3話 無意識
白い花の中にいた。足元で花が揺れ、走ると膝に当たった。
身体が軽い。
少し先を、黒い毛並みが横切った。追いかけると、黒い猫は花の中を大きく跳ねた。
長い尻尾へ手が届きそうになる。けれど、触れる直前に尻尾がするりと逃げた。
黒い猫は少し離れたところで足を止める。こちらを振り返り、尻尾の先だけを揺らしていた。
もう一度近づくと、今度は急に向きを変え、すぐ横を駆け抜けていった。
振り返ると、黒い背中が花の間で跳ねている。あとを追う。
追いつきそうになるたびに、猫は横へ逃げたり、こちらの後ろへ回ったりした。何度目かに手を伸ばすと、黒い猫はその場でくるりと向きを変えた。
琥珀色の目が、こちらを見下ろしながら細くなる。
そこで目が覚めた。
ナギがこちらを見ていた。ベッドの端に座り、動かずにこちらを見下ろしている。
どんな夢だったか思い出そうとしたが、もう曖昧だった。楽しかった気がする。それだけが残っていた。
一限目の講義へ向かうため、いつもより早く部屋を出た。
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「朝から速いな」
講義棟へ向かう途中、後ろから声をかけられた。振り返ると、高橋が離れたところを歩いていた。片耳にはワイヤレスイヤホンが入っていた。
「何が?」
「歩くの。急いでる?」
「別に」
足を緩めると、高橋が隣まで追いついた。
「講義まで、まだ十分以上あるぞ」
言われてスマホの時刻を見る。確かに、急ぐような時間ではなかった。
「高橋が遅いだけじゃない?」
「俺はいつも通り」
「じゃあ、僕が速かったのかも」
「珍しく素直だな」
「うるさい」
高橋が笑った。
高橋とは、大学に入ってすぐ知り合った。同じ講義がいくつか重なっていて、顔を合わせるうちに話すようになった。
まだ長い付き合いではないが、遠慮する必要がない程度には一緒にいる。
「で、朝飯食った?」
横から高橋が聞いてきた。
「なんの、で、だよ。まあ、食べた」
「何食った?」
「その情報いる?」
「会話を続けようとしただけだろ」
「下手くそか」
「お前に言われたくない」
そんな話をしているうちに、講義室へ着いた。扉を開けると、中はまだ半分ほどしか埋まっておらず、前の方では何人かが雑談している。
開いた窓から、低いエンジン音がかすかに聞こえていた。前方の話し声に紛れ、すぐに意識から外れた。
僕はいつものように、後方の窓側の列へ向かった。高橋もついてくる。
「そこ、座るの?」
高橋が隣の椅子を引いたところで、思ったより先に声が出た。
「ん、駄目?」
「いや、駄目ではないけど」
「さっきの会話、続けようと思って」
「もう終わってたよ」
「じゃあ今から別の話する」
そう言って、高橋は僕の隣へ腰を下ろした。僕も席に座り、鞄からノートを取り出す。隣では、高橋がスマホを見ていて、話をする様子はない。
「別の話は?」
「まだ考えてる」
「見切り発車すぎるだろ」
いつもと大して変わらない。ただ、高橋が隣にいる。
「何?」
スマホを見たまま、高橋が言った。
「何が」
「さっきから、こっち見てるだろ」
「見てない」
「じゃあ、何で座るのか聞いたの」
返す言葉を探しているうちに、高橋がスマホから顔を上げた。
「誰か待ってる?」
「待ってない」
「じゃあ、いいだろ」
待っていないと言った手前、断れなかった。僕はノートへ視線を落としたが、書くことはまだ何もない。
しばらくして講義室の扉が開き、顔を上げる。何人かの学生に混じって、白銀が入ってきた。
白銀と目が合った。白銀が小さく会釈したので、僕も軽く頭を下げる。
白銀はこちらへ歩いてきた。けれど、僕の隣に高橋が座っているのを見ると、わずかに足を緩めた。視線が、僕の隣から一つ後ろの空席へ移る。
「白銀さん」
気づけば、名前を呼んでいた。白銀が足を止め、高橋もこちらを見る。
けれど、呼び止めた後の言葉が出てこない。高橋へ席を移ってほしいとは言えなかった。
高橋は僕を見て、それから白銀へ視線を移した。
「ああ」
高橋が椅子を引いて立ち上がる。
「俺、向こう行くわ」
「別に、移らなくても」
白銀は後ろの席へ半歩向きを変えた。
「いえ、私が後ろに座ります」
「俺の席、もともと向こうだから」
高橋は通路を挟んだ席を指し、鞄を持ち上げた。白銀が何も言わないうちに、通路の向こう側へ移っていく。
白銀は後ろへ向けていた身体を戻し、空いた席を確認してから僕を見た。
「こちら、座ってもいいですか」
「あ、どうぞ」
「ありがとうございます」
白銀は僕の左隣、窓寄りの席へ座り、高橋へ小さく頭を下げる。
「すみません」
「俺が勝手に座ってただけだから」
白銀は高橋が移った席を一度見てから、僕の方へ向き直った。
「朝倉さんも、ありがとうございます」
「僕は名前を呼んだだけですけど」
「はい。それでもです」
白銀はノート、ペンケース、講義資料を、この前と同じ順番で机の上へ並べていく。隣に座ってから、室内に重なる輪郭が普段より濃くなっていた。
前方で話す学生たちの輪郭は柔らかく膨らみ、その奥で机に伏せた学生のものは下へ垂れていた。
この前と同じだった。白銀が近くにいると、輪郭は一段濃くなる。
そう考えた時、冷たいものが左の頬に触れた。
首筋へ滑ったと思った瞬間、左手の甲が冷えた。そちらへ意識を向ける前に、今度は背中を何かが横切る。
息を詰めた。冷たさは消えない。
右腕をなぞり、肩へ移る。そこまで追った時には、もう頬へ戻っていた。
次にどこへ触れるのか分からない。確かめるより先に場所が変わり、その間隔がなくなっていく。
やがて、冷たさは通り過ぎなくなった。途切れていた感覚が身体の表面でつながり、肌を包むように残った。
背筋がこわばり、呼吸が浅くなる。
全身を包んでいた冷たさが、少しずつ左側へ寄っていく。肩から首筋を上り、最初に触れた頬の一点へ集まった。
次の瞬間、感覚は消えた。
僕は反射的に身体を引いた。椅子の脚が床を擦り、短い音を立てる。
大きく息を吸った。
隣で、白銀が資料をめくる手を止めていた。
机の下で指を握る。手のひらには汗がにじんでいた。冷たい感覚はもう残っていない。それでも、鼓動だけはまだ速かった。
周囲では先ほどまでと変わらず話し声が続いている。開いた窓のカーテンも、ほとんど動いていなかった。
「朝倉さん?」
白銀がこちらを見ていた。
「白銀さん、今のは……」
「今の?」
「……いえ、なんでもないです」
白銀は僕の顔から、机の下で握った手へ目を移した。
「なんでもないようには見えません。今の、というのは何ですか」
「本当に、なんでもありません」
白銀は隣に座っているだけだ。少なくとも、何かをしたようには見えなかった。それでも、彼女が隣に座った直後だった。
「様子が変ですよ。体調が悪いなら、講義を休んだ方がいいと思います」
「……大丈夫です」
自分でも、大丈夫には思えなかった。
白銀は講義資料を開いたまま、こちらから視線を外さなかった。けれど、それ以上は尋ねてこなかった。
通路の向こうから、高橋がこちらを見ていた。
「何」
「いや、大丈夫か?」
「大丈夫」
「……ならいいけど」
高橋もそれ以上聞いてくることはなかった。一度スマートフォンへ目を戻した。
「そういや、お前、席こだわるタイプだっけ」
「急に何?」
「いや。今日のお前、不自然すぎるだろ」
「別に普通だと思うけど」
「俺が隣に座ったら気にするし、白銀さんが来たら呼び止めるし」
言葉に詰まる。
高橋の輪郭が、柔らかく外へ膨らんでいた。
「前は、俺が隣に座っても何も言わなかったのに」
周りを見ることは確かに増えた。以前より見えるものも増えたが、それを高橋に話すつもりはない。
「慣れじゃない?」
「大学に?」
「人に、かも」
高橋が眉を上げる。
「まあ、前より話しやすくはなった」
「それ、褒めてる?」
「一応」
高橋にしては素直な返事だった。
「あ! そういえば、俺、高橋」
高橋が白銀へ声をかけると、白銀はノートから目を離した。
「白銀です」
「知ってる。さっき朝倉が呼んでたから」
「そうでしたね」
「知り合ったの、最近?」
「昨日」
僕が答えると、白銀がこちらを見た。
「最初に話したのは、一昨日の講義です」
消しゴムを拾った時のことだろう。
「でも、話したって言っても、消しゴムを拾っただけですよね」
「それでも、話しています」
「⋯⋯確かにそうですね」
なぜか僕が折れる形になった。高橋が何か言いたそうにこちらを見ていた。
「何だよ」
「いや、別に」
明らかに別にではなかった。講義開始まで、まだ数分ある。
僕は息を吐いた。高橋の言葉をどう受け取ったのかは分からない。白銀はノートへ目を戻し、余白にペンを走らせていた。
「朝倉」
「何」
「白銀さんのこと、気になってる?」
「気になってない」
考えるより先に声が出た。隣で、紙を走る音が止まった。
「即答だな」
「違うから」
「でも、来る前から隣を気にしてたし、来たら呼び止めた」
「それは……」
気になっている理由を、二人の前で言えるはずがなかった。
「気になってるじゃん」
「聞こえています」
白銀が静かに言い、高橋がそちらを見る。
「悪い」
「いえ」
白銀はノートを閉じずに、こちらへ向いた。
「私も気になります」
「白銀さんまで、高橋の話に乗らなくていいです」
「乗っていません。一昨日から朝倉さんは私のことをずっと見てきています」
「言わないと駄目ですか」
「私のことなので」
白銀からだけは何も見えない。近くにいると輪郭の見え方が変わり、その直後には冷たさまで現れた。気にならないはずがなかった。
けれど、それをそのまま言えば、白銀を疑っているようにしか聞こえない。本人も何も知らないように見えた。少なくとも、今ここで聞くことではない。
「……深い考えはないです」
これが限界だった。気になっているとだけ言えば、高橋の言う意味にしか聞こえない。
数秒して、白銀が口を開いた。
「深い考えはないのに、何度も見ていたんですか」
「……はい」
「……とりあえず、分かった、ことにします」
白銀はそのままノートへ戻った。何が分かったのかは、聞けなかった。
最悪だ。何をしても高橋に拾われそうで、早くチャイムが鳴ってほしい。
通路の向こうでは、高橋の輪郭がまだ柔らかく膨らんでいた。それに比べて、隣だけはやはり何もない。近くにいるのに、そこだけ妙に静かだった。
チャイムが鳴り、教授が講義室へ入ってきた。高橋は片耳のイヤホンを外さないまま、前を向く。僕はスマートフォンを机の下で開き、メモへ日付と時刻を入れた。
今日。講義室。白銀が隣に座った直後。冷たい感触。白銀との関連不明。
書き終えて画面を閉じ、スマートフォンをポケットへ戻した。
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講義が終わり、教授が資料を閉じた。僕はノートとペンケースを鞄へ入れ、ファスナーを閉める。
その直後、窓側で激しい羽音がした。開いていた窓から、小さな鳥が入り込んでいた。
天井近くを飛び回る身体を囲む輪郭は、硬く縮んでいる。数人の学生がスマートフォンを持ち上げ、開いた扉の向こうにも、こちらへ向けられたスマートフォンが見えた。
鳥を追っていた視界の端で、白銀が席を立った。もう隣の窓へ手をかけている。
「白銀さん、その窓だけ開けて、ほかはカーテンで隠しましょう」
言って、僕と高橋も窓際へ向かった。明るい出口を一つだけ残すと、鳥はそこから外へ飛び出していった。
三人で窓とカーテンを元に戻し、席へ戻る。高橋は鞄を肩に掛けた。
「朝倉、俺、先行くわ」
「分かった」
出口の近くで男子学生が高橋に手を上げた。高橋も片手を上げ、そちらへ歩いていく。
「それ、撮ってたのか」
高橋の少し大きな声に目を向けると、待っていた男子学生がスマートフォンを手にしていた。二人はそのまま講義室を出ていった。
僕の机には、閉じた鞄だけがあった。白銀は席に着き、残ったものをしまい始める。
僕はスマートフォンを取り出した。通知はなかったが、そのまま画面を閉じずにいた。
隣で紙が擦れる音がして、画面から目を上げる。白銀がノートを閉じるところだった。
講義の内容とは関係のない線が、いくつも重なっていた。白銀の手が止まる。
「何か?」
「いえ」
視線を外すと、白銀はノートを閉じ、残りの道具と一緒に鞄へしまった。
僕は手元の画面へ目を戻した。通知は増えていなかった。
スマートフォンをポケットへ戻し、鞄を手に立ち上がる。二人分の椅子を引く音が重なった。
講義室の出口へ向かいながら、頭に残っていたのは、閉じられる直前に見えた絵だった。
丸い顔。尖った耳。長い尻尾。
身体は横向きで、顔だけがこちらを振り返っている。足元には、いびつな丸がいくつも並び、それぞれから短い線がばらばらの方向へ伸びていた。
……猫と…………なにか。
白銀に絵心はなかった。




