2話 動かないでください
翌日、別棟の「情報社会とコミュニケーション」の講義室へ入った。
講義室は昨日とは別だったが、長机の並びはよく似ている。後ろの窓側にある四人掛けは、今日は空いていた。昨日とは違い、いつもどおり窓側から三番目に座る。
冷房の風が汗ばんだ首筋に当たった。風が直接当たらない位置まで、椅子を少しずらす。
前方で笑っている学生へ目をやる。身体に重なる輪郭は、普段どおりぼやけていた。
ノートへ視線を落とし、日付を書きかけたところで、視線を外したはずの輪郭が視界の端に残っていることに気づいた。さっきより、わずかに濃い。
違和感に顔を上げると、肩までの黒髪と、灰色の瞳が目に入った。昨日、同じ長机に座っていた彼女が、僕の机の横に立っている。
彼女の唇が開きかけたまま止まった。それから、何事もなかったように口を開く。
「おはようございます、朝倉さん」
名前を呼ばれ、挨拶より先に疑問が出た。
「僕の名前、知っていたんですか」
「はい。同じ講義の出席確認で、何度か呼ばれていたので」
「ああ」
彼女の名前も同じように呼ばれていたはずだが、僕は覚えていなかった。
通路側には空席がいくつも残っている。彼女はその前を通り、僕のいる長机の窓側で足を止めた。
「ここ、いいでしょうか」
「あ、はい。どうぞ」
彼女は軽く頭を下げ、一番窓側の席へ向かった。昨日と同じように、端へ座るのだと思った。
けれど、彼女は一番窓側の席へ鞄だけを置き、僕のすぐ横の椅子を引いた。
椅子の背が机の下へ戻り、肩の間にあった空間が狭まった。
昨日、席のことを聞いたせいだろうか。あれを、近くに座ってほしいという意味に取られたのかもしれない。けれど、僕は彼女が次も同じ席に座るのか知りたかっただけだ。
一人で戸惑っている間にも、彼女は鞄からノートとペンケース、講義資料を取り出し、机の上で端を揃えた。
準備を終えた彼女がこちらを向く。灰色の瞳は僕の顔を捉えたあと、肩の一点へ落ちた。
「朝倉さん、ペット、飼っていますか」
「……え?」
「動かないでください」
彼女が隣から身を寄せる。灰色の瞳が思ったより近くまで来て、反射的に顔を前へ戻した。
意識を向けていないはずの学生たちに、輪郭が勝手に浮かんだ。普段より濃く、その縁にある細かな震えや、小さな尖りまではっきり見える。目を逸らしても、別の輪郭が入り込んでくる。こめかみの奥に鈍い痛みが走った。
彼女の指が、僕の肩から何かを摘まみ取った。
「毛がついていました」
彼女が身体を離す。指先には、先が黒く、根元の白い長い毛が挟まっていた。周囲の輪郭から、さっきまでの鮮明さが失われていく。
「大丈夫ですか」
「はい。大丈夫です」
頭の痛みは薄れ始めている。昨日は指先が触れた瞬間に変わった気がしていたが、今日は彼女が机の横に立った時点で、輪郭がすでに濃くなっていた。
触れたかどうかではなく、彼女との距離で見え方が変わるのかもしれない。
そう考えたところで、彼女の指先に挟まれた毛が目に入った。
「それ、たぶんうちの猫のです」
「猫」
彼女の視線は、指先の毛へ戻った。
「写真はありますか」
「猫、好きなんですか?」
「はい。かなり」
スマートフォンを取り出すと、ナギの写真は探す必要がないほど入っていた。目についた一枚を選び、画面を向ける。
床の上で長く伸びている写真だった。横に置かれた座布団より、伸びた身体の方が長い。
「名前はナギです」
「ナギ」
彼女が画面へ身を乗り出す。前方で頬杖をついている学生へ目を向けると、輪郭は濃くなったが、毛を取られた時ほど鮮明にはならなかった。
やはり、接触だけが原因ではない。距離も関係しているようだが、それだけでは説明がつかなかった。
視線を戻すと、灰色の瞳がすぐ近くにあった。僕は反射的にスマートフォンを差し出してしまった。彼女は両手で受け取る。……渡すつもりはなかった。
「大きいですね」
「大きさ的には、メインクーンとかだと思います。毛を含めると、大きめの犬に見えるくらいです」
彼女は画面を見つめたまま、なかなかスマートフォンを返さない。画像の中の琥珀色の目は、迷惑そうにカメラを見ていた。
そのまま遠慮なく画面を拡大し、毛並みを確認する。
毛並みが画面いっぱいになる。黒に近い長い毛の隙間には、白に近い灰色の根元が覗いていた。
「……黒いのに、中が明るいんですね」
彼女は画面から目を離さない。唇がわずかに動き、声が口の中へ落ちた。
「……大きいもふもふ」
「え?」
拡大していた指が止まった。
「今、大き――」
「言っていません」
「……聞こえましたけど」
「そうですか?」
彼女は僕を見ないまま、ナギの顔が映るところまで写真を縮小する。そこで講義開始のチャイムが鳴った。
彼女は画面を消してから、スマートフォンを差し出した。
「すみません。長く見てしまいました」
「いえ」
スマートフォンを受け取った。彼女はもう前を向き、ノートを開いている。
彼女の輪郭は相変わらず見えない。それでも、ナギへの反応はわかりやすかった。
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講義の途中で、教授が資料を机へ置いた。
「では、ここからはグループワークに入ります。二人一組で、隣同士でも構いません」
あちこちで椅子が動き、学生たちが近くの席へ寄る。横を見ると、彼女もこちらを見ている。先に口を開いたのは僕だった。
「他に組む人、決まっていますか」
「いえ。まだです」
「じゃあ、その」
昨日は次の席を聞き、今日は同じ組に誘おうとしている。馴れ馴れしい気もしたが、今は二人組を作る時間だ。
「……よかったら、一緒にやりますか」
彼女は二人の間へ資料を寄せた。
「はい。お願いします」
返事を聞いて、肩から力が抜けた。彼女は僕が言葉に詰まったことを気にした様子もなく、資料を開いている。
「お願いします」
配られた用紙へ目を落とす。上部には名前を書く欄が二つある。先に自分の名前を書き、ペンを渡す。
朝倉朔也。
その隣へ、彼女が整った文字を並べた。
白銀澪。
「朝倉さん」
「はい」
「朔也、と書いて、さくやと読むんですか」
「そうです。あさくらさくやです」
今度は、僕が右側の名前を見る。
「しろがね、で合っていますか」
「はい。しろがねみおです」
光を受けて銀色を帯びた瞳と、左手首の腕輪が一瞬だけ頭に浮かんだ。偶然にしては、少し似合いすぎている名字だった。けれど、名前について尋ねるのも変な気がして、僕は紙へ目を落とした。
朝倉朔也。
白銀澪。
二つの名前が、同じ紙の上に並ぶ。白銀はもう資料へ目を落としていた。
「課題を読みましょう」
僕は用紙を二人の間へ戻した。
「そうですね」
テーマは、『SNSは人間関係を広げるか』。どこへ線を引けばいいのかも分からない文章だった。
「どうしますか」と白銀が尋ねた。
「僕は、正解がないものは苦手です」
「私は逆です」
「逆?」
「正解がある方が苦手です」
「どうしてですか」
白銀は課題文へ目を戻した。
「間違えるので」
笑いが漏れ、白銀の眉が寄る。
「すみません」
「なぜ笑ったんですか」
「冗談なのかと思って」
「本当のことです」
「そうですよね。すみません」
白銀は資料の一文へ線を引いた。読み進めるうちに、彼女のノートには要点が短い言葉で並んでいく。僕の方では、書きかけた矢印が行き先を失っていた。
「白銀さん、まとめるの、上手いですね」
「そうでしょうか」
「少なくとも僕よりは」
白銀は二冊のノートを見比べた。数秒の沈黙。
「……ごめんなさい」
「なぜ謝るんですか」
「その……思ったより大変そうだったので」
「大変そうですか」
「はい」
白銀は僕のノートから目を逸らさなかった。
少しは否定してほしかった。
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「残り十分です」
教授の声が響いた。
僕は時計へ目をやった。
「そろそろまとめますか」
「そうですね」
白銀がノートをこちらへ向ける。僕の意見も入れながら、結論まで整理されていた。
「人とつながるきっかけにはなると思います」
白銀はそう言って、最後の一文を書く。
『SNSは人間関係を広げる』
「広げる側なんですね。理由は?」
白銀のペン先が止まった。
「猫ですね」
飛躍しすぎていて、取っ掛かりすら見えない。
「SNSがなければ、見られない猫がいます」
「それは人間関係ではないですよね」
「でも、猫との出会いです」
「会っていませんよね」
「会わなくても好きになることはあります」
「猫ですよね?」
「猫です」
話が戻ってこない。
「画面越しに見ているだけなら、遠くから眺めているだけというか。それでも、広がったことになりますか」
白銀は書きかけの一文を残し、資料を二人の間へ向けた。
「遠くても、知る前よりは近いと思います」
「見ただけでも?」
「はい。少なくとも、もう知らなかった頃には戻れないので」
猫の話なのか、課題の話なのか分からなくなってきた。
「それは、人間関係なんですか」
「分かりません。だから課題なんだと思います」
正論、なのだろうか。
「でも、画面越しだと触れませんよね」
白銀がこちらを見る。
「それはそうです。会わないと、毛はつきません」
白銀は『広げる』の下へ、もう一本線を引いた。
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「発表する人を決めてください」
教授の声がした。僕と白銀は顔を見合わせる。
「……」
「……」
黙っていても発表者は決まらない。僕から口を開いた。
「白銀さん、発表は得意そうですけど」
「苦手です」
少しくらい迷うかと思ったが、返事は早かった。
「でも、字も綺麗ですし」
「関係ありません」
「レディーファーストって言いません?」
「使い方を間違っていると思います」
「白銀さんは、人前でも平気そうに見えますけど」
「平気ではありません」
一つずつ逃げ道を塞がれている気分だった。白銀はペンを机へ置き、両手を膝の上へ下ろした。
「何人もの視線が一度に向くのは、慣れていません」
指先が、膝の上できちんと揃っている。真面目そうで落ち着いているから、そういうことも得意なのだと思っていた。
僕も得意ではない。白銀も得意ではない。けれど、どちらかがやるしかなかった。
「では、どうしますか」
できれば、じゃんけんで決めようと言ってほしかった。
「朝倉さんで」
そうはならなかった。僕は小さく息を吐く。
「分かりました。僕がやります」
「本当ですか」
膝の上に揃えていた指をほどき、白銀は続けた。
「大丈夫です」
「何が大丈夫なんですか」
「死にはしません」
励まされているはずなのに、あまり安心はできなかった。
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順番が来る。資料を持って立ち上がると、前へ出るほど心臓の音が近くなった。
読み始める前に講義室を見渡すと、こちらを見ている学生は半分ほどだった。手前の一人へ目を向ける。輪郭は薄く、椅子の影へ沈むように滲んでいる。
次に見た教室の奥の学生は、輪郭まで机へ沈み込ませている。そのまま一人ずつ目を移すと、形はそれぞれ違っていても、どれも柔らかかった。そう考えると、呼吸が楽になった。
白銀だけが、まっすぐこちらを見ていた。輪郭はない。何を考えているのかは分からない。
それでも、目を逸らしていないことだけは分かった。僕は資料の最初の行を読み上げた。
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席へ戻ると、白銀は発表用の資料を受け取った。
「ちゃんと聞いていましたよ」
発表をこちらへ押しつけた本人にそう言われ、返事に迷った。
「……ありがとう」
結局、そんな当たり前の言葉しか出てこなかった。
白銀は用紙を二人の間へ戻した。
全員の発表が終わると、教授が課題用紙を前へ回すように言った。
「用紙は前へ回してください。コメントがついたものは、次回修正して再提出してください」
白銀は用紙を前の席へ回し、残った資料を鞄へしまった。その拍子に、折り畳んだ紙の時間割が覗く。
明日の欄に、見覚えのある講義名があった。対人コミュニケーション論。
顔を上げると、白銀と目が合った。
「すみません」
白銀は時間割を取り出した。
「対人コミュニケーション論ですか」
僕が尋ねると、白銀は時間割へ目を落とした。
「はい。朝倉さんも取っていますよね」
「知っていたんですか」
「この講義のほかに、二つあります。どれも前から一緒です」
「そうなんですか。僕は昨日まで、白銀さんを見た覚えがありません」
「私は何度か見ています。朝倉さんは、いつも後ろの方に座っていますよね」
同じ講義が三つもあったのに、僕は白銀を見落としていたことになる。ここまで重なると、輪郭が見えないことも、近くにいると見え方が変わることも、偶然とは思えなかった。
白銀は畳みかけた時間割へ指を置いたまま、僕を見た。
「昨日、私が前からいたか聞きましたよね」
「はい」
「今日は、声をかける前に振り向いて、すぐに私だと分かりましたよね」
声をかけられる前に振り向いたのは、輪郭が濃くなったからだ。けれど、それを話すわけにはいかない。
「昨日、消しゴムを返した人だと覚えていたので。たまたま目に入ったんだと思います」
「そうですか」
白銀は時間割を開き直し、明日の欄へ目を落とした。
「朝倉さんは、明日も後ろの窓側に座りますか」
「そのつもりです」
「次も、隣に座ってもいいでしょうか」
「はい」
返事は考えるより先に出た。
白銀は時間割を元の折り目に沿って畳み、窓際の席に置いた鞄へしまった。持ち手をつかんで立ち上がると、こちらを向いた。
彼女が口を開くより先に、今度は僕から言った。
「では、また明日」
「……はい。また明日」
白銀は鞄を手に、教室を出ていった。
前の席で、学生が立ち上がる。目を凝らしていないのに、その輪郭が見えた。




