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やり直し転生  作者: 爪楊枝
第一章 始まり
19/24

十八話 逃げた先

冷たい水が、全身にまとわりついていた。


「っ……げほっ……!」


ルークが先に水面から顔を出す。咳き込みながら、必死に息を吸い込んだ。続いてアルナも腕に力を入れ、濁った排水の流れから這い上がる。石の縁を掴んだ指が痛いほど冷えていた。


外の空気は、想像よりもずっと冷たかった。


「……出、れた……?」


ルークが震える声で呟く。目の前には、巨大な外壁の裏手。月明かりに照らされた草地と、遠くに続く黒い森が見えた。さっきまでの地獄みたいな収容所の灯りは、もう壁の向こう側に押し込められている。


アルナは一瞬だけ振り返る。


壁の向こうでは、まだ赤い光が揺れていた。警鐘の音はここまでかすかに届いている。


「……出れたな」


ルークはその場にへたり込みそうになりながらも、なんとか踏みとどまった。全身びしょ濡れで、髪から水が滴っている。


「ぼ、僕……ほんとに……外……」

「感動してる暇あったら動くぞ」


アルナはルークの腕を掴んで引き上げる。ルークは慌てて立ち上がったが、足がふらついた。


「ど、どこ行くの……?」

「森だ。早く逃げねぇと…」


背後で、遠くから叫び声が響く。


「ここら辺にいるはずだ!」

「必ず探し出せ!!」


アルナは舌打ちした。


「最悪だな……」


外壁沿いの草地をなぞるように、橙色の光がゆっくり動いている。回り込んできた看守たちだ。松明の炎が揺れるたびに、影が歪んで不気味に伸びている。


二人は音を殺して草地を這うように移動し、そのまま黒い森の縁へと滑り込んだ。


そして、次の瞬間。二人は走った。


靴底が土を蹴る音すら怖い。枝が腕や頬に当たっても構わず、ただ前へ前へと突っ切る。背後ではまだ松明の光が揺れている気配があったが、木々がそれを飲み込んでいく。


「はぁっ……はぁっ……!」


ルークが息を切らしながらついてくる。足がもつれそうになり、そのたびにアルナが腕を引っ張った。


視界はほとんど暗闇で見えない。かろうじて月明かりが地面を照らす程度だ。勿論明かりなんてつけれない。でも走るしかなかった。


枝が顔をかすめる感覚すら、今はどうでもよかった。


アルナはルークの腕を強く引きながら、ただ森の奥へと突き進む。足元の土は柔らかく、時折根に引っかかっては体勢を崩しそうになる。それでも止まらない。


「っ……アルナ……! 待って……!」


ルークの声は途中で途切れそうになっていた。息が完全に乱れている。それでも離さない。


アルナは振り返らないまま走り続ける。


――あの時も、こうだった。


頭の奥で、勝手に記憶が重なる。


母さんの手。夜の森。叫び声。


何が起きているのか分からないまま、ただ引っ張られて、ただ走っていた。


でも今は違う。今は全部分かってる。

追われている理由も、止まればどうなるかも、失敗したら何を失うかも。


それでも走っている。


「……くそ」


アルナは息を吐き捨てるように呟いた。

あの時は守られる側だった。やり直すって決めたのに何もできなかった。


でも今は違う。腕の中で、ルークが転びかける。

アルナは即座に引き上げるようにして支えた。


「っ……!」


ルークが小さく悲鳴を上げる。

それでもアルナは速度を落とさない。


次は――。


頭の中で言葉が形になる。


次は、失わねぇ。次は、止まらねぇ。


胸の奥が熱くなる。恐怖とは別の、もっと鈍くて重いものが込み上げてくる。


「今回は……失敗しねぇぞ……!」


誰に言ったのかも分からない声が、喉から漏れた。ルークが横で一瞬だけこちらを見る。


「あ、アルナ……?」


返事はしない。ただ腕を強く引いた。


木々の隙間から、かすかに松明の光が遠ざかっていくのが見えた。追手の気配はまだある。だが、確実に距離は開いている。


森は少しずつ、音を飲み込み始めていた。


アルナは前だけを見る。


それでも足は止まらない。

まだ終わってない。


***


どれだけ走ったか、自分でもよく分からなくなって来た。


聞こえてくるのは、アルナとルークの荒い呼吸と、風に揺れる葉の擦れる音だけだった。さっきまで背後にあったはずの怒声も、松明の光も、もうどこにも見えない。


いつの間にか、追っ手の気配は途切れていた。


「はぁっ……はぁっ……!」


ルークが喉を鳴らすように息を吸い、次の瞬間、限界みたいに叫ぶ。


「アルナぁ……! もう無理ぃ!! 走れない……!!」


その声で、アルナはようやく気づいた。


自分も止まっていないだけで、ほとんど“走っているつもり”だっただけだと。


足が、勝手に前へ出ているだけだった。


アルナは数歩進んだところで、急に膝の力が抜けた。


「っ……」


地面に片手をつく。土の冷たさが手のひらに広がる。呼吸が一気に崩れた。

ルークもその横に崩れ落ちるように座り込む。


「はぁ……はぁ……む、無理だってぇ……死んじゃう……」


情けない声なのに、どこか安心したような響きだった。


アルナは何も言えないまま、肩で息をする。肺が痛い。喉が焼けるみたいだ。心臓がまだ逃げ続けているみたいに暴れている。


それでも――。静かだった。


本当に、静かだった。


アルナはゆっくり顔を上げる。


森の奥。月明かりが木々の隙間から落ちている。誰もいない。追ってくる足音もない。怒鳴り声もない。


「僕たち、逃げ切れた?」


アルナはすぐには答えなかった。


肩で息をしながら、ゆっくりと視線だけを上げる。森は静かすぎるくらい静かだった。虫の声があるはずなのに、それすら遠く感じる。


砂塵(さじん)……僕たち、逃げ切れた?』


ルークの問いが、やけに軽く森に落ちる。

アルナはそこで初めて気づく。


本当に?俺たち逃げ切れたのか?

上手くいきすぎている気がする。


火事、混乱、脱出、追手の遅れ。全部が“予定通りすぎる”くらいに噛み合っていた。


まるで誰かが、最初から見逃していたみたいに。


――思い出せ。


アルナの視界が一瞬だけ揺れる。


母さんと逃げた夜。あの時もそうだった。


「助かった」と思った瞬間森の向こうから、静かに現れた影。


ガルドの剣が母さんに刺さって……


「っ……」


アルナの呼吸が一瞬だけ止まる。


――あの時も、そうだった。


逃げ切れたと思った瞬間に、全部終わった。


「ガルド……」


無意識にその名前が漏れる。

ルークがびくっと肩を揺らした。


「え、なに……誰?」


アルナは答えない。代わりにゆっくりと周囲を見る。静かすぎる森。風はあるのに、何かだけが“抜け落ちている”ような違和感。


――何かいる。

アルナの直感だけがそう告げていた。


「……ルーク」

「な、なに……?」


次の瞬間。


「ルーク!!」


叫びと同時に、アルナはルークを全力で突き飛ばした。


「えっ――」


ギィンッ!!


空気が裂ける音。視界の端に白い閃光。

鋭い衝撃がアルナの肩を貫いた。


「っ……がぁっ!!」


焼けるような痛み。身体が横に吹き飛び、地面に転がる。


「アルナ!!」

「いっでぇぇ……!」


アルナは歯を食いしばりながら顔を上げる。


木の幹に、一本の剣が深々と突き刺さっていた。刃が月光を反射し、異様なほど冷たい光を放っている。


ほんの一瞬遅れて理解が追いつく。


今のは“風”でも“偶然”でもない。

狙い撃ちだ。ルークが震えながら後ずさる。


「な、なにこれ……誰……!?」


アルナは肩を押さえたまま、剣の飛んできた方向を睨む。


森の奥。そこに、気配がひとつ。まるで瞬間移動して来たみたいに突然足音が現れた。

アルナは小さく息を吐く。


「……やっぱりな」


逃げ切れたなんて、最初から幻想だった。森の奥から、その声は静かに落ちる。


「やっぱり、悪魔付きに二度目は通用しねぇよな」


アルナの背筋が冷たくなる。

ゆっくりと、足音が近づく。カツ、カツ、と一定のリズム。焦りも迷いもない歩き方だった。


木々の影から、男が姿を現す。


大柄な体。無駄のない立ち姿。腰には剣と空の鞘が一つ。月光を受けても、目だけが妙に冷えて見えた。


アルナはその顔を見た瞬間、息を止める。


「……ガルド」


低く、絞り出すように名前が漏れた。

ルークもガルドの顔を見た瞬間、遅れて思い出したように青ざめる。


「あ……あの人……」


声が震えている。

ガルドは軽く肩を回しながら、まるで散歩の続きみたいに近づいてくる。


「火事で派手にやったって聞いたが……まさか本当に抜けるとはな」


その声は淡々としているのに、妙に重い。

視線がアルナに刺さる。


「優秀すぎると困るんだよ、ほんと。ガキだから地下は許してやったのに」


アルナはゆっくり立ち上がろうとするが、肩の痛みで膝が揺れた。


「っ……」


ガルドはそれを見て、少しだけ目を細める。


「無理すんな。肩、綺麗に入ってるだろそれ」


アルナは答えない。代わりに火球を作ろうとするが、魔力がうまくまとまらない。痛みと疲労で、集中が途切れる。


ルークが小さくアルナに寄る。


「アルナ……どうすれば……」


ガルドの視線がルークに落ちた瞬間、空気がわずかに変わった。興味というより、値踏みする様な視線だった。


「……ほう」


低い声が漏れる。


「まさかこんなガキにも魔法が使えるなんて想定外だった。」


ルークがびくっと肩を跳ねさせる。アルナはその間に、震える腕で立ち上がろうとするが、痛みが思考を削っていく。


ガルドは一歩近づいた。そのたった一歩で、距離が一気に詰まったように錯覚する。


アルナは歯を食いしばりながら低く言う。


「ルーク、下がってろ……」

「でも、アルナ……!」

「いいから!」


アルナは幹に突き刺さった剣を徐に引き抜く。重い金属音が森に響きそのまま、震える腕でガルドへ突きつける。


「お前、剣術なんて使えたっけ?」


呼吸は荒い。それでも視線だけは逸らさない。

ガルドは一瞬だけ黙り、それから小さく鼻で笑った。アルナは答えない。


代わりに、低く吐き捨てる。


「うるせぇ……これ以上俺たちの邪魔するなら、今度こそ殺すぞ……」


その言葉に、ガルドは肩を揺らして笑った。


「殺す?」


一歩、踏み出す音。


「そんな怪我の中で俺を殺すってか?」


視線がアルナの肩の傷に落ちる。血は服を濡らし、呼吸のたびにじわりと広がっていく。


「見るからに出血と魔力不足で真っ青じゃねぇか」


さらに一歩。距離が詰まるたびに、圧が増していく。

ガルドは淡々と続けた。


「それに……お前は俺を殺せねぇよ」


アルナの眉がわずかに動く。


「は?」


声がかすれる。


「何、言ってんだ?」


ガルドは止まらない。


「殺せないって言ったんだ。出血でもう聞き取れねぇか?」


アルナの指に力が入る。剣の柄が軋む。


「ふざけんな……お前を殺す理由なんて腐るほどーー」

「あるよな?分かってるよそんな事、お前の母ちゃん殺したの俺だもんな」


ガルドは淡々としたまま、まるで事実を並べるみたいに言葉を続けた。


「でもお前は俺を殺せねぇ」


一歩、また一歩と近づくたびに、アルナの剣の先がわずかに揺れる。


「お前は根本的な部分で殺人を恐れてんだよ」


アルナの呼吸が一瞬詰まる。その一瞬をガルドは見逃さない。


「部下の顔を焼いた時も、お前は無意識のうちに“殺さない程度”で止めてた」


ルークが小さく息を呑む。「え……」と声にならない声を漏らす。アルナは歯を食いしばる。


「違う……あれは……!」


言いかけて、言葉が詰まる。記憶が一瞬だけよぎる。確かに“死ななかった”。でも結果としてだ。


ガルドは薄く笑った。


「無意識だろうが結果は同じだ」


肩をすくめる。


「お前は殺せない。だから俺には届かない」


アルナの剣先が、わずかに下がる。その瞬間を狙うように、ガルドの声がさらに低くなる。空気が冷える。


「前世では、相当甘ったれた世界で生きてたらしいな」


ガルドはそう言い、鞘から剣を抜く。金属が擦れる乾いた音が森に響く。


「もう長話はこの辺にしよう。こんな深夜に起こされて眠いんだ」


その言葉とは裏腹に、剣を構える動きには一切の無駄がない。空気が一段、重く沈む。


アルナはその瞬間、口角を上げた。「ニヤリ」と笑う。血が滲むほど肩を押さえながら、それでも目だけは死んでいない。


「そうだな……一生眠ってろ!」

「ルーク!!」


ルークが一瞬だけ怯んだ目を上げるが、すぐに頷く。


「うん!」


恐怖より先に、アルナの声が背中を押した。


「《ウィンドブラスト》!!」


ルークの手の前に、空気が収束する。次の瞬間、爆発みたいに圧縮された風が解放され、森の空気ごとねじ曲がるようにガルドへ叩きつけられた。木の葉が逆流し、地面の土が削れ、視界が白く濁る。


「っ……!」ガルドの身体がわずかに後退する。だが、完全には崩れない。踏み込みで衝撃を殺し、風圧の中心から一歩外へずらすように逃げている。


アルナはその一瞬を逃さない。


「今だ……!」


その声に反応するより早く、身体が動いていた。地面を蹴る。痛みが肩から全身に走るが、関係ない。


ルークの腕を掴み、引きずるようにして後方へ跳ぶ。


「走れ!!」


背後で風が裂ける音がした。ギィンッ、と金属が鳴る。


ガルドが剣で風圧を切り裂いた音だ。視界を覆っていた砂塵さじんの幕が一瞬で割れ、黒い影がそこに“残っている”のが見える。


「……こんな深夜に鬼ごっこか」


低い声が、風の中を貫いて届く。

アルナは舌打ちした。


「チッ……化け物かよ」


次の瞬間、地面が爆ぜた。

ガルドが踏み込んだだけで土が割れ、距離が一気に詰まる。速度が人間のそれじゃない。


「ルーク!!右!!」

「わ、わかったぁ!!」


ルークが転びかけながらも方向転換する。アルナはその背を押し込むようにして森の密集地へ突っ込んだ。


枝が顔を叩く。視界が揺れる。

それでも止まらない。


背後から“圧”が追ってくるのが分かる。音より先に気配が迫る感覚。振り返る余裕すらない。


「逃げ切れると思ってんのか」


ガルドの声が、距離を無視して耳元に届く。

アルナは走りながら叫ぶ。


「知るかよ!!今は逃げるだけだろうが!!」

「その判断が甘いって言ってんだ」


次の瞬間。ズン、と空気が沈んだ。

アルナは反射的にルークを突き飛ばす。


「伏せろ!!」


ギィンッ!!

目の前の空間が裂けた。木の幹が半分ごと切れ飛ぶ。


「っ……!!」


爆風でアルナの身体が横に弾かれる。肩の傷が裂けるように痛む。


「アルナ!!」


ルークの叫びが遠くなる。アルナは歯を食いしばりながら立ち上がる。


「……くそっ、無茶苦茶やりやがって……!」


視界の先。ガルドはもう“そこ”にいる。

距離が詰まっているのに、詰められた感覚がない。最初から隣にいたような錯覚すらある。


ガルドは淡々と剣を構えたまま言う。


「もう鬼ごっこは終わりか?」


アルナは歯を食いしばったまま、即座に動いた。


「っ……くそが……!」


右手を振り抜く。


「ウォーターボール!!」


空中に水が瞬時に凝縮され、拳大の球体が生まれる。それを迷いなく投げつけた。だが――。


「甘いな」


ガルドは一歩も止まらないまま、剣を横に払った。


水球が斬られた。水そのものが切断されたみたいに真っ二つに裂け、床に落ちる


「は……?」


次の瞬間、視界が跳ねた。

ガルドの踏み込み。距離が消える。


「っ!!」


アルナは反射で後ろに跳ぶ。


「ウォーターボール!!ウォーターボール!!」


連射。水球が二つ、三つ、四つと空中に生まれ、弾幕みたいにガルドへ殺到する。しかし――


「しつけぇな……」


ガルドはため息をひとつ吐いたまま、剣を横に振った。一閃。


次の瞬間、水球が切られた


斬られたというより、線で分断されたみたいに、空中で崩れて地面に落ちる。水が泥に染み込む音だけがやけに生々しかった。


「は……?」


アルナの喉が、乾いた音を立てた。


もう一発。


「ウォーターボール!!」


さらにもう一発。


「ウォーターボール!!ウォーターボール!!」


連続で生み出した水球が、半ば“意地”みたいに放たれる。魔力はもうほとんど底だ。視界の端が揺れる。鼻から血が落ちる感覚があった。


それでも止めない。


水球が三つ、四つと夜空に浮かび、ガルドへ殺到すが、ガルドは歩いたまま全部を切った。


一つ。二つ。三つ。


水は悲鳴みたいに弾けて落ちる。


四つ目が消えた瞬間、ガルドはほんの少しだけ肩を回した。


「無駄だ」


その声と同時に、地面が鳴った。

踏み込み。視界が跳ねる。


「っ!!」


アルナは咄嗟に後ろへ跳ぶ。だが遅い。背中が木に叩きつけられた。


「がっ……!」


肺から空気が抜ける。視界が白くなる。肩の傷が再び裂けたように熱を持つ。


木の幹に背中を預けたまま、アルナはずるずると崩れかける身体を無理やり起こした。


ルークの声が遠くで聞こえる。


「アルナ!!」


だが返事する余裕がない。


ガルドは数歩だけ近づき、そこで止まった。まるで獲物の状態を確認するみたいに、静かに見下ろしている。


「もう終わりにしよう」


その声は不思議なほど落ち着いていた。


「よくやったよ、お前は」


アルナの呼吸が荒いまま止まる。

ガルドは剣を軽く肩に乗せる。


「最後になんか言うことあるか?」


森が静かだった。風の音だけが、やけに遠い。

アルナは一瞬だけ目を閉じる。母さんの顔が、浮かびかけて消える。


次の瞬間目を開けた。


「……ガルド」


低く、かすれる声。


「お前すげぇよ」


ガルドの眉がわずかに動く。


「水切ったり、炎切ったり、挙げ句の果ては風も切ってさ……」


アルナは息を吐く。笑っているのか、苦しんでいるのか分からない顔だった。ガルドは鼻で笑う。


「なんだ? 気でも狂ったか?」


剣を少しだけ持ち上げる。


「遺言がそれなら――」


アルナは、ゆっくり口角を上げた。ニヤリ、と。


「でもよぉ!電気は切れっかな!!」


その瞬間だった。


バチィッ!!という破裂音と同時に、森の闇が一瞬だけ白昼みたいに焼き払われた。


空気そのものが裂けるような閃光。


「なっ……!?」


視界が白に染まる。その中心で、アルナの手から“細い稲妻”が走っていた。水分を含んだ空気と、水を含んだガルドの服と地面。それら全部を無理やり繋ぎ合わせた、歪な電撃。


「《ボルト》!!」


アルナの叫びと同時に、雷が“線”になって跳ねた。次の瞬間――。


「ぐっ……がぁぁっ!!」


ガルドの身体が弾かれるように仰け反る。

剣を構えていた腕が跳ね上がり、地面に膝が落ちる。全身に走る痙攣。足元の土が焦げたように黒く焼ける。


「な、に……っ!?」


初めて明確な動揺が浮かんだ。

アルナは歯を食いしばりながらさらに手を伸ばす。指先が震えている。魔力はもう空に近い。なのに、無理やり“繋げている”。


「ぐ……あががががが!!」


雷が再び跳ねる。


ガルドの肩に、腕に、地面に刺さった剣にまで電流が伝う。

金属が共鳴し、森全体が不自然に明滅した。


「くっ……そ……っ!!」


ガルドが剣を振り上げる。だが、その一瞬遅い。


「今だぁ!!ルーク!!」


アルナの声が裂けるように飛ぶ。


「っ……うん!!」


ルークが震える手を突き出す。


「《ウィンドブラスト》!!」


圧縮された風が爆発するようにガルドへ叩き込まれた。

雷で崩れた姿勢に、風圧が直撃する。


「ぐっ……!!」


ガルドの身体が初めて大きく後ろへ飛ばされる。木々に叩きつけられ、枝が砕け散る音が響いた。


アルナは膝をつく。

そのまま地面に片手を突く。


「はぁ……っ……はぁっ……!」


肺が痛い。視界がまだ白く揺れている。

指先は痺れ、感覚がうまく繋がらない。


それでも――視線だけは、逸らさなかった。


森の奥。


ガルドは木の幹にもたれかかるようにして、動かない。

焦げた地面の上で、剣も手から離れている。


(……やった)


一瞬、そう思いかけて。


アルナはすぐにその考えを否定した。


まだだ!まだあいつは死んでねぇ!確実に殺さないと!!


アルナは地面に落ちている剣を拾い、ふらつく脚を無理やり前へ運んだ。視界がまだ揺れている。耳の奥で心臓の音だけがうるさい。


森の奥、木に寄りかかるようにして倒れているガルドが見えた。


動かない。呼吸も乱れているように見える。焦げた地面の痕跡と、さっきの雷の残滓が周囲に残っていた。


(……終わらせる)


アルナは剣を握り直す。指が痺れて感覚が薄い。それでも一歩、二歩と近づく。


ガルドの前に立ち、剣を振りかぶる。


その瞬間だった。


「……待て」


かすれた声。アルナの動きが止まる。

ガルドが、ゆっくりと顔を上げた。

その目は、さっきまでの冷たさが嘘みたいに揺れていた。


「頼む……やめてくれ」


アルナの眉がわずかに動く。ガルドは喉を押さえながら、苦しそうに息を吐く。


「俺は……まだ死ねねぇ……」

「……」

「娘がいるんだ」


その言葉に、アルナの動きが完全に止まった。

風の音だけがやけに大きく聞こえる。ガルドは視線を逸らし、弱々しく笑う。


「こんな場所で死んだら……あいつ、一人になる」


アルナの指がわずかに震えた。剣先が、ほんの数センチだけ下がる。


その隙をガルドは見逃さなかった。

次の瞬間――。


「っ!!」


その瞬間、ガルドの身体が一瞬で消えたように見えた。次の瞬間には、もう目で追えていなかった。


金属が擦れる音さえ置き去りにして、ガルドの剣が跳ね上がる。アルナが反応するより一拍早く、鋭い刃が喉元へ突き込まれた。


最初に来たのは“熱”だった。


鋭い痛みじゃない。

焼けた鉄を押し込まれたみたいな、異様に熱い感覚。次の瞬間、その熱が喉の奥を無理やり裂いていく。


「がっ――!?」


声を出そうとした。

だが、出なかった。

代わりに口から飛び出したのは、空気とも血ともつかない濡れた音だけだった。


ガルドの剣は、喉仏を深く抉っていた。


完全に首を断ったわけじゃない。皮膚を裂き、筋肉を断ち、呼吸の通り道の一部まで届いている。


アルナは何が起きたのか理解するより先に、自分の首を押さえた。


ぬるい。指の隙間から、熱い液体が溢れてくる。


「っ、ぁ……!?」


息を吸った瞬間、喉の奥で泡立つ音がした。


血だ。


呼吸のたびに、空気と一緒に血が混ざる。

肺が酸素を求めているのに、うまく吸えない。


視界がぶれる。立っていられない。


膝から力が抜け、アルナはその場に崩れ落ちた。


地面に手をついた瞬間、血がぼたぼたと土へ落ちる。黒い森の地面に、月明かりを反射した赤が広がっていく。


視界の端で、ガルドがゆっくりと立ち上がるのが見えた。焦げた地面の上で、何事もなかったように呼吸を整えている。


アルナの喉からは、血の味もろくに分からないまま、掠れた息だけが漏れた。


「……ほらな?」


ガルドの声は静かだった。


「お前は、俺を殺せねぇ」


アルナの視界が揺れる。ルークが何か叫んでいるのは見えるのに、その声はもう聞こえない。

体が冷えていく。さっきまで燃えるようだった熱が、指の先から少しずつ抜け落ちていく感覚だけが、妙に鮮明だった。


そして、アルナの意識は静かに闇へ落ちていった。

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