第5話 光と影の招待状
日常は、残酷なほど平穏に進んでいく。
深い悲しみに沈む僕を置き去りにして、世界は何事もなかったかのように「瀬名湊」を求めていた。
ライブから数日が経ったある日の午後。
レッスンを終えて息を切らす僕を、佐伯さんが事務所の応接室へと呼び出した。
「湊くん、おめでとう。大きな、本当に大きな知らせよ」
彼女がテーブルに置いたのは、一冊の分厚い企画書だった。
そこには、僕がずっと憧れていた劇作家が手掛ける、新作ミュージカルのタイトルが躍っていた。
「……主演、ですか?」
「ええ。あなたのこれまでの努力が実ったのよ。演出家の先生が、先日のライブでの湊くんを見て、『彼にしか演じられない役だ』って強く希望してくださったんですって」
それは、あの日事件が起こる前に僕が夢見ていた、最高の「光」だった。
本来なら、真っ先に家族に電話をして、手を取り合って喜びたいはずのニュース。
けれど、今の僕の心に最初に走ったのは、喜びではなく、心臓を直接掴まれたような冷たい震えだった。
「どうしたの? 湊くん。ずっとやりたかった仕事でしょう?」
佐伯さんが心配そうに僕の顔を覗き込む。彼女の瞳は、純粋に僕の成功を喜んでいるように見えた。
いつも僕の体調を気遣い、家族のことも応援してくれている佐伯さん。
彼女がこんなに喜んでくれているのに、僕は素直に笑うことができない。
脳裏には、あの夜の男の言葉がリフレインする。
『お前、これで本当の表現者になれたな』
この仕事は、僕の積み重ねてきた努力で勝ち取ったものだろうか。 それとも、あの夜に負った傷のせいで手に入ったものなのだろうか。
もしそうなら、僕は舞台に立つたびに、自分が汚れてしまったことを思い出してしまうのではないか。
「……僕に、務まるでしょうか」
「何言ってるの。今の湊くんには、以前にはなかった『深み』があるわ。今のあなたなら、この孤独な主人公を完璧に演じきれる。自信を持って」
佐伯さんの言葉が、鋭いトゲとなって胸に突き刺さる。
彼女に悪気がないのは分かっている。
僕が一段と大人っぽくなった、と言ってくれているだけなんだろう。 それでも、その深みの正体が、あの夜の出来事だとしたら――。
「少し、考えさせてください……。すみません」
「湊くん……? ええ、分かったわ。急な話だったものね」
驚いたような彼女をあとに、僕は逃げるように部屋を出た。
駅までの帰り道、兄からメールが届いた。
『湊、今日は仕事終わったら母さんと飯行く予定だけど、お前も来れるか? 無理しなくていいからな。いつも応援してるぞ』
スマホの画面を指でなぞる。
兄の、混じりけのない優しさが痛い。
兄は、僕がこんなに汚れてしまったことも、今まさに身に余るような大きなチャンスに怯えていることも知らない。
僕がこの主演を引き受ければ、家族はもっと裕福になり、兄も誇らしく思ってくれるだろう。母にも、もっと楽をさせてあげられる。けれど、舞台のライトを浴びるたび、僕はあの無機質なホテルの照明を思い出すのではないか。 拍手を浴びるたび、「これは嘘だ」と自分を責め続けるのではないか。
歩道橋の上で、僕は立ち止まり、夜の街を見下ろした。
眼下を流れる車のライトが、あのアリーナのペンライトのように見える。
やりたい。ずっと夢見ていた舞台だ。
でも、今の僕があの場所に立ってもいいのだろうか。 「清らかで美しい」と言ってくれるファンを、この汚れた体で騙し続けることになるのではないか。
喜びと絶望、憧れと嫌悪。
相反する感情が僕の中で渦を巻き、視界が涙で滲んでいく。
兄に言いたい。助けてと叫びたい。
でも、そんなことを言えば、兄の人生までめちゃくちゃにしてしまう。
僕はただ、夜風に吹かれながら、手にした企画書を強く、破れるほどに握りしめていた。




