第二十八話 ただいま②
地下通路の中は、一年前とほとんど変わっていなかった。
壁も床も剥き出しの土で作られた狭い通路には湿った空気が溜まり、アルナの指先に灯した小さな炎が、二人の影を壁へゆらゆらと映し出している。
「暗いね……」
「足元、気をつけろよ」
「うん……」
後ろから聞こえてくるルークの声は、いつもより少し小さい。アルナは振り返らず、足元だけを照らしながら先へ進んでいった。
しばらく歩くと、通路が二つに分かれていた。
「アルナ、どっち?」
「……こっち」
ほとんど迷うことなく左を選ぶ。
一年前、ここを通った。
煙の匂いが漂う中、母さんとセレスに連れられて必死に走った道だ。あの時は後ろを振り返る余裕なんてなく、どれくらい走ったのかも覚えていなかったが、不思議なことに曲がる場所だけは身体が覚えていた。
右。次は左。
記憶を辿るように進んでいくと、やがて暗闇の向こうに小さな光が見えてきた。
「……出口だ」
アルナは炎を消し、少しだけ歩く速度を上げる。後ろからルークの足音も続き、二人は光へ向かって進んでいった。
やがて土の階段を上り、半分ほど崩れていた出口から外へ出た瞬間、地下の暗闇に慣れていた目へ昼の光が差し込み、アルナは思わず片手で目元を覆った。
「眩し……」
数度瞬きをしてから周囲を見回すと、そこには一年前と同じ森が広がっていた。ただし当然ながら何もかもが同じというわけではなく、地下通路の出口には蔓が絡みつき、知らずに通りかかれば、ここに人の作った通路があるとは気付かないほど植物に覆われている。
「ここが出口?」
「ああ……」
ルークの問いに答えながら、アルナはゆっくりと森へ足を踏み出した。
覚えている。あの日も、ここから出た。
夜だった。月の光しかない暗い森で、村から上がる炎だけが木々の隙間を赤く染めていた。
そして。
「……」
アルナの足が止まった。
草に覆われていて最初は分からなかったが、地面が不自然に凹んでいる。少し先にはさらに大きく土が抉れた場所があり、そこだけ周囲より植物の生え方が薄い。
アルナは近寄り、しゃがみ込んだ。
「これ……」
一年という時間のあいだに雨風へ晒され、ほとんど土と同じ色になっているが、それでも地面の一部には黒い跡が残っていた。
視線を上げる。
近くの木の幹にも傷がある。
刃物で抉られたような跡。何かが強くぶつかったように凹んだ幹。そして、そのさらに上には一本の矢が深く突き刺さったまま残されていた。
「矢……?」
ルークが呟く。
アルナは答えなかった。答える余裕がなかった。
その隣の木にも一本。
少し離れた地面には折れた矢が半分ほど埋まり、草を掻き分ければ、赤茶色に錆びた剣まで転がっている。
一年前の記憶と、今目の前にある景色が少しずつ重なっていった。
『こんにちは、リゲル“元”当主の妹さん』
「……ここだ」
低い声が漏れた。
「え?」
「ここだったんだ」
地下通路を抜けたところで、ガルドの手下達が待っていた。
剣や斧を持った男達が木の陰から現れ、自分達を取り囲んだ。
あの日は何も分からなかった。グランディア家が何なのかさえ、ろくに知らなかった。
ただ怖くて、母さんのそばにいることしかできなかった。
けれど。
アルナは黒ずんだ地面へ手を伸ばした。
『《フレア・バースト》』
次の瞬間、記憶の中で炎が弾けた。
暗い森を真っ赤に染めた爆炎。吹き飛ばされる男達。頬を撫でた熱。そして、その炎の前に立つセレス。
アルナはゆっくり立ち上がり、少し離れた場所へ歩いていく。
そこにも地面の傷が残っていた。草が妙な方向へ倒れるように生えており、その向こうの木には何本もの細かな傷が刻まれている。
『《エア・ウォール》』
「……」
見えない壁を張って、セレスが追手を止めた。
その間に。
『今です! 行け、アルナ!』
俺と母さんを逃がした。
「セレス……」
思わず名前が漏れる。
ルークが何も言わず、アルナの横へ来た。
アルナは森の左側へ顔を向ける。
覚えている。
『外へ出たら、すぐ左へ』
『森の奥です』
『振り返らないで!』
母さんの手を引き、何度も転びそうになりながら、ただ森の奥へ向かって走った。
その後ろに、セレスを残して。
「ここで……セレスが囮になったんだ」
「囮……?」
「ああ」
アルナは辺りを見回した。
一年経った森の中に、あの日の戦いだけが傷跡として残っている。
「俺と母さんを逃がすために、一人でここに残ったんだ」
ルークは何も言わなかった。アルナもそれ以上説明しなかった。
あの日は振り返れなかった。
だから知らない。
自分達が逃げたあと、ここで何が起きたのか。
セレスが何人と戦ったのか。
どうやって戦ったのか。
「……その、セレスっていう人は、どうなっ――」
「生きてるよ」
ルークの言葉を最後まで聞く前に、アルナは遮るようにそう言った。
自分でも驚くほど早い返事だった。
「セレスは……家族で、師匠みたいなもんだった。俺に魔法や、この世界のことを教えてくれた。死んでなんかない。生きてる」
言い切ってから、アルナはもう一度周囲を見回した。
そうだ、生きてるんだ。
少なくとも目に見える範囲には骨ひとつ、服の切れ端ひとつ、人が倒れていたと分かるような痕跡すら見当たらなかった。
「ほら、見ろよ」
アルナは少し強い口調のまま、地面を指差した。
「剣もある、矢もある、戦った跡だってこんなに残ってるのに、セレスの……その、そういうのは何もないだろ」
「う、うん……」
「だったら逃げたんだよ。セレスなら出来る。炎も使えるし、風も使えるし、治癒魔法だって使えたんだから」
アルナはまるでルークではなく、自分自身へ言い聞かせるように次々と言葉を重ねていった。
家事も出来た。勉強も教えられた。魔法だって使えた。何を聞いても大抵答えてくれて、俺が調子に乗って魔法を使い続ければ呆れながら止めてくれて、朝になれば飯を作ってくれて、夜になれば寝るように言ってきた。
そんなセレスが、こんなところで簡単に死ぬわけがない。
「絶対、生きてる」
アルナはもう一度そう言った。
ルークはしばらく何も答えず、ただアルナの横顔を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「……うん」
その返事が妙に優しく聞こえて、アルナは少しだけ顔を背けた。
セレスが生きているなら、あの日ここからどこへ向かったのか、それを今すぐ知る方法はないかもしれないが、少なくともこの場所を探せば何か残っている可能性はある。それに、自分がここへ戻ってきた本来の目的も忘れてはいけない。
神の欠片。あの日、母さんが持っていたはずの石。
「行くぞ」
アルナがそう言って歩き出すと、ルークは少し遅れてその背中を追いかけながら、首を傾げた。
「どこに?」
「あっちだ」
アルナは足を止め、木々の隙間へ向かって指を差した。
「ここでセレスが囮になってくれて、俺と母さんはあっちに逃げたんだ」
「覚えてるの?」
「全部じゃない。でも、だいたいは」
正確に覚えてると言えば嘘になる。でも、母さんに手を引かれながら必死に走った方向だけは、胸の奥に焼きついたままだった。
アルナは草を踏み分け、森の奥へ進んでいく。
落ち葉と土に覆われた地面、絡み合う根、ところどころに生えた低い草、そのどれもが一年前の記憶を簡単に覆い隠していて、もし何も知らずに歩いていたなら、この辺りで人が追われ、魔法が使われ、命を懸けた逃走があったなど想像もできなかっただろう。
「この辺だったかな……」
アルナは小さく呟きながら周囲を見回し、少し進んでは足元を確認し、木々の並びを見ては記憶と照らし合わせる。
あの時は暗かった。
村の火が木々の向こうを赤く染め、足元なんてまともに見えず、ただ母さんの手だけを頼りに走っていたのだから、景色を細かく覚えているはずもない。
それでも、進むにつれて胸の奥に嫌な感覚が戻ってきた。
たぶん、この辺りだ。
「アルナ?」
後ろから呼ばれて、アルナは返事をせずに足を止めた。
視線の先、太い木の根が地面からいくつも浮き上がっている。
普通なら珍しくもない光景だったが、その周囲だけ妙に土が盛り上がり、何本かの根は途中で千切れたように不自然な形で乾いていた。
アルナはゆっくり近づいた。
『《ルート・バインド》』
記憶の中で、母さんの声が蘇る。
地面から伸びた無数の根が、追ってきた男達の足へ絡みつき、その動きを止めた。
「……母さんが使った魔法だ」
「これが?」
「ああ。多分な」
確証なんてない。それでもアルナには、そうとしか見えなかった。
この場所で追手に見つかり、母さんが《ルート・バインド》を使った。
そして自分も。
『大気を漂う水よ、我が魔力に応え形を成せ――《ウォーターボール》!』
初めて、人に向けて魔法を撃った。
威力なんて大したことはなく、相手を倒すことさえできなかったけれど、それでも顔に当たり、一瞬だけ相手の動きを止めることができた。
あの時の自分は、それが嬉しかった。
魔法が通用した。練習してきたことが無駄じゃなかった。そう思って、ほんの少しだけ自信を持てた。
その直後に何が起こるのかも知らずに。
「……行こう」
アルナは根から視線を外した。
「まだ先だ」
ルークは何も聞かなかった。ただ小さく頷き、アルナの後ろをついてくる。
そこから先は、さっきまでよりも歩く速度が速くなった。
意識なんてしていなかったが、自然とそうなっていた。あとちょっと。あともう少しで母さんに会える。
形なんて残っていなくていい。骨だけでもいい。何か一つでもここに残っていてくれれば、それで母さんが確かにここにいたのだと、あの日の出来事が夢なんかではなかったのだと確かめられる気がして、アルナの足は一歩進むたびに速くなっていった。
「母さん……!」
気付いた時には走っていた。低く伸びた枝を腕で払い、足元の根を飛び越え、背後からルークが何かを叫んでいるのも聞こえていたはずなのに、その言葉は頭の中まで入ってこない。
息が苦しくなっても止まらず、記憶の奥に残っている景色だけを追いかけながら木々の間を駆け抜け、そして。
視界が開けた。
「……墓?」
足が止まった。
そこだけ木々が途切れ、小さく開けた場所になっていた。木漏れ日が落ちる地面には背の低い草が生え、その中央に土が不自然に盛られた場所があり、その頭に一本の木で作られた粗末な十字架が立てられている。墓石なんて立派なものではなく、二本の木を組み合わせただけの簡素なものだったが、それが何のために作られたものなのか、説明されなくても分かった。
「はぁ……はぁ……アルナ、急に走らないでよ……」
少し遅れて追いついたルークが息を切らしながら隣まで来たが、アルナは答えなかった。
墓から目を離せなかった。
一歩、近づく。
さらに一歩。
誰の墓なのかなんて書かれていない。木の板も名前もなく、ただ十字架と盛られた土があるだけで、これだけなら森の中で死んだ誰かを埋めただけの墓なのかもしれない。
けれど、その十字架に掛けられているものを見つけた瞬間、そんな可能性は頭の中から消え去った。
「……え」
小さな首飾りだった。
細い紐の先に、見覚えのある石がぶら下がっている。
土埃に汚れ、一年前に見た時ほど綺麗ではなくなっていたが、それでも木々の隙間から差し込む光を受けた瞬間、石の奥で微かな光が揺らめいた。
忘れるはずがない。
五歳の時、森で拾った石。
何の石なのかも分からないまま家へ持ち帰り、母さんに預けたもの。そして今は、その正体を知っている。
「神の……欠片……」
アルナの声が震えた。
探していたものだった。
わざわざリートを経由してまで戻ってきた理由であり、神に頼まれたものでもあり、見つければ喜ぶべきものだったはずなのに、アルナの頭にはそんなことは一つも浮かばなかった。
なぜ、ここにある。
なぜ、墓に掛けられている。
なぜ、母さんが持っていたものが。
「……母さん?」
アルナは墓の前まで歩き、膝から力が抜けるようにしゃがみ込んだ。
土へ手を置く。
当然、何も返ってこない。
冷たいわけでも温かいわけでもない。ただ陽の光を浴びた土の感触だけが、掌へ伝わってくる。
「ここに……いるの?」
返事はない。
分かっていた。返事なんてあるはずがない。
母さんは死んだ。
あの日、自分の目の前で剣を受けた。何度治癒魔法を使っても何も起こらなくて、自分の腕の中で少しずつ声が弱くなり、最後には動かなくなった。
知っていた。
ずっと知っていた。
それでも、アルナのどこかにはまだ現実として受け入れ切れていない部分があったのかもしれない。あの日はあまりにも多くのことが起こりすぎて、母さんが死んだ直後には自分も捕まり、奴隷収容所へ連れていかれ、脱獄して、ガルドと戦い、自分まで二度死んで、立ち止まって考える時間なんてほとんどなかった。
けれど今、目の前に墓がある。
母さんが持っていた神の欠片が、墓標へ掛けられている。
それだけで十分だった。
「……そっか」
アルナは土を握った。
「誰かが……埋めてくれたんだ」
誰なのかは分からない。あの日の追手かもしれないし、後から森を通った誰かかもしれないし、あるいは。
一瞬だけ、セレスの顔が浮かんだ。
もし生き延びていたのなら。
もし、自分達が逃げた後を追ってここまで来たのなら。
「……セレス?」
アルナは十字架を見上げた。
そう考えれば、この墓がここにあることにも説明がつく気がした。母さんがこの石を持っていたことを知っていて、母さんをこんなふうに埋葬する人間なんて、アルナには一人しか思いつかなかった。
「セレスが……作ったのか?」
もちろん確証はない。ただの願望かもしれない。
それでも、そうだったらいいと思った。
セレスは生き延びた。そして母さんを見つけて、ここに埋めてくれた。それから何らかの理由でこの場所を離れた。
だったら。
まだ会えるかもしれない。
「アルナ……」
背後からルークの声がした。
振り返ると、ルークは少し離れた場所に立ったまま墓を見つめていた。いつもなら隣まで来るはずなのに、今だけは近づかず、何を言えばいいのか分からないような顔でこちらを見ている。
アルナはそんなルークへ何か言おうとして、やめた。
代わりに墓へ向き直る。
「母さん」
今度は、はっきりと呼んだ。
「帰ってきたよ」
木々の葉が擦れ合い、ざわざわと森の中へ音が広がっていく。
「一年もかかっちゃった」
アルナは十字架へ手を伸ばし、そこに掛けられた首飾りへ触れた。神の欠片を回収しなければならないことは分かっている。それでもすぐに外す気にはなれず、指先で石の表面をなぞったあと、そのまま手を離した。
「色々あったんだ。捕まって、変なところに連れていかれてさ。そこでルークと会った」
少しだけ後ろを見る。
ルークは黙ってこちらを見ていた。
「最初は、ずっと俺のこと見てくるから変な奴だと思ってた。でも友達になって、一緒に魔法を練習して、それで二人で逃げたんだ」
話しているうちに、どうしてこんなことを墓に向かって話しているんだろうと思った。
けれど、口は止まらなかった。
「俺、強くなったよ。無詠唱でも魔法を使えるようになった。火も風も使えるし……雷も、まあ、一応使えた。あれは自分でもよく分かってないけど」
母さんが聞いたら、どんな顔をするだろう。
きっと最初は驚く。それから危ないことをするなと怒るかもしれない。
でも最後には。
褒めてくれるだろうか。
「……母さんに見せたかったな」
その言葉だけは、途中で少し掠れた。
アルナは俯いた。
泣くつもりなんてなかった。
一年も経った。
もう五歳の頃とは違う。人を殺した。二度も死んだ。奴隷収容所から逃げ出して、ルークを連れてここまで帰ってきた。
だから、泣く必要なんてないと思った。
それなのに。
ぽたり、と。
握り締めた土の上へ、一滴だけ水が落ちた。
「……あれ」
アルナは自分の頬を触った。
濡れていた。慌てて袖で拭うが、次が落ちてくる。
「なんで……」
もう一度拭う。
また落ちる。
「せっかく……帰ってきたのに」
声が震えた。
「俺、ちゃんと帰ってきたのに……」
背後でルークが一歩だけ近づく音がした。
けれど、何も言わなかった。
それが今はありがたかった。
アルナは墓の前に座ったまま、しばらく動かなかった。
一年ぶりに帰ってきた故郷の森で、ようやく母親の死を悲しむ時間が、アルナに訪れていた。




