1話 指先に残ったもの
胸の重さで目が覚めた。
「……重い」
目を開けると、琥珀色の目が、すぐ近くから僕を見下ろしている。
ナギだった。
冬ならありがたい長い毛も、今は暑いだけだ。
カーテンの隙間から落ちる光が黒に近い毛並みを照らし、その外側には、ひと回りなぞるような薄い輪郭が浮かんでいた。目を凝らすと、ようやく線を追える。ところどころが滲み、短い尖りも混じっている。ナギが見ているのは、餌の棚だった。
「わかった。起きるから」
目元をこすると、指先が濡れた。夢を見ていた気はするが、思い出そうとしても何も残っていなかった。
それ以上考えるのをやめ、身体を起こそうとする。けれどナギは動かず、大きな身体を遠慮なく僕の胸へ預けていた。
「ご飯だろ」
もう一度身体に力を入れると、ナギはようやくベッドから降りた。大きな背中が、そのまま床を横切っていく。
餌を用意すると、輪郭の張り出しが緩み、毛並みの近くへ戻る。尖りだけは、まだ残っていた。
「まだ何かあるのか」
餌を食べ終えたナギは窓の前へ座り、閉じたカーテンを見上げた。
「そっちか」
カーテンを開けると、朝の光が部屋へ入る。ナギは窓際へ上がり、身体を伏せた。残っていた尖りも、今度こそ消えていく。
背中を撫でると、首元の編み目が指に軽く引っかかる。深い藍色の首輪は長い毛に埋もれ、斜めに走る銀だけがところどころ覗いていた。
「最初から窓って言えよ」
ナギは外を見たまま、尻尾だけを一度動かした。言ったつもりなのかもしれない。
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大学へ着くと、講義棟の入口に、案内図とスマートフォンを見比べている学生がいた。肩の近くに浮かぶ薄い線は、細かく揺れている。
焦っているように見えるが、理由までは分からない。余計な口出しかもしれないと思いながら、声をかけた。
「何か探していますか」
学生は驚いたように振り返った。
「三号館って、こっちで合っていますか」
「合っています。このまま外に出て右です」
「あ、ありがとうございます」
入口を出ていく背中では、さっきまでの揺れが収まっていた。
以前なら、余計なことかもしれないと思った時点で、そのまま通り過ぎていた。礼を言われ、少なくとも声をかけたことは見当違いではなかったらしい。
僕にとって輪郭は、踏み出していい理由を探すための手がかりだった。
講義室へ入ったのは、開始五分前だった。
一般教養の講義は、後ろ半分に空席が目立つ。
僕は後ろから二列目、窓側のいつもの長机へ向かった。四席のうち、座るのは窓側から三番目。通路側の席へ鞄を置いておけば、空席の多いこの講義では、たいてい長机を一人で使えた。
今日は、一番窓側に見覚えのない女子学生が座っている。僕の席との間には、一つ空いていた。
彼女はノートにペンを走らせ、ペンケースと講義資料を、開いたノートの端に揃えていた。机の上だけが、先に姿勢を正しているみたいだった。
そのまま近づきながら、黒い髪から肩、机に置かれた袖口へと目を移す。いつものように、その外側へ視線をずらした。
机まであと数歩のところで、足が止まった。
彼女はノートの行末まで書き、こちらを振り向く。その途中、黒い前髪の隙間に覗いた瞳が、斜めから差す窓明かりを映して銀色に見えた。こちらを向ききるころには光が外れ、前髪の影から、たれ気味で眠そうにも見える灰色の目が僕を見た。
「何かついていますか」
彼女が首を傾ける。
肩で揺れた髪の縁から肩へ、肩から袖口へと、もう一度目で追った。
そこにあるべきものは、どこにもなかった。
彼女には、輪郭がなかった。
一度、目を逸らした。それから、もう一度見る。
やはり、ない。
近くの席へ目を向けた。前の学生にも、その隣にも、いつも通り薄い輪郭が浮かんでいる。
もう一度、彼女を見る。
何もなかった。
そんなことがあるのか、と考える。
これまで見た人間には、例外なくあった。
今は、見つめていたことを嫌がられたのか、それさえ判断できなかった。
「あの、どうかしましたか」
「いえ、なんでもないです。すみません」
別の机へ移れば、見つめたうえに避けたように見える。かといって、いつもの席へ座る気にもなれなかった。
僕は同じ長机の通路側の端へ座り、鞄を足元へ置いた。彼女との間には、空席が二つある。
気にはなったが、これ以上見続けるわけにもいかない。動く気配がしても、顔を向けなかった。
講義が終われば、彼女も席を立つ。それまでのことだ。
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講義の途中で室内の照明が落ち、スクリーンへ教授の資料が映る。靴の側面に何かが当たった。足元を見ると、暗い中でも白い消しゴムが転がっているのが見えた。
顔を上げ、彼女の机へ目をやる。見える範囲に、消しゴムはない。彼女のものかもしれない。
拾い上げたときには、教授が説明を始めていた。彼女はスクリーンを見ている。空席二つを挟んでいるため、手を伸ばしても届かない。声をかけるのもためらわれ、講義が終わってから返すことにして、ノートの脇へ置いた。
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講義終了のチャイムとともに教授が資料をまとめ、照明が戻る。教室の空気が緩む中、僕は消しゴムを手に取った。
立ち上がり、空いた二席の後ろを通る。彼女の斜め後ろで足を止めた。
「あの。これ、落としましたよ」
振り向いた彼女は小さく頭を下げ、右手を伸ばす。受け取る指先が、僕の指に触れた。
その瞬間、講義室の景色が変わった。
普段なら一人ずつ目で捉えなければ浮かばない輪郭が、一斉に鮮明になり、視界へ押し込んでくる。
「っ……」
息が詰まり、反射的に手を引いた。こめかみの奥が脈打つ。
前方の学生の輪郭には、小さな尖りがいくつも浮いていた。見ようとしなくても、その一本一本まで目に入る。視界の端を別の輪郭が横切り、反射的に追った。
開いた扉の向こうを、誰かが歩いている。その人のまわりまで、見えた。
目を置く場所がない。
耐えきれず、彼女を見た。
消しゴムを持ったまま、こちらを見ていた。周囲の輪郭だけが鮮明になり、すぐ近くにいる彼女との違いまで、嫌でも目に入った。
「どうかしましたか」
半歩だけ後ろへ下がった。
「少し目が痛くなって。もう大丈夫です」
言い終わる頃には、鮮明だった線も薄れ、目を凝らしてようやく追える、いつもの濃さへ戻っていた。
返事はすぐには来ない。
「そうですか」
消しゴムをペンケースの中央へ戻した。
「消しゴム、ありがとうございました」
「いえ。すぐそこに落ちただけですから」
「それでも、これがないと困るので」
「そんなにですか」
「間違えた場所が残っていると、あとでそこばかり見てしまいます」
僕なら、二本線で消したことにする。そこまで気になるものなのか。
返す言葉が見つからず、僕は自分の席へ戻った。ほんの数歩を歩くあいだも、周囲の輪郭が一斉に鮮明になった瞬間が頭から離れない。こめかみの奥を走った痛みまで、まだはっきり覚えている。大学へ入って輪郭が見え始めてから、誰かに触れて見え方が変わったことは一度もなかった。
空席二つを挟んだ向こうで、彼女が帰り支度を始めた。ペンケースを閉じ、鞄へ伸ばした左手の袖口から、銀色の腕輪が覗いた。
このまま帰られたら、あの変化が彼女と関係あるのか、確かめようがなくなる。
「あの、前から、この講義を受けていましたか」
ペンケースを持ったまま、彼女がこちらを見た。
「はい。前期の最初からです」
前期はもう半ばを過ぎている。その間、何度も同じ教室にいたことになる。
「すみません。見覚えがなくて」
「よくあるので、気にしないでください」
灰色の瞳をした彼女が、目立たないなんてことはあるのだろうか。物静かなせいかもしれない。
それでも今は、輪郭の欠落の方が彼女の存在を主張していた。
同じ講義を受けているだけでは、次も話せるとは限らない。
彼女はペンケースを鞄へ入れてファスナーを閉じ、持ち手へ手をかける。立ち上がりかけたところで、僕は呼び止めた。
「あの……。次も、その席に座りますか」
口にしてから、ひどく馴れ馴れしい質問だったと気づいた。
「……どうしてですか」
問い返されて、言葉に詰まった。輪郭がない理由も、あの変化の原因も知りたかった。どちらも説明できる話ではない。
「その……すみません。今のは忘れてください」
彼女は自分の席へ目を落とした。
「空いていれば、座るかもしれません」
彼女は鞄を持ち上げ、僕の後ろを通って通路へ出た。
「では、また明日」
明日。
聞き返そうと振り返った時には、彼女はもう出口へ向かっていた。
この講義が次にあるのは、一週間後だ。僕は席に残ったまま、彼女が出口を抜けるまで見送った。
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帰宅すると、ナギが玄関まで迎えに来た。
「ただいま」
ナギは低く鳴き、また餌の棚を見た。夕食にはまだ早いが、ナギには関係ないらしい。
「わかった。早いけど、ご飯にするから」
靴を脱ごうとした時、ナギが僕の右手へ鼻を寄せた。鼻は手のひらには移らず、人差し指と親指の先を何度も嗅ぐ。
「何かついてるか?」
ナギは顔を上げ、僕の背後へ首を伸ばす。鼻先を何度か動かしたあと、また右手へ戻ってきた。
右手に目を落とす。
ナギが嗅いでいるのは、彼女の指が触れたあたりだ。
だが、朝から同じ指で触れたものはいくらでもある。彼女の匂いだと考えるのは、どう考えても飛躍していた。
指先を嗅ぎ直したナギが、そのまま頬を押しつけてくる。
柔らかく輪郭の縁が膨らんだ。機嫌がいい時の形だった。
「……何の匂いなんだ?」
ナギは喉を鳴らしたまま、もう一度頬を押しつけた。
1話はだいぶ不穏でしたが、ここからしばらくは大学生活を軸に、二人の関係が中心です。平穏かというと、たぶんそうでもありません。




