11話 記録
首の後ろには、何もなかった。
救急外来で、医師にもう一度うなじを見てもらった。
「赤くなっているところも、傷もないですね」
「熱い感じがするんです」
手を回して触れる。
病院へ着いた頃よりは弱くなっていた。それでも、そこだけに熱を押し込まれたような感覚が残っている。
頭を打った可能性があること。吐き気があったこと。直前の記憶が抜けていること。
同じ説明を、もう何度もしていた。
検査では緊急の処置が必要な異常は見つからず、肩の痛みも倒れた時に打ったものだろうと言われた。
記憶が抜けた原因までは、分からなかった。
「今夜は一人にならないようにしてください。頭痛や吐き気が強くなるようなら、すぐに受診してください」
隣で叔母が先に返事をした。
診察室を出ると、叔母が僕の顔を見た。
「今日はあたし、泊まるから」
「大丈夫だよ」
「先生の話、聞いてた?」
「聞いてた」
「じゃあ決まり」
言い返す気力がなくて、そのまま歩いた。
濡れた服の入った袋を叔母が持っていた。病院へ着いてから、叔母が持ってきてくれた服へ着替えた。
シャツもズボンも、絞れば水が落ちそうなくらい濡れていた。
雨は降っていなかった。
共用廊下にも、水の跡は僕が倒れていたところにしかなかった。
どうして濡れていたのか。
それだけは、説明のしようがなかった。
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翌朝、目が覚めるとナギが布団の横にいた。
顔や肩の匂いを嗅ぎ、最後に首の後ろで鼻先を止める。
昨日と同じ場所だった。
けれど、今度は唸らなかった。
何度か匂いを確かめたあと、額を肩へ押しつけてくる。
「もう大丈夫だから。ありがと」
朝食を食べたあと、叔母と警察へ行った。
壊れたスマホも持っていく。
昨日のことを、覚えている範囲で最初から話した。
その前の日、駅前で白いトラックを見ていたこと。昨日は白銀を見送ったあと、家の外で車の音が止まったこと。
そのあと、記憶が途切れていること。
「なくなったものはありますか」
「たぶん、ないです」
「財布や鍵は?」
「あります」
「部屋の中を荒らされた形跡は」
「ありません」
「車のナンバーは覚えていないんですね」
「はい」
「前に見た時も?」
「見てません」
一昨日の駅前で、僕が見ていたのは運転席の男の輪郭だった。
ナンバーを見るという発想はなかった。
今になって、それがひどく間抜けに思えた。
「同じ車を見かけても、近づいて確認しないでください。安全な場所から連絡してください」
「はい」
車を確かめようと、扉に手をかけたところまでは覚えている。
その先だけが、抜けていた。
警察を出る時、壊れたスマホは返された。中のデータが取り出せたら、また見せてほしいと言われた。
近くの店を調べ、そのまま端末を持ち込んだ。
水に濡れているうえ、本体にも衝撃が入っている可能性があるらしい。電源は入れず、このまま中のデータを確認するという。
店を出たあと、新しいスマホを買った。
防水機能のあるものを選んだ。水で壊れた直後に、そうでない機種を選ぶ気にはなれなかった。
アカウントを戻すと、白銀からのメッセージが何件か届いていた。
昨夜のものが二件。
『救急車は来ましたか』
『返信はいりません。落ち着いてからで大丈夫です』
今朝には、
『体調はどうですか』
返信を打つ。
『昨日、返事できなくてすみません。スマホが壊れてました。病院では大きな異常は見つかりませんでした。今日は大学を休みます』
ほどなく既読がついた。
『そうしてください』
続けて、
『記憶は戻りましたか』
『戻ってません』
少しして、もう一件届いた。
『壊れたスマホは、どうなりましたか』
『今、データを取り出せるか見てもらっています』
『分かったら、教えてください』
『はい』
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土曜日の夕方、データを取り出せたと店から連絡が来た。
叔母と一緒に受け取りに行く。
取り出せたデータの一覧に、あのファイルがあった。
作成時刻。
十八時四十三分。
「これです」
店員が言った。
「ほかのデータは問題なく復旧できています。これだけ一部壊れてますけど、途中までは再生できます」
新しいスマホを渡し、取り出せたデータを移してもらう。
転送が終わると、十八時四十三分の動画も一覧に入っていた。
再生はしなかった。
店の中で開く気にはなれなかった。帰りは叔母が運転するし、僕一人で先に見る気にもなれない。
帰りの車の中で、白銀へメッセージを送った。
『データが戻りました。動画でした』
送信してスマホを膝へ戻す前に、返事が届いた。
『見られますか』
『途中までなら』
入力中の表示が出た。
消える。
また出て、もう一度消えた。
少しして、メッセージが届く。
『私も見てもいいですか』
叔母に画面を見せる。
「来てもらえば?」
「いいの?」
「あの日一緒にいた子なんでしょ。その子も関係あるんだから、あたしたちだけで見るよりいいよ」
『よければ、来ますか』
送る。
既読がついた。
入力中の表示が一瞬だけ出た。
『行きます』
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白銀が来た時、ナギは玄関まで迎えに出た。
前に来た時と同じように足へ身体を擦りつける。
「こんにちは、ナギ」
白銀がしゃがんで頭を撫で、それから立ち上がった。
「体調は」
「だいぶ良くなりました。頭は少し痛いですけど」
「吐き気は?」
「もうないです」
「そうですか」
白銀は返事をしたあとも、僕の顔から視線を外さなかった。
叔母がテーブルの前へ座る。
僕と白銀もその向かいへ座った。
新しいスマホには、復旧した十八時四十三分の動画が入っている。
あの時は開けなかったものだ。
「再生します」
叔母が「うん」と返す。
再生ボタンに触れる。
最初に映ったのは、コンクリートの床だった。
僕の靴が端に入り、フレームの外へ抜ける。
映像が持ち上がった。
見慣れた共用廊下。
手すり。
その向こうに、住宅街が見える。
レンズが道路の方へ向く。
白いトラックが停まっていた。
アパートのすぐ外。
側面しかよく見えない。フロントガラスには夕方の空が反射し、運転席の中は暗かった。
ナンバーも、ここからでは読めない。
「これ」
叔母が声を落とした。
「うん。家の前にいたって話した車だよ」
白銀がスマホへ身を寄せる。
「駅前にいた車と、同じですか」
「たぶん」
白い車体。
形。
見覚えはある。
手すりが近づく。
映像が揺れる。
次の瞬間、全体が白く潰れた。
叔母が息を呑んだ。
白く潰れた画面に、激しい風の音が重なる。
白が薄れ始める。
映像が急に下を向いた。
遥か下に、水面が見えた。
すぐに上を向く。
黒い空に、無数の光が散っている。
その中に、大きな白い光が一つ浮かんでいた。
見ている間にも、その光は小さくなっていく。
カメラが周囲へ向きを変えていく。
その途中で、白い月が画面に入った。
「……月」
白銀が呟いた。
「何これ」
叔母が言った。
答えられない。
映像が再び下を向く。
水面が、さっきより明らかに大きくなっていた。
風切り音がすべてを潰した。
水面が迫る。
激しい水音とともに、映像が青黒く染まった。
泡しか見えない。
音も水の中へ沈み、低く潰れている。
画面が激しく揺れるたび、泡の切れ間に光が見えた。
一つではない。
水の中にも、星のような光が散っている。
映像が回る。
暗い水。
泡。
いくつもの光。
その一つが、次第に大きく映っていく。
光が広がり、周囲の水と泡が白に埋もれていく。
やがて、画面全体が白く潰れた。
白が消える。
灰色の石床が、すぐ近くにあった。
鈍い衝撃音。
映像が跳ねる。
床が流れ、何度か向きを変える。
やがて、画面の大半が暗く潰れた。
「待ってください」
白銀が言った。
動画を止める。
「少し戻してください」
指で再生位置を戻す。
暗い水。
泡の向こうの光。
大きく映る一つの光。
白。
灰色の床。
そこで再生を止めた。
「……ここ」
白銀が画面を見たまま言った。
「さっきまで、水の中だったのに」
「はい」
「急に、この床です」
「ここ、どこなの?」
叔母が言った。
答えられない。
もう一度再生する。
鈍い衝撃音。
映像が跳ね、画面の大半が暗く潰れる。
そこからカメラの向きは変わらなかった。
暗い画面が続き、咳き込む音が入った。
僕の声だった。
続いて、いくつもの足音が近づいてくる。
声もする。
一人ではない。
ただ、マイクに水が残っているのか、周囲の声はどれもくぐもっていて言葉までは聞き取れない。
『何を……』
僕の声だけが、その中から浮いて聞こえた。
足音が乱れる。
何かがぶつかる鈍い音と、衣擦れが重なった。
また誰かが何かを言う。
聞き取れない。
『やめ……!』
今度は、はっきり聞こえた。
そこで映像が崩れた。
四角い色の塊が画面を覆う。
音が細かく途切れ、同じ短い音が何度か繰り返された。
映像が一度戻りかける。
また崩れる。
音も消えた。
崩れた画面のまま再生が止まった。
再生が止まっても、誰も口を開かなかった。
ナギが僕の脚へ身体をつけた。
叔母がようやく口を開いた。
「これ、壊れてこう見えてるだけじゃないの?」
答えられない。
白銀はスマホを見たままだった。
「……これで、終わりですか」
「はい。ここまでです」
「これ、警察に持っていこう」
「うん」
「元のデータも、消さないで」
「分かってる」
白銀が僕を見る。
「……これを見ても?」
首を振る。
「何も」
映像に残っていたものを思い返しても、記憶には何も触れなかった。
「朝倉さん」
「はい」
「……もう一度、最初から見てもいいですか」
「はい」
再生位置を最初へ戻し、もう一度再生する。
コンクリートの床。
靴。
共用廊下。
そして、白いトラック。
家の前に停まっている。
僕の記憶にはない。
それでも、映像には残っている。
少なくとも、この車が家の前に停まっていたことだけは、もう疑えなかった。
あの空も、水の中も、その先も、僕は何一つ覚えていない。
けれど、十八時四十三分の記録には残っていた。




