14話 何かしましたか
誰かに左腕を取られていた。
広い部屋だった。少し先で大きな扉が開いていた。扉の内側は白い光で満ち、奥は見えなかった。
周囲には何人もの大人がいた。
腕を取られたまま、白い光へ近づいていく。
背後で、いくつもの大きな声が重なった。振り返ると、大人たちの間から誰かがこちらへ走ってきた。
顔は見えなかった。前を横切る身体に隠れ、次に見えた時には、もう扉の近くまで来ていた。
その姿を見た途端、左腕を振りほどこうとした。
離れなかった。
扉が閉じ始めた。向こうから手が伸びた。
右手を伸ばした。
「待って」
どちらの声だったのか、分からなかった。
白い光が視界いっぱいに広がった。
伸ばした右手は、何にも触れなかった。
目を開け、瞬きをすると、目尻に残っていた涙がこぼれた。
---
二列前に、白銀の背中が見えた。
週が明けてから、僕は二日続けて一人で座っていた。
講義が終わり、教授が出ていくと、学生たちも席を立ち始めた。白銀はノートを閉じ、ペンケースをしまって鞄を持った。
こちらを振り向かず、そのまま講義室を出ようとしていた。
昨日は、その背中を見送った。
隣に座らない日が増えていけば、きっとまた、他人だった頃の距離に戻る。
そうすれば、同じ間違いは起こさずに済む。
今日も、そのまま見送ればいい。
白銀の背中が、立ち上がった学生たちの間へ入っていく。
もうすぐ見えなくなる。
それでいいはずだった。
そう思った時、白い光の中で届かなかった手が頭をよぎった。
「白銀さん」
白銀が足を止める。振り返るまでの短い間に、言うべきことを探した。
見つからない。離れたのは僕からだ。それなのに、呼び止めていた。
「少し……話せますか」
白銀は僕の顔を見たまま、しばらく答えなかった。
「はい」
それだけだった。
拒まれなかったことに、息をつく資格はないと思った。
人の少ない中庭へ向かう。白銀も何も言わずについてきた。
空いているベンチの端へ座る。白銀が腰を下ろすのを見て、間にもう一人座れそうなだけ距離を取った。
白銀の視線が、二人の間に空いた場所で止まり、それから僕へ向いた。
呼び止めたのは僕なのに、その先の言葉が出てこなかった。白銀は何も言わず、こちらを見ていた。
中庭を横切る学生の足音が、近づいて、遠ざかった。
白銀は鞄からスマホを取り出し、僕にも見えるように画面を傾けた。開かれていたのは、僕とのトーク画面だった。
白銀の指が画面を滑る。ナギの写真、猫じゃらしの話、体調を尋ねる文章。その間には、虚無顔の猫のスタンプがいくつもあった。
画面が最近のやり取りへ戻ったところで、指が止まった。そこには、短い返事しかなかった。写真も、スタンプも、ナギの話から続く他愛もないやり取りもなかった。
白銀は画面を消した。
「私、何かしましたか」
息が止まった。
違う。
すぐにそう言わなければならなかった。けれど、声が出なかった。
消える直前の画面が頭に残っていた。そこに並んでいた違いは、すべて僕が作ったものだった。
責められた方が、まだよかった。僕が何も言わない間、白銀は自分の側に理由を探していた。そんな時間を白銀が過ごしていたことを、今まで考えもしなかった。
「朝倉さん」
呼ばれて、ようやく息を吸う。
「……何もしていません」
「それなら、なおさら分かりません」
白銀は手元のスマホを見ていた。画面は消えたままだった。
「ナギの写真を待つ時間が、増えました」
「……」
「昼食の誘い方も、分からなくなりました」
白銀の声がわずかに掠れた。
「前と違うことだけ増えました。そのたびに、どこで間違えたのか考えました」
僕が離れた理由を探すために、白銀は僕との時間そのものを疑い直していた。
「ナギに会いに行った日のことも、そのあと朝倉さんに起きたことも。学生証を返してくれた人のことも考えました」
「それは、違います」
「本当は朝倉さんが困っていて、それに私が気づかなかったのかもしれない、とも」
それだけは、違うと言えなかった。
「でも、それは白銀さんが悪かったということではありません」
「そう言われるだけでは、私には分かりません」
白銀はスマホを両手で握り込んだ。
「違うなら、違う理由も欲しかったです」
灰色の目が、まっすぐ僕を見ていた。瞬きをするたび、目の縁の光が小さく揺れた。
それでも、話さずに済む理由を探してしまう。
「白銀さんを巻き込みたくありません」
ようやく出た言葉は、それだった。
「巻き込まれているかどうかも、私に聞いていません」
「……はい」
「最初に、次もその席に座るのかと聞いたのは、朝倉さんでした」
音が消えたように感じた。
中庭の外を歩く学生。
遠くの話し声。
風で揺れる木の葉。
どれもそこにあるのに、何も頭へ入らない。
消しゴムを拾った日。
白銀だけ、輪郭が見えなかった。
自分から、次の席を聞いた。
「だから、また近くに座ってもいいのだと思いました。それなのに、今は理由も分からないまま、離れています」
今、それを終わらせようとしているのも僕だった。
「……はい」
声がかすれた。それでも、目は逸らさなかった。
「僕が聞いて、僕が離れました」
「私は、そのあとも近くに座るつもりでした。ナギにも会えて、朝倉さんと昼食へ行って、買い物にも行きました」
白銀が続けようとしていたものを、僕が勝手に終わらせようとしていた。
「……もう一緒にできなくなるのは、嫌です」
「そんなつもりでは――」
「でも、朝倉さんは離れました」
言葉が、喉の奥でつかえた。それでも、なんとか押し出した。
「白銀さんを傷つけたくなかった――」
「もう傷ついています」
白銀の言葉が重なった。
「すみません」
「謝罪ではなく、理由を聞いています」
すぐには答えられなかった。話せば、輪郭のことまで言うことになる。
白銀だけ見えないことも、近くにいると見え方が変わることも。白いトラックも、記憶のない時間も。どこから話せばいいのか分からない。輪郭のことは、これまで誰にも話していない。
それでも、理由を伏せたまま謝ることだけは、もうできなかった。
「……話します」
「今ですか」
「今は、整理できていません」
「いつですか」
「明日の講義のあとに」
「本当に?」
「はい」
「また用事があるとは言いませんか」
「言いません」
白銀は僕の顔から目を逸らさなかった。
「明日は、朝倉さんから声をかけてください」
「分かりました」
「私が聞くまで待たないでください」
「はい」
白銀は立ち上がり、中庭の出口へ歩いていった。僕は追いかけなかった。
今は隣へ並んでも、何を言えばいいのか分からない。
白銀とのトーク画面を開く。少し遡ったところに、先週の短いやり取りが残っていた。
『ナギは元気ですか』
『元気です』
『そうですか』
このまま明日を待てば、また言えない理由を探し、話す順番が決まっていないことを言い訳にする。
メモを開いた。
明日、白銀に話すこと。
人の周りに、輪郭が見えること。
白銀だけは、見えないこと。
白いトラック。
空白の時間。
白銀の近くでは、ほかの人の輪郭が鮮明になること。
輪郭の意味を取り違え、篠原の手首を掴んだこと。
そこまで打って、メモを閉じた。




