第4話 疑惑の境界線
「はい、カット! 湊くん、今の表情最高だよ。……なんだろう、以前よりずっと、心の奥に触れてくるような色気が出たね」
カメラマンの賞賛が、今の僕にはどんな罵倒よりも残酷に響く。 あの日、あの暗闇で男に投げつけられた言葉――『本当の表現者になれたな』
その言葉が、まだ残っている。
「……ありがとうございます」
僕は消え入りそうな声で答え、逃げるようにスタジオの隅へ向かった。 ライトの熱で、首筋に塗った厚いコンシーラーが浮いている気がして、絶えず指先が喉元を触れてしまう。 誰にも見られてはいけない。 知られたら、終わる。
「湊、お疲れ! なあ、この後の取材終わったら、みんなでラーメン行かない? 陽介が奢ってくれるってさ!」
彰人が背後から勢いよく抱きついてくる。その無邪気な温もりが、今の僕には痛い。
「……ごめん。今日は少し、体調が悪くて」
「え、また? ……お前、ちょっと変だぞ。無理すんなよ」
彰人の心配そうな瞳が、僕の罪悪感を激しく揺さぶる。 メンバーと目を合わせられない。彼らと笑い合っていた昨日までの自分を、もう思い出せない。
帰り道の車内。窓の外を流れる夜の街を見つめながら、僕は何度も「あの日」をなぞっていた。悲しいはずなのに、頭だけがやけに静かだった。
あのバーで、僕にウーロン茶を渡したのは誰だった? 佐伯さんは、本当に僕が「ただ飲みすぎてホテルで休んだ」と信じているのか。 それとも、あの部屋に僕を運んだのは――。
「……湊くん、着いたわよ」
佐伯さんの落ち着いた声に、肩が跳ねた。 マンションの前に停まった車。彼女はルームミラー越しに、僕の様子をじっと伺っている。
「本当に大丈夫? お兄さんに連絡して、看病に来てもらいましょうか?」
「いいえ! ……大丈夫です。ただ、疲れているだけですから」
食い気味に拒絶してしまった。兄にだけは、この姿を見せられない。
「……そう。それならいいんだけど。何かあったら、いつでも電話してね」
彼女の瞳にあるのは、いつもの献身的な優しさだ。 けれど、今の僕にはその優しささえも、僕を監視するための罠に見えてしまう。
僕は逃げるように車を降り、自室のドアに鍵をかけて、もう一度確かめた。
暗い部屋。 僕は電気もつけず、ベッドの上に膝を抱えて座り込んだ。
あの男は、誰だったのか。 手に持っていたビデオカメラ。赤いランプ。 もし、あの映像がどこかに流出したら? もし、あの男がまた現れたら?
「……こわい……」「……たすけて……」
声に出して泣くことさえ、今の僕には許されないような気がした。 汚れてしまった自分。嘘をつき続けている自分。 家族を守るためという大義名分の影で、僕は自分自身を軽蔑し続けている。
ふと、テーブルに置いてあったファンレターに目が止まる。
『湊くんの笑顔を見ると、明日も頑張ろうって思えます。いつも清らかな光をありがとう』
「……清らかな、光……」
文字が滲む。
握りしめた紙だけが、やけに現実だった。
明日も同じ顔で笑う。
そう決めるしかなかった。
暗闇の中で、夜が明けないことだけを、願いながら。
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