第2話 空白の洗礼
案内されたのは、西麻布の地下にある隠れ家のような会員制バーだった。 重厚なドアを開けると、そこには想像していた接待の空気とは違う、和やかな光景が広がっていた。
「お、湊! ライブお疲れ様!」
室内には、次の仕事で関わる予定のスタッフや、見知った顔のプロデューサーが数人。皆、グラスを片手に今日のライブの成功を祝ってくれている。 酒の匂いに混じって、ごく普通の業界の打ち上げといった風情が漂っていた。
「湊くんは大事な時期だからね。今日はノンアルコールで乾杯しよう」
差し出された冷たいウーロン茶。
僕は心から安堵した。
—— 僕の周りには、いい大人たちがたくさんいる。
そう思っていた。
渇いた喉に液体を流し込む。
異変が起きたのは、それから間もなくだった。急に、耳の奥で、低くうねる音がした。
「……湊くん、どうした?」
誰かの声が、まるで水の中から聞こえるようにこもって響く。 視界がゆがみ、天井のライトが糸を引くように流れていく。 助けを求めようとした僕の指先は、空を掻き、力なくテーブルに落ちた。
最後に記憶に残っているのは、さっきまで笑っていた大人たちの顔が、音もなく闇に溶けていく光景だけだった。
次に意識が戻った時、視界に入ったのは、見慣れない派手な模様の壁紙だった。 天井には場違いなほど大きなシャンデリア。窓はなく、室内には甘ったるい、それでいて安っぽい芳香剤の匂いが充満している。自分が、どこかのラブホテルのベッドに横たわっていることに気づくのに、数秒かかった。
「……あ……ぁ……」
声が出ない。 手首と足首には、食い込むような不快な感覚。 ガサリ、と部屋の隅で何かが動く音がした。逆光の中に、人影があった。 異様に体格の良い、男のシルエット。 顔は、影になっていて見えない。 ただ、その男が手に持ったビデオカメラのレンズだけが、冷たく僕を射抜いていた。
「……だれ……?」
男は何も答えない。 ただ、重苦しい足音を立てて、僕の方へ近づいてくる。
そこから先の記憶は、断片的でうまく思い出せない。ただ、濁った感覚だけが残っている。
「やめて……」
「だれか……」
「お兄ちゃん……」
心の奥底で上げた悲鳴は、僕を侵食していく男の無機質な吐息と、ビデオカメラの機械的な駆動音にかき消された。 愛されていたはずの僕は、この夜、ただ弄ばれるためだけの「形」へと零れ落ちた。
「……これで本当の表現者だな」
翌朝、気がつくと僕は自分の部屋のベッドにいた。 どうやって帰ってきたのか、誰が送ってきたのかもわからない。
「……っ……あ……」
シャワーを浴びるため、服を脱いだ自分の姿を鏡で見て、僕はその場に崩れ落ちた。
肌に残る、見覚えのない痕。赤く滲んだ、消えない印。
いくら石鹸でこすっても、あの部屋に充満していた男の、粘つくような香水の匂いが肌にこびりついて離れない。汚れてしまった。
真っ白だった瀬名湊は、もうどこにもいない。
「ごめん……なさい……」
震える声で謝っても、誰にも届かない。
家族が「誇りだ」と言ってくれたこの体は、もう他者の身勝手な欲望に曝され、見る影もなく崩れ去った抜け殻みたいなものだった。
僕を信じてくれているファンの顔を思い出すたび、裏切っているような、悍ましい罪悪感が胸をえぐった。
スマホが鳴る。 画面には、マネージャーからのメッセージ。
『湊くん、おはよう。昨夜は飲みすぎちゃって、ホテルで休ませたけど大丈夫だったかしら? 今日の撮影、頑張ろうね』
「……嘘」
昨夜のバーにいた誰かが、僕を売ったのか。 それとも、あの暗闇にいた男は、僕の知らない誰かだったのか。
最初から、誰もいなかったのかもしれない。
鏡の中の僕が、絶望に濡れた瞳で見つめ返してくる。
泣き叫びたい。すべてを投げ出して消えてしまいたい。 けれど、僕が消えればグループは瓦解し、守るべき家族の平穏な日常も潰えてしまう。
「……まだ、終われない」
僕は震える手で仕事用のポーチからコンシーラーを取り出し、首筋の痕を塗りつぶした。
昨日までと同じ瀬名湊を演じるために。 誰にも気づかれないように。
この消えない何かを、仮面の下に隠したまま。




