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第八話 どうして?

深夜、俺が一番初めに見たのは瞼の裏がオレンジ色に光っていた事だった。


ぼんやりとした熱を感じて、俺はゆっくり目を開ける。暗いはずの部屋が、窓越しに揺れる橙色に染まっていた。


「え?」


最初は夢だと思った。まだあんまり眠気が治ってないのと、窓から見える空は暗かったからだ。だが、空は暗いのに窓の外は明るかった。俺は上半身を起こし、窓の方へ目を向けた。


揺れていたのは、朝日なんかじゃない。もっと乱暴で、もっと熱い光が村の家や畑を燃やしていた。


「何が……起こって……」


言いかけたところで、喉がひゅっと鳴った。

外は燃えていた。


火は一軒や二軒じゃない。点々とではなく、村のあちこちで同時に上がっている。屋根の上、納屋の脇、干し草の山、木の柵の向こうまで、赤い炎が跳ねていた。


「火事……?」


自分で言いながら、違和感を感じた。家事なら村人が総出で家々のドアを叩き火事を知らせ、鐘を鳴らすはずだ。


それに、聞こえるのは炎のはぜる音だけじゃない。叫び声、足音、何かを叩き壊す鈍い音、そして――


「こっちだ!」


男の声。


俺は息を呑んだ。

その声が、なぜか村人のものに聞こえなかった。


戸が勢いよく開いて、セレスが飛び込んできた。いつもの静かな顔じゃない。眉間にしわが寄っていて、声も少しだけ荒い。


「アルナ様、起きてください。すぐに外へ出ます」

「え、え、何が……火事?」

「違います」


その返事は短くて、妙に鋭かった。

セレスは窓の外を一瞬だけ見て、低い声で続ける。


「自然発火ではありません。意図的です」

「意図的……?」

「今は説明している暇がありません。動いてください」


その言葉に背中を押されるように、俺はベッドから降りた。足元がふらつく。まだ半分寝ぼけているのに、空気だけがやけに冷たい。


「母さんは?」

「ここにいるわ」


部屋の奥から母さんが現れた。すでに外套を羽織っている。顔色は悪いのに、無理に落ち着いたふりをしているのが分かった。


「アルナ、こっちへ」

「母さん、何が起きてるの?」

「私にもわからないの。でも、今は逃げることが先」


その声は穏やかだった。けれど、いつもの優しさは少しだけ薄かった。外からまた叫び声が聞こえる。


「こっちは駄目だ!」

「裏へ回れ!」

「人がいるはずだ、探せ!」


人がいるはず。その言葉に、胸の奥が冷えた。


……俺たちを、探してる?


セレスは玄関ではなく、部屋の奥へ向かった。さっきまで棚があった場所だ。彼女は木板の端に手をかけると、ためらいなく引いた。


ギギ、と古い音がして、壁の一部が横へずれた。


そこに現れたのは、細い階段だった。


「なに、それ……」

「地下通路です」

「そんなの、聞いてない」


こんなときでも、セレスの返しは妙に冷静だった。いや、冷静に見せているだけかもしれない。

母さんが俺の肩に手を置く。


「アルナ、絶対に離れないで」

「う、うん……」


頷いたけど、喉が乾いてうまく声が出ない。

外では、何かが落ちる音がした。続けて、男の怒鳴り声。


「いたぞ! こっちだ!」


誰かが屋根に上がったのか、板を踏み割る音がする。火の爆ぜる音と、足音と、叫び声が混じって、村全体が壊れていくみたいだった。


セレスが階段の先を確かめるように見て、それから俺たちを急かす。


「アルナ様、先に」

「う、うん……」


一段降りる。石が冷たかった。二段、三段と降りるほど、地上の熱が遠ざかっていく。でも安心はできなかった。むしろ、暗さが不安を増やす。


母さんが最後に降りると、セレスは上を見上げたまま、しばらく動かなかった。


「セレス?」

「……来ます」


その声の直後、上からドン、と扉を叩くような音がした。


「そこか!」


男の声。

次の瞬間、セレスは素早く棚を元の位置に戻し、闇が落ちる。細い通路の中に、俺たち三人の息だけが残った。


「走れますか」

「え?」

「後ろから回られる可能性があります。逃げ道は一つではありません」


セレスはそう言って、カンテラを持ち、暗闇の中でも迷わないように足を進めた。母さんが俺の背中をそっと押す。


俺は震える足で階段の先へ進む。


通路は思ったより狭く、湿っていた。壁に手を触れると、ひんやりとした石の感触がある。どこからか水の滴る音がする。上の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。


けれど、完全には消えない。


まだ村の上では、火と人の気配がぶつかり合っていた。


「……この通路、どこへ繋がってるの?」

「村の外れです」

「外れって、どのくらい?」

「歩いて十分ほど」


十分。長いのか短いのか分からない距離だった。


やがて通路の先に、ぼんやりとした光が見えた。出口だ。塞いである木の扉の隙間から、外の夜風が差し込んでいる。


小走りで、俺たちは細い通路の先へ向かった。


石壁の向こうからは、かすかに火の爆ぜる音がまだ聞こえる。だが、それよりも近くにあるのは、三人分の足音だった。俺の、母さんの、そして先を進むセレスの。


「いま、どういう状況なの?」


息が少し乱れたまま、俺は背中越しに尋ねた。


セレスは足を止めずに答える。


「私にもわかりません。ただ、窓の外から見えたのは武器を持った数名の男です。多分、狙いは私達です」

「……武器?」


一気に眠気が吹き飛ぶ。


「ええ」

「村の人じゃないの」

「少なくとも、そうは見えませんでした」


短く答えたセレスの声は、いつもより硬い。冗談を言う余裕なんて、もうどこにもない。


母さんが俺の肩を軽く押した。


「アルナ、足元に気をつけて」

「う、うん……」


通路の先に見えていた光が、だんだん大きくなる。木の扉の隙間から漏れるそれは、月明かりだった。


セレスが扉に手をかける。


「外へ出たら、すぐ左へ」

「左?」

「森の奥です。道はありませんが、見つかりにくい」


「見つかりにくい」なんて言い方、全然安心できない。


それでも、今は従うしかなかった。


セレスが扉を少しだけ押し開ける。冷たい夜気が、細い隙間から流れ込んできた。土と草の匂いがした。火薬みたいな焦げた匂いは、まだここまでは来ていない。


「行きますよ」


その声と同時に、セレスは扉を大きく開けた。


俺たちは一気に外へ出る。目の前に広がっていたのは、森だった。


村の外れらしい。木々が密集していて、月の光もところどころしか届いていない。枝が重なり合って、黒い影みたいに見える。風が吹くたび、葉が擦れてざわざわと鳴った。


その中に、いた。


数人の男たちが、木の影からゆっくりと姿を現す。


最初に目に入ったのは、金属の光だった。


剣。斧。それから、短い槍みたいなものを持っている者もいる。村の男たちが持つ農具とは違う、ちゃんとした武器だ。月明かりに照らされた顔は見えにくいのに、その気配だけで嫌なものだと分かった。


俺は思わず足を止める。


「……え」


母さんが、息をのんだ。

セレスは一歩前に出て、俺たちを背にかばうように立つ。


男のひとりが、ゆっくり手を上げた。


「こんにちは、リゲル"元"当主の妹さん」


低く、落ち着いた声だった。

その呼び方に、俺は瞬きを忘れた。


「……誰?」


セレスが静かに問う。

男は、答える前に口の端を少しだけ上げた。


「名乗るほどの者じゃないさ。今はね」


今はね、という言い方が妙に引っかかる。男たちは囲むように立っているのに、焦っている様子はない。最初から、俺たちが出てくるのを知っていたみたいだった。


そのことに気づいて、背中が冷える。


「待ち伏せですか」

「そうなるな」


男の返事は短い。

母さんが、ほんの少しだけ身構えた。


「あなたたち、何者?」

「ただの仕事人だよ」


男は肩をすくめる。


「依頼を受けて来ただけだ」


その言葉で、俺の頭に昼間の旅人の顔がよぎる。

あの軽い声。あの、妙に笑わない目。まさか。


「……昼間の男と、同じ?」

「さあ、どうだろうね」


男は否定しなかった。でも、それだけで十分だった。セレスの目が鋭くなる。


「ここで何をしているのですか」

「消すんだよ」

「私達を?」

「ああ、当主様の御命令だ」


空気が、凍った。


「……当主?」


母さんの声がかすれる。男は面白がるように肩を揺らした。


「おや、知らされてなかったのか?」

「黙りなさい」


セレスの声が鋭く落ちる。

普段の静かな口調とは違う。刃みたいな声だった。男は口笛でも吹きそうな顔で笑う。


「怖い怖い。だが、事実だろ?」

「リゲル様は――」

「今も生きてる。表向きはな」


その言葉に、母さんの表情が強張った。

俺は混乱していた。リゲル?なんの話だ?


「表向きって……」


母さんの声は、もう掠れていた。

男はその反応を見て、ゆっくり頷く。


「死んだんだよ。今はセドリック様が当主だ」

「叔父様……」


母さんの顔から血の気が引いた。

俺はその横顔を見る。こんな顔、初めてだった。


驚きだけじゃない。

恐怖と、諦めと、昔の傷を無理やり開かれたみたいな顔。


「……死んだ?」


俺は呟く。


「誰が」


誰もすぐには答えなかった。

森の中を風が抜ける。葉がざわざわと揺れて、遠くで燃える村の音が遅れて届いた。


男は少しだけ面倒そうに頭を掻く。


「リゲル・エアリス=グランディア。当時の当主だ」

「……グランディア?」


やっぱり、その名前だ。

俺の胸が強く脈打つ。

母さんは俯いたまま、静かに息を吸った。


「兄様が……死んだ……?」

「正式には病死ってことになってる」


男は肩をすくめる。


「まあ、貴族様の“病死”がどこまで本当かなんて、俺らには分からんがね」


その瞬間、セレスの目が険しく細まった。


「……あなた達、どこまで知っているのですか」

「全部じゃない。だが、十分だ」


男の視線が俺へ向く。


「だから、その子も処分対象になった。もう長話なんていいだろう?」


男は肩をすくめた。


「ただ、死んだ事になっていた女が本当に死ぬだけだ」


そう言って、男は剣を抜いた。


月明かりを受けた刃が、ぬらりと光る。次の瞬間、その切っ先はまっすぐ俺たちへ向いた。


「……っ」


母さんが俺を引き寄せる。

セレスは少しも動じない。ただ、冷えた声で言った。


「そうですね、たらたらと長話をしてくれてありがとうございます」


男が眉をひそめる。


「は?」


セレスは目を細めた。

その表情は、いつもの静かな侍女のものじゃない。

完全に、相手の隙を測る目だった。


「おかげで、助かりました」

「……何を言ってる」

「《フレア・バースト》」


その一言と同時に、セレスの左手が開いた。


次の瞬間――爆炎が弾けた。


目の前が真っ白になる。

いや、白じゃない。赤い。熱い。視界いっぱいに広がった炎の塊が、森の暗闇を一瞬で飲み込んだ。


「うわっ!」


思わず俺は目を閉じた。

頬を熱がかすめる。

風が爆ぜ、草が一斉に揺れる。

耳の奥まで、ドン、と重い衝撃が突き抜けた。


「くっ……!」


男たちの叫び声が重なる。


「後ろだ!」

「散れ!」

「魔道士か!」


セレスが放った炎は、ただ前に吹き飛んだだけじゃない。

地面をなめるように広がって、男たちの足元を一気に焼き払っていた。


男達が混乱している隙に、セレスが俺と母さんへ鋭く言った。


「今のうちに逃げてください。私が囮になります」

「何言ってるの!?」


母さんが思わず声を上げる。だが、セレスは振り返らない。炎の向こう、剣を構え直す男たちを見据えたまま、落ち着いた声を保っていた。


「相手は私を警戒しています。ここで足止めしますから、その間に森へ」

「でも、セレ――」

「大丈夫です」


大丈夫、なんて全然聞こえない声だった。


俺はセレスの横顔を見た。炎の赤が彼女の頬を照らしている。その表情はいつもの静かな侍女のものじゃない。けれど、怖がっているようにも見えなかった。むしろ覚悟を決めた顔だった。


男のひとりが、舌打ちをする。


「チッ、炎と風魔法の女か」

「散れ! 次は耐えられねえぞ!」


混乱の中でも、相手はまだ動ける。セレスの魔法は確かに効いている。でも、倒し切れたわけじゃない。


母さんが俺の腕を強く掴んだ。


「アルナ、走れる?」

「え、でもセレスが」

「今は信じるの!」


その一言で、俺の足がようやく動いた。


でも、体は反対していた。頭の中がぐちゃぐちゃで、何が正しいのか分からない。置いていけない。逃げるべきだ。いや、逃げたら危ない。そんな考えが何度もぶつかって、胸の奥が痛くなる。


その時、セレスが短く息を吐いた。


「行ってください」

「……っ」

「アルナ様。奥様を連れて、左へ。森の中です。細い道を選ばないで木の密集している方へ」

「そんなの、分かるわけ――」

「分からなくても走るんです!」


いつもより少しだけ強い声だった。

その声に、俺は唇を噛む。


「……セレス、死なないで」

「死にません」


即答だった。あまりにも迷いがないから、逆に本当っぽく聞こえた。


男たちのひとりが、燃え残った草を蹴りながら前へ出る。


「逃がすな!」

「追うぞ!」


セレスが、すっと両手を広げた。


その瞬間、森の空気が変わる。

風が集まるのが分かった。枝葉が激しく揺れ、地面の草がざわりと寝る。


「《エア・ウォール》」


低く、はっきりした声。


次の瞬間、俺たちの前に見えない壁みたいなものが張った。男のひとりが走り込もうとして、見えない何かにぶつかって転ぶ。


「ぐっ……!」


「今です!行け、アルナ!」


セレスの声に背中を押されて、俺はようやく足を動かした。


「母さん、こっち!」


母さんの手を引いて、俺は森の奥へ飛び込む。枝が顔をかすめる。足元の根につまずきそうになるたび、心臓が嫌な音を立てた。後ろではまだ男たちの怒鳴り声が聞こえる。


「壁だ!」

「くそ、まずあのメイドを殺せ!」


セレスの張った見えない壁の向こうで、誰かが剣を叩きつけるような音がした。けれど、簡単には通さない。あの一瞬で十分だった。


「急いでください!」


振り返ると、セレスはまだそこに立っていた。炎の赤に照らされた横顔は妙に静かだった。俺たちを追わせないためにわざと目立つ場所に残っている。


「セレス!」

「振り返らないで!」


その声は、鋭いのに、どこか優しかった。

俺は歯を食いしばって前を見る。


森の中は暗い。さっきまで村を照らしていた火が、木々の隙間に赤い影を落としているだけだった。月明かりもほとんど届かない。それでも、母さんは迷わず走っていた。いや、迷っている暇なんてなかった。

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