二十一話 ガルドの遺品
冷たい川の水が、火照った頬へ触れた。
「っ……」
アルナは小さく息を漏らす。
両手で水を掬い、顔へぶちまける。ぬるついていた血と汗が流れ落ち、赤黒い水が川へ溶けていった。
「アルナー! 木の実あったよー!」
森の奥からぱたぱたと足音が近付いてくる。
アルナが顔を上げると、ルークが両腕いっぱいに赤い木の実を抱えて走ってきていた。
「見て見て! いっぱい!」
転びそうになりながら駆け寄ってくる。
「……お前、よくそんな元気あるな」
アルナは呆れ半分で呟いた。
昨日、一晩中泣いていた奴とは思えない。ルークはえへへ、と笑いながらアルナの隣へしゃがみ込む。
「だってお腹空いたもん」
「それは俺もだけど」
ルークは抱えていた木の実を地面へ並べ始めた。
赤い実。
青っぽい実。
小さいのに妙に毒々しい色の奴まである。
アルナは一歩引いた。
「……これ本当に食べれるの?」
「大丈夫だよ! 多分!」
「多分かぁ……」
アルナは恐る恐る赤い実を一つ摘み上げた。
小粒で、表面はつやつやしている。見た目は完全に木苺っぽい。
アルナは顔をしかめながら実を口へ放り込んだ。
ぷち、と薄い皮が弾ける。
「……うまっ!?」
思わず声が漏れる。
予想よりずっと甘かった。
木苺みたいな爽やかな酸味があって、後味は少し蜂蜜みたいに濃い。疲れ切った身体へ糖分が染み込む感覚がした。
「でしょ!?」
ルークが嬉しそうに身を乗り出す。
「これ好きなんだぁ!」
「食べたことあるの?」
「うん!僕の村にもあったから」
ルークも一つ口へ放り込み、頬を緩めた。
二人でしばらく無言のまま木の実を食べる。
――さて、これからどうする。
脱獄もした。ガルドも殺した。だけど、それで終わりじゃない。むしろ全部ここからだ。
「……なぁ、ルーク」
「ん?」
口の周りを果汁で赤くしながら、アルナの方に向く。
「ここ、どこだと思う?」
「えっ」
ルークはきょとんとした。
「いや、分かんないけど……」
「だよな」
アルナは小さく溜め息を吐いた。
ルークも俺を引きずって逃げるのに必死だったせいで、方向なんて全く覚えていない。気付けば森の中だ。
収容所からどれくらい離れたのかも分からない。
追手が来る可能性は当然ある。
ていうかガルドってお偉いさんだよな?収容所側からすれば大事件だ。脱獄した奴隷二人を放置するとは思えない。
アルナは無意識に腹へ触れた。
まだ突き刺された感覚が残っている気がする。
喉を裂かれた瞬間、息ができなくなった感覚。腹を貫かれた感触。全部覚えてる。思い出しただけで胃が冷える。
「……アルナ?」
ルークの不安そうな声で我に返る。
「あ、いや。何でもない」
アルナは慌てて視線を逸らした。
今は考えるな。
まずは現実だ。
食料と水はひとまず大丈夫。木の実と水魔法がある。
寝床は……、まあ野宿すればいい。
それから街。
人里へ辿り着かなければ、結局いずれ野垂れ死ぬ。
「街、近くにあると思うか?」
「うーん……」
ルークは少し考え込み、きょろきょろと辺りを見回した。
「川があるなら、下流に行けば村とかあるかも?」
「……まぁ、よくあるやつだな」
前世の知識だと、川沿いには人が集まりやすいと聞いたことがある。
アルナは最後の木の実を口へ放り込み、立ち上がった。濡れたズボンが肌に張り付き、気持ち悪い。
「よし」
ルークも慌てて立ち上がる。
「移動する?」
「そうだな。まずは――」
アルナは森の奥へ視線を向けた。
「ガルドの所へ行く」
「……え?」
ルークの動きが止まる。
数秒遅れて、言葉の意味を理解したのか、顔色がさっと青くなった。
「な、なんで!?」
思わずという感じで声が裏返る。
「ガルドって……あの!?」
「あのガルドだよ」
「え、いやいやいや!?ダメだよ!追手がいるかもしれないし!危ないよ!?」
ルークが半泣きでまくし立てる。
アルナは腕を組み、小さく息を吐いた。
「だから行くんだよ」
「えぇ……?」
「考えてみろ。俺達、今ほぼ無一文だぞ」
「服はボロボロ。武器もない。食料も木の実だけ。街に着いても、金が無きゃどうにもならない」
「うっ……」
図星だったのか、ルークが言葉に詰まる。
アルナは続けた。
「ガルド、あいつ隊長クラスなんだろ。なら剣とか金とか、何かしら持ってるはずだ」
「で、でも……」
ルークはまだ不安そうに森の奥を見る。
アルナは小さく息を吐くと、自分の手首を持ち上げた。
金属の手枷。
汚れてはいるが、鈍い鉄色はまだはっきり残っている。
「それに……これを外さないと、俺まともに詠唱できないからな」
「え?」
ルークが目を瞬かせる。アルナは苛立ったように鎖を鳴らした。じゃら、と重い音が鳴る。
「収容所の魔封じだよ」
「で、でもアルナ無詠唱できるじゃん」
ルークが首を傾げる。アルナは思わず顔をしかめた。
「無詠唱って、詠唱するよりめちゃくちゃ集中力使うんだよ!」
「簡単にポンポン出せるのお前だけだぞ!? 普通はあんな連発できねぇんだよ」
「そ、そうなの……?」
「そうだよ。ちゃんと集中しないとそもそも出ないし、下手すると雷魔法みたいに暴走するし…」
実際、収容所で最初に無詠唱を試した時は、何度も出そうとしたが、何回かに一回出るか出ないかだった。
頭の中で魔法式を組み立てて、属性を固定して、形を維持して――その全部を一瞬でやる。
詠唱は、その工程を補助するためのものだ。
だから本来、無詠唱なんて高等技術に近い。ルークは「えぇ……」と引いた顔をした。
「アルナ、普通にやってたから簡単なのかと……」
「できるだけで、楽ではない」
アルナは即答する。
「それに、この手枷が人に見られたら奴隷だってバレる」
アルナは鎖を軽く持ち上げる。
「どう見ても奴隷用だろ、これ」
「……あ」
「街で見られたら一発で通報される可能性だってある。最悪、また捕まる」
「だから鍵か、壊す方法が必要だ。ガルドなら持ってる可能性が高い」
「……」
ルークは俯き、ぎゅっと自分の手首を握った。
そこにも同じような枷が残っている。小さく震える指を見て、アルナは少しだけ声を和らげた。
「……大丈夫だ」
自分でも驚くくらい自然に言葉が出た。
「……絶対に守ってやる」
「う、うん……。分かった」
ルークは小さく頷いた。けれど、その声はまだ少し震えていた。
「じゃあ、案内できるか?」
アルナがそう言うと、ルークはぱちぱちと瞬きをした。
「案内……?」
「ガルドの所だよ。少なくとも、どっち方面に行けばいいかくらいは分かるだろ」
「えっと……」
ルークは困ったように視線を泳がせる。両手を胸の前でぎゅっと握り、思い出そうとするみたいに眉を寄せた。
「……たぶん、こっち……かな?」
「たぶん、か」
アルナは苦笑しつつ、ルークの指差した方へ目を向けた。
森はどこまでも似たような景色で、木の幹も茂みも、全部が同じ顔をしている。だがルークの表情を見る限り、少なくとも嘘をついているわけではなさそうだった。
「……行くぞ」
「うん」
二人は川を背にして歩き出した。
***
森の中は思ったより足場が悪い。湿った土が柔らかく沈み、根っこがところどころ地面を持ち上げている。
アルナは周囲を警戒しながら歩き、ルークはその半歩後ろを小さくついてきて、収容所に連れて来られた時のことを話してくれた。
「村を出てから、何日か歩いて……そのあと、馬車に乗せられて……」
「収容所に着いたのは?」
「夜だったから、よく覚えてない……」
ルークは自分の記憶を手繰るみたいに、ぽつぽつと言葉を落とす。
「でも、川は見た覚えある。行く時に、橋を渡った気がする」
「橋……」
アルナは思考を巡らせた。
橋があるなら、少なくともどこかに人の手が入っている場所があるはずだ。道もあるかもしれない。収容所は僻地にあるが、完全な未開地というわけでもなさそうだ。
「……よし。とりあえず、その橋を目印にするか」
「う、うん」
ルークは頷いたが、すぐにまた不安そうな顔になる。
「でも、ほんとに大丈夫かな……」
「大丈夫だよ」
アルナはそう言って、ルークの頭を軽く撫でた。ふわっとした髪が指先に触れる。ルークは驚いたように目を丸くしたあと、少しだけ肩の力を抜いた。
「……行くぞ」
「うん」
***
「ここら辺、だと思う……」
ルークは自信なさげに答えた。
アルナは立ち止まり、周囲を見渡す。
木々は相変わらず同じように見える。けれど、ふと視線の先に、森の中で異様に黒く焦げた一角があった。
地面も木の幹も、そこだけ焼けたみたいに暗い。
――あれか。
多分、アルナが放った雷魔法の痕跡だ。
「……あそこだな」
「え?」
アルナが指差すと、ルークが目を丸くする。
「行くぞ」
「ちょ、ちょっと待っ――」
止める声を背に、アルナは走り出した。ルークも慌てて追いかけてくる。
焦げた匂いが近付く。
湿った土の匂いに混じって、嫌な熱の残り香がした。
そして、木々の切れ間に出た瞬間――
「っ……」
アルナは息を呑んだ。
そこには、ガルドが倒れていた。
大柄な身体が地面に横たわり、黒く焼けた外套が土に汚れている。剣は少し離れた場所へ転がっていた。胸の上下は、かろうじてあるようにも見える。
「……っ」
ルークがアルナの服を掴む。
「し、死んでるよね……?」
「……多分」
アルナは警戒したまま、ゆっくり近付いた。
一歩。
また一歩。ガルドは動かない。
あれだけ圧倒的だった男が、今はただ地面へ転がっている。
近付くほど、雷に焼かれた臭いが鼻についた。肉と焦げた布が混ざったような、吐き気を催す臭いだ。
アルナは喉の奥がひくつくのを感じながら、ガルドのすぐ横まで辿り着く。
――死んでる。
胸は動いていない。
呼吸音もない。
開いたままの目も、もう何も映していなかった。
皮膚は黒く焼け爛れ、胸元には雷が貫いた痕が残っている。
アルナはしばらく無言で立ち尽くした。
俺が殺したんだ。
あの瞬間は必死だった生き残るためだった。
でも今こうして見ると、嫌でも現実感が押し寄せてくる。
人が死んでいる。
自分が殺した相手が、ここにある。
「アルナ……?」
ルークが不安そうに声を掛ける。
アルナはゆっくり息を吐いた。
「……確認終わり。死んでるよ」
そう言った瞬間、ルークが目に見えて安堵した。
へなへな、と膝から力が抜けそうになっている。
「よ、よかったぁ……」
「よかったな」
アルナは苦笑した。死体の横で言う台詞ではない。
だが、ルークが安心するのも分かる。もし生きていたら、今度こそ二人とも終わっていた。
アルナは気持ちを切り替えるように、しゃがみ込んだ。
「悪いな、ガルド」
小さく呟く。ガルドの身体は重かった。鎧の隙間に手を入れて探る。隊長格なら持ってるはずだ。金とか、鍵とか。
「……あった!」
アルナが叫ぶ。
指先に触れたのは、冷たい金属の感触だった。鎧の内側、腰のあたりに差し込まれていた小さな鍵束を引き抜く。錆びた輪っかが、かすかにじゃらりと鳴った。
「鍵だ。多分手枷の」
「えっ、本当に!?」
ルークが目を丸くする。
アルナは急いで鍵束を確かめた。大きさの違う鍵がいくつか付いている。手枷に合いそうな細い鍵もある。
「……これだな」
試しに自分の手首の枷へ差し込むと、かちり、と小さな音がした。固く閉じられていた輪が、少しだけ緩む。
「おお……!」
ルークが思わず声を漏らす。
アルナは慎重に鍵を回した。もう一度、かちり。金属の輪が外れ、長く繋がっていた重い違和感が、ようやく手首から消えた。
「外れた……」
「やった……!」
ルークがぱっと表情を明るくする。
アルナは外れた手枷を地面に置き、少しだけ手首を回した。血が巡る感覚がして、思わず息が漏れる。痛みはない。ただ、ずっと締め付けられていた場所が、やっと自由になっただけだった。
「次、お前の番だ」
「う、うん」
ルークはぎゅっと自分の手首を差し出した。アルナは同じ鍵で、もうひとつの枷へ手を伸ばす。金属が固く噛み合っているせいで少し手間取ったが、何度か回すうちにやがて外れた。
「……取れた」
「ほんと!?」
「ああ」
ルークは自分の手首を見下ろし、それから何度も開いたり閉じたりした。
「すごい……ほんとに外れた……」
「これで少しはマシだろ」
アルナはそう言いながら、手枷をまとめて脇へ放る。その拍子に、ガルドの上着の内側から、ずしりとした革袋が滑り落ちた。
「ん?」
拾い上げると、中で硬貨がぶつかる音がする。ずっしり重い。
「……金だな」
「え、ええ!?」
「しかも結構入ってる」
アルナは口元を歪めた。
金貨銀貨がたくさんある。多分しばらくは困らない量だろう。隊長格というのは伊達じゃないらしい。
さらに革袋の奥を探ると、折りたたまれた紙が出てきた。
「地図か……?」
広げると、雑な手描きではあるが、川や道、村の名前らしきものが記されていた。所々焦げていて見えない。
アルナの目が細くなる。
「……当たりだ」
収容所の位置も、近くの街道も載っている。これなら、やみくもに森を彷徨わなくて済む。
「す、すごい……」
「これで街まで行ける」
アルナは地図を見下ろしながら呟いた。
ルークはほっと息を吐いたが、その直後、ふとガルドの方を見て小さく肩を震わせた。
「……ほんとに、死んじゃったんだね」
「……ああ」
アルナの声は少し低くなる。
さっきまでの高揚が、ほんの少しだけ引いていく。得るものは大きい。だが、その代償が消えるわけじゃない。
ルークはそれ以上何も言わず、静かに目を伏せた。
アルナは地図をたたみ、金袋を握り直す。
「行こう」
「……うん」
二人はガルドに背を向けた。
「あ」
ガルドに背を向けかけたアルナは、ふと何かを思い出したように足を止めた。
「……忘れてた」
そう呟くと、もう一度ガルドの方へ向かい、しゃがみ込む。ルークが目を瞬かせた。
「え、何するの?」
「……ちょっとな」
アルナはガルドの前で、静かに手を合わせた。
ぱん、と小さく乾いた音が森に落ちる。
ルークはきょとんとしたまま、その様子を見つめている。
「何をしてるの?」
「俺流の弔い方だ」
ルークはさらに首を傾げた。
「おれ、りゅう……?」
「こういう時、墓に花を供えたり、合掌したりするんだ」
「がっしょー……?」
「手を合わせて、死んだ相手に区切りをつけるって感じかな」
アルナは視線を落としたまま、淡々と説明した。
「別に、こいつを許したわけじゃない」
「……うん」
「散々殺されかけたし、恨んでる」
「うん……」
「でも、死んだ相手をただ物みたいに扱うのは、なんか違うだろ」
森を吹き抜ける風が、焦げた匂いを少しだけ散らした。アルナはもう一度小さく息を吐く。
「敵でも、死んだら終わりだ。ここで線を引く」
ルークはじっとアルナを見ていたが、やがてこくりと頷いた。
「……よく分かんないけど、アルナらしいね」
「悪い意味で言ってないだろうな」
「言ってないよ」
ルークが少しだけ笑う。
アルナも、ほんのわずか口元を緩めた。
それから立ち上がり、地図と金袋を確認する。
「よし。今度こそ行くぞ」
「うん」
二人は再び森へ戻った。
今度は、ただ逃げるためじゃない。
生き延びるために、街を目指して。




