第6話 家族のぬくもりと、消えない影
歩道橋の上で震える指を動かし、僕はメールの返信を打った。
『仕事終わったよ。今から行くね。楽しみにしてる』
送信ボタンを押した瞬間、込み上げていた涙を強引に飲み込む。 今、この瞬間だけは「瀬名湊」を脱ぎ捨てて、ただの弟に戻りたかった。
待ち合わせ場所は、駅から少し離れた静かな定食屋だった。 僕は伊達メガネをかけ、深めに被った帽子の下で息を潜める。今の僕には、ファンの視線さえも、自分の内側の汚れを暴くサーチライトのように思えて怖かった。
「湊! こっちだ。お疲れ、大変だったな」
奥の座敷で、兄と母が僕を囲んで笑っている。 テーブルの上には、兄が奮発して頼んでくれた大きな刺身の盛り合わせと、湯気を立てる揚げたてのトンカツ、煮魚の小鉢が並んでいた。
「見てくれよ湊、今日はお前の大好物ばっかりだぞ。アリーナ完走のご褒美だな」
「湊、お疲れ様。顔が見られて嬉しいわ」
母の柔らかな声に、喉の奥に固まっていた孤独が少しずつ溶けていくようだった。
会話は、他愛もないことばかり。母の趣味の話や、兄の仕事場での出来事。 伊達メガネのレンズ越しに見る二人の笑顔は、以前と何も変わらない。僕がどんなに「汚れてしまった」と感じていても、この場所だけは、時間が止まっているかのように穏やかだった。
「湊、お前本当に頑張ったよな。ライブの中継観てた時、兄ちゃん、恥ずかしいけどちょっと泣いちゃったよ。……お前は、俺たちの自慢だ」
兄が、熱く語る。 その真っ直ぐな言葉が、今の僕にはどんな刃物よりも鋭く、深く胸を突き刺す。 兄の誇りになりたくて頑張ってきた。でも、その誇りであるはずの僕の中身は、もう泥で塗りつぶされている。
笑わなきゃ。 僕は、震えそうになる唇を必死に吊り上げ、楽しい会話の波に身を任せた。 この温かさが、ずっと続けばいいのに。 そう願えば願うほど、心の一部は冷たく冷え切っていく。やがて食事が一段落し、兄が新しいお茶を注いでくれたとき。 僕は膝の上で拳を握りしめ、ずっと喉に引っかかっていたことを切り出した。
「……あのね。今日、佐伯さんから新しい仕事の話をもらったんだ」
二人が、パッと顔を輝かせる。
「本当か? どんな仕事だ?」
「ミュージカルの主演。……僕がずっと憧れてた、劇作家さんの作品なんだ」
「主演!? すごいじゃない湊!」
「おいおい、快挙だな! さすが俺の弟だ。……でも、なんだか浮かない顔してるな。どうした?」
兄の鋭い視線が、メガネの奥の僕の瞳を覗き込む。 僕は視線を落とし、湯呑みに映る自分の顔を見つめた。
「……嬉しいんだ。ずっと夢だったから。でも、今の僕に……本当にその資格があるのかなって、悩んじゃって。ファンのみんなが思ってるような『綺麗な自分』じゃない気がして……」
もちろん、本当の理由は言えない。 あの夜、男に言われた『絶望を知ったからこその表現者』という言葉に、自分が侵食されているのが怖いのだとは、口が裂けても言えない。
「……資格なんて、お前以外に誰があるんだよ」
兄が、僕の手をぎゅっと握った。 節くれだった、温かくて大きな手。僕をずっと守ってきてくれた、誇らしい兄の手だ。
「お前がどれだけ努力してきたか、俺が一番知ってる。自信持てよ。……湊、お前がどんなに悩んでも、俺たちにとっては、お前が世界で一番輝いてる『湊』なんだから」
兄の温もりが、手のひらから伝わってくる。 その優しさに甘えて、すべてを打ち明けてしまえたら、どんなに楽だろう。 けれど、握り返す僕の手は、まだあの夜の冷たさを覚えている。
「……うん。ありがとう、お兄ちゃん。もう少し、考えてみるね」
僕は微笑んだ。 世界で一番優しくて、残酷なほど真っ直ぐな家族の愛に包まれながら。 僕の胸の奥では、感謝と同時に、誰にも言えない秘密がさらに重く、深く、沈殿していくのを感じていた。




