↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
輪郭圏外  作者: ねむZ
第一章 現代編――輪郭のない彼女
PR
11/16

10話 空白

低いエンジン音が、アパートのすぐ外まで近づいて止まった。


その場で耳を澄ます。走り去る気配はない。


昨日、駅前で見た白いトラックが頭をよぎった。


足元で、ナギが低く唸った。


耳を伏せている。


身体の周囲に重なる輪郭も硬く、扉の方へ細く集まっていた。


さっきまで白銀の膝に顎を乗せていた時とは違う。


白銀は、まだ玄関を出たばかりだ。階段を下りて、住宅街を駅へ向かっているはずだった。


僕は、閉めたばかりの扉に手をかけた。


---


頬に冷たいものが触れていた。


目を開ける。


コンクリートの床が見えた。


どこだ。


息を吸う。


喉の奥が引きつった。


胃の中が持ち上がる。


頭が重い。


身体を起こそうとすると、肩に鈍い痛みがあった。


床へ倒れた時に打ったのかもしれない。


そこまで考えて、吐き気が強くなった。


手をついた。


掌が、水で滑った。


袖が重い。シャツも肌に張りついている。


前髪から落ちた雫が、床へ小さな跡を作った。


どうして濡れている。


手を伸ばすと、すぐそばに手すりがあった。


何度か息を吸い、身体を支える。


周囲が見えてくる。


アパートの共用廊下だった。


玄関の扉が開いている。


どうして開いている。


白銀を見送った。


扉を閉めた。


外から低いエンジン音が聞こえた。


扉に手をかけた。


そのあとは。


何も浮かばない。


道路を見る。


乗用車が一台、住宅街の角を曲がっていく。向かいの家には明かりがついている。


雨は降っていない。


変わったものは見当たらない。


視線を足元へ戻す。


濡れているのは、僕が倒れていたあたりだけだった。玄関にも、階段の方にも、水の跡は続いていない。


少し離れたところに、スマホが落ちていた。


スマホも濡れている。画面の角からひびが伸び、端の一部が黒く潰れていた。


手を伸ばす。


指先が冷えていた。


拾い上げると、画面が一度ちらついた。それでも表示は消えなかった。


スマホが震えた。


画面に、白銀の名前が表示される。


着信の表示に触れる。


反応しない。


もう一度触れると、ようやく通話へ切り替わった。


「もしもし」


『朝倉さん』


白銀の声だった。


「白銀さん?」


『白いトラックは、まだいますか』


「白いトラック?」


電話の向こうで、足音が止まった。


『……家の前の』


「何のことですか」


少し間があった。


『朝倉さん?』


「はい」


『今、どこにいますか』


「家です」


周囲を見る。


「廊下にいます」


『どうして外にいるんですか』


「分かりません」


口にしてから、自分でもおかしいと思った。


「白銀さんを見送って、玄関を閉めて、外で車の音がして。それから……」


扉に手をかけた。


その先がない。


電話の向こうが静かになった。


『さっき、私に電話しましたよね』


「僕が?」


『……はい』


スマホの画面を確認する。


直前の履歴に、白銀への発信が残っていた。


十八時四十二分十一秒。


通話時間、一分十二秒。


数字の一部が一瞬欠け、すぐに戻った。


覚えていない。


「何を話しました?」


自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


『えっと……家の前に、白いトラックがいるって』


「白いトラック」


『私が何のことか聞いたら、昨日、駅前で見た車に似ているって』


「そこまで話したんですか」


『はい。たしか、運転席の男が私たちの方を見ていたとも言っていました』


白いトラック。


運転席の男。


昨日、駅前で見た車は覚えている。


けれど、家の前に停まっていたところは何も浮かばない。


『それから、今どこにいるのか聞かれました』


「白銀さんの場所を?」


『はい。駅へ向かっていると答えました』


そんな会話をした記憶はなかった。


「それで、僕は何と?」


『そのまま帰っていいって……』


白銀が一度言葉を切った。


『いえ、戻ってこなくていい、だったと思います』


「僕が言ったんですか」


『はい』


短い返事のあと、白銀が息を吸った。


『私も、朝倉さんがどこにいるのか聞きました。共用廊下にいるって』


「それで?」


『昨日の車と同じか、もう少し確認するって。それから、車を撮って送るとも言っていました』


「車を」


『……はい』


自分がしたことなのに、他人の行動を聞いているようだった。


「白銀さんは、今どこですか」


『まだ住宅街です。駅へ向かっています』


「雨、降ってませんよね」


『降っていません』


自分の袖を見る。


水を吸った布が、腕に張りついている。


「僕、濡れてるんです」


『濡れている?』


「髪も、服も。スマホもです」


白銀はすぐには返さなかった。


『どうしてですか』


「分かりません。白銀さんは、怪我は?」


『ありません』


返事が出るまでに、わずかな間があった。


『朝倉さん、本当に何も覚えていないんですか』


「はい」


『トラックを見たことも?』


「覚えてません。白銀さんは、トラックを見ませんでしたか」


『見ていません』


息が抜けた。


何が起きたのかは分からない。それでも、白銀が無事だということだけは理解できた。


「そのまま駅まで行ってください」


『朝倉さんは……』


白銀の言葉が止まった。


『部屋に、戻れそうですか』


玄関の扉は開いている。


僕が開けたのか、誰かが開けたのかも分からない。部屋へ戻るのが安全なのかも、本当は分からなかった。


玄関から中を覗く。


玄関の奥に、ナギの大きな影が見えた。動かず、こちらを見ている。


部屋の中から、聞き慣れない物音はしなかった。


「ナギがいます。変な物音もしません」


『入れそうですか』


「はい」


『入ったら、鍵をかけてください』


「はい」


立ち上がろうとすると、足に力が入らず、手すりへ体重をかけた。


「少し、待ってください」


何度か呼吸する。


『朝倉さん?』


「うまく立てません。吐き気がします。頭も重いです」


『それなら、救急車を呼んだ方がいいと思います』


「倒れてたので……どこか打ったのかもしれません」


『怪我はありませんか』


肩を動かす。


痛みは強くない。


首の後ろにも、妙な違和感があった。


手を回し、うなじに触れる。


そこだけに、熱を押し込まれたような感覚が残っていた。皮膚の表面ではなく、もっと内側に。


「触った限りでは、血はついていません」


『歩けますか』


「ゆっくりなら」


『叔母さんは、まだ近くにいますか』


「たぶん。さっき帰ったばかりなので」


『先に連絡してください』


「分かりました」


スマホを耳へ当てたまま玄関へ入り、扉を閉めて鍵をかける。


靴を脱ぐと、その場で上がり口に腰を下ろした。


「叔母に電話します」


『はい』


白銀との通話を切り、そのまま叔母へ電話をかけた。


数回呼び出したところでつながる。


何から説明すればいいのか分からなかった。


共用廊下で倒れていたこと。


直前のことを覚えていないこと。


濡れていること。


うまく立てず、吐き気と頭の重さがあること。


叔母は途中で何度か質問した。


頭を打ったのか。


出血はあるか。


今、一人なのか。


分かる範囲で答えた。


『救急車を呼ぶから、そのまま動かないで』


叔母の声が強くなる。


『まだ近くにいる。あたしも戻る。鍵はかかってる?』


「かけた」


『あたしが戻るまで、無理に開けなくていい。合鍵あるから』


「分かった」


電話を切る。


白銀へかけ直すと、一度でつながった。


『叔母さんは』


挨拶もなかった。


「救急車を呼んで、戻ってきてくれます」


『よかったです』


長く息を吐く音がした。


ナギは廊下側に立ったまま、僕を見ていた。耳が伏せられる。


身体の周囲にある輪郭が、硬く縮んでいた。


「ナギ」


ナギはその場で僕を見たまま、鼻を動かした。


それから慎重に距離を詰め、靴からズボンの裾、手、袖口へと順番に鼻先を近づけた。


胸元まで来て止まり、それから脇へ回る。


首の後ろへ鼻先を寄せた。


ナギの身体が硬くなる。


喉の奥から、短い唸り声が出た。


『ナギですか』


「はい」


『朝倉さんに唸っているんですか』


「僕というより、匂いを嗅いで」


ナギはもう一度そこへ鼻先を寄せ、同じ場所を確かめるように何度も息を吸った。


それから前へ回り、濡れたシャツにも構わず額を胸へ強く押しつけてきた。一度ではない。何度も身体を擦りつける。


ナギの背中へ手を置いた。


毛の下の体温が、手のひらへ伝わってくる。


温かい。


その温度で、呼吸がわずかに戻った。


『……最後に覚えているのは、どこまでですか』


「外でエンジン音が止まって、玄関の扉に手をかけたところです」


『そのあとは……何も?』


「はい」


電話の向こうで、風の音だけが続いた。


「白銀さんは、駅に着きましたか」


『今、改札の前です』


背後から、人の声と改札の音が聞こえる。


「よかった」


声に出してから、少しだけ肩の力が抜けた。


「何か変わったことはありませんか」


『ありません』


「念のため、人の多いところにいてください」


『はい』


スマホの画面を見直す。


ひびの奥で、細い色の帯が揺れていた。


「白銀さん」


『はい』


「さっき、僕は車を撮るって言ったんですよね」


『はい。撮ったら送ると』


写真アプリを開く。


一覧の一番上に、何も映っていない灰色の枠があった。


時刻は、十八時四十三分。


履歴に残っていた通話が終わった頃だった。


開く。


画面が一度暗くなり、短い表示が出た。


ファイルを開けません。


もう一度押す。


同じだった。


「何か残っています。でも、開けません」


『画像ですか』


「分かりません。何も表示されないです」


詳細を開こうとすると、画面が大きく乱れた。すぐに戻る。


スマホを握り直した。


「落としたみたいで、画面も割れています」


『そのデータは消さないでください』


「はい」


『叔母さんにも見せてください』


「分かりました」


『警察にも、スマートフォンごと見せた方がいいと思います』


「警察」


『何があったのか、分からないので』


灰色の枠を見る。


僕が撮ったものなのか。


何が入っているのか。


それすら分からない。


『今は、一人で外へ出ないでください』


「出たことも覚えていません」


自分で言葉にした途端、急に怖くなった。


曖昧なのではない。


思い出せそうで出てこないのとも違う。


最初から何もなかったみたいに、そこだけが抜け落ちている。


『家に着いたら連絡します』


「お願いします」


『朝倉さんも、救急車か叔母さんが来たら教えてください』


「はい」


画面がまたちらついた。


細い色の帯が、さっきより広がっている。


『電話は切らない方がいいですか』


質問する声に迷いがあった。


「大丈夫です。叔母がすぐ戻ります」


『……分かりました』


通話が切れる。


画面の端で、細い色の帯が大きく揺れた。


一度暗くなる。


電源ボタンを押す。


反応はなかった。


もう一度押す。


画面は戻らない。


スマホはそこで動かなくなった。


ナギは僕の脚に身体をつけたまま離れなかった。


遠くからサイレンが聞こえた。


次第に音が大きくなってくる。


玄関の外を、誰かが駆け上がってくる。


叔母に預けていたこの部屋の合鍵が回る音がした。


扉が開き、叔母が入ってくる。


僕の顔を見ると、何も言わずにそばへしゃがんだ。


背中へ手を回される。


「立たなくていい」


その声で、救急車を待っている自分の状況が急に現実味を持った。


共用廊下から、複数の足音が近づいてくる。


僕は、濡れたスマホを握った。


画面はもうつかない。


十八時四十三分。


その時刻に作られた、開けないデータが一つ残っていた。


その中に何があるのか、僕は知らない。


その時間にいたはずの僕のことも、何も知らない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。