第四話 家族会議
クレアが来てから、家の空気は少し変わった。
俺は居間の隅に座りながら、その空気をなんとなく感じ取っていた。
テーブルでは、母さんとクレア、それからセレスが向かい合って座っている。
俺の前には甘い果実水が置かれていたが、誰も飲めと言わないので、なんとなく両手で持ったまま様子を見ていた。
最初に口を開いたのは、クレアだった。
「……結論から言うと、兄様が――いえ、当主様の容体が芳しくないの」
母さんの指先がぴくりと止まる。
「……え?」
その声は小さかった。
けれど、俺にははっきり聞こえた。
クレアは視線を逸らさない。
「お父様と同じ病気らしいわ」
「そんな……」
「医者も、もう長くないと」
母さんの顔から、すっと色が消えていく。
俺は思わず母さんを見た。
今まで見たことのない顔だった。
驚き。
恐怖。
そして――喪失感。
まるで、また奪われるとでも思っているような顔だった。
「兄様が……」
母さんは小さく呟く。
その声音は震えていた。
クレアは少しだけ目を伏せる。
「まだ意識はあるわ。でも、長くは保たないかもしれない」
「そんな……兄様は、まだ……」
言葉が続かない。
俺は胸の奥が妙にざわついた。
母さんにとって、その“兄様”という人がどれだけ大切なのか、名前だけで伝わってくる。
セレスが静かに紅茶を置いた。
「……奥様」
その声は、落ち着かせるようだった。
けれど母さんは、しばらく俯いたまま動かなかった。やがて、クレアが再び口を開く。
「問題は、その後よ」
部屋の空気がまた張り詰める。
「次期当主の話?」
「ええ」
クレアは組んだ指に視線を落とした。
「残念な事に私には息子がいない。だから普通に行けば、お父様の弟――叔父様が次の当主になる」
その言い方で分かった。
“普通に行けば”が、普通では済まないということだ。
「叔父様は……当主になるためなら何でもするタイプよ」
クレアの声が冷える。
「現に、兄様が当主になった時だってそうだった」
「……まだ、そんなことを」
「忘れられると思う?」
クレアは淡々としていた。
けれど、その奥には明確な嫌悪があった。
「兄様が正式に後継として決まった直後、兄様の側近が二人消えたわ」
「……」
「事故死。そういうことになってる」
俺は果実水の入った杯を握る手に力が入った。
事故死。
たぶん、本当に事故だったわけじゃない。
クレアは続ける。
「屋敷の使用人も、叔父様に逆らった人間は次々消えた。辞めた者もいたけれど、行方が分からなくなった人間もいる」
「……叔父様は、そこまで」
「するわ。あの人は昔からそういう人間よ」
母さんが苦しそうに目を伏せる。
「だから私は嫌だったの。兄様が倒れたって聞いた時、真っ先に始まると思った」
その言葉に、セレスがわずかに眉を寄せた。
「既に動いている可能性も?」
「高いわね」
クレアは即答した。
「兄様が亡くなれば、叔父様はすぐに動く。邪魔な人間を排除して、自分の血筋で家を固めるはずよ」
「当然、“死んだはずの妹”なんて存在は見逃さない」
空気が凍った気がした。
俺は無意識に母さんを見る。
母さんは黙っていた。
けれど、その横顔は少し青ざめている。
「……私を、消すつもり?」
「可能性は高いわ」
クレアは迷わなかった。
「そして――」
そこで一瞬だけ言葉を切る。その視線が、今度は俺に向いた。
「その子も」
ぞくり、と背筋が冷えた。
部屋が急に静かになる。
外の風の音だけが、やけに遠く聞こえた。
母さんが立ち上がる。
「駄目……!」
その声は、今までで一番強かった。
「アルナには関係ない!」
「関係あるわ」
クレアも立ち上がる。
「ミア、目を逸らさないで。あの人達にとって重要なのは、“血”よ」
「……」
「貴女が生きていて、しかも子どもまでいる。それだけで利用価値になる」
クレアの言葉が落ちた瞬間、母さんの顔色がさらに悪くなる。
「それに、アルナの父がリゲ――」
「言わないで!」
母さんの声が、鋭く部屋を裂いた。
俺はびくりと肩を震わせる。母さんが、こんな声を出すのを初めて聞いた。
クレアも一瞬だけ口を閉ざす。
けれど、その目は静かなままだった。
母さんは荒くなった呼吸を抑えるように胸元を押さえ、それからクレアの方を見る。
「……アルナの前では、言わないで」
その声は弱々しかった。
さっきまでの強さが、もう残っていない。
クレアはしばらく黙っていたが、やがて静かに言う。
「……言ってないのね」
母さんは答えない。部屋の空気が重い。
何も知らないのは、たぶん俺だけだった。
俺は二人を交互に見る。
“リゲ”。
そこまでしか聞こえなかった。
けれど、その名前が出た瞬間に母さんの様子が変わった。
まるで、触れてはいけない傷を抉られたみたいに。
クレアはゆっくり椅子へ座り直す。
「いつかは知ることになるわ」
「……分かってる」
「なら」
「でも、今じゃない!」
母さんの声が震える。
「この子はまだ四歳なの……!」
「四歳でも、貴族の子なら巻き込まれる」
「そんなの――!」
言い返そうとした母さんが、途中で言葉を失った。否定できなかったんだと思う。
クレアは冷たいわけじゃない。
ただ、現実を見ている。
母さんは唇を噛み、視線を落とした。
その横で、セレスが静かに口を開く。
「クレア様」
「何かしら」
「今ここで全てを話すべきではない、という奥様の判断には私も賛成です」
クレアは目を細めた。
「甘いわね」
「ええ。ですが、アルナ様はまだ幼い」
セレスは俺の方をちらりと見る。
「理解できることと、受け止められることは別です」
静かな声だった。
でも、その言葉には不思議と重みがあった。
クレアは小さく息を吐く。
「……貴女、本当に変わらないわね」
「よく言われます」
セレスは平然としていた。
母さんは俯いたまま、小さく呟く。
「ごめんなさい……アルナ」
「え?」
突然謝られて、俺は目を瞬く。
母さんは苦しそうに笑った。
「隠し事ばかりで」
「……別に」
正直、分からないことだらけだ。
でも、母さんが苦しそうなのだけは分かる。
だから俺は、小さく首を傾げた。
「言いたくないなら、無理に言わなくてもいいよ」
その言葉に、母さんが目を見開いた。クレアも、少しだけ驚いた顔をする。
「……変なところで大人びてるわね、この子」
「でしょう?」
なぜかセレスが少し誇らしげだった。
俺は果実水を一口飲む。
甘い。でも、部屋の空気は全然甘くない。
クレアはそんな俺を見てから、静かに視線を戻した。
「……時間がないのは事実よ」
その声で、空気がまた現実へ引き戻される。
「叔父様は既に動いている可能性が高い。兄様が倒れた情報が広まれば、屋敷は確実に荒れるわ」
「……」
「だからミア。貴女に選んでもらう」
母さんがゆっくり顔を上げる。
クレアは真っ直ぐ言った。
「このまま隠れて生きるか。それとも――家へ戻るか」
その言葉は、静かなのに重かった。
母さんはすぐには答えなかった。
俯いたまま、指先をぎゅっと握っている。
俺は黙って二人を見ていた。
“帰る”。
その一言だけで、母さんの中に色んな感情が渦巻いているのが分かる。
帰りたい気持ち。
帰りたくない気持ち。
怖さ。
後悔。
たぶん、その全部だ。
しばらくして、母さんが小さく口を開いた。
「……少し、考えさせて」
クレアは短く息を吐く。
「ええ。それでいいわ」
「ごめんなさい」
「謝る必要はない」
そう言ったクレアの声は、さっきより少しだけ柔らかかった。でも次の瞬間には、またいつもの鋭い顔に戻る。
「ただし、時間はないと思って」
クレアは立ち上がった。
「もう帰るの?」
「長居はできないわ」
窓の外へ視線を向ける。
「馬車が何度もこの辺りを出入りすれば、それだけで目立つもの。叔父様の耳は無駄に広いから」
母さんの表情が曇る。
「……もう少し」
「駄目よ。足がつく」
その言い方は、慣れている感じだった。
こういう警戒を、何度もしてきた人間の言葉だ。
セレスが静かに頷く。
「正しい判断かと」
「でしょう?」
クレアは軽く肩を竦めた。それから、ふと俺の方を見る。鋭い目。
けれど、最初ほど冷たくはなかった。
「アルナ」
「……はい」
自然と背筋が伸びる。
クレアは数秒だけ俺を見つめ、それから静かに言った。
「貴方は、ミアによく似てる」
「え?」
「顔じゃないわ。目が」
何を言われているのか分からず、俺は瞬きをする。クレアは少しだけ目を細めた。
「……だからこそ、巻き込まれやすい」
その言葉の意味は、まだよく分からなかった。
母さんが立ち上がる。
「送るわ」
「いい。玄関までで十分よ」
クレアは椅子から離れ、扉へ向かう。
その後ろ姿は、最後まで真っ直ぐだった。
けれど玄関へ向かう途中、不意に足を止める。
「ミア」
「……なに?」
クレアは振り返らないまま言った。
「兄様は、最期まで貴女のことを気にしてた」
母さんの肩が揺れる。
「怒っていたわけじゃない。“生きていてほしい”って、ずっと言ってた」
部屋が静かになる。母さんは何も言わなかった。
言えなかったんだと思う。
クレアは小さく息を吐き、そのまま歩き出した。
やがて玄関の扉が開き、閉まる音がする。少し遅れて、外から馬車の音が聞こえた。
遠ざかっていく車輪の音を、母さんはしばらく黙って聞いていた。俺は果実水の残りを見つめる。
さっきまで甘かったはずなのに、今はなんだか味がしなかった。
その後、母さんは少し休むと言って寝室の方へ向かった。セレスは家事に戻った。
転生早々何やらとんでもない事に巻き込まれている気がする。少し状況を整理しよう。
…
……
………
……まずい。
考えれば考えるほど、状況がやばい。
兄様――母さんの兄が病気で倒れている。
叔父様は次期当主の座を狙っていて、しかも手段を選ばない。
そのうえ母さんは死んだはずの妹で、俺までまとめて目をつけられる可能性がある。
笑えない。
俺は果実水の杯を両手で持ったまま、しばらく固まっていた。
甘い匂いだけが、やけに現実味を持って鼻をくすぐる。
さっきまでの会話を思い返す。
病気。
当主争い。
叔父様。
血筋。
利用価値。
四歳児が昼に聞く話じゃない。
完全に夕方の怖い話である。
「……アルナ様」
ふと声がして顔を上げると、セレスが台所の方からこちらを見ていた。
いつの間にか、手には布巾が握られている。
「まだ飲んでいなかったのですね」
「うん……」
「ぬるくなる前に飲んでください。甘いものは、落ち着くでしょう」
「……そうかな」
「少しは」
俺は杯を見下ろして、一口飲んだ。
確かに甘い。けれど、頭の中の重さはちっとも軽くならない。
母さんはもう寝室の方へ向かったらしい。
廊下の先は静かで、扉が閉まる音も聞こえない。
セレスは台所へ戻りかけて、ふと足を止めた。
「アルナ様」
「なに?」
「怖いですか」
「……少し」
嘘をついても仕方ない。
セレスはそれを聞いても、何も責めなかった。
「そうですか」
「セレスは怖くないの?」
「怖いですよ」
あっさり言った。
「ですが、怖がっていてもお腹は空きますし、床も汚れます。やることは減りません」
「それ、すごく大人っぽい」
「褒め言葉として受け取っておきます」
相変わらずだった。
この人は本当に落ち着いている。落ち着いているというより、動揺を外に出さないのかもしれない。
俺は果実水を見つめながら、もう一度だけ頭の中を整理した。
兄様が病気。
叔父様が危険。
母さんは昔の家から逃げてきた。
クレアはそれを知っていて、ここへ来た。
そして、たぶんこれから何かが始まる。
……で、俺は何をすればいい?
四歳。
足はよたつくし、戦えないし、家の中でできることも限られる。
でも、何もできないわけじゃない。
俺はただの四歳児じゃない。前世も合わせると結構な年齢だ。
なら、今やるべきことは一つだ。
ただ怯えているだけにはならない。俺は杯を置いて、立ち上がった。
……よろけた。
すぐにセレスの手が伸びて、背中を支えてくれる。
「おっと」
「危ないです」
「ごめんなさい」
「謝るほどではありません」
セレスは俺をまっすぐ見下ろした。
「どこへ行くのですか」
「母さんのところ」
「寝室に?」
「うん。ちょっとだけ」
セレスは少し考えてから、うなずいた。
「では、静かにしてください」
「分かってる」
廊下をてこてこと進む。
家の中はしんとしていた。さっきまであれだけ張り詰めていた空気が、今は一度ひと息ついたみたいに沈んでいる。
母さんの寝室の扉の前まで来ると、俺は手を止めた。
中からは何の音も聞こえない。
ノックしようとして、やめる。
四歳児の力で叩いたところで、たぶん中には小さくしか響かない。だから、そっと扉に手を当てた。
「……母さん」
返事はない。
もう眠ったのかもしれない。
でも、たぶん違う。
さっきの母さんは、眠れる顔じゃなかった。
俺は扉の前でしばらく立ち尽くしたあと、そっと背を向けた。
セレスは少し離れた場所で、静かに見守っている。
「どうしました」
「……何て言えばいいか分からない」
「そうでしょうね」
「でも、母さん、すごく苦しそうだった」
「ええ」
「俺、何もできない」
「そんなことはありません」
セレスは即答した。
その言葉が意外で、俺は顔を上げた。
「アルナ様は、ちゃんと見ていました」
「見てたら何になるの」
「見ている、というのは大切です」
セレスは柔らかい声で続ける。
「奥様は一人で抱え込みやすい方です。ですが、誰かが気づいているだけでも違うことがあります」
「……そうかな」
「はい」
それだけ言うと、セレスは少しだけ目を細めた。
「それに、あなたはもう十分に賢いです」
「四歳なのに?」
「四歳だからこそ、です」
何だその理屈。
けれど、ちょっとだけ嬉しかった。
俺は寝室の扉を見つめ直した。
中にいる母さんは、きっと今も苦しいんだろう。
怖いんだろう。
逃げたはずの家のことを、また考えさせられている。
……だったら、せめて。
俺は小さく息を吸った。
「セレス」
「はい」
「俺、もっと魔法の練習したい」
「……今、ですか?」
「うん。強くなりたい、じゃなくてもいい。せめて、ちゃんとできることを増やしたい」
セレスは少し驚いた顔をした。
でも、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。
「それは良いことです」
「教えてくれる?」
「ええ。奥様が起きてから、許可をいただければ」
俺はうなずいた。
今はまだ、小さい。
何もできないようで、できることは少ない。
でも、少ないなら少ないなりに、積み上げるしかない。
やり直すって決めたんだ。じゃあまずは、一番近くにいる家族を助けたい。




