第三話 お客さん
俺は晴れて4歳になった。この歳になるとハイハイは卒業して歩ける様になるし、まともに喋れるようになった。
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改めてやり直すと決めたが何をすればいいんだ?筋トレか?勉強か?それとも家の手伝いかな? 前世ではニートのクソ親父の面倒を見ていたから家事全般は大体できる。電化製品が無いからなんとも言えないが……。前にセレスに何か手伝えることはないか聞いたら。
「大丈夫です。アルナ様は寛いでいてください」
と言われた。寛いでって言われても何をすれば良いか分からん。
前世の俺は、ぼんやりしている時間が一番嫌いだった。
働いていたわけじゃない。むしろ真面目に何かを成し遂げた記憶なんてほとんどない。けれど、それでも何もしないでいると、自分がどんどん空っぽになっていく気がしていた。
だから今度こそ、何かをしようと思ったのに。
四歳児にできることなんて、驚くほど少ない。
「アルナ様、では今日はお外で少し遊びますか?」
セレスがそう言ったのは、朝食のあとだった。
俺は木の椅子に座りながら、ぼんやりと匙を握っていた。小さな手に不似合いなほど、真剣な顔をしていたらしい。
「……あそぶ」
「はい。では支度の準備をしますね」
そう言われて、少しだけ気分が上がった。
外に出ると、風が気持ちいい。
静かで、朝は特に音が少ない。家畜の鳴き声と、どこかで薪を割る音。それくらいだ。
俺は庭先を、よたよたと歩いた。
まだ走るのは少し危ないが、歩くくらいならできる。転びそうになったところで、セレスがすぐ隣に来るのだが。
「セレス、俺、僕もう自分で歩けるよ?」
「分かっています。でも、念のためです」
「過保護だね」
「よく言われます」
全然悪びれていない。
俺は庭の端でしゃがみこんで、小石を拾った。
意味はない。だが、こういうのが今の俺には大事だと思った。自分の手で何かを掴む。それだけで、少しだけ成長した様な気分になるからだ。
「アルナ」
母さんが、縁側から声をかけてきた。
……母さん。
今となっては自然に呼んでいるが、最初はかなり抵抗があった。前世の記憶があるせいで、どうしても“若い女の人”にそう呼ぶのが変に感じたからだ。けれど、この人はもう、俺にとって母さんだった。
「アルナ、こっちへいらっしゃい」
母さんは縁側に腰を下ろし、手招きをした。
俺は小石を握ったまま、てこてこと歩いて向かう。歩けるようになったとはいえ、まだ足取りは危なっかしい。なのに母さんは、少しも心配そうな顔をしない。ただ、見守るように笑っていた。
「なに?」
「今日は少し、勉強をしましょうか」
「勉強……」
俺は顔をしかめた。
四歳児に勉強。いや、わかる。わかるぞ。前世でも子どもの頃は勉強していた。けど、今の年齢でそれを言われると、なんか人生の早回しをされた気分になる。
「嫌?」
「嫌じゃないけど……何をするの」
母さんは少し考えてから、穏やかに言った。
「文字と、簡単な魔法よ」
その言葉に、俺は一瞬で姿勢を正した。
「魔法!」
「ええ。そろそろ、アルナにも教えてあげようと思っていたの」
セレスがすかさず横から口を挟む。
「奥様、まだ少し早いのでは」
「大丈夫よ。アルナは覚えが早いもの」
「そういう問題では……」
二人のやり取りを聞きながら、俺は母さんのほうを見た。
魔法。ついに来たか、という気持ちだった。
この世界に来てから何度も見てきた。セレスのヒーリング。たまに風を起こすような小技。水桶に薄く張る光。そういうものが、俺の中ではもう 普通になりつつあった。
でも、自分で使えるとなると話は別だ。
「やる」
「ふふ、返事が早いのね」
母さんは少し嬉しそうに、膝の上の布袋から小さな木札を取り出した。
表面には、細い線で記号のようなものが刻まれている。
「これは簡単な文字よ。まずは自分の名前から覚えましょう」
「アルナ?」
「そう。アルナ。三文字だけでも、文字は文字よ」
俺は木札を受け取って、じっと見つめた。
前世の文字とは当然違う。でも、不思議とまったく読めないわけではなかった。形を見ていると、意味が自然に浮かんでくる感じがする。なんとなく、こういう世界の“文字の掴み方”が、体の感覚に入っている気がした。
「書いてみる?」
「うん」
母さんが持ってきた板の上に、炭の棒でぎこちなく線を引く。
少し歪んだが、なんとか書けた。
「上手よ」
「ほんと?」
「ほんと。初めてにしては、かなり」
セレスが小さく目を見開く。
褒めすぎじゃないかと思ったが、悪い気はしなかった。
次に母さんは、手のひらを少しだけ上げて見せた。
「では魔法。まずは“感じる”ことから始めましょう」
「感じる?」
「ええ。魔力を、体の中から引き出すの」
そう言って母さんは、掌の上に小さな光を灯した。
ふわり、と柔らかい光。昼の陽だまりみたいで、見ているだけで眠くなりそうだった。
「すご……」
「派手なものではないわ。でも、最初の一歩にはちょうどいいの」
俺は真似して手を開く。
当然、何も出ない。
「……出ない」
「すぐには出ないわ。焦らなくていいの、私なんて何回練習したか」
「セレスは?」
「セレスは特別よ、一度見たことでも直ぐできちゃうんだから」
「奥様、それを言われると困ります」
セレスが少しだけ眉を下げる。
その顔を見て、俺は思わず笑った。こういうやり取りを見ていると、この家が本当に静かで、ちゃんと“家族”みたいに見える瞬間がある。
母さんは俺の手を取った。
細い指なのに、温かい。
「目を閉じて。息を吸って、吐いて。体の中にある“熱”を探してみて」
「熱?」
「ええ。胸の奥でも、お腹でもいいわ。そこにある、小さな火種みたいなもの」
言われた通りにする。
目を閉じると、外の音が少し遠くなった。風。鳥。どこかで鳴く家畜の声。そういうのが、ゆっくりと輪郭を失っていく。
胸の奥を探る。
何もないようで、何かがある気がする。熱というほどじゃない。けれど、確かに小さな“芯”のようなものがあった。
「……あるかも」
そう言うと、母さんが小さく息を呑んだ。
「え?」
「どうしたの?」
「いえ……もう少し、続けてみて」
声がわずかに震えていた。
俺はそのことに気づかないまま、ただ集中する。
その芯に手を伸ばす。すると、じわりと指先が温かくなった。いや、指先だけじゃない。手のひら全体が、ほんのり熱を帯びていく。
「……あ」
次の瞬間、掌の上で小さな火花が弾けた。
ぱちっ、と音がして、すぐ消えた。
本当に一瞬だったが、俺は目を見開いた。
「出た!」
「ええ……出たわ」
「すごいの?」
「すごいわ!」
母さんの声は、驚きと喜びが混じっていた。
セレスは、少しだけ黙ったまま俺を見ている。そして、いつもの淡々とした顔のまま、ひとつ頷いた。
「……やはり、アルナ様は覚えが早いですね」
「でしょ?やっぱりアルナは天才だわ!」
「調子に乗らないでください」
「ひどい」
母さんが笑う。
その笑い声を聞いて、なんだか自分まで嬉しくなった。
その日の昼過ぎ、家の外から馬車の音がした。
俺は庭で母さんに教わった木札を見ながら、地べたに座っていた。セレスが台所のほうにいたので、最初は気にしていなかった。けれど、馬車の音はこの辺りでは珍しい。しかも、どうも止まる位置が近い。
「……お客さん?」
俺が言うと、母さんの表情がほんの少しだけ固くなった。
「ええ。少しだけね」
「誰?」
「私の、昔の知り合いかな」
その返事は、妙に曖昧だった。
セレスが戻ってきたのは、それからすぐだった。
「アルナ様、こちらへ」
「え、でも――」
「失礼ですが、少々お静かに」
その声は柔らかいのに、逆らえない強さがあった。
俺は木札を握ったまま、素直に立ち上がる。セレスはいつもの落ち着いた顔だったが、目だけは少しだけ周囲を警戒しているように見えた。
「何かあったの?」
「いいえ。ですが、奥様はしばらくお話があります」
「知り合いの人?」
「ええ……」
妙に歯切れが悪い。
セレスはそれ以上何も言わず、俺の背を押して家の中へ連れ戻した。
居間に入ると、セレスは窓際の椅子へ俺を抱え上げる。
そこは庭先がよく見える位置だった。ちょうど、家の前に止まった馬車の様子が見える。
「ここで待っていてください」
「僕も外見たい」
「見えますよ、そこから」
そう言って、セレスはカーテンを少しだけ開いた。
窓の向こう、家の前に立っていた馬車の扉が開く。
まず降りてきたのは、長身の男ではなく、女だった。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
母さんに、似ている。
いや、似ているなんてものじゃない。髪の色も、輪郭も、目元の鋭さも、どこか目を逸らしたくなるくらい重なって見えた。
ただ、雰囲気は違った。
母さんが春の光なら、あっちは冬の空気だ。
綺麗なのに、冷たい。整っているのに、近寄りがたい。
女はゆっくりと足を地につけ、馬車の脇に立った。
背筋がぴんと伸びている。服装も上等だ。けれど、一番目を引くのは、その視線だった。鋭くて、迷いがなくて、何かを値踏みするみたいにまっすぐ家を見ている。
「……母さんと、そっくり」
思わず声が漏れる。
セレスは一瞬だけ目を細めた。
「……ええ。クレア様です」
「クレア……」
「奥様の、お姉様ですよ」
姉。
その言葉に、妙に納得がいく。
似ているのに、まるで別人だ。たぶん、母さんが少し柔らかすぎるのだろう。
クレアと呼ばれた女は、扉が完全に開くのを待たずに、まっすぐ玄関へ向かう。
その後ろから、従者らしい男が数人ついていた。皆、無駄な動きがない。かなりきちんとした家の人間だと分かる。
「……すごい人だ」
「ええ。ですから、今日は静かに」
セレスはそう言うと、俺の頭を軽く撫でた。
そのまま窓辺に立ち、庭先の様子を見守る。
少しして、玄関の扉が開いた。
中から母さんが出てくる。
その姿を見た瞬間、空気が変わった。
母さんは最初、いつも通りの穏やかな顔をしていた。けれど、クレアを見た途端、その表情の奥に、固いものが走るのが分かった。
「……クレア姉様」
「久しぶりね、ミア」
ミア。
その名前を、クレアは当然のように口にした。
俺は目を瞬いた。
母さんの名前。初めて聞いた気がする。
母さんは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑った。
「本当に、来たのね」
「来るに決まっているでしょう。黙って消えた妹を放っておけるほど、私は薄情じゃないわ」
言葉はきついのに、その声には怒りだけじゃないものが混じっている。
安心、警戒、苛立ち、そして、ほんの少しの安堵。
複雑で、よく分からない。けれど、ただの訪問者じゃないことだけは分かった。
クレアは母さんの顔をしばらく見つめ、それから視線を家の中に向ける。
その目が、窓際の俺を捉えた。
ぞくりとした。
見られただけなのに、背中が少し冷たくなる。
「……あれが」
「ええ。アルナよ」
「そう」
短い返事だった。
それなのに、何かを測るような目つきが、やけに鋭い。
「中で話しましょう」
「……そうね」
母さんがそう答えた瞬間、クレアはわずかに口元を緩めた。
でも、それは笑みというより、勝負が始まる前の顔に近かった。
「お前が生きていてよかった、なんて言うつもりはないわ」
「分かってる」
「ただ、兄様から説明してもらうだけでは納得できなかっただけよ」
母さんは、その言葉に小さく眉を寄せた。
「……そう」
「そう、じゃないわ」
クレアは一歩だけ近づく。
その動きに、家の空気がぴんと張った。セレスの指先がほんの少しだけカーテンを掴む。
「勝手に消えて、勝手に生き延びて、勝手に子どもまで産んで」
「クレア姉様」
母さんの声は静かだった。
静かすぎて、かえって怖いくらいだった。
「その言い方はやめて」
「やめないわ。私は、ずっと怒っているもの」
その一言は、まっすぐだった。
取り繕っていない。遠慮もない。だからこそ、本気だと分かる。
俺は窓際の椅子の上で、身じろぎもせずに二人を見ていた。
何が何だか分からない。ただ、あの人たちはただの姉妹じゃない。たぶん、俺がまだ知らない何かをずっと抱えたまま、今まで離れていたんだろう。
クレアは息を吐いた。
「……でも、死んだことにされたと聞いた時は、さすがに笑えなかった」
「ごめんなさい」
「謝るくらいなら、最初から相談しなさい」
「相談できる状況じゃなかったの」
「それでも、よ」
クレアの声は鋭いままなのに、どこか震えていた。
怒っている。けれど、それだけじゃない。たぶん、本当に心配していたんだ。
「……なら、まずは入れてもらうわ」
「どうぞ」
そう言うと、母さんは扉へ歩き出した。
クレアもそれに続く。
母さんとクレアが家の中に入ってくると、部屋の空気が一段と狭くなった気がした。
クレアは玄関をくぐるなり、まず居間を一瞥した。
視線の動きが早い。壁、床、椅子、棚、台所、窓際。まるで値踏みするみたいに、ひとつずつ見ていく。
「悪くないじゃない」
「褒めてるの?」
「一応ね」
母さんが少しだけ肩をすくめる。
二人のやり取りは刺々しいのに、妙に息が合っていた。姉妹というのは、こういうものなのだろうか。近いのに、だからこそぶつかる。
クレアは次に、居間の中央にあるテーブルへ視線を落とした。
その上には、俺がさっきまで見ていた木札と、炭の棒が置かれている。
「勉強中だったの?」
「ええ。アルナに文字を教えていたの」
「へえ」
クレアはそこで初めて、はっきりと俺に視線を向けた。
「貴方が、アルナね」
突然名前を呼ばれて、俺はびくっと肩を跳ねさせた。
「は、はい……」
声が少し裏返った。
情けない。けど、仕方ない。あの目は、なんだか逃げられない感じがある。
クレアは数歩こちらへ来る。
それだけで、背がすっと伸びた。背筋がぴんとしたまま、じっと俺を見る。
「……ふうん」
たったそれだけだった。
なのに、頭の中で何かを測られている気がして落ち着かない。
「怖がらなくていいわ」
「怖がってないです」
「そう?」
「……ちょっとだけ」
正直に言うと、クレアの口元がほんの少しだけ緩んだ。
「言い切るまでが早いのね」
「この子は素直なのよ」
「素直、ね」
母さんは嬉しそうに言ったが、クレアはまだ俺を見ていた。
目元は母さんと似ているのに、印象はまるで違う。母さんが柔らかく包むような目なら、クレアは細く鋭く射抜くような目だ。
「……でも、思ったよりは落ち着いているのね」
「え?」
「もっと泣き虫か、もしくは生意気かと思っていた」
「失礼な」
思わず言い返すと、クレアは少しだけ目を見開いた。
それから、ふっと鼻で息を吐く。
「なるほど。生意気な方じゃない。いいわ、そのくらい元気なら」
何なんだこの人。
最初は怖いと思ったのに、会話してみると、怖いというより容赦がない。
クレアはようやく俺から視線を外した。
そして、再び部屋を見渡す。
「それで、ここで暮らしているのね」
「ええ」
「……思っていたより、ちゃんとしてる」
「思っていたより?」
「だって、貴女のことだから、もっと無茶してると思ったもの」
「ひどい」
母さんが頬を少し膨らませる。
クレアはそれを見ても、表情を崩さない。
「でも、無事でよかった」
「……うん」
その一言だけ、少しだけ声がやわらかかった。
俺はそれを聞いて、さっきまでの張りつめた空気がほんの少しだけ緩むのを感じた。
その時だった。
「奥様、お茶をお持ちしました」
静かな声とともに、セレスが盆を持って入ってきた。
クレアはそちらに目を向ける。
一瞬だけ、視線が鋭くなる。
セレスは落ち着いたまま、一礼した。
それを見たクレアは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……変わらないわね」
「お久しぶりです、クレア様」
「ええ。相変わらず、無駄にできる侍女ね」
「お褒めに預かり恐縮です」
褒めていない。たぶん。
でもセレスは平然としていた。こういう相手にも、動じないらしい。
母さんが苦笑しながら席を勧める。
「座って。本題に入りましょう」
「ええ」
クレアは椅子に腰を下ろす前に、もう一度だけ俺を見た。
胃のあたりが、また重くなる。
どうやら今日は、ただのお客さんの日じゃないらしい。




