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輪郭圏外  作者: ねむZ
第一章 現代編――輪郭のない彼女
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13/14

13話 少し遠い

翌日の火曜日。


家を出る前、スマホを見ると高橋からメッセージが届いていた。


『昨日、白銀さんのところで何かあった?』


続けて、もう一件。


『篠原から聞いた』


名前に覚えがなかった。


『誰?』


『前に言っただろ。白銀さんと話してみたいって言ってたやつ』


昨日の顔が浮かんだ。


『学生証を返そうとしたら、朝倉に腕を掴まれたって』


『俺が勘違いした』


続けて送る。


『その場で謝った』


少しして既読がつく。


『それも聞いた。かなり驚いてたぞ』


画面を見たまま、昨日の手首に残った赤い跡を思い出した。


『今日、大学にいる?』


『篠原?』


『うん』


『なんで』


『もう一度謝る』


しばらくして、昼休みのあとに篠原が使う講義室の場所が送られてきた。


大学へ着いて講義室へ入ると、白銀は窓側の長机で、窓から二つ目の席に座っていた。窓側の席には白銀の鞄があり、内側の隣は空いている。僕が座るために空けられた席だった。


僕は昨日と同じ、端の席に座り、鞄を足元へ置いた。


白銀がこちらを見て、僕との間に残った一席へ目を向ける。


「今日も、そこですか」


「はい」


一席空いている。その方がいいはずだった。


講義が始まっても、扉が開く音や人が席を立つ気配に意識が向いた。白銀の後ろを誰かが通るたび、板書から目が離れる。


何も起きていない。それでも昨日、篠原の手首に残った赤い跡が頭をよぎった。


気づけば、板書が進んでいた。書きかけのノートと黒板を見比べ、どこまで写したのか探す。


「……ここです」


白銀がノートの一箇所を指し、こちらへ傾けていた。


「ありがとうございます」


少しして、白銀のペンが机から落ち、僕の足元まで転がった。拾って差し出すと、白銀が手を伸ばす。


指が触れそうになった瞬間、反射的に手を引きかけた。


白銀はただ、ペンを受け取ろうとしているだけだ。


「ありがとうございます」


「はい」


触れる前に手を離す。


白銀は受け取ったペンと僕の手を見比べた。何か言いかけたが、そのまま前を向いた。


講義が終わると、白銀が聞いた。


「昼食はどうしますか」


少し前なら、断る理由を探すことはなかった。


「すみません。先に済ませたい用事があって」


「では、終わってからにしますか」


「……そのあと、図書館にも寄るので。先に食べてください」


篠原に謝ったあとの予定まではなかった。


「……わかりました」


二人で講義室を出ようとした時、廊下側から扉が勢いよく開いた。反射的に押さえると、白銀の肩のすぐ横で止まった。


「あ、すみません」


扉を開けた学生が頭を下げる。


「朝倉さん、ありがとうございます」


「いえ」


扉から手を離したところで、白銀との距離が近いことに気づいた。一歩下がると、白銀の視線がその一歩を追った。


「じゃあ、行ってきます」


「はい」


白銀の声は、昼食に誘ってくれた時より小さかった。


昼休みが終わる前、高橋から『篠原には伝えた』と届いた。教えてもらった講義室へ向かうと、篠原が入口の外で待っていた。


僕を見ると、一度だけ手首に触れた。そのあと、篠原の視線が僕の肩越しへ動き、身体の近くで硬く縮んでいた輪郭の端も、同じ方向へ細く伸びる。


けれど、すぐに僕へ戻った。また意味を考えそうになり、やめた。


「昨日は、すみませんでした。いきなり手首を掴んで」


「もういいです」


「手首は、まだ痛みますか」


「大丈夫です」


「本当に、すみません」


「俺も、事務室に届ければよかったので」


篠原は少し言いにくそうにしてから続けた。


「前に、高橋に相談したんです。白銀さんと話してみたいって」


「聞きました」


「でも、あまり話す人じゃないみたいだったから、普通に声をかけても困らせるかと思って。それに、いつも朝倉さんと一緒だったので」


「……」


「学生証を返すなら、話しかけても不自然じゃないと思ったんです」


少し間を置いて、篠原は続けた。


「白銀さんも、何度かこっちを見ていたので」


「見ていた?」


「はい。少しは覚えてくれているのかと思って」


篠原は照れたように笑った。さっきまで身体の近くで硬く縮んでいた輪郭も、少しだけ緩んだ。


「本当に、すみませんでした」


篠原は小さく頷き、講義室へ入っていった。


それから図書館へ行った。調べたいものはない。


空いている机へ座り、白銀とのトーク画面を開きかけてやめた。開けば、何か送る理由を探してしまう。


スマホを鞄へしまった。


---


久しぶりに、床へ手をついて腕立てをしていた。考えているより、身体を動かしている方が楽だった。


何回目かで、背中に重みが乗る。


「ナギ」


振り向けないまま呼ぶと、長い尻尾が腰の横を揺れた。降りる気はないらしい。


そのまま続けようとしたところで、床に置いたスマホが震えた。


身体を起こすと、ナギが背中から滑るように降りた。床へ着くなりこちらを見上げ、低く一度鳴く。


「悪い」


スマホを取る。白銀の名前が見えた途端、通知を開いた。


『ナギは元気ですか』


ナギを見る。さっき降ろされたのが気に入らないのか、尻尾を床へ一度打ちつけていた。


『元気です。さっき筋トレしていたら邪魔してきました』


そこまで打って、二文目を消した。


『元気です』


そう返すと、すぐに既読がついた。入力中の表示が現れ、消える。もう一度現れて、また消えた。


『そうですか』


それだけだった。


画面が静かになると、胸の奥が重くなった。


---


翌日の水曜日。


講義室へ向かう途中、廊下の角を曲がると白銀が壁際に立っていた。僕を見つけると、こちらへ歩み寄り、正面で足を止めた。


「朝倉さん」


「はい」


「月曜も昨日も、私との間を一席空けて座っていましたよね」


声は静かで、責める調子ではない。その分、何と答えればいいのかわからなかった。


「私の隣だけが、気になるんですか」


否定しようとして、できなかった。


「……そういうわけではありません」


「どういうことですか」


白銀が近くにいると、見え方が変わる。痛みが走ったこともあった。


それを離れる理由として話せば、白銀のせいだと言っているようだった。


近づくこともできない。離れてほしいわけでもない。そのどちらも、白銀には言えなかった。


「……わかりました」


そう言ったあとも、白銀はまだ僕を見ていた。やがて視線を外し、一人で講義室へ入っていった。


僕もあとから入った。


白銀はいつもとは別の机に鞄を置いた。


足が止まった。


白銀のいないいつもの机を見る。まだ誰も座っていない。


それでも僕は普段の席に座り、ノートを広げた。


講義が始まる前、白銀の隣に女子学生が一人座った。


何でもないことのはずだった。


僕の隣は空いている。


白銀の隣には、もう誰かがいた。


教授が教壇に立つと、僕は黒板へ目を戻した。


板書を写している途中で、一行抜けていることに気づいた。戻るうちに次の説明が始まり、余白へ無理に書き足す。


通路側に座った高橋が僕を見た。その視線が隣の空席へ移り、やがて前へ戻った。


講義が終わると、白銀は一度もこちらを見ないまま、一人で講義室を出ていった。


僕の隣の席は、最後まで空いたままだった。


望んだ通りだった。


それなのに、呼吸は少しも楽にならなかった。


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