続けて、
『ただ、どこからを「広がった」とするかは決めた方がいいです』
画面を見ながら考える。同じ趣味の相手を見つけただけなら、知らなかった誰かを一人知っただけだ。
『一方的に知っただけではなく、相手にも自分を知ってもらうことを入れますか』
送った文の下に、既読だけが残った。やがて返事が届いた。
『はい』
その直後に、次の文が届いた。
『そのあともやり取りできるようになったことまで、入れた方がいいと思います』
互いに相手を知り、そのあともやり取りできるようになる。その言葉を課題の文章へ入れる。
二人で文章を整え、二十二時を過ぎた頃には提出できる形になった。
『この内容で提出します』
『お願いします』
僕はファイルをアップロードして、白銀に『提出しました』と送った。
すぐに、何かが深く頭を下げるスタンプが届いた。
『ありがとうございます』
それだけだった。提出は終わった。トーク画面を閉じれば、それで今日の用事も終わる。
閉じようとして、視線を横へ向ける。
いつの間にか、ナギがベッドへ上がり、黒い背中を丸めて毛づくろいをしていた。外側の黒い毛が動くたびに、その奥の白に近い灰色が少しだけ見えた。
昨日、白銀が画面を拡大しながら見ていたところだった。
毛づくろいの途中で、顔だけがこちらを向いている。
スマートフォンを向け、一枚撮る。
送信欄を開く。
一度、画面を閉じる。
ナギは気にせず毛づくろいを続けている。
もう一度、トーク画面を開いた。
『ついでに今日のナギです』
送信すると、すぐに既読がついた。
『大きいです』
続けて、もう一件届く。
『凛々しくて、とてもいいアングルです』
さらに、もう一件。返事が止まらない。
『守り猫みたいですね』
守り猫。
聞き慣れない言葉だった。
『守り猫?』
少しして、返事が届いた。
『なんとなく、そう思いました』
ナギは、ただ毛づくろいをしているだけだ。それでも、白銀が言うと少しだけそう見えた。
『もう一枚ありますか』
口元が緩む。
椅子から立ち上がると、ナギが迷惑そうにこちらを見た。
「もう一枚だけ」
伝わるはずもない断りを入れ、カメラを向ける。今度は横顔だった。琥珀色の目が半分だけ開いていて、こちらを許しているような、許していないような顔をしている。
送信。すぐに既読がつく。
『少し嫌そうです』
画面に次のメッセージが現れた。
『二枚とも保存しました』
ナギが褒められるのは嬉しい。もっと送りたいが、さすがに何枚も送るのは重いだろう。
自重しよう。
そう思った瞬間。
『またお願いします』
追加のメッセージが届いた。
ナギを見る。当の本人は、もうこちらに興味をなくし、毛づくろいへ戻っていた。
……。
たぶん。
明日も撮る。




