13話 少し遠い
翌日の火曜日。
家を出る前、スマホを見ると高橋からメッセージが届いていた。
『昨日、白銀さんのところで何かあった?』
続けて、もう一件。
『篠原から聞いた』
名前に覚えがなかった。
『誰?』
『前に言っただろ。白銀さんと話してみたいって言ってたやつ』
昨日の顔が浮かんだ。
『学生証を返そうとしたら、朝倉に腕を掴まれたって』
『俺が勘違いした』
続けて送る。
『その場で謝った』
少しして既読がつく。
『それも聞いた。かなり驚いてたぞ』
画面を見たまま、昨日の手首に残った赤い跡を思い出した。
『今日、大学にいる?』
『篠原?』
『うん』
『なんで』
『もう一度謝る』
しばらくして、昼休みのあとに篠原が使う講義室の場所が送られてきた。
大学へ着いて講義室へ入ると、白銀は窓側の長机で、窓から二つ目の席に座っていた。窓側の席には白銀の鞄があり、内側の隣は空いている。僕が座るために空けられた席だった。
僕は昨日と同じ、端の席に座り、鞄を足元へ置いた。
白銀がこちらを見て、僕との間に残った一席へ目を向ける。
「今日も、そこですか」
「はい」
一席空いている。その方がいいはずだった。
講義が始まっても、扉が開く音や人が席を立つ気配に意識が向いた。白銀の後ろを誰かが通るたび、板書から目が離れる。
何も起きていない。それでも昨日、篠原の手首に残った赤い跡が頭をよぎった。
気づけば、板書が進んでいた。書きかけのノートと黒板を見比べ、どこまで写したのか探す。
「……ここです」
白銀がノートの一箇所を指し、こちらへ傾けていた。
「ありがとうございます」
少しして、白銀のペンが机から落ち、僕の足元まで転がった。拾って差し出すと、白銀が手を伸ばす。
指が触れそうになった瞬間、反射的に手を引きかけた。
白銀はただ、ペンを受け取ろうとしているだけだ。
「ありがとうございます」
「はい」
触れる前に手を離す。
白銀は受け取ったペンと僕の手を見比べた。何か言いかけたが、そのまま前を向いた。
講義が終わると、白銀が聞いた。
「昼食はどうしますか」
少し前なら、断る理由を探すことはなかった。
「すみません。先に済ませたい用事があって」
「では、終わってからにしますか」
「……そのあと、図書館にも寄るので。先に食べてください」
篠原に謝ったあとの予定まではなかった。
「……わかりました」
二人で講義室を出ようとした時、廊下側から扉が勢いよく開いた。反射的に押さえると、白銀の肩のすぐ横で止まった。
「あ、すみません」
扉を開けた学生が頭を下げる。
「朝倉さん、ありがとうございます」
「いえ」
扉から手を離したところで、白銀との距離が近いことに気づいた。一歩下がると、白銀の視線がその一歩を追った。
「じゃあ、行ってきます」
「はい」
白銀の声は、昼食に誘ってくれた時より小さかった。
昼休みが終わる前、高橋から『篠原には伝えた』と届いた。教えてもらった講義室へ向かうと、篠原が入口の外で待っていた。
僕を見ると、一度だけ手首に触れた。そのあと、篠原の視線が僕の肩越しへ動き、身体の近くで硬く縮んでいた輪郭の端も、同じ方向へ細く伸びる。
けれど、すぐに僕へ戻った。また意味を考えそうになり、やめた。
「昨日は、すみませんでした。いきなり手首を掴んで」
「もういいです」
「手首は、まだ痛みますか」
「大丈夫です」
「本当に、すみません」
「俺も、事務室に届ければよかったので」
篠原は少し言いにくそうにしてから続けた。
「前に、高橋に相談したんです。白銀さんと話してみたいって」
「聞きました」
「でも、あまり話す人じゃないみたいだったから、普通に声をかけても困らせるかと思って。それに、いつも朝倉さんと一緒だったので」
「……」
「学生証を返すなら、話しかけても不自然じゃないと思ったんです」
少し間を置いて、篠原は続けた。
「白銀さんも、何度かこっちを見ていたので」
「見ていた?」
「はい。少しは覚えてくれているのかと思って」
篠原は照れたように笑った。さっきまで身体の近くで硬く縮んでいた輪郭も、少しだけ緩んだ。
「本当に、すみませんでした」
篠原は小さく頷き、講義室へ入っていった。
それから図書館へ行った。調べたいものはない。
空いている机へ座り、白銀とのトーク画面を開きかけてやめた。開けば、何か送る理由を探してしまう。
スマホを鞄へしまった。
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久しぶりに、床へ手をついて腕立てをしていた。考えているより、身体を動かしている方が楽だった。
何回目かで、背中に重みが乗る。
「ナギ」
振り向けないまま呼ぶと、長い尻尾が腰の横を揺れた。降りる気はないらしい。
そのまま続けようとしたところで、床に置いたスマホが震えた。
身体を起こすと、ナギが背中から滑るように降りた。床へ着くなりこちらを見上げ、低く一度鳴く。
「悪い」
スマホを取る。白銀の名前が見えた途端、通知を開いた。
『ナギは元気ですか』
ナギを見る。さっき降ろされたのが気に入らないのか、尻尾を床へ一度打ちつけていた。
『元気です。さっき筋トレしていたら邪魔してきました』
そこまで打って、二文目を消した。
『元気です』
そう返すと、すぐに既読がついた。入力中の表示が現れ、消える。もう一度現れて、また消えた。
『そうですか』
それだけだった。
画面が静かになると、胸の奥が重くなった。
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翌日の水曜日。
講義室へ向かう途中、廊下の角を曲がると白銀が壁際に立っていた。僕を見つけると、こちらへ歩み寄り、正面で足を止めた。
「朝倉さん」
「はい」
「月曜も昨日も、私との間を一席空けて座っていましたよね」
声は静かで、責める調子ではない。その分、何と答えればいいのかわからなかった。
「私の隣だけが、気になるんですか」
否定しようとして、できなかった。
「……そういうわけではありません」
「どういうことですか」
白銀が近くにいると、見え方が変わる。痛みが走ったこともあった。
それを離れる理由として話せば、白銀のせいだと言っているようだった。
近づくこともできない。離れてほしいわけでもない。そのどちらも、白銀には言えなかった。
「……わかりました」
そう言ったあとも、白銀はまだ僕を見ていた。やがて視線を外し、一人で講義室へ入っていった。
僕もあとから入った。
白銀はいつもとは別の机に鞄を置いた。
足が止まった。
白銀のいないいつもの机を見る。まだ誰も座っていない。
それでも僕は普段の席に座り、ノートを広げた。
講義が始まる前、白銀の隣に女子学生が一人座った。
何でもないことのはずだった。
僕の隣は空いている。
白銀の隣には、もう誰かがいた。
教授が教壇に立つと、僕は黒板へ目を戻した。
板書を写している途中で、一行抜けていることに気づいた。戻るうちに次の説明が始まり、余白へ無理に書き足す。
通路側に座った高橋が僕を見た。その視線が隣の空席へ移り、やがて前へ戻った。
講義が終わると、白銀は一度もこちらを見ないまま、一人で講義室を出ていった。
僕の隣の席は、最後まで空いたままだった。
望んだ通りだった。
それなのに、呼吸は少しも楽にならなかった。




