第二十九話 ただいま③
アルナは、転生して初めて声を漏らして泣いた。
赤ん坊だった頃に泣いたことなら何度もある。腹が減った時、眠い時、母さんが死んだあの日も涙は流れた。
けれど、こんなふうに何も考えられなくなるまで泣いたのは、前世を含めてもいつ以来だったのか分からない。
「母さん……っ」
一度声に出してしまえば、もう止められなかった。
今まで胸の奥へ押し込めていたものが、一年という時間をかけてようやく出口を見つけたみたいに次から次へと溢れ出し、母さんの名前を呼ぶたびに涙が頬を伝い、息を吸おうとしても喉が震えて上手く吸えず、それでもアルナは子供みたいに、いや、今の自分は本当に子供なのだから何もおかしくないはずなのに、そんなことすら考える余裕もなく泣き続けた。
俺が泣いている間、ルークはずっとそばにいてくれた。
何か気の利いたことを言うわけでもなく、ただ少し後ろに座り込んで、時々しゃくり上げる俺の背中を優しく撫でてくれていた。
その手が、すごく嬉しかった。
一年前だったら、誰かにこんなところを見られるなんて絶対に嫌だったと思う。
前世の自分ならなおさらだ。他人の前で泣くなんて恥ずかしいし、弱いところなんて見せたくないし、どうせ見せたところで何も変わらないのだから、一人でどうにかする方がずっと楽だと思っていた。
でも今は、不思議と嫌じゃなかった。
背中をゆっくり撫でる小さな手がそこにあるだけで、自分は一人じゃないのだと思えた。
「……っ、うぅ……」
「……うん」
ルークはそれだけ答えて、また背中を撫でた。
どれだけ泣いただろうか。
気が付けば、墓を見つけた時にはまだ木々の上から差し込んでいた太陽がいつの間にか大きく傾き、森の隙間から見える空は青から薄い赤へと変わり始め、木漏れ日も昼間の白い光ではなく、どこか寂しげな橙色へ変わっていた。
「……」
アルナはゆっくり顔を上げた。
瞼が重い。
泣きすぎたせいで目の周りが熱く、鼻も詰まっているし、頬には涙が乾いた跡が残っていて、たぶん今の自分は相当酷い顔をしている。
袖で顔を拭う。
「……何時間いたんだろ、俺」
声を出すと、自分でも驚くほど掠れていた。
「分かんない」
後ろからルークの声が返ってくる。
「でも、けっこう長かったと思う」
「そっか……」
アルナは小さく息を吐いた。
泣く前よりも身体が重く感じる。別に走り回ったわけでも魔法を使ったわけでもないのに、全身から力が抜けたみたいに疲れていた。
それでも。
胸の奥にずっと詰まっていた何かは、少しだけ軽くなっていた。
母さんが死んだ事実は変わらない。
神の封印を解くまでは、もう二度と頭を撫でてもらうことも、ご飯を一緒に食べることも、朝になれば起こしてもらうこともない。
それでも、ここに来る前とは何かが違った。
「……母さん」
もう一度だけ、墓へ向かって呼びかける。
当然、返事はない。けれど今度は、それがさっきほど苦しくなかった。
「また来るよ」
自分でも、いつになるかは分からない。
明日かもしれないし、何年も先になるかもしれない。これからセレスを探さなければならないし、神との契約もあるし、自分達を奴隷にした連中が追ってくる可能性だって残っている。
グランディア家のことも、まだほとんど分かっていない。
母さんがどうして追われたのか。
なんで殺されなければならなかったのか。
リゲルという母さんの兄が死んで、セドリックという叔父が当主になったことは知っている。
でも、それだけだ。
知らないことばかりだった。
だったら。
知ればいい。
「……全部終わったら、また来る」
アルナはそう言って、小さく笑った。
終わるって何がだよ、と自分でも思った。何をもって全部終わったと言えるのか分からない。
セレスを見つけたら?
グランディア家のことを知ったら?
神の封印を解いたら?
それとも、自分がもっと大人になったら?
分からない。
でも今は、それでいい気がした。
***
「アルナ……」
「ん?」
それは、アルナが最初に辿り着いた街、アルトへ戻ろうとした時だった。泣きすぎて顔がひどいことになっていたので、アルナは少し離れたところを流れていた川まで行き、冷たい水で何度も顔を洗ってから墓のところへ戻ってきたのだが、戻ってくるとルークは一人で墓の周りに生えていた雑草を抜いていた。
「……何してんだ?」
声を掛けると、ルークは振り返り、抜いた草を両手いっぱいに抱えたまま少しだけ照れくさそうに笑った。
「だって、いっぱい生えてたから」
「いや、それは分かるけど……」
「このままだと、またいっぱい生えちゃうでしょ?」
それだけ言うと、ルークはまたしゃがみ込み、十字架のすぐ近くに生えていた細い草を根元から丁寧に引き抜いた。
アルナは何も言えず、その姿をしばらく見ていた。
俺が前世で七歳だった頃、こんなことができただろうか。
知らない人の墓を見て、その人が友達の母親だと知ったからというだけで、自分から何も言われずに墓の周りを綺麗にしようなんて思えただろうか。
いや、無理だ。
七歳どころか、もっと大きくなってからだって、たぶん出来なかった。
前世の俺なら「大変そうだな」と思って終わっていたかもしれないし、気まずくなって少し離れたところで待っていたかもしれない。
ルークは泣き虫で、怖がりで、何かあるたびにすぐ不安そうな顔をするくせに、こういうところだけは自分なんかよりずっと強い。
尊敬する。
「……すげぇな、お前」
「え?」
「いや、なんでもない」
首を傾げるルークから顔を逸らし、アルナは墓へ視線を向けた。
まあ、そんなことはどうでもいい。
そろそろ戻らなければならない。
太陽はかなり傾いているし、森の中は少しずつ暗くなり始めている。今から全力で歩いたところでルートへ着く頃には完全に夜になっているだろうが、それでも森の中で野宿するよりは街まで戻った方がいい。
「ルーク、そろそろ行くぞ」
「……」
返事がない。
「ルーク?」
アルナがもう一度呼ぶと、ルークはようやく顔を上げた。
けれど、さっきまでとは様子が違った。
何やら申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ている。
「どうした? そんな顔して」
「……」
ルークは答えなかった。
両手を背中の後ろへ回し、何かを隠しているような姿勢のまま、落ち着かなさそうに身体を左右へ揺らしている。
「……後ろ、何持ってんの?」
「えっ」
「なんか持ってるだろ」
「……」
ルークの身体がぴたりと止まった。
アルナが一歩近づくと、ルークはさらに一歩後ろへ下がり、しばらく迷うように目を泳がせていたが、やがて覚悟を決めたようにぎゅっと目を閉じた。
「ごめんなさい!」
勢いよく両手を前へ突き出す。
「うわっ」
アルナは反射的に身体を引いた。
ルークの手の上には、小さな木箱が乗っていた。
両手のひらに収まる程度の大きさで、表面は土に汚れており、角の部分には湿った土がこびりついている。かなり長い間地面の中にあったのか、木材は少し黒ずんでいたが、腐って崩れている様子はなく、蓋もしっかりと閉じられていた。
「……これは?」
アルナが聞くと、ルークはものすごい勢いで首を振った。
「わかんない!」
「分かんない?」
「墓の周りの草を抜いてたら、なんか硬いところがあって……最初は石かなって思ったんだけど、草の根が引っ掛かってたからちょっとだけ掘ってみたら、これが出てきて……」
ルークは早口で説明しながら、どんどん顔を青くしていく。
「ごめん! アルナのママのだよね!? 勝手に掘っちゃってほんとにごめんなさい! 僕、そんなつもりじゃなくて、ただ草抜いてただけで、墓を掘ろうとか全然思ってなくて……!」
「ちょ、待て待て」
「ごめんなさいぃ……!」
「怒ってないから!」
アルナが慌てて止めると、ルークは今にも泣きそうな顔のまま口を閉じた。
「……怒ってない?」
「怒ってないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
それでも不安そうな顔をしているルークから、アルナは箱を受け取った。
ずしり、とした感触が掌へ伝わる。
見た目ほど重くはない。
けれど、空箱ではなさそうだった。
アルナは表面についた土を親指で軽く払った。
「……こんなの、知らないぞ」
「え?」
「俺、これ見たことない」
少なくとも家に住んでいた頃、こんな箱を見た記憶はなかった。
母さんが持っていたものなのか。
それとも、この墓を作った誰かが後から埋めたものなのか。
分からない。
「どこにあった?」
「えっと……」
ルークは墓へ近づき、十字架から少し離れた場所を指差した。
「ここ」
そこには、確かに浅く掘られた小さな穴があった。
墓そのものを掘ったわけではない。
盛られた土の端から少し外れた場所で、ルークが草を抜いた時に偶然見つけたらしい。
アルナはしゃがみ込み、穴の周囲を確認した。
土の色が少し違う。
一年経っているからほとんど分からなくなっているが、よく見ればそこだけ土が柔らかく、意図的に掘り返した形跡が残っているようにも見えた。
「……誰かが、埋めたのか」
呟いた瞬間、頭の中に一人の顔が浮かんだ。
セレス。
もしこの墓を作ったのがセレスなら。
そしてこの箱も、同じ人物が埋めたのだとしたら。
「……」
アルナの心臓が、少しだけ速くなる。
「アルナ?」
「これ……もしかして」
言いかけて、止める。
まだ何も分かっていない。
ただの道具箱かもしれない。
母さんの遺品を入れただけの箱かもしれない。
そもそもセレスとは関係のない誰かが置いた可能性だってある。
期待するな。
そう思うのに、指先が勝手に箱の蓋へ伸びていた。
「開けるの?」
ルークが恐る恐る聞いてくる。
「……開ける」
アルナは答えた。
箱には鍵らしいものは付いていなかった。
ただ、蓋と本体の隙間には土が入り込み、長い間開けられていなかったせいか固く張り付いている。
アルナは両手で箱を持ち直し、親指を蓋の端へ押し込んだ。
一度、大きく息を吸う。
そして。
ゆっくりと、箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、一通の手紙だった。
古びた紙には薄く埃が積もり、端の方は湿気を吸ったせいか僅かに波打っている。少なくとも、ここ数日で書かれたものではないことだけは一目で分かった。
アルナは恐る恐る手紙を取り出し、折り畳まれていた紙を開く。
そこには、見覚えのある整った文字が並んでいた。
『貴方様の亡骸がどこにも見当たりませんでしたので、生きているものと信じ、この手紙を残します。
この手紙が貴方様以外の者の手に渡る可能性もありますので、貴方様のお名前は書きません。もしこれを読んでいるのが貴方様であるならば、私が誰なのかは、最後まで読まずとも分かっていただけると思います。
あの日、私は貴方様と奥様が森の奥へ逃げていくのを見届けたあと、追ってきた者達を足止めするため、その場に残りました。
何人倒したのかは、もう覚えておりません。
ただ、倒しても倒しても次が現れました。
炎を使い、風を使い、それでも数が多すぎました。私も途中で矢を受け、もう駄目かと思った、その時です。
クレア様が助けに来てくださいました。
なぜあの場所にいらしたのか、あの時の私には分かりませんでしたが、クレア様とその従者の方々のおかげで、私はどうにか生き延びることができました。
その後はクレア様の屋敷へ運ばれ、傷が塞がるまでの間、匿っていただきました。
動けるようになってから、私はすぐに故郷の村へ戻りました。
村がどうなっていたかは、もし貴方様がこの手紙を読んでいるのなら、もうご覧になったことでしょう。
家々は焼け、多くのものが失われていました。
私達の家も、以前の姿はほとんど残っておりませんでした。
私はすぐに貴方様と奥様を探しました。
森を歩き、道を辿り、周辺の村にも足を運びました。何か知っている者がいないか尋ね、何日も探し続けました。
そして、見つけることができたのは。
奥様だけでした。
申し訳ございません。
私がもっと早く追いついていれば。
私があの場で敵を全て倒すことができていれば。
奥様を、お守りできたかもしれません。
本当に、申し訳ございません。
奥様は、私がこの場所へ埋葬いたしました。
せめて安らかに眠っていただけるようにと思い、あの石も奥様の傍へ残しています。
ですが、貴方様はどこを探しても見つかりませんでした。
亡骸もありませんでした。
だから私は、貴方様が生きていると信じています。
どこかへ連れ去られたのかもしれません。
誰かに助けられたのかもしれません。
あるいは、私の知らない場所で今も逃げ続けているのかもしれません。
どうか、生きていてください。
そして、もしこの手紙を見つけることができたのなら、すぐにこの場所から離れてください。
セドリックは、今も貴方様を探しています。
何のために貴方様をそこまで追っているのか、私にも全ては分かりません。ですが、諦めた様子はありません。
私は現在、クレア様の庇護を受けています。
ですので、私のことは心配なさらないでください。
貴方様が私を探す必要もありません。
どうか、一日でも早くアレス王国を離れてください。
遠くへ。
セドリックの手が届かない場所へ。
もう、貴方様とお会いすることはないのかもしれません。
本当は、もう一度だけでもお顔を見たかった。
魔法を教えてほしいと何度もせがんできた貴方様に、もう少し落ち着いて練習してくださいと叱りたかった。
朝になれば起こして、食事を作って、夜になれば早く寝るように言いたかった。
大きくなった貴方様を、奥様と一緒に見たかった。
ですが、それはもう叶わないのでしょう。
それでも構いません。
貴方様が生きていてくださるのなら。
私の知らない場所でも、笑って暮らしてくださるのなら、それだけで十分です。
どうか、生きてください。
どうか幸せになってください。
貴方様のこれからの人生が、これまでよりも穏やかなものでありますように。
それだけを、心から願っています。
セレス』
途中から、文字の一部が滲んでいた。
特に『奥様だけでした』と書かれた辺りは、紙に落ちた水滴が乾いたような跡がいくつも残り、几帳面だったはずの文字もほんの少しだけ乱れている。
雨ではない。
この手紙は箱の中に入れられ、土の中へ埋められていたのだから。
「……セレス」
アルナの口から、その名前が零れた。
涙の跡が残ったそれは、間違いなくセレスからアルナへ宛てられた手紙だった。




