十九話 覚悟
「――っ、がはっ!!」
激しく咳き込みながら、アルナは地面を掻いた。
喉が焼ける。呼吸をするたびに熱い液体が逆流してくる感覚があった。肺に空気が入らない。息ができない。
「がっ……ぁ……!」
必死に首を押さえる。だが指先に触れるのは、自分の血の感触だけだった。
苦しい。痛い。死ぬ。
その言葉が頭の中でぐるぐる回る。
視界が暗くなっていく。遠くでルークが叫んでいる気がした。でも聞こえない。何も届かない。
身体の感覚が、少しずつ遠ざかっていく。
寒い。怖い。
――嫌だ。死にたくない
そこで、世界が途切れた。
***
「っ、はぁ!!」
アルナは勢いよく身体を起こした。
呼吸をする。空気が肺に入る。喉を押さえる。血はない。痛みもない。
「……あ?」
荒い呼吸のまま、周囲を見る。
白かった。
どこまでも、果てが見えないくらい真っ白な空間。床も天井も境界が分からない。ただ白だけが広がっている。
「また、ここか……」
アルナは荒い呼吸のまま喉を押さえた。
さっきまで確かに裂けていたはずの首筋には、もう傷一つない。血の感触も消えている。それでも、あの焼けるような痛みだけはまだ神経に残っていた。
「くそ……」
吐き捨てるように呟き、ゆっくり顔を上げる。
白い世界の中央。そこに、一人の少女が胡座をかいていた。
黒髪。年齢はアルナと同じくらいに見える。ぶっきらぼうな顔つきで、頬杖をつきながらこちらを見ていた。
以前会った、“母親の顔をした神”ではない。
アルナは眉をひそめる。
「……お前は?」
少女は露骨に嫌そうな顔をした。
「はぁ? お前、まさか忘れたのか?」
「……?」
「僕だよ」
少女は面倒臭そうに頭を掻く。
「欠片の本体。前に会っただろ」
アルナは目を細める。
声は確かに同じだった。軽薄で、どこか人を食ったような喋り方。
「……なんで今は母さんの顔じゃねぇんだよ」
「気分」
神は即答した。
「顔や身体なんて幾らでも変えられるからね」
「……」
アルナは数秒だけ黙る。
だが、すぐにそんな事どうでもよくなった。
森。血。ガルド。ルーク。
意識が途切れる直前の光景が頭を殴るように蘇る。アルナは反射的に神へ駆け寄った。
「うおっ!?」
そのまま神の腕を掴む。
「な、何だよ急に。気持ち悪いな」
神は露骨に顔をしかめたが、アルナは離さない。
「早く!!」
「は?」
「俺の記憶を見ろ!!」
アルナは半ば叫ぶように言った。
そのまま無理やり神の手を、自分の額へ押し当てる。
「なんだよ、急に来たと思ったら記憶を見ろなんて。第一君は――」
「早く!!」
アルナの声が白い空間に響く。
神は一瞬だけ目を丸くした。
アルナの手は震えていた。焦りとか恐怖とか、そういう感情が全部ぐちゃぐちゃに混ざったみたいに。
「……分かったよ」
神はため息を吐く。
「《アルノファルス》」
その瞬間、白い空間が揺れた。
神の指先から淡い光が広がり、アルナの額へ沈み込む。次の瞬間、周囲の景色が一気に崩れた。
白が割れ、景色が流れ込んでくる。
森。夜。血の臭い。
「――っ」
アルナはその場に尻餅をついた。
頭がぐらぐらする。視界が不安定に揺れ、吐き気すら込み上げてくる。自分の記憶に無理やり引き出されているせいか、感覚が妙に生々しかった。
でも、今はそんな事どうでもよかった。
アルナは顔を上げる。
「神!!俺は今どうなってんだ!? 現実の俺は――」
「死んだよ」
神が遮るように言った。アルナの声が止まる。
「……は?」
神は面倒臭そうに頬杖をついたまま続ける。
「だから、死んだって言ったんだ」
「君はガルドに喉を斬られて死んだ」
アルナの思考が止まる。
「……いや」
声が掠れる。
「待てよ……だって俺、今喋って――」
「魂だけだ」
神はあっさり言った。
「君が初めてここに来て帰った時、またここに来れるように“繋げて”おいたんだよ」
アルナの眉が動く。
「……繋げた?」
「保険みたいなもん。欠片を持ってる君の魂と、この場所を直接結んだ」
神は指をくるくる回しながら続ける。
「だから今、君は死んでここに来た」
その言葉に、アルナの呼吸が止まる。
死んで。ここに来た。神は軽い口調のまま言う。
「普通なら人は死んだら終わり。魂は流れて、分解されて、世界に還る。でも君は途中でこっちに引っ張られた」
アルナは視線を落とす。
視界の先では、ルークがまだ必死に自分へ治癒魔法をかけ続けていた。
『お願い……! 死なないでぇ……!』
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も何度も魔力を流している。だが、アルナの身体は動かず、血も止まらない。
神がぼそりと言った。
「かわいそ、もう死んでんのにね」
拳を握りながら、アルナの声は震えていた。
「ルークは……」
「ん?」
「ルークはどうなるんだ?」
神は数秒だけ黙る。だが、その顔に迷いはなかった。
「殺されるだろうね」
神は淡々と続けた。
「でも君みたいにすぐは殺さない」
「ルークは収容所へ連れ戻される。脱獄した奴隷、それも看守を傷つけた重罪人としてね」
神は軽い口調のまま言う。
「見せしめだよ。逃げたらこうなるって、他の奴隷に見せるために殺される」
アルナの顔から血の気が引いていく。
神はさらに続けた。
「しかも、じっくり時間をかけてね」
その言葉で、アルナの身体が硬直した。
脳裏に浮かぶ暗い地下牢。鎖。痩せ細った奴隷達。看守の笑い声。
泣きながら魔法を使っていたルークの姿。
「……っ」
アルナは両手で顔を覆った。その姿を、神はじっと見下ろしていた。その目には、さっきまでみたいな軽さがなかった。
「君のせいだよ」
静かな声だった。でも、その一言がアルナの胸を深く抉った。
「君のせいでルークは死ぬんだ」
アルナの肩がびくりと震える。
「……やめろ」
掠れた声。
でも神は止まらない。
「分かってるだろ?」
白い空間の景色が揺れる。
視界の先では、木に叩きつけられたガルドがまだ膝をついていた。
雷で焼かれ、風で吹き飛ばされ、呼吸も乱れている。確かに、あの瞬間ガルドは怯んでいた。
神の声が静かに響く。
「あの時、君が躊躇せず剣を振り下ろしてたら、ガルドは死んでた」
アルナの瞳が揺れる。
脳裏に蘇る。剣を握った感触。倒れていたガルド。
“娘がいるんだ”
神は淡々と続ける。
「そしたら君たちは逃げ切れてた。収容所からも解放されて、自由になれてた」
白い空間に、ルークの泣き声だけが響く。
『アルナぁ……! お願い、死なないでぇ……!』
神がゆっくりアルナへ顔を近づけた。
「でも君は止まった」
アルナは何も言えなかった。全てが正論だった。
「殺せなかった」
その言葉が、喉に刺さる。
「君が“かわいそう”なんて思ったから」
アルナの呼吸が乱れる。
「違……」
「違わない」
神は即座に切り捨てた。
「ガルドは君を騙して、君はそれに引っかかった」
「その結果、君は死んだ」
神の声は冷たい。
「そしてルークも死ぬ」
アルナは俯いたまま動かない。頭の中で、何度もあの瞬間が繰り返される。
剣を振り下ろしていれば。迷わなければ。躊躇しなければ。
ルークは今も笑っていたかもしれない。
「……っ」
喉の奥から、押し潰されたような声が漏れる。
神はそんなアルナを見下ろしながら、小さく呟いた。
「……がっかりだよ」
神は冷めた目で言った。
「奴隷が逃げようとして捕まり、殺される。実にありきたりで退屈な死に方だ」
アルナはその場にうずくまった。
両手で頭を抱え、白い床へ額を押しつける。呼吸が乱れる。胸の奥が潰れそうだった。
「ぁ……ぁ……」
情けない声しか出ない。視界の端では、ルークがまだ泣いている。
『アルナぁ……!』
小さな身体を震わせながら、必死にアルナを抱えている。
もう魔力なんてほとんど残っていないはずなのに、それでも治癒魔法を止めない。
その姿が、余計に苦しかった。
「……俺の、せいだ」
アルナの声は掠れていた。
「俺が……迷ったから……」
剣を振り下ろせなかった。
覚悟がなかった。人を殺すのが怖かった。
その結果がこれだ。自分は死に、ルークも死ぬ。
全部終わった。
アルナの肩が小刻みに震える。
「なんで……」
「なんで俺、あの時……っ」
言葉が続かない。
頭の中では、何度も同じ光景が再生されていた。
倒れたガルド。
振り上げた剣。
止まった腕。
そして次の瞬間、喉を裂かれる感触。
神はそんなアルナを静かに見下ろしていた。
アルナは顔を上げられなかった。
胸の奥が重い。苦しい。自分の失敗が、頭の中で何度も何度も反響している。
そんなアルナの前に、す、と影が落ちた。
神がしゃがみ込んでいた。
白い床に肘を乗せ、頬杖をつきながら、至近距離でアルナの顔を覗き込んでいる。
「……なぁ」
神がぽつりと言った。
「生き返らせてやろうか?」
ゆっくり顔を上げると、神は相変わらず退屈そうな顔をしていた。
「……は?」
掠れた声だった。
神は軽く肩を竦める。
「聞こえなかった?」
「生き返らせてやろうかって言ってるんだ」
アルナの瞳が揺れる。
「で、でも……お前、封印されて出来ないって……」
神は「あー……」と気怠そうに頭を掻いた。
「普通のこの世界の人間なら無理だよ。封印のせいで、僕は世界そのものに干渉できないからね」
そう言いながら、神はアルナの額を指で軽く突く。
「でも君は違う」
「……何が」
「君、外側から来た存在だから」
神は淡々と言う。
「異世界人。世界の理から半分外れてる、イレギュラーってやつだ」
「だから僕の封印による制約が、君には完全には適用されない」
白い空間が微かに揺れる。
神はそのまま続けた。
「簡単に言えば、君は世界にとって“異物”なんだよ」
「本来なら干渉できないはずの魂にも、僕は手を伸ばせる」
アルナは言葉を失った。
「……じゃあ」
「俺、生き返れるのか……?」
神は少しだけ笑った。
その笑みは優しさなんかじゃない。
面白い玩具を見つけた子供みたいな笑い方だった。
「出来るよ」
「君の魂を肉体に押し戻して、欠損を無理やり繋げる」
アルナの呼吸が止まる。
視界の端で、ルークが泣いている。
助けられる。まだ、間に合う。
その考えが脳裏に浮かんだ瞬間、アルナは反射的に神へ顔を向けた。
「頼む……!」
喉が震える。
「頼む、助けてくれ……!」
「俺、まだ……!」
死にたくない。
ルークを死なせたくない。
その叫びを、神は静かに聞いていた。
神はアルナの叫びを聞き終えると、小さく鼻で笑った。
「……タダじゃないよ?」
アルナは即答した。
「分かってる! 欠片だろ!?」
「俺が全部集める! だから――!」
「信用するわけないだろ」
神の声が、ぴたりと被さった。
アルナの言葉が止まる。神はもう笑っていなかった。
さっきまでの軽薄さも、退屈そうな態度も消えている。
白い瞳だけが、冷たくアルナを見下ろしていた。
「君、自分で何回失敗したか分かってる?」
アルナの肩がびくりと震える。
神は指を一本立てた。
「まず一回目。母親を守れなかった」
「二回目。ガルドを殺し切れなかった」
淡々とした声だった。
でも、その一言一言が重い。
「その結果君は死に、ルークも時期に死ぬ」
アルナは唇を噛み締める。
神はさらに続けた。
「そんな君の“次は頑張ります”を、僕が本気で信じると思う?」
返す言葉がなかった。
白い空間に沈黙が落ちる。
神はゆっくり立ち上がると、アルナへ背を向けた。
「覚悟ってさ、口で言うもんじゃないんだよ」
「……君はさ」
その声は妙に静かだった。
「また同じ場面になった時、今度こそ人を殺せるの?綺麗事抜きでさ」
神はゆっくり振り返った。
「自分の手を血で汚してでも、殺せるのかい?」
白い瞳がアルナを射抜く。
「中途半端な覚悟なら、今ここで死んだ方がマシだよ」
「次はルークだけじゃ済まない」
アルナの拳が震える。
脳裏に浮かぶのは、母の死。
ルークの泣き顔。
そして、自分の止まった剣。
アルナの口が、ゆっくり開いた。
「……確かに俺は、失敗した」
掠れた声だった。
「母さんも守れなかった」
「ガルドも殺せなかった」
「そのせいで……ルークまで死にかけてる」
拳を握る。
爪が掌に食い込むほど強く。
「でも……っ」
アルナは顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃだった顔には、もうさっきまでみたいな諦めだけはなかった。
「だからって、ここで終われるわけねぇだろ……!」
神は黙っている。
アルナは震える足で立ち上がった。
「……俺は、屑で、馬鹿で、甘かった」
アルナの声は震えていた。
「人を殺す覚悟もないくせに、誰かを守れる気になってた」
「ガルドの言葉に揺らいで、勝手に情けかけて……その結果がこれだ」
「……でも」
震える拳を、胸の前で強く握る。
「だから終わりでいいなんて、絶対思えねぇ」
神は無言だった。
アルナは一歩、前へ出る。
「俺は怖い」
「今でも、人を殺すのは怖ぇよ」
喉を裂かれた痛みが蘇る。
血の臭い。死ぬ感覚。あの瞬間の恐怖。
それでもアルナは目を逸らさなかった。
「でも……もう嫌なんだよ」
声が掠れる。
「俺のせいで、大切な人が死ぬの」
白い空間が静かに揺れる。
アルナは神を真っ直ぐ見た。
「だから次は殺す」
「ルークを守るためなら、敵は殺す」
神は数秒だけアルナを見つめて、そして――ふっ、と笑った。
「……いい目になったじゃないか」
その笑みは、さっきまでみたいな嘲笑じゃなかった。獣が牙を見せるみたいな、危うい笑みだった。神はゆっくり立ち上がる。
「いいだろう」
白い空間が微かに震える。
「契約だ」
アルナの眉が動く。
「……契約?」
「契り、って言った方が分かりやすいかな」
神は指先をくるりと回した。
すると白い空間に、黒い紋様が浮かび上がる。
円環。
鎖。
そして、見たこともない文字列。
それを見た瞬間、アルナの本能が警鐘を鳴らした。
――触れたら駄目だ、と。
だが神は気にした様子もなく続ける。
「この世界において契約は“絶対”だ」
「ただの口約束じゃない。魂そのものに刻まれる」
神の白い瞳が細くなる。
「破れば、死よりも恐ろしい物が待ってる」
空気が、ぞわりと冷えた。
「魂を直接砕かれるんだ。肉体が死んでも終われない」
「意識だけのまま、永遠に壊れ続ける」
軽い口調だった。
でも、冗談を言っていないのは分かった。
アルナの喉が鳴る。神はゆっくり指を立てた。
「契約内容は簡単」
白い空間に浮かぶ紋様が脈動する。
「僕は君に力を与える」
「喉を治し、魂を肉体へ戻し、再び戦う力を与える」
神の声が静かに響く。
「代わりに君は、僕の欠片を全て集める」
「どんな手を使ってでも」
「何を犠牲にしてでも」
アルナは黙って聞いていた。
「そしてもう一つ」
白い瞳が真っ直ぐアルナを貫く。
「この契約内容は誰にも喋るな」
神は白い紋様を指先でなぞりながら、淡々と続けた。
「僕が世界に介入したって広まれば、他の神が黙ってない」
アルナは眉をひそめる。
「……他の神?」
「いるよ。当然」
神はつまらなそうに肩を竦めた。
「この世界には僕以外にも居る。豊穣だの、戦いだの、知恵だの……人間が崇めてる連中は大体そうだ」
白い空間に、無数の光が一瞬だけ浮かんでは消える。
「でも神は基本、傍観者なんだよ」
「人間が飢えようが、殺し合おうが、国が滅びようが、原則として直接は手を出さない」
神はアルナを見た。
「世界の流れを壊すから」
アルナは黙って聞いている。
神は少しだけ目を細めた。
「僕は今、封印されてる」
「本来なら世界への干渉なんて出来ないはずなんだ。でも君みたいな“外側の異物”を介せば、抜け道を使える」
その瞬間、空間に浮かぶ黒い紋様が脈打った。
「だからバレたら終わりだ」
「他の神は君ごと僕を消しに来る」
アルナの背筋に冷たいものが走る。
「……俺も?」
「当たり前だろ」
神は鼻で笑った。
「神からすれば、人間なんて駒みたいなもんだ」
「世界の均衡を崩す異常なんて、見つけ次第処分する」
白い瞳が静かに細くなる。
「だから喋るな」
「誰にも」
「どれだけ信用しててもだ」
アルナの脳裏に、ルークの顔が浮かぶ。
だが神は即座に釘を刺した。
「ルークにもだよ」
アルナの肩がぴくりと揺れた。
「この契約を口にした瞬間、契約は違反と見なされる」
「その時は――分かるだろ?」
アルナの背筋に、ぞわりと鳥肌が走った。
脅しじゃない。
目の前の存在なら、本当にやれるのだと本能が理解してしまっていた。
アルナはゆっくり唾を飲み込む。
「……分かった」
掠れた声だった。
だが、今度は迷いはなかった。
神は数秒だけアルナを見つめると、満足そうに目を細めた。
「よろしい」
そう言って、神は片手を差し出した。
白く細い指。
人間の少女みたいな手だった。けれど、その周囲だけ空間が微かに歪んで見える。
「じゃ、手を出して」
アルナは一瞬だけ躊躇する。
だがすぐに拳を握り、神へ手を伸ばした。
指先が触れる。
その瞬間。
――ドクン。
心臓を直接掴まれたみたいな感覚が全身を貫いた。
「――契約は成立した」
「君は魂尽きるまで、僕の欠片を集める」
空間が震える。
「逃げる事は許されない」
「拒絶も、裏切りも許されない」
「代わりに、君に力を与える」
「……分かった」
アルナは掠れた声でそう言った。
もう後戻りは出来ない。
それは理解していた。だが、それでも構わなかった。
ルークを助けるためなら。
もう二度と、大切なものを失わないためなら。
神は満足そうに目を細めた。
「よし、コンテニューと行こうか」




