第二十七話 ただいま
翌日。
「着いたぞー! リートだ!」
御者の大きな声に、アルナはゆっくりと目を開けた。
隙間から差し込む朝の光が眩しい。昨日は一日中馬車に揺られ、途中で街道沿いの宿場に一泊したものの、慣れない長旅のせいで身体のあちこちが固まっていた。
「んん……」
隣ではルークが眠そうに目を擦っている。
「着いたの?」
「ああ、みたいだな」
アルナは大きく伸びをしてから、幌の隙間から外を覗いた。
そこに広がっていたのは、昨日までいた街とはまるで違う景色だった。
石造りの巨大な外壁はなく、町の周囲を囲んでいるのは腰より少し高い程度の木柵だけ。建物もほとんどが一階か二階建ての木造で、道も石畳ではなく踏み固められた土のままだった。
少し離れた場所には畑が広がり、その向こうには森と低い山々が見える。家々の間では鶏らしき鳥が歩き回り、朝から畑仕事へ向かう人々が鍬を肩に担いで歩いていた。
「……田舎だな」
思わず本音が漏れる。
ルークは幌から顔を覗かせ、珍しそうに町を眺めている。
とはいえ、アルナにとってはどこか懐かしい景色でもあった。
エルム村よりはずっと大きい。それでも昨日の街ほど人が多いわけではなく、建物同士にも隙間がある。朝の空気には土と草、それから家々の煙突から漂ってくる薪の匂いが混じっていた。
なんとなく落ち着く。馬車は町の中央付近にある小さな広場まで進み、そこでゆっくりと止まった。
「終点だ! 忘れ物すんなよ!」
御者の声を聞きながら、アルナとルークは荷台から降りる。
「ありがとうございました」
アルナが頭を下げると、御者は軽く片手を上げた。
「おう。気ぃ付けてな」
アルナは広場へ降り立つと、改めて周囲を見回した。
リート。
ここからエルム村までは歩いて一日もかからない。
つまり、ようやく帰ってきたのだ。
まだ村そのものが見えるわけではない。それでも、一年前に連れ去られた場所がすぐ近くにあると思うと、胸の奥が妙にざわついた。
「……」
アルナは無意識に自分の胸元へ手を置く。
神の欠片。あの家の近くで拾った、光る石。
本当にまだ残っているのだろうか。いや、残っていてもらわなければ困る。
「アルナ?」
「ん?」
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
アルナはそう答えて歩き出そうとした。
だが、ふと昨日のことを思い出す。
リートへ到着するまでの間、ノアには色々なことを教えてもらった。
地理や街道、魔物についてもそうだが、その中でも特に気になったのはアレス王国についてだった。
この国が貴族の力の強い国であること自体は、昔セレスから教わっていた。
しかし、どうやらアルナが思っていた以上に状況は酷いらしい。
近年、貴族達の力はますます強くなっており、王の権力は反対に弱まり続けている。
ノア曰く、今の王はほとんど飾りに近いという。
もちろん王家が無くなったわけではない。国王も健在であり、形式上は今もアレス王国の頂点にいる。
だが実際に国を動かしているのは王ではない。
特に大きな力を持っている二つの貴族家が、この国の政治を大きく左右しているらしい。
その一つが、ヴァルネシア家。
そしてもう一つが――。
「グランディア家……」
アルナは小さく呟いた。
その名前には覚えがあった。というより、忘れるはずがない。
『それはグランディア家の紋章ですね』
以前。ピクニックの日、ガルドが紋章についてセレスへ尋ねた時、彼女は確かにそう答えていた。
丸い輪の中に蔓と花を組み合わせた紋章。
あの時は、その名前が何を意味しているのか分からなかった。
ただ母さんか家族の誰かに関係するものなのだろう、くらいにしか考えていなかった。
だが今なら分かる。
グランディア家。この国で最も強い力を持つ貴族家の一つ。
そして、その当主の名前までノアは知っていた。
セドリック・グランディア。
「……セドリック」
名前を思い出しただけで、アルナの表情が険しくなる。
クレア叔母さんが以前話していたことも覚えている。
『叔父様は、当主になるためなら何でもする人よ』
当時はその意味を完全には理解していなかった。
だが、今なら嫌というほど分かる。兄であるリゲルが死に、セドリックが当主となった。
その後、母さん達が暮らしていた村を兵士達が襲った。
偶然なわけがない。
だったら、クレア叔母さんが言っていた「叔父様」というのは――。セドリックのことだ。
(……待てよ)
アルナは足を止めた。
隣を歩いていたルークも一緒に止まる。
「どうしたの?」
アルナは答えず、頭の中で考える。
グランディア家の兵士達は、自分を捕まえた。その後、自分は奴隷として収容所へ送られた。
そして一年後に脱獄した。
ガルドも殺した。もし収容所とグランディア家が繋がっているのなら直接繋がっていなくても、脱獄した奴隷の情報がどこかで伝わっている可能性はある。
俺が逃げたことを、セドリックが知っていてもおかしくない。
「……まずいな」
思っていた以上にまずい。
俺はもう逃げ切ったつもりでいた。だが、向こうが諦めた保証なんてどこにもないじゃないか。
そもそも、なぜガルドは俺を殺さず奴隷として売った?悪魔付きだったから。それだけなのか?
母さんがグランディア家と関係していたのなら、俺にもその血が流れている。
そして今のグランディア家当主はセドリック。
もし俺の存在そのものが、あいつにとって邪魔なのだとしたら。
「……」
背中に嫌な汗が滲む。
しかも最悪なことに、これから向かおうとしているのはエルム村だ。
自分達が暮らしていた場所。
セドリックが一度焼き払った場所。
追手が俺の行き先を予想するなら、候補に入っていてもおかしくない。
「アルナ?」
ルークが心配そうにこちらを見上げていた。アルナは少し考えてから首を振る。
「いや、大丈夫」
大丈夫ではない。
だが、今さらエルム村へ行かないという選択肢もなかった。
神の欠片は絶対に必要だ。
それに、確かめたい。母さんと暮らした家が、村がどうなったのか。
自分の目で見なければ前へ進めない気がした。
「……行こう」
「うん」
必要なものを回収したら、すぐに離れる。そして、その後は。
アルナは小さく息を吐き、晴れ渡った空を見上げた。
「アレス王国には……長居しない方がいいな」
この国にはセドリックがいる。しかも、ただの貴族ではない。国そのものを動かせるほどの力を持つグランディア家の当主。
今の自分が真正面からどうこうできる相手ではなかった。
なら逃げる。もっと強くなるまで。
神の欠片を集め、母さんを生き返らせるまで捕まるわけにはいかない。
アルナは再び前を見る。
エルム村は、もうすぐそこだった。
*****
それから数時間後。
街道を外れ、見覚えのある森を抜けた先で、アルナの足が止まった。
「……」
最初は、道を間違えたのかと思った。
記憶にある景色と、目の前に広がっているものがあまりにも違っていたからだ。
何度も周囲を見回す。森の形も、遠くに見える山も、村へ続く細い道も覚えている。幼い頃、セレスと何度も歩いた道だった。
間違いない。
ここだ。
ここが、エルム村だ。
「こっ……」
喉から掠れた声が漏れる。
「ここまで……やるか……!」
アルナはその場から動けなかった。
村が焼かれたことは知っていた。あの日、自分の目で炎を見た。家々が燃え、人々の叫び声を聞きながら地下通路を走ったのだから、無事であるはずがないことくらい分かっていた。
それでも、どこかで想像していた。
焼け落ちた家が何軒か残っていて、崩れた柵があって、道だけは昔の形を留めている。そんな光景を。
だが、目の前にあるものは、それすら生温いと思わせるものだった。
一軒も、家がない
焼け焦げた柱がところどころ地面から突き出し、かつて家が建っていた場所には黒ずんだ石や瓦礫が転がっているだけだった。村を囲っていた柵もほとんど消え、畑だった場所には雑草が伸び放題になっている。
道すら、消えかけていた。
人が歩かなくなった土の道を草が覆い、かつて家々の間を通っていた細い道筋が辛うじて残っているだけだった。
一年。
たった一年で、ここまで消えるのか。
いや、違う。時間が消したんじゃない。
消されたんだ。
「……アルナ」
隣からルークの声が聞こえた。
アルナは返事をしなかった。ルークも、それ以上何も言えなかった。
目の前の光景を見たまま、ただ絶句している。
ルークはエルム村を知らない。知っているのは、ここがアルナの故郷で、一年前に滅んだということだけだ。
それでも分かるのだろう。
ここにはかつて、人が暮らしていた。
そして、その痕跡を残すことすら許されなかった。アルナはゆっくりと村へ足を踏み入れた。
ざっ。
靴の下で乾いた草が潰れる。
その音が、異様なほど大きく聞こえた。
静かだった。鳥の声はする。風が吹けば草木も揺れる。
なのに、アルナの記憶にある音だけが何一つない。
『アルナ様、あまり遠くへ行ってはいけませんよ』
『分かってるって!』
セレスの声。
家の前で作業していた村人達。どこかで遊んでいた子供達。
夕方になれば漂ってきた料理の匂い。
全部、ない。
「……ここに」
アルナが呟く。
「ここに、村があったんだ。ほんとに」
ルークは黙っていた。
「人が住んでた。俺も……母さんも、セレスも」
言葉にするたび、目の前の光景と記憶が噛み合わなくなる。
アルナは辺りを見回した。
確か、あそこには家があった。
あっちには畑。
もう少し向こうへ行けば、よく水を汲んでいた場所があったはずだ。
頭の中には残っている。
なのに目の前には何もない。
まるで最初から、エルム村なんて存在しなかったかのように。
「……ふざけんなよ」
アルナの拳が震えた。
村を襲っただけじゃない。
母さんを殺しただけじゃない。
ここで人が暮らしていたという痕跡まで、根こそぎ消していきやがった。
しばらく二人とも動かなかった。
やがてアルナは奥歯を噛み締めると、無理やり足を前へ出した。
「行くぞ」
「……どこに?」
「家だ」
自分でも、おかしな言い方だと思った。
もう家なんて残っていないかもしれない。それでも場所は覚えている。
何度も走った道だ。セレスに怒られながら駆け回り、母さんの待つ家へ帰った道だ。
忘れるわけがない。アルナは消えかけた道を辿っていく。
一歩進むたびに、記憶の中の村が現在の景色へ重なっていった。
ここを右。次を真っ直ぐ。
大きな木が見えたら、その向こう。
「……あった」
アルナが立ち止まる。
そこに「家」はなかった。
ただ、家だった場所が残っていた。
黒く変色した土と、崩れた石の基礎。焼けた木材はほとんど朽ち、かつて壁だったものも屋根だったものも判別できない。
アルナは立ち尽くした。
ここだ。
間違えるはずがない。
朝になればセレスが起こしに来た。
母さんと飯を食べた。
魔法の練習をして、失敗して、褒められて、怒られた。
七年間。この世界で生まれてからの、ほとんど全部がここにあった。
「……ただいま」
誰に聞かせるでもなく、アルナは小さく呟いた。
アルナはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて何かを思い出したように視線を足元へ落とすと、そのまま黙って瓦礫へ手を伸ばした。
焼け焦げた木材を持ち上げ、脇へどかす。崩れた石を一つずつ転がし、土に半分埋まっている板を引っ張り出す。
「……」
何も言わない。ただ、ひたすら手を動かし続ける。
ルークは少し離れた場所でその様子を見ていたが、どう声を掛ければいいのか分からないのだろう。何度か口を開きかけては閉じ、結局しばらく黙ったままアルナの背中を見つめていた。
「アルナ……」
やがて、遠慮がちな声が飛んでくる。
「何、してるの?」
アルナは答えなかった。
瓦礫の下に手を差し込み、少し大きな石を両手で持ち上げる。子供の身体には重く、腕が震えたが、それでもどうにか横へ転がした。
ごろり、と鈍い音が鳴る。
その下から、黒く汚れた木の板が現れた。
「……」
アルナの動きが止まる。
覚えている。
アルナは急いで周囲の土を払い、板の端へ指を掛けた。焼けて脆くなっている部分を避けながらゆっくり持ち上げると、ぎぃ、と嫌な音を立てて板が開く。
その下には、暗闇へ続く階段があった。
「……あった」
アルナの声が掠れる。
「地下通路……」
ルークが目を丸くした。
「地下通路?」
アルナは開いた穴を見つめたまま、しばらく動かなかった。
一年前のあの日。記憶が勝手に蘇ってくる。
「村が燃えて……」
アルナがゆっくり口を開く。
「セレスが部屋に来たんだ。すごい顔してて、急いで逃げるって言われた」
ルークは何も言わずに聞いている。
「何が起きてるのか、その時の俺にはよく分かってなかった。外が騒がしくて、煙の匂いがして……母さんも急いでて」
アルナは階段の奥へ視線を落とす。
「それで、この地下通路から逃げたんだ」
「ここを……?」
「ああ」
ルークは暗い穴を覗き込んだ。
階段の先は完全な闇に沈んでおり、どこまで続いているのか外からは分からない。
「じゃあ、ここを通れば外まで行けるの?」
「そう。塞がってなければ、森の中まで繋がってるたぶん、何かあった時に逃げるための通路だ。母さん達が前から準備してたのかもしれない」
そこまで言って、アルナは自分の言葉に少し引っかかった。
逃げ道。
本来なら、人を生かすために作られた場所。
なのにあの日、自分達はここから逃げても助からなかった。
森の出口には、ガルド達が待っていた。
「……」
アルナの指が僅かに震える。
ルークはその変化に気付いたのかもしれないが、何も聞かなかった。
ただ、小さくアルナの服の袖を摘まんだ。
「入るの?」
「……ああ」
アルナは頷く。
「中を確認したい」
「何かあるの?」
「分からない」
でも、確かめたい。
あの日、自分達が逃げた場所。そこに何が残っているのか。
母さんはあの日も、あの石を持っていたはずだ。なら逃げる途中、この通路で落としている可能性だってある。
アルナは手のひらを前へ向け、小さく意識を集中させた。
「《イグニス》」
ぽっ、と指先の近くに小さな火が灯る。
久しぶりに詠唱して使った魔法は、驚くほど素直に形になった。
アルナは火を照明代わりにして、階段の一段目へ足を置いた。
「足元気を付けろよ」
「うん」
ルークもその後ろへ続く。
二人はゆっくりと、暗い地下通路へ降りていった。




