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輪郭圏外  作者: ねむZ
第一章 現代編――輪郭のない彼女
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12/16

11話 記録

首の後ろには、何もなかった。


救急外来で、医師にもう一度うなじを見てもらった。


「赤くなっているところも、傷もないですね」


「熱い感じがするんです」


手を回して触れる。


病院へ着いた頃よりは弱くなっていた。それでも、そこだけに熱を押し込まれたような感覚が残っている。


頭を打った可能性があること。吐き気があったこと。直前の記憶が抜けていること。


同じ説明を、もう何度もしていた。


検査では緊急の処置が必要な異常は見つからず、肩の痛みも倒れた時に打ったものだろうと言われた。


記憶が抜けた原因までは、分からなかった。


「今夜は一人にならないようにしてください。頭痛や吐き気が強くなるようなら、すぐに受診してください」


隣で叔母が先に返事をした。


診察室を出ると、叔母が僕の顔を見た。


「今日はあたし、泊まるから」


「大丈夫だよ」


「先生の話、聞いてた?」


「聞いてた」


「じゃあ決まり」


言い返す気力がなくて、そのまま歩いた。


濡れた服の入った袋を叔母が持っていた。病院へ着いてから、叔母が持ってきてくれた服へ着替えた。


シャツもズボンも、絞れば水が落ちそうなくらい濡れていた。


雨は降っていなかった。


共用廊下にも、水の跡は僕が倒れていたところにしかなかった。


どうして濡れていたのか。


それだけは、説明のしようがなかった。


---


翌朝、目が覚めるとナギが布団の横にいた。


顔や肩の匂いを嗅ぎ、最後に首の後ろで鼻先を止める。


昨日と同じ場所だった。


けれど、今度は唸らなかった。


何度か匂いを確かめたあと、額を肩へ押しつけてくる。


「もう大丈夫だから。ありがと」


朝食を食べたあと、叔母と警察へ行った。


壊れたスマホも持っていく。


昨日のことを、覚えている範囲で最初から話した。


その前の日、駅前で白いトラックを見ていたこと。昨日は白銀を見送ったあと、家の外で車の音が止まったこと。


そのあと、記憶が途切れていること。


「なくなったものはありますか」


「たぶん、ないです」


「財布や鍵は?」


「あります」


「部屋の中を荒らされた形跡は」


「ありません」


「車のナンバーは覚えていないんですね」


「はい」


「前に見た時も?」


「見てません」


一昨日の駅前で、僕が見ていたのは運転席の男の輪郭だった。


ナンバーを見るという発想はなかった。


今になって、それがひどく間抜けに思えた。


「同じ車を見かけても、近づいて確認しないでください。安全な場所から連絡してください」


「はい」


車を確かめようと、扉に手をかけたところまでは覚えている。


その先だけが、抜けていた。


警察を出る時、壊れたスマホは返された。中のデータが取り出せたら、また見せてほしいと言われた。


近くの店を調べ、そのまま端末を持ち込んだ。


水に濡れているうえ、本体にも衝撃が入っている可能性があるらしい。電源は入れず、このまま中のデータを確認するという。


店を出たあと、新しいスマホを買った。


防水機能のあるものを選んだ。水で壊れた直後に、そうでない機種を選ぶ気にはなれなかった。


アカウントを戻すと、白銀からのメッセージが何件か届いていた。


昨夜のものが二件。


『救急車は来ましたか』


『返信はいりません。落ち着いてからで大丈夫です』


今朝には、


『体調はどうですか』


返信を打つ。


『昨日、返事できなくてすみません。スマホが壊れてました。病院では大きな異常は見つかりませんでした。今日は大学を休みます』


ほどなく既読がついた。


『そうしてください』


続けて、


『記憶は戻りましたか』


『戻ってません』


少しして、もう一件届いた。


『壊れたスマホは、どうなりましたか』


『今、データを取り出せるか見てもらっています』


『分かったら、教えてください』


『はい』


---


土曜日の夕方、データを取り出せたと店から連絡が来た。


叔母と一緒に受け取りに行く。


取り出せたデータの一覧に、あのファイルがあった。


作成時刻。


十八時四十三分。


「これです」


店員が言った。


「ほかのデータは問題なく復旧できています。これだけ一部壊れてますけど、途中までは再生できます」


新しいスマホを渡し、取り出せたデータを移してもらう。


転送が終わると、十八時四十三分の動画も一覧に入っていた。


再生はしなかった。


店の中で開く気にはなれなかった。帰りは叔母が運転するし、僕一人で先に見る気にもなれない。


帰りの車の中で、白銀へメッセージを送った。


『データが戻りました。動画でした』


送信してスマホを膝へ戻す前に、返事が届いた。


『見られますか』


『途中までなら』


入力中の表示が出た。


消える。


また出て、もう一度消えた。


少しして、メッセージが届く。


『私も見てもいいですか』


叔母に画面を見せる。


「来てもらえば?」


「いいの?」


「あの日一緒にいた子なんでしょ。その子も関係あるんだから、あたしたちだけで見るよりいいよ」


『よければ、来ますか』


送る。


既読がついた。


入力中の表示が一瞬だけ出た。


『行きます』


---


白銀が来た時、ナギは玄関まで迎えに出た。


前に来た時と同じように足へ身体を擦りつける。


「こんにちは、ナギ」


白銀がしゃがんで頭を撫で、それから立ち上がった。


「体調は」


「だいぶ良くなりました。頭は少し痛いですけど」


「吐き気は?」


「もうないです」


「そうですか」


白銀は返事をしたあとも、僕の顔から視線を外さなかった。


叔母がテーブルの前へ座る。


僕と白銀もその向かいへ座った。


新しいスマホには、復旧した十八時四十三分の動画が入っている。


あの時は開けなかったものだ。


「再生します」


叔母が「うん」と返す。


再生ボタンに触れる。


最初に映ったのは、コンクリートの床だった。


僕の靴が端に入り、フレームの外へ抜ける。


映像が持ち上がった。


見慣れた共用廊下。


手すり。


その向こうに、住宅街が見える。


レンズが道路の方へ向く。


白いトラックが停まっていた。


アパートのすぐ外。


側面しかよく見えない。フロントガラスには夕方の空が反射し、運転席の中は暗かった。


ナンバーも、ここからでは読めない。


「これ」


叔母が声を落とした。


「うん。家の前にいたって話した車だよ」


白銀がスマホへ身を寄せる。


「駅前にいた車と、同じですか」


「たぶん」


白い車体。


形。


見覚えはある。


手すりが近づく。


映像が揺れる。


次の瞬間、全体が白く潰れた。


叔母が息を呑んだ。


白く潰れた画面に、激しい風の音が重なる。


白が薄れ始める。


映像が急に下を向いた。


遥か下に、水面が見えた。


すぐに上を向く。


黒い空に、無数の光が散っている。


その中に、大きな白い光が一つ浮かんでいた。


見ている間にも、その光は小さくなっていく。


カメラが周囲へ向きを変えていく。


その途中で、白い月が画面に入った。


「……月」


白銀が呟いた。


「何これ」


叔母が言った。


答えられない。


映像が再び下を向く。


水面が、さっきより明らかに大きくなっていた。


風切り音がすべてを潰した。


水面が迫る。


激しい水音とともに、映像が青黒く染まった。


泡しか見えない。


音も水の中へ沈み、低く潰れている。


画面が激しく揺れるたび、泡の切れ間に光が見えた。


一つではない。


水の中にも、星のような光が散っている。


映像が回る。


暗い水。


泡。


いくつもの光。


その一つが、次第に大きく映っていく。


光が広がり、周囲の水と泡が白に埋もれていく。


やがて、画面全体が白く潰れた。


白が消える。


灰色の石床が、すぐ近くにあった。


鈍い衝撃音。


映像が跳ねる。


床が流れ、何度か向きを変える。


やがて、画面の大半が暗く潰れた。


「待ってください」


白銀が言った。


動画を止める。


「少し戻してください」


指で再生位置を戻す。


暗い水。


泡の向こうの光。


大きく映る一つの光。


白。


灰色の床。


そこで再生を止めた。


「……ここ」


白銀が画面を見たまま言った。


「さっきまで、水の中だったのに」


「はい」


「急に、この床です」


「ここ、どこなの?」


叔母が言った。


答えられない。


もう一度再生する。


鈍い衝撃音。


映像が跳ね、画面の大半が暗く潰れる。


そこからカメラの向きは変わらなかった。


暗い画面が続き、咳き込む音が入った。


僕の声だった。


続いて、いくつもの足音が近づいてくる。


声もする。


一人ではない。


ただ、マイクに水が残っているのか、周囲の声はどれもくぐもっていて言葉までは聞き取れない。


『何を……』


僕の声だけが、その中から浮いて聞こえた。


足音が乱れる。


何かがぶつかる鈍い音と、衣擦れが重なった。


また誰かが何かを言う。


聞き取れない。


『やめ……!』


今度は、はっきり聞こえた。


そこで映像が崩れた。


四角い色の塊が画面を覆う。


音が細かく途切れ、同じ短い音が何度か繰り返された。


映像が一度戻りかける。


また崩れる。


音も消えた。


崩れた画面のまま再生が止まった。


再生が止まっても、誰も口を開かなかった。


ナギが僕の脚へ身体をつけた。


叔母がようやく口を開いた。


「これ、壊れてこう見えてるだけじゃないの?」


答えられない。


白銀はスマホを見たままだった。


「……これで、終わりですか」


「はい。ここまでです」


「これ、警察に持っていこう」


「うん」


「元のデータも、消さないで」


「分かってる」


白銀が僕を見る。


「……これを見ても?」


首を振る。


「何も」


映像に残っていたものを思い返しても、記憶には何も触れなかった。


「朝倉さん」


「はい」


「……もう一度、最初から見てもいいですか」


「はい」


再生位置を最初へ戻し、もう一度再生する。


コンクリートの床。


靴。


共用廊下。


そして、白いトラック。


家の前に停まっている。


僕の記憶にはない。


それでも、映像には残っている。


少なくとも、この車が家の前に停まっていたことだけは、もう疑えなかった。


あの空も、水の中も、その先も、僕は何一つ覚えていない。


けれど、十八時四十三分の記録には残っていた。


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