第二十六話
朝の街には、昨日とは違う騒がしさが満ちていた。
宿屋を出たアルナとルークは、服屋の男から教えてもらった組合馬車の乗り場を目指して大通りを歩いていた。空は綺麗に晴れており、まだ朝だというのに店を開く商人や荷物を運ぶ人々が忙しなく行き交っている。
「ねえ、アルナ」
「なんだ?」
「組合馬車って、どんなところなの?」
ルークに尋ねられ、アルナは少しだけ考えてから答えた。
「お金を払ったら近くまで馬車で運んでもらえるんだ」
「へぇ……」
ルークが不安そうな顔でアルナを見つめる。
昨日聞いた話では、組合馬車の乗り場は大通りを北へ進み、大きな噴水のある広場を抜けた先にあるらしい。そこには街同士を行き来する定期便だけでなく、辻馬車や荷物を運ぶ馬車まで集まっているという。
問題は、エルム村へ向かう馬車があるかどうかだった。
いや、正確には期待しない方がいいだろう。
エルム村はもう存在しない。人が住んでいない場所へわざわざ向かう馬車があるとは思えない以上、近くの町か村まで乗せてもらい、残りは歩くことになるはずだ。
昨日見せてもらった地図では、エルム村の近くを一本の街道が通っていた。その先には小さな町もあったはずなのだが――。
名前なんだったっけ。
「……」
アルナは眉間に皺を寄せる。
本当に地名覚えるの苦手だな、俺。
その時、前方から馬の嘶きが聞こえてきた。
続いて木製の車輪が軋む音や、何人もの男達が何かを叫ぶ声が重なってくる。
「あっ、アルナ。あそこじゃない?」
ルークが前方を指差した。
大通りの先に、低い木柵で囲まれた広大な敷地が見える。
中には何台もの馬車が並び、大きな幌馬車から小さな荷車まで様々な種類の車両が行き交っていた。馬へ餌を与える者、荷台へ木箱を積み込む者、何かを確認しながら走り回る者までいて、朝からかなりの賑わいだった。
入口には大きな看板が立っている。
《アレス王国馬車組合》
「ここだ」
アルナが呟くと、ルークは目の前を通っていく馬を興味津々に見つめた。
「馬、こんなにいるんだ……」
「あんまり離れるなよ」
「うん……」
アルナは人の流れに混ざって敷地へ入った。
中へ足を踏み入れた途端、外から眺めていた時以上の喧騒に包まれる。
「北街道行き、あと二人だぞ!」
「そっちの荷物は別料金だ!」
「南門を通る便は昼前に出発するぞ!」
「その箱はこっちだ、早く積め!」
あちこちから声が飛び交い、アルナは思わず周囲を見回した。
……どこ行けばいいんだ、これ。
しばらく探していると、敷地の中央に他より大きな建物があることに気付いた。その前には旅人らしき人々が列を作っており、順番に中の人間と話している。
「あそこが受付っぽいな」
「じゃあ並ぶ?」
「ああ」
二人は列の最後尾についた。
前には大きな荷物を背負った旅人がいて、そのさらに先には籠を持った老婆や、腰に剣を提げた男もいる。アルナは待ちながら、何となく自分とルークの姿を見下ろした。
昨日までとは違う。
泥だらけの奴隷服も、血の跡も、手枷もない。
今の二人は、どこから見ても旅支度をした子供だった。
それだけのことなのに、周囲から見られることへの恐怖が少し薄れている。
やがて列が進み、二人の順番になった。
受付には四十代くらいの男が座っていた。短く刈った髪に無愛想な顔。机の上には何枚もの紙と木札が積み上げられている。
「次。行き先は?」
男は二人を見るなり、慣れた調子で尋ねてきた。
「あの……エルム村の近くまで行きたいんですけど」
受付の男が動きを止める。
「エルム村?」
「はい」
「……そんな村あったか?」
「昔はあったらしいです。一年くらい前に滅んだって聞きました」
「ああ……」
男はようやく思い当たったような顔をすると、横に置いてあった地図を机へ広げた。
「この辺りか?」
「はい、多分そこです」
アルナが昨日と同じ辺りを指差す。
受付の男は地図を眺めながら少し考え、やがて首を横へ振った。
「さすがに村まで直接行く便はない」
「ですよね……」
予想はしていた。
男は地図の上で指を動かし、エルム村から少し離れた場所にある印を叩いた。
「ただし、この街道を通る便ならある。ここにリートって町があるだろ」
「リート……」
「今日の昼前に、そこまで行く組合馬車が一本出るぞ」
アルナは頭の中で町の名前を何度も繰り返した。
リート。リート。リート。
今度こそ忘れない。
「そこからエルム村までは、どれくらいですか?」
「歩いて一日かからん程度だな。ただ、途中から街道を外れることになる。行くなら日があるうちに動け」
「魔物は?」
「出るぞ」
即答だった。
横を見ると、ルークの顔が僅かに引きつっている。
「まあ、あの辺りにいるのはほとんど低級だ。街道から大きく外れたり、森の奥へ入ったりしなければ滅多に襲われん」
「そうですか……」
アルナは小さく頷いた。
低級魔物が具体的にどれくらい強いのかは知らない。
ただ、ガルドよりはマシだろう。
「料金は二人で銀貨六枚だ」
「六枚……」
アルナは革袋を開く。
昨日買った服より少し安い。想像していたほど高額でもなかった。
「お願いします」
銀貨六枚を机へ置くと、男は一枚ずつ確認し、代わりに二枚の木札を差し出してきた。
「三番乗り場だ。出発は鐘が二回鳴った後になる。乗り遅れても金は返さんから気を付けろ」
「分かりました」
「荷物は?」
「ほとんどありません」
「なら、そのまま乗ればいい」
アルナは木札を受け取り、そのうち一枚をルークへ渡した。
「これがあれば馬車に乗れるの?」
ルークは珍しそうに木札をひっくり返す。
「多分な」
「なくしたら?」
「乗れなくなるんじゃないか?」
「……アルナ持ってて」
「お前なぁ……」
受け取って数秒で返された。
アルナは呆れながら二枚の木札を懐へしまい、ルークと一緒に三番乗り場へ向かった。
敷地の端には番号の書かれた札が並んでおり、その三番の前には二頭の茶色い馬に繋がれた大きな幌馬車が停まっている。荷台にはすでに何人かの旅人が座っており、出発を待っているようだった。
「……これに乗るのか」
アルナは幌馬車を見上げる。
幌馬車は、二頭の茶色い馬に引かれる大きな四輪の馬車だった。荷台を覆うように分厚い布が張られており、雨風を凌げるようになっている。十人ほどなら余裕を持って乗れそうな広さがあった。
「結構でかいな……」
「これが馬車?」
「ああ」
「僕、乗るの初めて」
「俺も……いや、一応あるか」
アルナは奴隷馬車で運ばれた時のことを思い出し、すぐに顔をしかめた。
あれを初めてに数えたくないな。
少なくとも自分から金を払って馬車に乗るのは初めてだ。アルナがそんなことを考えながら荷台へ近付くと、御者台に一人の男が座っているのが見えた。四十代くらいだろうか。日に焼けた顔に無精髭を生やした男で、帽子を顔へ被せたまま腕を組み、器用に座った状態でうたた寝をしている。
アルナは少し迷ってから、御者台の横へ回り込んだ。
「あの、すみません」
「……んぁ?」
男の肩がびくりと動いた。顔に被せていた帽子を持ち上げ、眠そうな目でアルナ達を見る。
「なんだぁ……客か」
「はい。リートまで行きたいんですけど」
「リート?」
男は欠伸を噛み殺しながら身体を起こすと、片手を差し出した。
「木札は?」
「あ、はい」
アルナは懐から先ほど受け取った二枚の木札を取り出し、男へ渡した。男は表と裏を軽く確認すると、一枚ずつ指で数えてから頷く。
「二人分な。まだ出発まで時間あるから、中で待ってていいぞ」
「ありがとうございます」
「出発したらしばらく止まらねぇから、便所行きたきゃ今のうちに行っとけよ」
「分かりました」
男はそう言い終わるや否や、再び帽子を顔へ被せた。
数秒もしないうちに動かなくなる。
「……また寝た」
「自由だな、このおっさん」
アルナは呆れながら荷台へ乗り込んだ。後ろからルークもよいしょ、と少し苦労しながら登ってくる。
幌の中へ入ると、外の喧騒が少しだけ遠くなった。左右に置かれた長椅子は当然ながら柔らかくもなく、ただ板を組み合わせただけの簡素なものだったが、森を歩き続けるよりは遥かに楽だろう。
「どこ座る?」
「どこでもいいんじゃないか?」
「じゃあここ!」
ルークは奥の席へ座ると、その隣をぽんぽんと叩いた。
「アルナも」
「はいはい」
アルナも隣へ腰を下ろす。
出発まではまだ時間がある。
幌の隙間から外を眺めれば、組合の敷地では相変わらず大勢の人間が忙しなく動き回っていた。馬車が出ていき、代わりに別の馬車が入ってくる。荷物を抱えた商人が走り、御者達が行き先を叫び、馬の嘶きが時折それらを掻き消していた。
***
やがて時間が経つにつれて、周囲の馬車が次々と出発していった。
しかし。
「……誰も来ないな」
「来ないね」
アルナは幌の入口へ視線を向ける。
そろそろ出発時刻のはずなのに、乗客は自分達二人だけだった。受付では普通に切符を売っていたから、それなりに人が乗るものだと思っていたのだが。
リートってそんなに田舎なのか?
そんな疑問が浮かんだところで、外から足音が近付いてきた。
「すみません、リート行きってこれですか?」
若い男の声が聞こえる。
アルナが顔を上げると、荷台の入口から一人の青年が顔を覗かせた。
年齢は二十歳前後だろうか。使い込まれた革の鞄を肩から提げ、旅人らしい丈夫そうな服を着ている。腰には短剣らしきものが一本あるものの、鎧を身につけているわけでもなく、冒険者というより普通の旅人に見えた。
「そうだよ。木札見せな」
いつの間に起きたのか、御者の男が答える。
青年は木札を渡して確認してもらうと、そのまま荷台へ乗り込んできた。
「お邪魔します」
青年はアルナ達を見て軽く会釈すると、向かい側の長椅子へ腰を下ろした。
「……」
アルナも小さく頭を下げる。
それから待つこと数分。
四人目は来なかった。
結局、出発を知らせる鐘が街のどこかから鳴り響いた時、馬車に乗っていたのはアルナとルーク、それから向かいに座る青年の三人だけだった。
リートという町は、もしかすると自分が思っている以上に小さな場所なのかもしれない。
その時、御者台から男の声が飛んできた。
「そろそろ出るぞ! 揺れるから気ぃ付けろよ!」
直後、ぱしん、と手綱の音が響いた。
二頭の馬がゆっくりと歩き始め、それに引かれるように車輪がごとりと回転する。
「わっ」
突然身体が揺れ、ルークが慌てて長椅子へ手をついた。
ごとごと、ごとごと。
木製の車輪が地面の凹凸を拾うたび、荷台全体が細かく揺れる。
「おお……」
ルークは驚いたように目を輝かせ、幌の隙間から外を覗き込んだ。
アルナもその隣から外を見る。
ゆっくりと組合の建物が遠ざかっていく。
昨日辿り着いたばかりの街を、今度はもう出ていく。
目的地はリート。そして、その先にあるエルム村。
一年ぶりの故郷だった。
***
「貴方達も、リートに用があるんですか?」
「へ?」
突然声を掛けられ、アルナは思わず素っ頓狂な声を出した。
視線を向けると、向かい側に座っていた青年がこちらを見ている。さっきまで窓の外を眺めていたはずなのに、いつの間にか身体を少しこちらへ向けていた。
「あ、すみません。急に話しかけてしまって」
青年はアルナの反応を見て、困ったように笑った。
「驚かせるつもりはなかったんです。ただ、同じ行き先の人が珍しくて」
「ああ……そういうことですか」
アルナは少しだけ肩の力を抜いた。
収容所を出てからというもの、知らない大人に声を掛けられるだけで身体が先に警戒してしまう。ましてや相手は腰に短剣まで差しているのだから、反射的に身構えてしまうのも仕方がない。
青年はそんなアルナの内心など知る由もなく、軽く胸元へ手を当てた。
「僕はノアと言います。旅をしながら各地を回っている者です」
「ノア……」
アルナは小さく名前を繰り返す。
「俺はアルナです。こっちはルーク」
「ルークです」
ルークがぺこりと頭を下げる。
「よろしく、アルナ君、ルーク君」
ノアは穏やかに笑った。見た目通り、話し方も柔らかい。
少なくとも今のところ、ガルドや看守達のような圧はまったくない。
それでもアルナは完全には警戒を解かなかった。
「それで……貴方達もリートに?」
ノアが改めて尋ねる。
「はい。正確には、その先に行きたい場所があって」
「その先?」
「エルム村です」
その名前を出した瞬間、ノアの表情が僅かに変わった。本当に一瞬だった。
目が少し細くなったようにも見える。
「……エルム村?」
「知ってるんですか?」
アルナが問い返すと、ノアは少し考えるように顎へ手を当てた。
「名前だけなら。確か、一年ほど前に無くなった村ですよね」
やっぱり知られている。アルナの胸の奥に、また少しだけ重いものが落ちた。
「はい」
「今は誰も住んでいないはずですが……」
ノアはそこで言葉を止め、アルナとルークを交互に見る。
「そこへ行くんですか?」
「行きます」
アルナは迷わず答えた。
ノアは少し驚いたような顔をしたが、それ以上理由を聞いてくることはなかった。
「そうですか」
ただ、それだけだった。その反応にアルナは少しだけ拍子抜けする。
もっと「なぜ?」とか「危ないですよ」とか聞かれるかと思っていた。
すると隣に座るルークが、今度はこちらから興味を持ったように口を開いた。
「ノアさんは、なんでリートに行くの?」
「僕ですか?」
「うん」
ノアは少しだけ笑う。
「仕事みたいなものですよ」
「仕事?」
「ええ。旅をしながら、町や村で必要な物を届けたり、頼まれた品を持って行ったりしているんです」
「商人?」
アルナが尋ねる。
「商人ほど立派なものではないです」
ノアは苦笑した。
「荷物を運んだり、人から人へ手紙を届けたり、時には護衛に混ざったりもします。何でも屋に近いですね」
「へぇ……」
ルークが感心したように頷く。アルナも少し興味を持った。この世界には、そういう仕事もあるらしい。
前世でいう配達屋と旅人を混ぜたようなものだろうか。
「じゃあ、色んな場所に行ったことあるんですか?」
アルナが聞くと、ノアは頷いた。
「それなりには。王都にも行きましたし、南の港町にも行きました。北側はまだ少ないですけどね」
「王都……」
アルナは思わず呟く。セレスの地図でしか見たことがない場所。
今の自分には、まだずっと遠い場所だ。
「アルナ、王都行きたいの?」
「いや、今は別に」
「今は?」
「今はな」
いずれ行くことになるだろう。神の欠片を探すなら、この国中、いや世界中を回る可能性だってある。
そう考えると、目の前の青年は意外と貴重な情報源なのではないか。
アルナは少しだけ姿勢を正した。
「ノアさん」
「はい?」
「この国のこと、結構詳しいですか?」
「まあ、旅をしている分、普通の人よりは少しだけ」
ノアは笑う。
「何か知りたいことでも?」
アルナは少し迷った。聞きたいことなら山ほどある。
アレス王国の地理。各地の治安。魔物。馬車。冒険者のような仕事。
そして、悪魔付きのこと。
だが、最後の一つだけは絶対に聞けない。
自分から正体を晒すような真似はできない。
「……色々あります」
「色々?」
「俺、この辺りのことあんまり知らなくて」
「なるほど」
ノアは納得したように頷いた。
「でしたら、リートまでの間くらいなら、僕でよければ答えますよ」
「本当ですか?」
「ええ。どうせしばらく暇ですし」
この世界では貴族などの位が高い人にしか苗字はありません。




