10話 空白
低いエンジン音が、アパートのすぐ外まで近づいて止まった。
その場で耳を澄ます。走り去る気配はない。
昨日、駅前で見た白いトラックが頭をよぎった。
足元で、ナギが低く唸った。
耳を伏せている。
身体の周囲に重なる輪郭も硬く、扉の方へ細く集まっていた。
さっきまで白銀の膝に顎を乗せていた時とは違う。
白銀は、まだ玄関を出たばかりだ。階段を下りて、住宅街を駅へ向かっているはずだった。
僕は、閉めたばかりの扉に手をかけた。
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頬に冷たいものが触れていた。
目を開ける。
コンクリートの床が見えた。
どこだ。
息を吸う。
喉の奥が引きつった。
胃の中が持ち上がる。
頭が重い。
身体を起こそうとすると、肩に鈍い痛みがあった。
床へ倒れた時に打ったのかもしれない。
そこまで考えて、吐き気が強くなった。
手をついた。
掌が、水で滑った。
袖が重い。シャツも肌に張りついている。
前髪から落ちた雫が、床へ小さな跡を作った。
どうして濡れている。
手を伸ばすと、すぐそばに手すりがあった。
何度か息を吸い、身体を支える。
周囲が見えてくる。
アパートの共用廊下だった。
玄関の扉が開いている。
どうして開いている。
白銀を見送った。
扉を閉めた。
外から低いエンジン音が聞こえた。
扉に手をかけた。
そのあとは。
何も浮かばない。
道路を見る。
乗用車が一台、住宅街の角を曲がっていく。向かいの家には明かりがついている。
雨は降っていない。
変わったものは見当たらない。
視線を足元へ戻す。
濡れているのは、僕が倒れていたあたりだけだった。玄関にも、階段の方にも、水の跡は続いていない。
少し離れたところに、スマホが落ちていた。
スマホも濡れている。画面の角からひびが伸び、端の一部が黒く潰れていた。
手を伸ばす。
指先が冷えていた。
拾い上げると、画面が一度ちらついた。それでも表示は消えなかった。
スマホが震えた。
画面に、白銀の名前が表示される。
着信の表示に触れる。
反応しない。
もう一度触れると、ようやく通話へ切り替わった。
「もしもし」
『朝倉さん』
白銀の声だった。
「白銀さん?」
『白いトラックは、まだいますか』
「白いトラック?」
電話の向こうで、足音が止まった。
『……家の前の』
「何のことですか」
少し間があった。
『朝倉さん?』
「はい」
『今、どこにいますか』
「家です」
周囲を見る。
「廊下にいます」
『どうして外にいるんですか』
「分かりません」
口にしてから、自分でもおかしいと思った。
「白銀さんを見送って、玄関を閉めて、外で車の音がして。それから……」
扉に手をかけた。
その先がない。
電話の向こうが静かになった。
『さっき、私に電話しましたよね』
「僕が?」
『……はい』
スマホの画面を確認する。
直前の履歴に、白銀への発信が残っていた。
十八時四十二分十一秒。
通話時間、一分十二秒。
数字の一部が一瞬欠け、すぐに戻った。
覚えていない。
「何を話しました?」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
『えっと……家の前に、白いトラックがいるって』
「白いトラック」
『私が何のことか聞いたら、昨日、駅前で見た車に似ているって』
「そこまで話したんですか」
『はい。たしか、運転席の男が私たちの方を見ていたとも言っていました』
白いトラック。
運転席の男。
昨日、駅前で見た車は覚えている。
けれど、家の前に停まっていたところは何も浮かばない。
『それから、今どこにいるのか聞かれました』
「白銀さんの場所を?」
『はい。駅へ向かっていると答えました』
そんな会話をした記憶はなかった。
「それで、僕は何と?」
『そのまま帰っていいって……』
白銀が一度言葉を切った。
『いえ、戻ってこなくていい、だったと思います』
「僕が言ったんですか」
『はい』
短い返事のあと、白銀が息を吸った。
『私も、朝倉さんがどこにいるのか聞きました。共用廊下にいるって』
「それで?」
『昨日の車と同じか、もう少し確認するって。それから、車を撮って送るとも言っていました』
「車を」
『……はい』
自分がしたことなのに、他人の行動を聞いているようだった。
「白銀さんは、今どこですか」
『まだ住宅街です。駅へ向かっています』
「雨、降ってませんよね」
『降っていません』
自分の袖を見る。
水を吸った布が、腕に張りついている。
「僕、濡れてるんです」
『濡れている?』
「髪も、服も。スマホもです」
白銀はすぐには返さなかった。
『どうしてですか』
「分かりません。白銀さんは、怪我は?」
『ありません』
返事が出るまでに、わずかな間があった。
『朝倉さん、本当に何も覚えていないんですか』
「はい」
『トラックを見たことも?』
「覚えてません。白銀さんは、トラックを見ませんでしたか」
『見ていません』
息が抜けた。
何が起きたのかは分からない。それでも、白銀が無事だということだけは理解できた。
「そのまま駅まで行ってください」
『朝倉さんは……』
白銀の言葉が止まった。
『部屋に、戻れそうですか』
玄関の扉は開いている。
僕が開けたのか、誰かが開けたのかも分からない。部屋へ戻るのが安全なのかも、本当は分からなかった。
玄関から中を覗く。
玄関の奥に、ナギの大きな影が見えた。動かず、こちらを見ている。
部屋の中から、聞き慣れない物音はしなかった。
「ナギがいます。変な物音もしません」
『入れそうですか』
「はい」
『入ったら、鍵をかけてください』
「はい」
立ち上がろうとすると、足に力が入らず、手すりへ体重をかけた。
「少し、待ってください」
何度か呼吸する。
『朝倉さん?』
「うまく立てません。吐き気がします。頭も重いです」
『それなら、救急車を呼んだ方がいいと思います』
「倒れてたので……どこか打ったのかもしれません」
『怪我はありませんか』
肩を動かす。
痛みは強くない。
首の後ろにも、妙な違和感があった。
手を回し、うなじに触れる。
そこだけに、熱を押し込まれたような感覚が残っていた。皮膚の表面ではなく、もっと内側に。
「触った限りでは、血はついていません」
『歩けますか』
「ゆっくりなら」
『叔母さんは、まだ近くにいますか』
「たぶん。さっき帰ったばかりなので」
『先に連絡してください』
「分かりました」
スマホを耳へ当てたまま玄関へ入り、扉を閉めて鍵をかける。
靴を脱ぐと、その場で上がり口に腰を下ろした。
「叔母に電話します」
『はい』
白銀との通話を切り、そのまま叔母へ電話をかけた。
数回呼び出したところでつながる。
何から説明すればいいのか分からなかった。
共用廊下で倒れていたこと。
直前のことを覚えていないこと。
濡れていること。
うまく立てず、吐き気と頭の重さがあること。
叔母は途中で何度か質問した。
頭を打ったのか。
出血はあるか。
今、一人なのか。
分かる範囲で答えた。
『救急車を呼ぶから、そのまま動かないで』
叔母の声が強くなる。
『まだ近くにいる。あたしも戻る。鍵はかかってる?』
「かけた」
『あたしが戻るまで、無理に開けなくていい。合鍵あるから』
「分かった」
電話を切る。
白銀へかけ直すと、一度でつながった。
『叔母さんは』
挨拶もなかった。
「救急車を呼んで、戻ってきてくれます」
『よかったです』
長く息を吐く音がした。
ナギは廊下側に立ったまま、僕を見ていた。耳が伏せられる。
身体の周囲にある輪郭が、硬く縮んでいた。
「ナギ」
ナギはその場で僕を見たまま、鼻を動かした。
それから慎重に距離を詰め、靴からズボンの裾、手、袖口へと順番に鼻先を近づけた。
胸元まで来て止まり、それから脇へ回る。
首の後ろへ鼻先を寄せた。
ナギの身体が硬くなる。
喉の奥から、短い唸り声が出た。
『ナギですか』
「はい」
『朝倉さんに唸っているんですか』
「僕というより、匂いを嗅いで」
ナギはもう一度そこへ鼻先を寄せ、同じ場所を確かめるように何度も息を吸った。
それから前へ回り、濡れたシャツにも構わず額を胸へ強く押しつけてきた。一度ではない。何度も身体を擦りつける。
ナギの背中へ手を置いた。
毛の下の体温が、手のひらへ伝わってくる。
温かい。
その温度で、呼吸がわずかに戻った。
『……最後に覚えているのは、どこまでですか』
「外でエンジン音が止まって、玄関の扉に手をかけたところです」
『そのあとは……何も?』
「はい」
電話の向こうで、風の音だけが続いた。
「白銀さんは、駅に着きましたか」
『今、改札の前です』
背後から、人の声と改札の音が聞こえる。
「よかった」
声に出してから、少しだけ肩の力が抜けた。
「何か変わったことはありませんか」
『ありません』
「念のため、人の多いところにいてください」
『はい』
スマホの画面を見直す。
ひびの奥で、細い色の帯が揺れていた。
「白銀さん」
『はい』
「さっき、僕は車を撮るって言ったんですよね」
『はい。撮ったら送ると』
写真アプリを開く。
一覧の一番上に、何も映っていない灰色の枠があった。
時刻は、十八時四十三分。
履歴に残っていた通話が終わった頃だった。
開く。
画面が一度暗くなり、短い表示が出た。
ファイルを開けません。
もう一度押す。
同じだった。
「何か残っています。でも、開けません」
『画像ですか』
「分かりません。何も表示されないです」
詳細を開こうとすると、画面が大きく乱れた。すぐに戻る。
スマホを握り直した。
「落としたみたいで、画面も割れています」
『そのデータは消さないでください』
「はい」
『叔母さんにも見せてください』
「分かりました」
『警察にも、スマートフォンごと見せた方がいいと思います』
「警察」
『何があったのか、分からないので』
灰色の枠を見る。
僕が撮ったものなのか。
何が入っているのか。
それすら分からない。
『今は、一人で外へ出ないでください』
「出たことも覚えていません」
自分で言葉にした途端、急に怖くなった。
曖昧なのではない。
思い出せそうで出てこないのとも違う。
最初から何もなかったみたいに、そこだけが抜け落ちている。
『家に着いたら連絡します』
「お願いします」
『朝倉さんも、救急車か叔母さんが来たら教えてください』
「はい」
画面がまたちらついた。
細い色の帯が、さっきより広がっている。
『電話は切らない方がいいですか』
質問する声に迷いがあった。
「大丈夫です。叔母がすぐ戻ります」
『……分かりました』
通話が切れる。
画面の端で、細い色の帯が大きく揺れた。
一度暗くなる。
電源ボタンを押す。
反応はなかった。
もう一度押す。
画面は戻らない。
スマホはそこで動かなくなった。
ナギは僕の脚に身体をつけたまま離れなかった。
遠くからサイレンが聞こえた。
次第に音が大きくなってくる。
玄関の外を、誰かが駆け上がってくる。
叔母に預けていたこの部屋の合鍵が回る音がした。
扉が開き、叔母が入ってくる。
僕の顔を見ると、何も言わずにそばへしゃがんだ。
背中へ手を回される。
「立たなくていい」
その声で、救急車を待っている自分の状況が急に現実味を持った。
共用廊下から、複数の足音が近づいてくる。
僕は、濡れたスマホを握った。
画面はもうつかない。
十八時四十三分。
その時刻に作られた、開けないデータが一つ残っていた。
その中に何があるのか、僕は知らない。
その時間にいたはずの僕のことも、何も知らない。




