第7話 泥中の祈り
家族と別れ、一人になった帰り道。
夜風はまだ冷たいけれど、兄に握られた手のひらの熱だけが、消えない灯火のように僕の中に残っていた。
「……世界で一番、輝いてる」
兄が言ってくれたその言葉を、嘘にしたくない。 このまま悲しみに溺れて、誰かの言いなりになって、汚されたまま消えていくなんて、そんなの絶対におかしい。
僕を愛してくれる人たちのために、そして何より、踏みにじられた自分自身のために――僕は、このまま終わるわけにはいかないんだ。
初めて、胸の奥で小さな、けれど鋭い火が灯った。 絶望という泥の中に沈んでいた僕の指先が、確かな「目的」を求めて動き出す。
自室に戻り、暗闇の中でベッドに腰を下ろす。
あの日以来、思い出すことさえ避けていたあの部屋の光景を、僕はあえて脳裏に呼び戻した。
(……そうだ、カメラだ)
あの男の手にあった、無機質な黒い機械。
闇の中で、心臓の鼓動のように冷たく点滅していた赤いランプ。
男は「全国のファンが楽しみにしてる」と言った。
あの日、あの場所で起きたことが記録されているのなら、それは僕を永遠に縛り付ける鎖になる。
でも、同時にそれは、あいつらを地獄へ突き落とすための、唯一無二の証拠にもなるはずだ。
「流出する前に……僕が、見つけなきゃ」
震えていた声が、徐々に温度を取り戻していく。 ただ怯えて待つだけの時間は終わりだ。 犯人が誰なのか、あの男が何者なのか、今はまだ霧の中。
けれど、あの映像が世に出る前に、僕がそれを手に入れ、この手で葬り去らなければならない。
僕はスマホを取り出し、あの日マネージャーから届いたメッセージをもう一度読み返した。
『昨夜は飲みすぎちゃって、ホテルで休ませたけど大丈夫だったかしら?』
佐伯さんは、あのホテルの名前を一度も出していない。 でも、僕のスマホのGPS履歴や、タクシーの配車アプリ、あるいはあの日僕を運んだ誰かの足跡を辿れば、必ずあの場所に辿り着けるはずだ。
(泣いている暇なんて、もうない)
僕は鏡の前に立ち、伊達メガネを外した。
コンシーラーで塗りつぶした痣の跡を指先でなぞる。
傷はまだ痛む。罪悪感も、消えてはくれない。
けれど、今の僕の瞳には、昨日までにはなかった昏い光が宿っていた。
「僕は、瀬名湊。……みんなが信じてくれる、一等星でいなきゃいけないんだ」
ミュージカルの主演。
あの夜の代償として与えられた仕事かもしれない。 でも、その舞台の幕が上がるまでに、僕は自分を縛るすべての鎖を断ち切ってみせる。
悲しみは、消えない。 でも、それを燃料にして、僕は暗闇の中を走り始める決意をした。
犯人の正体も、映像の行方も。 すべてを暴くための、孤独な捜索が始まった。




