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第七話 紋章

俺はそれを知っていた。家の奥の部屋にある、普段は開けない棚のさらに奥。古びた木箱の蓋の内側に、同じ紋章が彫られていたはずだ。丸い輪の中に蔓のような線が絡み、その中央に小さな花みたいな意匠がある。


……なのに、なんでこの男がそれを持ってるんだ?


俺が黙ったまま石のように固まっていると、旅人は口の端を上げた。


「坊ちゃん、何か知ってる顔だね」


まずい。何か勘付かれたか?


「……知らない」


とっさにそう言ったけど、自分でも明らかに遅かった。横にいるセレスの視線が、すっと俺に向く。


旅人はそんな俺たちの空気を面白がるみたいに、軽く肩をすくめた。


「いやいや、そんな顔されると余計に気になるんだけどな。ここらでこの紋章、見たことないかと思ってさ」


その言い方は、ただの世間話にしか聞こえない。なのに、目だけは笑っていなかった。さっきまでの気安さが、ほんの少しだけ剥がれ落ちている。


セレスが一歩前へ出た。


「それは、グランディア家の紋章ですね」


旅人の目が細くなる。俺も思わずセレスを見た。え、そんなあっさり言うの? もっとこう、濁すとか、かわすとか、あるだろ?


旅人は、しばらくセレスの顔を見て、それから手の中の布を見下ろした。


「……ほう」


短く漏れた声は、感心とも警戒ともつかない。


「やっぱり知ってるんだな」

「ええ。ここら一帯を納めている家の紋章ですから」


セレスは淡々と言った。まるで、天気の話でもしているみたいな落ち着き方だった。

旅人はふっと息を吐いた。


「なるほどね。じゃあ話は早い。俺はこの辺りで、ちょっと人を探しててね」


「人?」

「そう。昔、この紋章に関わりのある人を見たって話を聞いたんだ。」

「その紋章、見たことあるのかって、村の連中に聞いて回ってたんだ」

「……探して、どうするんですか?」


セレスの声が少しだけ低くなる。

旅人は、ほんの少しだけ笑った。


「仕事だよ。探して、見つけたら依頼主に報告するんだ」


雑な答えだった。雑なのに、妙に逃げ方がうまい。こういうのは、たぶん慣れているんだろう。


俺は無意識に、旅人の腰を見た。


革のベルト。使い込まれた短剣。泥のついた靴。どれも旅人としては普通だ。

でも、ここまで来ると普通っぽく見せてる感じがする。


少なくとも、ただの旅人じゃない。

セレスも同じことを考えているのか、男から視線を外さない。


「依頼主、ですか」

「そう。まあ、守秘義務ってやつで詳しくは言えないんだけどね」


旅人は苦笑しながら頭をかいた。


「ただ、この辺りにグランディア家に関係する人間がいるかもしれないって情報があってさ。俺はそれを確かめに来た」


俺の胸がどくりと鳴る。

グランディア家。

その名前を聞くだけで、母さんとセレスが隠してきた何かに近づいている気がした。


セレスは平静だった。


「ですが、グランディア家は現在も存在している家です。わざわざこんな辺境まで来る必要がありますか?」

「普通ならね」


旅人はそこで少しだけ声を落とした。


「でも、俺が探してるのは“本家”じゃない」


風が吹いた。草が揺れて、空気が少し冷えた気がした。


俺は思わずセレスを見上げる。

セレスの表情は変わらない。けれど、ほんのわずかに目が細くなっていた。


「……どういう意味ですか」

「さあ? そこまでは俺も知らない。依頼主が知りたがってるだけだよ。“消えた血筋”が本当に残ってるのかをね」


消えた血筋。その言葉が、妙に耳に残った。

旅人は俺たちの反応を観察するように視線を動かす。


「まあ、あくまで噂だ。没落した家だとか、逃げ延びた愛人だとか、貴族連中はそういう話が好きだからな」


軽い調子だった。

でも、その軽さの奥で、何かを探っている。

俺は喉が少し乾くのを感じた。


……母さんたちは、一体何を隠してる?

セレスが静かに口を開く。


「仮に、その血筋が残っていたとして。あなたはどうするつもりですか」

「どうもしないさ」


旅人はあっさり答えた。


「見つけて、報告する。それだけ。俺は別に恨みも因縁もない」

「信用できませんね」

「そりゃそうだ」


男は苦笑した。


「でも、お嬢さん。俺みたいなのを信用しないのは正解だよ」


その言葉は冗談っぽいのに、妙に本音っぽかった。セレスは少し黙り込む。

旅人はそんな空気を変えるように、ふっと笑った。


「まあ、そんな警戒しないでくれ。俺も子ども連れ相手に揉めたいわけじゃない」


そう言って、ちらりと俺を見る。


「坊ちゃん、怖がらせたなら悪かったな」

「……別に」


怖い、というより落ち着かない。


この男は、どこまで知ってる?

家のことを?

母さんのことを?

それとも、もっと別の何かを?


旅人は帽子のつばを軽く押し上げた。


「ところで、この辺で古い屋敷とか見なかったか? 人が住んでなくてもいい」


「……どうしてです?」


「依頼主の話だと、紋章を持つ家系は表から消えたあと、しばらく人目を避けて暮らしていた可能性があるらしくてね」


セレスの空気が、ほんの少しだけ変わった。

冷えた、という表現が近い。


「随分と詳しいんですね」

「金を貰ってるからな。調べられる範囲は調べるさ」


旅人はそう言って肩をすくめる。


「ま、収穫ゼロでも困るんだよ。ここ数ヶ月ずっと空振り続きでね。ようやく何か知ってる人間に会えたと思ったら、この警戒っぷりだ」

「当然でしょう」

「はは、違いない」


男は笑ったあと、不意に視線を空へ向けた。

青空の向こうを鳥が飛んでいく。

さっきまで穏やかだった景色が、今は妙に遠く感じた。


旅人は数秒黙ってから、再びこちらを見る。


「……でも、知らないって言うんだったらしょうがないか」


旅人は肩をすくめ、諦めたような声を出した。


「お嬢さんと坊ちゃん、長話してすまなかったな。じゃあ、私はこれで」


その言葉に、俺は内心でほっとした。ようやく終わる。そう思った瞬間だった。


「私も家族を待たせていますので」


セレスが静かに言う。

旅人はその顔を見て、少しだけ口元を上げた。


「家族、ね」


その一言が妙に引っかかった。何気ない返しのはずなのに、男の目がほんのわずかに細くなる。


「じゃあ、失礼するよ。……そうだ」


旅人は思い出したように、もう一度こちらへ視線を戻した。


「この辺で何か変わったことがあったら、村の宿に伝えてくれ。旅の者にゃ、そういう情報がありがたい」

「……伝えません」


セレスが即答する。

男は苦笑して、手をひらりと振った。


「これは手厳しい」


そう言って、旅人は丘を降りていった。外套の裾が草をかすめ、少しだけ揺れる。背中は遠ざかっていくのに、なぜか存在感だけは残っていた。


——この村はのどかで綺麗なんだけどな……。


俺は、思わず息を止めた。

その声は小さかった。

風に紛れれば消えてしまいそうなくらい小さかったのに、なぜか妙にはっきり聞こえた。


旅人は振り返らない。

そのまま丘を降りていく。


でも、最後の一言だけ、妙に重かった。


「アルナ様?」


セレスがこちらを見る。


「どうかしましたか」

「……いや」


言いかけて、止まる。


なんとなく、言わない方がいい気がした。

もし聞き間違いだったら?いや、違う。

あれは確かに言っていた。


でも、あの言葉を口にした瞬間だけ、男の空気が変わっていた。


軽薄な旅人の顔じゃなかった。

もっと冷たい、何か別のもの。


「本当に、大丈夫ですか?」


セレスが少しだけ眉を寄せる。


「本当に大丈夫だよ、ちょっと疲れただけ」

「……そうですか」


セレスは完全には納得していない顔だったが、それ以上は追及しなかった。


そのまま、俺たちは無言で丘の上へ戻った。

さっきまでと同じ景色のはずなのに、今は少しだけ違って見える。草は揺れているし、川は光っているし、空は青い。なのに、どこか薄い膜越しに見ているみたいだった。


母さんは、俺の顔を見て首を傾げた。


「本当に何もなかったの?」

「うん」


俺がそう答えると、母さんは少し困ったように笑った。


「ならいいけれど……」


それでも、母さんの目もどこか落ち着いていなかった。たぶん、旅人がただの世間話で終わったようには見えなかったんだろう。


セレスは荷物をまとめながら。


「今日は早めに帰りましょう」

「え、もう?」

「ええ。十分です」


その言い方は、いつも以上にきっぱりしていた。

反論する空気じゃない。


俺は渋々頷いた。ピクニックはもう終わりだ。けれど、終わったというより、途中で切り上げさせられたような気分だった。


帰り道、俺は何度も振り返りそうになった。

でも、もう丘の下にあの男の姿はない。


家に戻ると、母さんはいつも通りに見せようとしながら、少しだけぎこちなくお茶を入れてくれた。

セレスはその間、窓の方を気にしている。

俺も何も言わずに座っていたが、頭の中では旅人の言葉がぐるぐる回っていた。


グランディア家。

消えた血筋。

本家じゃない。


それに、最後の一言。


この村はのどかで綺麗なんだけどな……。


あれは、ただの感想じゃなかった気がする。


***


その日の夜、アルナはベッドの上であぐらをかいていた。


昼間のことが、どうにも頭から離れない。

旅人の話。

紋章。

消えた血筋。

そして、あの一言。


薄い布団を膝にかけたまま、俺は天井を見上げる。

部屋の中は静かで、窓の外では虫が小さく鳴いていた。


聞こうか。いや、でも。


母さんの顔を思い出す。

少し困ったような、あの笑い方。

何かを隠しているときの、あの優しい目。


……聞かなきゃ、たぶんずっと分からない。


俺は布団を握りしめて、深呼吸した。

そして、隣の部屋にいるはずの母さんを呼ぶ。


「母さん」


少し間があってから、戸の向こうで足音がした。


「どうしたの、アルナ」


声は穏やかだった。

でも、どこかいつもより慎重な響きがある。

俺は、喉の奥が少しだけ重くなるのを感じた。

それでも、もう引き返せなかった。


「……母さん、僕のお父さんって誰なの?」


言った瞬間、部屋が静かになった。

風の音まで、急に遠くなった気がした。


戸の向こうに立っている母さんは、すぐには答えなかった。

気配だけが、そこにある。


俺は続ける。


「今日の旅人、変だった」

「紋章のことも、家のことも、何か知ってるみたいだった」

「僕だけ、何も知らないのはおかしいよ」


それでも、返事はない。


「母さん?」

「……」


沈黙が、少しずつ重くなる。

俺は思わず立ち上がり、戸の方へ近づいた。

開けようとして、でもやめる。

ここで乱暴に踏み込むのは違う気がしたからだ。


「教えてよ」


声が、少しだけ震えた。


「僕たち、家族でしょ?」


その言葉に、向こうでかすかな息をのむ音がした。

しばらくして、母さんの声が返ってきた。

さっきまでとは違って、少しだけ低く、静かだった。


「……今は、答えられないわ」

「なんで」

「それは……」


そこで、また止まる。

俺は胸がざわつくのを感じた。

曖昧なまま終わらせる気だ。

そう思ったら、少しだけ悔しくなった。


「なんで黙るの」

「アルナ」

「僕、子どもだからって何も知らされないのは嫌だ」


声が大きくなる。

自分でも分かるくらい、少し感情が乗っていた。

すると、向こうで小さく、でもはっきりとしたため息が聞こえた。


「……そうね」


母さんはそれだけ言って、しばらく黙った。

そして、今度は戸越しではなく、ちゃんと目の前で話すみたいな間を置いてから言った。


「明日、話すわ」


俺は、思わず息を止めた。


「……ほんとに?」

「ええ」

「全部?」

「全部とは言えないかもしれないけれど。少なくとも、今のあなたが知るべきことは話す」


その声は、逃げていなかった。

でも、どこか決意を固めたような硬さがあった。

俺は戸の前で固まったまま、小さく頷いた。


「……分かった」

「今日はもう寝なさい」

「うん」


それだけ言うと、母さんの足音が離れていく。

しばらくして、隣の部屋の戸が静かに閉まった。


俺はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。


明日、話す。


たったそれだけなのに、胸の奥が妙にざわつく。

怖いのか、楽しみなのか、自分でもよく分からない。


布団に戻ると、さっきまでより少しだけ部屋が狭く感じた。

俺は目を閉じる。

けれど、なかなか眠れない。


旅人の顔が浮かぶ。

母さんの沈黙が浮かぶ。

セレスの、あの少しだけ厳しい目も浮かぶ。


みんな、何かを知っている。

俺だけが、その外側にいる。


悔しい。

でも、たぶん明日で少しだけ変わる。


そう思うと、怖さの中に、ほんの少しだけ期待も混じった。

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