第3話 仮面の日常
「――湊くん、入ります!」
スタッフの威勢の良い声と同時に、スタジオの重い扉が開く。 眩いばかりの照明が、僕の目を射抜いた。
昨日、アリーナのステージで浴びた祝福の光とは違う、すべてを暴くような、無機質な白。
「湊くん、おはよう! 昨日のライブ、本当にお疲れ様。……あら、少し顔色が悪いわね」
ヘアメイクの女性が、いつものように明るく僕を迎える。彼女の指が僕の髪に触れ、首筋にパフを当てようとした瞬間、全身の毛穴が総毛立つような恐怖が走った。
鏡の中の僕は、一瞬だけ呼吸を忘れて固まる。けれど、次の瞬間には、無理やり、瀬名湊の仮面を貼り付けた。
「ありがとうございます。……少し、知恵熱が出ちゃったみたいで」
「あらあら、アリーナの後だもんね。でも肌はツヤツヤね、さすがだわ」
メイクさんは、僕の首筋に塗り込められた厚いコンシーラーの下に、あの痕が隠れているなんて微塵も疑っていない。
僕は鏡の中の自分を、直視することができなかった。 そこに映っているのは、僕じゃない気がした。昨日までの僕は、もうどこにもいない。
「湊、おはよー! お前、ネットニュース見たか? 『Spica-S、歴史を塗り替える熱狂』だってさ!」
楽屋に入ってきたメンバーの彰人が、無邪気に僕の肩に腕を回す。 その親愛の情が、今の僕には耐え難い。 彼の体から漂う、爽やかな石鹸の匂い。それが、僕の肌の奥深くに染み付いたあの男の、粘つくような安っぽい香水の匂いを呼び起こし、喉の奥が、きゅっと軋んだ。
「……うん、嬉しいね」
精一杯の笑顔で答える。
メンバーたちは、僕が昨夜、何を引き換えにこの日常に帰ってきたのかを知らない。 彼らの真っ直ぐな瞳を見るたび、自分が汚泥の中に沈んでいくような、耐え難い罪悪感に襲われる。 僕だけが、嘘をついている。 僕だけが、彼らの清らかな世界を汚している。
「湊くん、ちょっといいかしら」
楽屋の隅から、佐伯さんの声がした。彼女はいつも通り、僕の体調を気遣うような、慈愛に満ちた表情で僕を見つめている。
「昨日のことだけど……。ホテルでゆっくり休めたみたいで安心したわ。プロデューサーの岩田さんも、『湊くんの立ち居振る舞いは完璧だった』って、今朝わざわざ電話をくださったのよ」
その言葉が、うまく受け止められなかった。
彼女の表情は、いつもと変わらない。それが、少しだけ怖かった。
撮影が始まり、カメラのレンズが僕に向けられる。
「もっと儚げに、壊れそうな表情で」
カメラマンのリクエストに応えるたび、僕の喉の奥からは声にならない悲鳴が漏れそうになる。
『お前、これで本当の表現者になれたな』
闇の中で囁かれた男の声が、呪文のようにリフレインする。 皮肉なことに、絶望に震える今の僕の瞳には、昨日までになかった深い影が宿っていた。 それが絶賛されるたびに、何かが静かに濁っていく気がした。
撮影の合間、兄からメールが届いた。
『湊、アリーナ完走おめでとう。お前は俺の誇りだ。……母さんも泣いて喜んでたぞ』
スマホの画面が、涙で滲んで読めなくなる。
お兄ちゃん、ごめんなさい。
誇りだなんて、言わないで。
僕の心は、もう二度と、あの頃には戻れない。
「……笑わなきゃ」
僕は立ち上がり、再びライトの下へ向かう。 水色の衣装を纏い、世界で一番幸せな王子様の顔をして。
心の奥底で泣き叫ぶ自分を幾重にも重い鎖で縛り付け、僕は今日も瀬名湊を演じる。
何も感じないふりをして。
ただ静かに、壊れていくだけだった。




