二十二話 街へ
地図を片手に、アルナは森の中を歩いていた。
木々は相変わらず似た顔をしている。だが、さっきまでとは違って、もうただ逃げるだけの足取りではなかった。手枷の重さは消え、手首の皮膚に残るかすかな圧迫感だけが、さっきまでの拘束を思い出させる。
「ねえアルナ」
後ろを歩くルークが、小さな声で呼んだ。
「ん?」
「ほんとに、このまま街に行って大丈夫かな。待ち伏せとか、されてない?」
アルナは少しだけ振り返る。ルークは地図を覗き込もうとしているが、逆さまに近い角度で持っているせいで、たぶん何も分かっていない。
「大丈夫かどうかで言えば、全然大丈夫じゃない」
「ええ……」
即答されて、ルークはしょんぼりした。
「でも、行くしかないだろ。森の中で野垂れ死ぬよりはマシだ」
「それはそうだけど……」
不安そうに言いながらも、ルークは足を止めない。昨日まで泣き疲れていたとは思えないほど、必死に歩いていた。いや、必死だからこそ止まれないのだろう。立ち止まったら、また収容所のことを思い出してしまうに違いない。
アルナは前を向いたまま言った。
「まずは道を探そう。川沿いなら、どこかで人の通った跡があるはずだ」
「人の通った跡?」
「獣道じゃなくて、ちゃんと踏まれた道な。あとは、煙とか、柵とか、そういうの」
「煙……」
ルークはきょろきょろと周囲を見回した。木々の隙間から差す光はもう傾いていて、森の奥は少しずつ暗くなっている。朝から歩き続けているから、そろそろ日が暮れる。
アルナは空を見上げた。
「もう少ししたら野宿にしよう。暗くなったら危ない」
「えっ、野宿?」
「嫌か?」
「う、ううん……」
嫌そうだったが、否定できないらしい。ルークは両手をぎゅっと握ったまま、また小さく歩き出した。
しばらく進むと、森の地面に変化があった。柔らかい土に混じって、踏み固められたような痕がある。折れた枝も少なく、獣が荒らした気配より、人が通った跡のほうが強い。
アルナは足を止めた。
「……これだ」
「ほんと?」
「ああ。たぶん、道に近い」
しゃがみ込んで地面を確かめる。馬の蹄で削れたような跡もある。見上げれば、木の間隔も少しずつ広がっていた。
「よかった……」
ルークがほっと息を吐く。だが次の瞬間、腹がぐう、と小さく鳴った。
「……飯にするか」
アルナがそう言うと、ルークはびくっと肩を跳ねさせた。
「ち、違うからね!? 今の別にお腹鳴ったわけじゃ――」
「分かってるよ」
アルナが呆れたように言うと、ルークは「うぅ……」と唸りながら顔を覆った。
アルナは小さく笑い、近くの倒木へ腰を下ろす。地面は湿っているが、ずっと歩きっぱなしだったせいで足がかなり重い。
「まあ、俺も腹減ったし」
「……アルナも?」
「そりゃな。昨日からまともに食ってない」
ガルドの金袋はある。だが、街へ着くまでは意味がない。今頼れるのは森の中で拾える物だけだ。
ルークは少しだけ安心したように息を吐くと、抱えていた小袋を差し出した。
「木の実、まだ少し残ってるよ」
小袋の中には、赤い実が五、六個ほど入っていた。朝に食べた時より少なく見える。というより、二人で分ければすぐ無くなる量だ。
アルナは袋をちらりと見て、それからルークへ押し返した。
「俺はいらない。お前が食え」
「え?」
ルークが目を瞬かせる。
「な、なんで?」
「なんでって……お前の方が体力無いだろ」
「でもアルナもお腹空いてるって」
「まあな。でも俺はまだ我慢できる」
アルナは背もたれ代わりに倒木へ寄り掛かった。実際、腹は減っている。かなり減っている。木の実なんか一瞬で食い尽くしたいくらいだ。
けれど、ルークの方が明らかに消耗していた。
顔色も悪いし、歩き方も少しふらついている。本人は隠しているつもりなのかもしれないが、俺には分かる。
ルークは袋を抱えたまま、困ったように俯いた。
「……でも」
「いいから食え」
「……」
なぜか、ルークはすぐ食べようとしなかった。
じっと袋を見つめたまま、もごもごと口を動かしている。
「なんだよ」
「……アルナってさ」
「?」
「なんでそんな優しいの?」
アルナは眉をひそめた。
「は?」
「だって、普通、自分もお腹空いてたら食べたくならない?」
「別に優しくはないだろ」
「優しいよ」
ルークは即答した。
「ぼく、お母さんとお父さん以外でそういう人、見たことなかったもん」
「……」
アルナは言葉に詰まる。
収容所では、生き残るだけで精一杯だった。食料を奪い合う奴もいたし、弱い奴を蹴落とす奴もいた。あの環境なら、それが普通だ。
俺だって、最初は他人を助ける余裕なんて無かった。
「……別に、大した理由じゃねぇよ」
アルナは視線を逸らしながら、小さく肩をすくめた。
「それに、お前はまだ子供なんだから今ちゃんと食わないと背高くならねぇぞ?」
「えっ」
ルークがぽかんとする。
「だから食っとけ。育ち盛りだろ」
「……いや、アルナだって子供じゃん!」
「俺はいいんだよ!」
「よくないよ!」
ルークが思わず声を張り上げる。
森に響いてから、はっとしたように口を押さえた。アルナは苦笑しながら周囲を見回す。
「おい、静かにしろ」
「だ、だって……!」
ルークは納得いかない顔のまま袋を抱え込む。
「アルナだってそんな大きくないじゃん!」
「うるせぇな」
「今食べないと背高くならないんでしょ!?」
「……」
アルナは顔をしかめる。
ルークはそんなアルナを見て、少しだけ勝ち誇った顔になる。
「じゃあ半分こ」
「は?」
「半分こならいいでしょ」
「いや、だから俺は――」
「ダメ。アルナも食べる」
妙に頑固だった。
ルークは袋から木の実を一つ取り出すと、ぐいっとアルナの目の前へ突き出してくる。
「はい」
「……」
「はい!」
「分かったよ!」
アルナは呆れながらも、差し出された実を受け取った。
ルークはそれを見て、ようやく少し安心したように笑う。そして自分も一つ摘み、口へ放り込んだ。
ぷち、と小さな音が鳴る。アルナも実を口に入れる。
甘酸っぱい果汁が舌へ広がった。腹が減っているせいか、やたら美味く感じる。
二人で黙って木の実を食べる。
森の風が、ざわざわと葉を揺らしていた。
ルークは実を飲み込んでから、ふとアルナの方を見る。
「ねえ、アルナ」
「ん?」
ルークは木の実を両手で持ったまま、少し言いづらそうに視線を泳がせた。
「前から気になってたんだけど……」
「何だよ」
「なんでアルナって、“悪魔付き”って呼ばれてたの?」
アルナは目を瞬かせた。
「……え?」
「え?」
今度はルークの方がきょとんとする。
「いや、その……収容所でみんな言ってたから」
「理由、知らなかったのか?」
「う、うん……」
アルナは思わず黙り込む。
てっきり、収容所にいる奴らは皆知っているものだと思っていた。少なくとも、あの嫌悪感を見る限り、“悪魔付き”という存在自体は一般的なのだと。
だが、ルークは本当に分かっていない顔をしている。
「えっと……危ない人、みたいな意味なのかなって」
「ざっくりだなぁ……」
アルナは額を押さえた。
どう説明する。
というか、俺自身そこまで詳しく分かっているわけじゃない。
知っているのは、ガルドと神が言っていたことだけだ。
“悪魔付き”。
前世の記憶を持つ異世界人。
この世界では、それが異常扱いされる。
アルナは少し考え込んでから、小さく息を吐いた。
「……俺、前世の記憶があるんだよ」
「ぜんせ?」
「前の人生」
ルークがぽかんと口を開ける。
「前の……人生?」
「死ぬ前の記憶、って言えばいいのかな」
自分で言っていても妙な話だ。
だが、ルークは笑わなかった。ただ困惑した顔でアルナを見ている。
「えっと……アルナ、前に別の人だったってこと?」
「まあ、そんな感じ」
「えぇ……?」
理解が追いついていない声だった。
ルークは木の実を握ったまま、もごもごと口を動かした。
「……それで悪魔付き?」
「多分な」
アルナは肩をすくめる。
「この世界だと、そういう奴は気味悪がられるらしい」
「なんで?」
「知らねぇよ。俺に聞くな」
アルナ自身も、まだ世界のことをほとんど知らない。
ただ、収容所での扱いを見る限り、“普通じゃない”のは確かだった。
ルークは少し俯く。
「……でも、アルナ悪い人じゃないのに」
「そういう問題じゃないんだろ」
異常なものは怖がられる。前世でもそうだった。
周りと違う奴は浮く。
アルナはぼんやりそんなことを思い出す。
ルークはしばらく黙っていたが、やがておそるおそる口を開いた。
「……じゃあ、アルナの前の人生って、どんなだったの?」
その質問に、アルナは少しだけ固まった。
どんな人生だったか。そう聞かれると、妙に答えづらい。
楽しかったこともあったはずだ。けれど、それ以上に息苦しかった記憶の方が先に浮かぶ。
教室の空気。
視線。
笑い声。
アルナは無意識に眉を寄せた。
「……普通だよ」
「普通?」
「どこにでもいるような奴だった」
半分、本当で半分は嘘だ。
ルークはじっとアルナを見ていたが、それ以上深くは聞かなかった。
代わりに、小さく笑う。
「でも、今のアルナはアルナだよね」
「……まあな」
「じゃあ、ぼくは今のアルナの方が好き」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。アルナは思わず「は?」と間抜けな声を漏らす。
ルークはきょとんとしたあと、慌てて手を振った。
「い、いや変な意味じゃなくて!」
「分かってるよ!」
ルークは「ならいいけど……」と頬を赤くしながら木の実を口へ放り込んだ。
危ない危ない。
アルナは内心で額を押さえる。
こいつ、顔だけ見たら普通に女の子なんだよな。
今の「好き」も、言い方だけ切り取れば完全に告白だった。危うく変にときめきかけたぜ。
いや待て。落ち着け俺。
そもそもルークは男だ。
しかもまだ子供。
それに俺は前世合わせたら二十七歳くらいになる。そんな男が七歳くらいのガキにドキッとするなんてロリコンじゃないか!いや、この場合はショタコンか?
「……」
アルナは真顔になった。
「アルナ?」
「何でもない、自分を律してた」
「???」
ルークが首を傾げる。
アルナは咳払いして誤魔化した。
「と、とりあえず!俺が悪魔付きなのは内緒だぞ」
「え?」
ルークがぱちぱちと瞬きをする。
「誰にも言うな。街に入っても、変に話すなよ」
「う、うん……」
ルークは素直に頷いたが、すぐ不安そうな顔になる。
「そんなに危ないの?」
ルークが小さな声で聞く。
アルナは少し黙ってから、肩をすくめた。
「危ないな。少なくとも、“普通の奴”みたいには扱われない」
「……」
ルークの顔が曇る。
「収容所でも、みんなアルナのこと怖がってたもんね」
「まあな」
怖がるというより、嫌悪に近かった。
化け物を見る目。
関わったら自分まで不幸になると信じてるような目だった。
アルナは地面へ視線を落とした。
「だから街でも隠す。余計なことは言わない。前世がどうとか、悪魔付きがどうとか、絶対話すなよ」
「分かった」
ルークは今度は真面目な顔で頷いた。
「ぼく、ちゃんと黙ってる」
「ならいいんだ」
その後は、他愛もない話を少しした。
収容所で一番不味かった飯の話とか、ルークが昔飼っていた犬の話とか。
アルナは適当に相槌を打ちながら、少しずつ暗くなっていく森を見ていた。
やがて日が完全に落ちる頃、二人は木の根元へ身を寄せた。
アルナは周囲を警戒しながら、小さく火を起こした。無詠唱で生み出した小さな火種が、乾いた枝へ燃え移る。
火の温かさに安心したのか、ルークはうとうとし始めていた。
アルナは地図を膝へ広げる。
街までは、たぶんあと一日。
問題は、そこでどうやって生きるかだ。
金はある。
だが、身分はない。
追手が来ている可能性も高い。
「どうする……」
思わず呟くと、隣から小さな寝息が聞こえた。
見ると、ルークがこくりこくりと船を漕いでいる。
「おい、寝るならちゃんと横になれよ」
「んぅ……」
半分寝ながら返事をして、そのままアルナの肩へ頭をぶつけてきた。
「……」
アルナは数秒固まる。
あったかい。
というか軽い。
細すぎて、小枝が寄りかかってる気分だ。
「……お前、警戒心無さすぎだろ」
小さく呟いてから、アルナはため息を吐いた。
逃げ続けて、死にかけて、昨日まで枷付きだったくせに。
それでも隣で安心して寝られるのは、多分こいつの強さなんだろう。
アルナは火を見つめながら、ぼんやり空を見上げた。
「まあ、なんとかなんだろ……」
***翌日
朝露に濡れた草を踏みながら、二人は森の中を進んでいた。
昨日よりも道らしい形にはなっている。
踏み固められた土。ところどころに残る馬車の轍。木の幹には、人が刃物で削ったような印まであった。
だが――。
「アルナぁ……」
「ん?」
「本当にこの道で合ってるの?」
後ろから、不安げな声が飛んでくる。
アルナは地図と前方を見比べながら眉を寄せた。
「……多分」
「今、“多分”って言った!?」
「しょうがねぇだろ、この地図めちゃくちゃ見づらいんだよ!」
羊皮紙を広げる。
川の位置は合ってる気がする。だが描かれている線は妙に雑だった。
というか、そもそも方角が合ってるのかも怪しい。
「とにかくだな。たぶん……こっちで合ってる」
「全然信用できない言い方なんだけど」
「大丈夫だって!」
言いながら、アルナは内心めちゃくちゃ焦っていた。
まずい。
思った以上にまずい。
前世の知識で方向感覚どうにかなると思ってたけど、森の中だと景色が全部同じだ。
しかも地図が雑たじ、コンパスなんて便利なものは無い。
太陽の位置は合ってるはずだ。たぶん。
いやでも、この世界の常識を俺はまだ何も知らない。
もし太陽が西から昇る世界だったら?
いや流石にそれはファンタジーすぎるか?
でも魔法あるしなこの世界。
くそ、どうする?このままだと飢え死にだ。
その時だった。ざわり、と風が吹き抜ける。
木々が揺れ、視界の先がふっと開けた。
二人は足を止める。
「……あ」
森の終わりだった。
木々の隙間の向こう。
遠く、陽光を反射する灰色の壁が見えた。
巨大な外壁。
煙を上げる建物。
高く伸びる塔。
その周囲には、小さな畑や街道まで見える。
「街……」
ルークがぽかんと呟く。
アルナも言葉を失った。
遠い。
でも確かにある。
人がいる場所。
逃げるだけじゃなく、“生きる”場所。
ルークがぱっと顔を明るくした。
「アルナ! 街だよ! 本当にあった!」
「ほら見ろ!道合ってただろ!」
「うん!本当に合ってたね。疑ってごめん!」
「……ああ別にいいよ」
アルナは腕を組みながら、できるだけ平然と頷いた。
だが内心では全力で安堵していた。
よかったぁぁぁ……!
合ってた! マジで合ってた!
危うく異世界遭難編が始まるところだった!
アルナはこっそり胸を撫で下ろす。
ルークはそんなことも知らず、嬉しそうに街を見つめていた。
「すごい……。あんな大きいんだ」
「壁あるし、結構ちゃんとした街っぽいな」
遠目からでも、人の出入りが見える。
荷馬車。歩いている旅人。門の前に立つ兵士らしき影。
アルナは目を細めた。
問題は、あそこをどう通るかだ。
「……ルーク」
「なに?」
「今からちょっと確認な」
アルナは指を一本立てる。
「俺たちは森で親とはぐれた兄弟」
「兄弟?」
「設定だよ設定」
「あ、そっか」
ルークは慌てて頷いた。
「俺が兄。お前が弟」
「うん」
「余計なことは喋るな」
「うん」
「悪魔付きの話もしない」
「うん」
「あと収容所の話も極力無し」
「う、うん……」
ルークの表情が少し曇る。
アルナは気づかないふりをした。
今は、生き残る方が先だ。
「門番に止められたら、森で迷ってたって言う。親は魔物に襲われてはぐれた。分かったか?」
「わかった」
「よし、じゃあ行くぞ……」
二人は森を抜け、街道へ足を踏み出した。




