第二話 ミア
ミア・ヒアリス=グランディアは、アレス王国貴族、グランディア家の次女として生まれた。
グランディア家は王都でも名の知れた家で、庭園の広さも、屋敷の天井の高さも、そこに飾られた絵画の一枚一枚も、どれを取っても立派だった。けれど、ミアにとって幼い頃の屋敷は、ただ大きくて、少しだけ冷たい場所だった。
上には年の離れたクレア姉様とリゲル兄様がいる。
クレア姉様は、いつも背筋がぴんと伸びていて、言葉も所作も美しかった。何をするにも隙がなく、侍女たちでさえ思わず息を潜めるほどだった。
リゲル兄様はその反対に、やわらかな笑みを絶やさない人だった。庭で転んで膝を擦りむいたときも、泣きそうな顔で失敗したときも、兄は決して笑わなかった。
「痛かったな。大丈夫か、ミア」
その一言だけで、泣きたかった気持ちが少しだけ引いていくのだった。
そして、ミアの傍らには、いつもセレスがいた。
同い年の侍女。だが、ただの侍女ではない。
セレスは妾の子だった。屋敷の中では、その事実を大きな声で言う者はいなかったが、子どもたちは子どもたちなりに、そういう空気をどこかで感じ取っていた。けれどミアは、そんなことを気にしたことがなかった。
なぜならセレスは、最初からずっとセレスだったからだ。
髪を結ぶのも、服のしわを整えるのも、茶器を運ぶのも、礼儀作法も魔法も、何でも器用にやってのける。手先も利くし、気も利く。怒られている侍女の代わりにさっと雑務をこなし、食事の時間にはさりげなくミアの好きなものをそっと皿の端へ寄せてくれる。
「ミア様、また襟が裏返っています」
「えっ、どこ?」
「ここです」
「直してくれる?」
そんなやり取りをしながら、セレスはいつも少しだけ口元を緩める。笑っているようで笑っていない、その絶妙な顔つきが、ミアは好きだった。
対してミアは、余り器用な方ではなかった。
魔法も、礼儀作法も、なかなか上手く覚えられない。
同じ動きを何度繰り返しても、手を上げる角度が違う、視線の置き方がずれる、言葉の順番を間違える。魔法の詠唱を口にしても、火花が出たと思えば消え、風を呼ぼうとすればただ空気が揺れるだけ。水を浮かべようとして自分の袖を濡らし、何度も親や先生たちにため息をつかれた。
でも、そんな私をリゲル兄様は差別しなかった。
「ミア、お前はお前だ。誰にでも得意不得意はある。自分をそんなに責めるな」
セレスはいつも通り、私のそばにいた。それだけでよかった。
私が失敗して、リゲル兄様が励ましてくれて、セレスが助けてくれる。そんな充実した日々では無かったけれど。私はそんな日々が好きだった。
でも、そんな穏やかな日々は、長くは続かなかった。
父が死んだとき、屋敷は音を立てて崩れたわけではなかった。
ただ、静かに、見えないところから腐っていった。
弔いの花がまだ乾ききらぬうちに、遠縁の親族たちは集まり、誰が次の当主にふさわしいかを囁き合った。口では哀悼を述べながら、その目は父の椅子ばかりを見ていた。
グランディア家は王都でも名の知れた家だったが、父を失った途端、その名は守るべき誇りではなく、奪うべき財産へと変わった。
リゲル兄様は必死だった。
父の死で揺らぐ家を立て直すため、政務を学び、帳簿を見直し、王都の古い伝手を一つずつ拾い直した。弱った家の者たちを切り捨てず、領地の税を軽くし、外に流れていた金を戻した。
兄様は優しい人だった。だからこそ、誰よりも傷つきやすかった。
そんな兄様が、私は、私は惹かれて行ったのかもしれない。
(この人を――守りたい)
妹としてではなく。ただの家族としてでもなく。
もっと近くで、誰にも触れられない場所で。
その願いは、静かに、けれど確かに形を持ち始めていた。
そしてそれが、この家で決して許されないものであることを――
私は、まだ深く理解していなかった。
***
私が兄様の子を身籠ったのは、17歳の頃だった。
リゲル兄様は、何も言わなかった。ただ長い沈黙のあと、ゆっくりと目を伏せた。その仕草だけで、すべてを理解したのだと分かった。
「……そうか」
かすれた声だった。責めるでも問い詰めるでもない、ただ事実を受け止める声。
私は言葉を探した。謝るべきか、それとも違う何かか。けれどどの言葉も違う気がして、喉の奥で絡まるのが分かった。
「兄様、私は――」
「ミア」
遮るように呼ばれる。顔を上げると、そこには怒りも嫌悪もなく、ただ深い疲れと葛藤だけがあった。
「……誰にも、言っていないな」
「うん」
「セレスは?」
「……まだ」
短い沈黙の後、兄様は額に手を当て、息を吐く。
「……時間がないな」
その現実的な言葉が、妙に重く落ちた
「どうするの……?」
馬鹿な質問だと自分でも思う。自分で選んだはずなのに、その先を考えていなかったことに気づく。ただ近くにいたかった、それだけだった。
「このままでは、いずれ知られる」
兄様の声は、もう当主のものだった。
感情を押し殺し、状況を見据える声。
「そうなれば、お前は……いや、俺も無事では済まない」
“無事では済まない”
この国、いや、この世界では近親相姦はタブー視され、ましてや実妹が当主の子を身ごもるなどあってはならない。だがミアはその言葉の意味を、ことの重大さを正確には理解していなかった。
「……それでも」
気づけば、言葉が出ていた。
「後悔は、してない」
「私は……兄様のそばにいたかった」
声は震えていた。それでも、止めなかった。
「誰にも見せない顔を、私にだけ見せてくれるのが……嬉しかった」
長く、長く感じる沈黙のあと兄様は、ゆっくりと目を閉じた。
「……俺が、間違えた」
その一言は、重かった。
「守るべきものを、守れなかった」
「違う!」
思わず声を上げる。
「これは私が――」
「違わない」
静かに、しかしはっきりと否定される。
兄様は目を開け、まっすぐミアを見た。
「お前は、何も悪くない」
その言葉は、昔と同じだった。何度も、何度も、ミアを救ってきた言葉。
けれど今は――どこか悲しかった。
「……俺が、止めるべきだった」
その声には、確かな悔いが滲んでいた。
ミアは、言葉を失う。
自分が望んだはずのことなのに、それが兄をこんな顔にさせている。その事実が、胸を締めつける。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
「……失礼いたします」
聞き慣れた声。セレスだった。
「入れ」
兄様の短い声に応じて、扉が静かに開いた。セレスはいつも通り一礼し、顔を上げ――そして、私を見る。その一瞬で、すべてを察したのだと分かった。多分、薄々気づいていたのだろう。
「……そうですか」
ただ、それだけを言った。驚きも動揺もない。けれど、ほんのわずかに目の奥が沈んだ気がした。
「セレス……」
名前を呼ぶと、彼女は小さく首を振る。
「後ほど、お話を伺います」
それから視線を兄様へ向ける。
「リゲル様、時間がございません」
「分かっている」
短い応答。そこにはもう、感情は挟まれていなかった。セレスは一歩前に出る。
「いくつか手はございます。一つは、外へ出すこと。信頼できる者のもとへ」
「危険が大きすぎる」
兄様は即座に否定する。
「追跡の可能性がある。今の家の状況では守りきれない」
「では、もう一つ」
セレスは淡々と続ける。
「“なかったことにする”ことです」
その言葉が落ちた瞬間、息が詰まった。
「……それは、だめ」
自分でも驚くほどはっきりと言っていた。セレスの視線が私に向く。
「現実的な選択です」
「でも……これは、私の……」
言葉が途切れる。それでも、腹に手を当てた。
「……消したくない」
沈黙。
兄様は目を伏せ、強く拳を握る。机の上の紙が、わずかに震えた。
兄様はしばらく何も言わなかった。やがて、静かに息を吐く。
「……偽装するしかない」
低い声だった。感情を削ぎ落とし、ただ結論だけを置くような響き。
「ミアは――死んだことにする」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。けれど、遅れてそれが現実として胸に落ちてくる。
「……え」
掠れた声が漏れる。
兄様は視線を外さなかった。
「病だ。急な高熱、原因不明。手を尽くしたが及ばず……そういう筋書きにする」
淡々と続けられる言葉が、やけに具体的で、逃げ場を奪っていく。
「葬儀も出す。棺は……空でいい。顔は見せない理由はいくらでも作れる」
「……兄様」
呼んだ声は、自分でも分かるほど弱かった。
「それじゃあ……私は……」
「生きる」
即答だった。
「ここではなく、外で」
その一言に、はっきりと線が引かれる。
ここにいる“ミア・ヒアリス=グランディア”は死ぬ。そして、別の誰かとして生きる。
「辺境に、俺の古い伝手がある。人目につかない場所だ。名も変える。記録も消す」
兄様はゆっくりと言葉を積み上げていく。
「子も、そこで産める」
その言葉に、無意識に腹へと手を当てた。
守れる。
けれど――
「……戻れないの?」
聞かずにはいられなかった。兄様の表情が、ほんの一瞬だけ揺れる。だが、すぐに消えた。
「戻れない」
短く、はっきりと。
「戻れば、すべてが壊れる」
その言葉は、優しさではなく現実だった。
私は何も言えなかった。
分かっている。ここに残れば、いずれすべてが露見する。そうなれば、自分だけでは済まない。兄様も、この家も、巻き込まれて崩れる。
それでも――
「……兄様と、離れるの?」
喉の奥から、絞り出すように出た言葉。
沈黙。長く、重い沈黙。やがて兄様は、一歩だけ近づいた。そして、昔と同じように、ミアの頭に手を置く。
「……ああ」
その手は、少し震えていた。
「だが、守るためだ」
それ以上の言葉はなかった。それで、十分だった。セレスが静かに口を開く。
「手配は、私が行います」
その声は、いつもと変わらない。
「発症から三日で逝去。医師は買収済みの者を使います。記録は改竄、遺体は密かに処理。葬儀は最小限で済ませましょう」
淡々とした段取り。
人一人の“死”が、あまりにも滑らかに組み立てられていく。
「移送は夜間に。護衛は最低限に抑えます。目立たぬ方がよろしいかと」
「頼む、クレアの方は私が説明する」
兄様の短い返答。
それで、すべてが決まった。セレスは私の方へ向き直る。
「ミア様――いえ」
ほんの一瞬、言葉を選ぶ。
「新しいお名前を、後ほど」
その言い換えが、妙に胸に刺さった。
私は小さく頷く。
「……分かった」
声は震えていたが、崩れはしなかった。ここで崩れたら、本当に終わる気がしたから。
部屋の中が、静かになる。
もう、言うべきことはほとんど残っていなかった。
それでも――
「兄様」
最後に、呼ぶ。
リゲル兄様は顔を上げる。
「……私、ちゃんと生きるね」
その言葉に、兄様の目がわずかに細まる。
「ああ」
短く、しかし確かに返ってくる。
「生きてくれ」
それが、別れの言葉になるのだと――
そのときのミアは、まだどこかで信じきれていなかった。
***
私は辺境の地で、誰にも知られぬまま、ひっそりと日々を過ごした。
それまでの屋敷とは違い、窓の外には風の音しかなく、夜になると闇が本当に深かった。けれど不思議と、あの家で息を潜めていた頃よりも、ここでの暮らしのほうが少しだけ人間らしかった。
村は小さく、言葉も少なく、私を知る者はいない。だから私は、もう“ミア・ヒアリス=グランディア”ではなく、名を変えたひとりの女として静かに過ごした。
やがて、お腹は少しずつ大きくなり、そして、その日が来た。
その夜は、ひどく冷えた。
産みの痛みが押し寄せるたび、私は歯を食いしばって、ただ息を繋いだ。傍らではセレスが一度も取り乱さず、けれど確かな手つきで私を支え続けてくれた。額に浮かんだ汗を拭い、呼吸を促し、弱音を吐く私の手を離さなかった。
「大丈夫です、もう少しです」
「……っ、う、うう……っ」
言葉にならない声が漏れる。痛みで何もかもが遠のきそうになるたび、セレスの声だけが近かった。私はただ、必死にその声を追った。
そして、長い夜の果てに――
「ああ……! アルナ!」
小さく、けれど確かな産声が部屋に満ちた。
胸の奥から何かがほどける。私は震える手を伸ばし、その小さな存在を受け取った。温かかった。驚くほどに。こんなにもか細いのに、確かに生きている。
「よかった……ちゃんと、息してる……」
震える声でそう言うと、視界が滲んだ。泣いているのか、笑っているのか、自分でも分からない。ただ、この子がここにいる。それだけで、すべてが報われたような気がした。
腕の中の赤子は、目を開けて、ただ「うー、あー」と小さく声を漏らした。
そのかすかな音が、どうしようもなく愛おしかった。
セレスは少しだけ目を細めて、その子を見つめた。長く黙っていたあと、静かに言う。
「この子は、きっと強い子になります」
私はアルナを抱きしめたまま、ゆっくりと息を吸った。熱くて、痛くて、でも確かに満ちていく。もう失うだけの日々ではないのだと思えた。
「……ええ。だって、この子はーー」
あの人と、私の子だもの。




