十八話 逃げた先
冷たい水が、全身にまとわりついていた。
「っ……げほっ……!」
ルークが先に水面から顔を出す。咳き込みながら、必死に息を吸い込んだ。続いてアルナも腕に力を入れ、濁った排水の流れから這い上がる。石の縁を掴んだ指が痛いほど冷えていた。
外の空気は、想像よりもずっと冷たかった。
「……出、れた……?」
ルークが震える声で呟く。目の前には、巨大な外壁の裏手。月明かりに照らされた草地と、遠くに続く黒い森が見えた。さっきまでの地獄みたいな収容所の灯りは、もう壁の向こう側に押し込められている。
アルナは一瞬だけ振り返る。
壁の向こうでは、まだ赤い光が揺れていた。警鐘の音はここまでかすかに届いている。
「……出れたな」
ルークはその場にへたり込みそうになりながらも、なんとか踏みとどまった。全身びしょ濡れで、髪から水が滴っている。
「ぼ、僕……ほんとに……外……」
「感動してる暇あったら動くぞ」
アルナはルークの腕を掴んで引き上げる。ルークは慌てて立ち上がったが、足がふらついた。
「ど、どこ行くの……?」
「森だ。早く逃げねぇと…」
背後で、遠くから叫び声が響く。
「ここら辺にいるはずだ!」
「必ず探し出せ!!」
アルナは舌打ちした。
「最悪だな……」
外壁沿いの草地をなぞるように、橙色の光がゆっくり動いている。回り込んできた看守たちだ。松明の炎が揺れるたびに、影が歪んで不気味に伸びている。
二人は音を殺して草地を這うように移動し、そのまま黒い森の縁へと滑り込んだ。
そして、次の瞬間。二人は走った。
靴底が土を蹴る音すら怖い。枝が腕や頬に当たっても構わず、ただ前へ前へと突っ切る。背後ではまだ松明の光が揺れている気配があったが、木々がそれを飲み込んでいく。
「はぁっ……はぁっ……!」
ルークが息を切らしながらついてくる。足がもつれそうになり、そのたびにアルナが腕を引っ張った。
視界はほとんど暗闇で見えない。かろうじて月明かりが地面を照らす程度だ。勿論明かりなんてつけれない。でも走るしかなかった。
枝が顔をかすめる感覚すら、今はどうでもよかった。
アルナはルークの腕を強く引きながら、ただ森の奥へと突き進む。足元の土は柔らかく、時折根に引っかかっては体勢を崩しそうになる。それでも止まらない。
「っ……アルナ……! 待って……!」
ルークの声は途中で途切れそうになっていた。息が完全に乱れている。それでも離さない。
アルナは振り返らないまま走り続ける。
――あの時も、こうだった。
頭の奥で、勝手に記憶が重なる。
母さんの手。夜の森。叫び声。
何が起きているのか分からないまま、ただ引っ張られて、ただ走っていた。
でも今は違う。今は全部分かってる。
追われている理由も、止まればどうなるかも、失敗したら何を失うかも。
それでも走っている。
「……くそ」
アルナは息を吐き捨てるように呟いた。
あの時は守られる側だった。やり直すって決めたのに何もできなかった。
でも今は違う。腕の中で、ルークが転びかける。
アルナは即座に引き上げるようにして支えた。
「っ……!」
ルークが小さく悲鳴を上げる。
それでもアルナは速度を落とさない。
次は――。
頭の中で言葉が形になる。
次は、失わねぇ。次は、止まらねぇ。
胸の奥が熱くなる。恐怖とは別の、もっと鈍くて重いものが込み上げてくる。
「今回は……失敗しねぇぞ……!」
誰に言ったのかも分からない声が、喉から漏れた。ルークが横で一瞬だけこちらを見る。
「あ、アルナ……?」
返事はしない。ただ腕を強く引いた。
木々の隙間から、かすかに松明の光が遠ざかっていくのが見えた。追手の気配はまだある。だが、確実に距離は開いている。
森は少しずつ、音を飲み込み始めていた。
アルナは前だけを見る。
それでも足は止まらない。
まだ終わってない。
***
どれだけ走ったか、自分でもよく分からなくなって来た。
聞こえてくるのは、アルナとルークの荒い呼吸と、風に揺れる葉の擦れる音だけだった。さっきまで背後にあったはずの怒声も、松明の光も、もうどこにも見えない。
いつの間にか、追っ手の気配は途切れていた。
「はぁっ……はぁっ……!」
ルークが喉を鳴らすように息を吸い、次の瞬間、限界みたいに叫ぶ。
「アルナぁ……! もう無理ぃ!! 走れない……!!」
その声で、アルナはようやく気づいた。
自分も止まっていないだけで、ほとんど“走っているつもり”だっただけだと。
足が、勝手に前へ出ているだけだった。
アルナは数歩進んだところで、急に膝の力が抜けた。
「っ……」
地面に片手をつく。土の冷たさが手のひらに広がる。呼吸が一気に崩れた。
ルークもその横に崩れ落ちるように座り込む。
「はぁ……はぁ……む、無理だってぇ……死んじゃう……」
情けない声なのに、どこか安心したような響きだった。
アルナは何も言えないまま、肩で息をする。肺が痛い。喉が焼けるみたいだ。心臓がまだ逃げ続けているみたいに暴れている。
それでも――。静かだった。
本当に、静かだった。
アルナはゆっくり顔を上げる。
森の奥。月明かりが木々の隙間から落ちている。誰もいない。追ってくる足音もない。怒鳴り声もない。
「僕たち、逃げ切れた?」
アルナはすぐには答えなかった。
肩で息をしながら、ゆっくりと視線だけを上げる。森は静かすぎるくらい静かだった。虫の声があるはずなのに、それすら遠く感じる。
『砂塵……僕たち、逃げ切れた?』
ルークの問いが、やけに軽く森に落ちる。
アルナはそこで初めて気づく。
本当に?俺たち逃げ切れたのか?
上手くいきすぎている気がする。
火事、混乱、脱出、追手の遅れ。全部が“予定通りすぎる”くらいに噛み合っていた。
まるで誰かが、最初から見逃していたみたいに。
――思い出せ。
アルナの視界が一瞬だけ揺れる。
母さんと逃げた夜。あの時もそうだった。
「助かった」と思った瞬間森の向こうから、静かに現れた影。
ガルドの剣が母さんに刺さって……
「っ……」
アルナの呼吸が一瞬だけ止まる。
――あの時も、そうだった。
逃げ切れたと思った瞬間に、全部終わった。
「ガルド……」
無意識にその名前が漏れる。
ルークがびくっと肩を揺らした。
「え、なに……誰?」
アルナは答えない。代わりにゆっくりと周囲を見る。静かすぎる森。風はあるのに、何かだけが“抜け落ちている”ような違和感。
――何かいる。
アルナの直感だけがそう告げていた。
「……ルーク」
「な、なに……?」
次の瞬間。
「ルーク!!」
叫びと同時に、アルナはルークを全力で突き飛ばした。
「えっ――」
ギィンッ!!
空気が裂ける音。視界の端に白い閃光。
鋭い衝撃がアルナの肩を貫いた。
「っ……がぁっ!!」
焼けるような痛み。身体が横に吹き飛び、地面に転がる。
「アルナ!!」
「いっでぇぇ……!」
アルナは歯を食いしばりながら顔を上げる。
木の幹に、一本の剣が深々と突き刺さっていた。刃が月光を反射し、異様なほど冷たい光を放っている。
ほんの一瞬遅れて理解が追いつく。
今のは“風”でも“偶然”でもない。
狙い撃ちだ。ルークが震えながら後ずさる。
「な、なにこれ……誰……!?」
アルナは肩を押さえたまま、剣の飛んできた方向を睨む。
森の奥。そこに、気配がひとつ。まるで瞬間移動して来たみたいに突然足音が現れた。
アルナは小さく息を吐く。
「……やっぱりな」
逃げ切れたなんて、最初から幻想だった。森の奥から、その声は静かに落ちる。
「やっぱり、悪魔付きに二度目は通用しねぇよな」
アルナの背筋が冷たくなる。
ゆっくりと、足音が近づく。カツ、カツ、と一定のリズム。焦りも迷いもない歩き方だった。
木々の影から、男が姿を現す。
大柄な体。無駄のない立ち姿。腰には剣と空の鞘が一つ。月光を受けても、目だけが妙に冷えて見えた。
アルナはその顔を見た瞬間、息を止める。
「……ガルド」
低く、絞り出すように名前が漏れた。
ルークもガルドの顔を見た瞬間、遅れて思い出したように青ざめる。
「あ……あの人……」
声が震えている。
ガルドは軽く肩を回しながら、まるで散歩の続きみたいに近づいてくる。
「火事で派手にやったって聞いたが……まさか本当に抜けるとはな」
その声は淡々としているのに、妙に重い。
視線がアルナに刺さる。
「優秀すぎると困るんだよ、ほんと。ガキだから地下は許してやったのに」
アルナはゆっくり立ち上がろうとするが、肩の痛みで膝が揺れた。
「っ……」
ガルドはそれを見て、少しだけ目を細める。
「無理すんな。肩、綺麗に入ってるだろそれ」
アルナは答えない。代わりに火球を作ろうとするが、魔力がうまくまとまらない。痛みと疲労で、集中が途切れる。
ルークが小さくアルナに寄る。
「アルナ……どうすれば……」
ガルドの視線がルークに落ちた瞬間、空気がわずかに変わった。興味というより、値踏みする様な視線だった。
「……ほう」
低い声が漏れる。
「まさかこんなガキにも魔法が使えるなんて想定外だった。」
ルークがびくっと肩を跳ねさせる。アルナはその間に、震える腕で立ち上がろうとするが、痛みが思考を削っていく。
ガルドは一歩近づいた。そのたった一歩で、距離が一気に詰まったように錯覚する。
アルナは歯を食いしばりながら低く言う。
「ルーク、下がってろ……」
「でも、アルナ……!」
「いいから!」
アルナは幹に突き刺さった剣を徐に引き抜く。重い金属音が森に響きそのまま、震える腕でガルドへ突きつける。
「お前、剣術なんて使えたっけ?」
呼吸は荒い。それでも視線だけは逸らさない。
ガルドは一瞬だけ黙り、それから小さく鼻で笑った。アルナは答えない。
代わりに、低く吐き捨てる。
「うるせぇ……これ以上俺たちの邪魔するなら、今度こそ殺すぞ……」
その言葉に、ガルドは肩を揺らして笑った。
「殺す?」
一歩、踏み出す音。
「そんな怪我の中で俺を殺すってか?」
視線がアルナの肩の傷に落ちる。血は服を濡らし、呼吸のたびにじわりと広がっていく。
「見るからに出血と魔力不足で真っ青じゃねぇか」
さらに一歩。距離が詰まるたびに、圧が増していく。
ガルドは淡々と続けた。
「それに……お前は俺を殺せねぇよ」
アルナの眉がわずかに動く。
「は?」
声がかすれる。
「何、言ってんだ?」
ガルドは止まらない。
「殺せないって言ったんだ。出血でもう聞き取れねぇか?」
アルナの指に力が入る。剣の柄が軋む。
「ふざけんな……お前を殺す理由なんて腐るほどーー」
「あるよな?分かってるよそんな事、お前の母ちゃん殺したの俺だもんな」
ガルドは淡々としたまま、まるで事実を並べるみたいに言葉を続けた。
「でもお前は俺を殺せねぇ」
一歩、また一歩と近づくたびに、アルナの剣の先がわずかに揺れる。
「お前は根本的な部分で殺人を恐れてんだよ」
アルナの呼吸が一瞬詰まる。その一瞬をガルドは見逃さない。
「部下の顔を焼いた時も、お前は無意識のうちに“殺さない程度”で止めてた」
ルークが小さく息を呑む。「え……」と声にならない声を漏らす。アルナは歯を食いしばる。
「違う……あれは……!」
言いかけて、言葉が詰まる。記憶が一瞬だけよぎる。確かに“死ななかった”。でも結果としてだ。
ガルドは薄く笑った。
「無意識だろうが結果は同じだ」
肩をすくめる。
「お前は殺せない。だから俺には届かない」
アルナの剣先が、わずかに下がる。その瞬間を狙うように、ガルドの声がさらに低くなる。空気が冷える。
「前世では、相当甘ったれた世界で生きてたらしいな」
ガルドはそう言い、鞘から剣を抜く。金属が擦れる乾いた音が森に響く。
「もう長話はこの辺にしよう。こんな深夜に起こされて眠いんだ」
その言葉とは裏腹に、剣を構える動きには一切の無駄がない。空気が一段、重く沈む。
アルナはその瞬間、口角を上げた。「ニヤリ」と笑う。血が滲むほど肩を押さえながら、それでも目だけは死んでいない。
「そうだな……一生眠ってろ!」
「ルーク!!」
ルークが一瞬だけ怯んだ目を上げるが、すぐに頷く。
「うん!」
恐怖より先に、アルナの声が背中を押した。
「《ウィンドブラスト》!!」
ルークの手の前に、空気が収束する。次の瞬間、爆発みたいに圧縮された風が解放され、森の空気ごとねじ曲がるようにガルドへ叩きつけられた。木の葉が逆流し、地面の土が削れ、視界が白く濁る。
「っ……!」ガルドの身体がわずかに後退する。だが、完全には崩れない。踏み込みで衝撃を殺し、風圧の中心から一歩外へずらすように逃げている。
アルナはその一瞬を逃さない。
「今だ……!」
その声に反応するより早く、身体が動いていた。地面を蹴る。痛みが肩から全身に走るが、関係ない。
ルークの腕を掴み、引きずるようにして後方へ跳ぶ。
「走れ!!」
背後で風が裂ける音がした。ギィンッ、と金属が鳴る。
ガルドが剣で風圧を切り裂いた音だ。視界を覆っていた砂塵の幕が一瞬で割れ、黒い影がそこに“残っている”のが見える。
「……こんな深夜に鬼ごっこか」
低い声が、風の中を貫いて届く。
アルナは舌打ちした。
「チッ……化け物かよ」
次の瞬間、地面が爆ぜた。
ガルドが踏み込んだだけで土が割れ、距離が一気に詰まる。速度が人間のそれじゃない。
「ルーク!!右!!」
「わ、わかったぁ!!」
ルークが転びかけながらも方向転換する。アルナはその背を押し込むようにして森の密集地へ突っ込んだ。
枝が顔を叩く。視界が揺れる。
それでも止まらない。
背後から“圧”が追ってくるのが分かる。音より先に気配が迫る感覚。振り返る余裕すらない。
「逃げ切れると思ってんのか」
ガルドの声が、距離を無視して耳元に届く。
アルナは走りながら叫ぶ。
「知るかよ!!今は逃げるだけだろうが!!」
「その判断が甘いって言ってんだ」
次の瞬間。ズン、と空気が沈んだ。
アルナは反射的にルークを突き飛ばす。
「伏せろ!!」
ギィンッ!!
目の前の空間が裂けた。木の幹が半分ごと切れ飛ぶ。
「っ……!!」
爆風でアルナの身体が横に弾かれる。肩の傷が裂けるように痛む。
「アルナ!!」
ルークの叫びが遠くなる。アルナは歯を食いしばりながら立ち上がる。
「……くそっ、無茶苦茶やりやがって……!」
視界の先。ガルドはもう“そこ”にいる。
距離が詰まっているのに、詰められた感覚がない。最初から隣にいたような錯覚すらある。
ガルドは淡々と剣を構えたまま言う。
「もう鬼ごっこは終わりか?」
アルナは歯を食いしばったまま、即座に動いた。
「っ……くそが……!」
右手を振り抜く。
「ウォーターボール!!」
空中に水が瞬時に凝縮され、拳大の球体が生まれる。それを迷いなく投げつけた。だが――。
「甘いな」
ガルドは一歩も止まらないまま、剣を横に払った。
水球が斬られた。水そのものが切断されたみたいに真っ二つに裂け、床に落ちる
「は……?」
次の瞬間、視界が跳ねた。
ガルドの踏み込み。距離が消える。
「っ!!」
アルナは反射で後ろに跳ぶ。
「ウォーターボール!!ウォーターボール!!」
連射。水球が二つ、三つ、四つと空中に生まれ、弾幕みたいにガルドへ殺到する。しかし――
「しつけぇな……」
ガルドはため息をひとつ吐いたまま、剣を横に振った。一閃。
次の瞬間、水球が切られた
斬られたというより、線で分断されたみたいに、空中で崩れて地面に落ちる。水が泥に染み込む音だけがやけに生々しかった。
「は……?」
アルナの喉が、乾いた音を立てた。
もう一発。
「ウォーターボール!!」
さらにもう一発。
「ウォーターボール!!ウォーターボール!!」
連続で生み出した水球が、半ば“意地”みたいに放たれる。魔力はもうほとんど底だ。視界の端が揺れる。鼻から血が落ちる感覚があった。
それでも止めない。
水球が三つ、四つと夜空に浮かび、ガルドへ殺到すが、ガルドは歩いたまま全部を切った。
一つ。二つ。三つ。
水は悲鳴みたいに弾けて落ちる。
四つ目が消えた瞬間、ガルドはほんの少しだけ肩を回した。
「無駄だ」
その声と同時に、地面が鳴った。
踏み込み。視界が跳ねる。
「っ!!」
アルナは咄嗟に後ろへ跳ぶ。だが遅い。背中が木に叩きつけられた。
「がっ……!」
肺から空気が抜ける。視界が白くなる。肩の傷が再び裂けたように熱を持つ。
木の幹に背中を預けたまま、アルナはずるずると崩れかける身体を無理やり起こした。
ルークの声が遠くで聞こえる。
「アルナ!!」
だが返事する余裕がない。
ガルドは数歩だけ近づき、そこで止まった。まるで獲物の状態を確認するみたいに、静かに見下ろしている。
「もう終わりにしよう」
その声は不思議なほど落ち着いていた。
「よくやったよ、お前は」
アルナの呼吸が荒いまま止まる。
ガルドは剣を軽く肩に乗せる。
「最後になんか言うことあるか?」
森が静かだった。風の音だけが、やけに遠い。
アルナは一瞬だけ目を閉じる。母さんの顔が、浮かびかけて消える。
次の瞬間目を開けた。
「……ガルド」
低く、かすれる声。
「お前すげぇよ」
ガルドの眉がわずかに動く。
「水切ったり、炎切ったり、挙げ句の果ては風も切ってさ……」
アルナは息を吐く。笑っているのか、苦しんでいるのか分からない顔だった。ガルドは鼻で笑う。
「なんだ? 気でも狂ったか?」
剣を少しだけ持ち上げる。
「遺言がそれなら――」
アルナは、ゆっくり口角を上げた。ニヤリ、と。
「でもよぉ!電気は切れっかな!!」
その瞬間だった。
バチィッ!!という破裂音と同時に、森の闇が一瞬だけ白昼みたいに焼き払われた。
空気そのものが裂けるような閃光。
「なっ……!?」
視界が白に染まる。その中心で、アルナの手から“細い稲妻”が走っていた。水分を含んだ空気と、水を含んだガルドの服と地面。それら全部を無理やり繋ぎ合わせた、歪な電撃。
「《ボルト》!!」
アルナの叫びと同時に、雷が“線”になって跳ねた。次の瞬間――。
「ぐっ……がぁぁっ!!」
ガルドの身体が弾かれるように仰け反る。
剣を構えていた腕が跳ね上がり、地面に膝が落ちる。全身に走る痙攣。足元の土が焦げたように黒く焼ける。
「な、に……っ!?」
初めて明確な動揺が浮かんだ。
アルナは歯を食いしばりながらさらに手を伸ばす。指先が震えている。魔力はもう空に近い。なのに、無理やり“繋げている”。
「ぐ……あががががが!!」
雷が再び跳ねる。
ガルドの肩に、腕に、地面に刺さった剣にまで電流が伝う。
金属が共鳴し、森全体が不自然に明滅した。
「くっ……そ……っ!!」
ガルドが剣を振り上げる。だが、その一瞬遅い。
「今だぁ!!ルーク!!」
アルナの声が裂けるように飛ぶ。
「っ……うん!!」
ルークが震える手を突き出す。
「《ウィンドブラスト》!!」
圧縮された風が爆発するようにガルドへ叩き込まれた。
雷で崩れた姿勢に、風圧が直撃する。
「ぐっ……!!」
ガルドの身体が初めて大きく後ろへ飛ばされる。木々に叩きつけられ、枝が砕け散る音が響いた。
アルナは膝をつく。
そのまま地面に片手を突く。
「はぁ……っ……はぁっ……!」
肺が痛い。視界がまだ白く揺れている。
指先は痺れ、感覚がうまく繋がらない。
それでも――視線だけは、逸らさなかった。
森の奥。
ガルドは木の幹にもたれかかるようにして、動かない。
焦げた地面の上で、剣も手から離れている。
(……やった)
一瞬、そう思いかけて。
アルナはすぐにその考えを否定した。
まだだ!まだあいつは死んでねぇ!確実に殺さないと!!
アルナは地面に落ちている剣を拾い、ふらつく脚を無理やり前へ運んだ。視界がまだ揺れている。耳の奥で心臓の音だけがうるさい。
森の奥、木に寄りかかるようにして倒れているガルドが見えた。
動かない。呼吸も乱れているように見える。焦げた地面の痕跡と、さっきの雷の残滓が周囲に残っていた。
(……終わらせる)
アルナは剣を握り直す。指が痺れて感覚が薄い。それでも一歩、二歩と近づく。
ガルドの前に立ち、剣を振りかぶる。
その瞬間だった。
「……待て」
かすれた声。アルナの動きが止まる。
ガルドが、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、さっきまでの冷たさが嘘みたいに揺れていた。
「頼む……やめてくれ」
アルナの眉がわずかに動く。ガルドは喉を押さえながら、苦しそうに息を吐く。
「俺は……まだ死ねねぇ……」
「……」
「娘がいるんだ」
その言葉に、アルナの動きが完全に止まった。
風の音だけがやけに大きく聞こえる。ガルドは視線を逸らし、弱々しく笑う。
「こんな場所で死んだら……あいつ、一人になる」
アルナの指がわずかに震えた。剣先が、ほんの数センチだけ下がる。
その隙をガルドは見逃さなかった。
次の瞬間――。
「っ!!」
その瞬間、ガルドの身体が一瞬で消えたように見えた。次の瞬間には、もう目で追えていなかった。
金属が擦れる音さえ置き去りにして、ガルドの剣が跳ね上がる。アルナが反応するより一拍早く、鋭い刃が喉元へ突き込まれた。
最初に来たのは“熱”だった。
鋭い痛みじゃない。
焼けた鉄を押し込まれたみたいな、異様に熱い感覚。次の瞬間、その熱が喉の奥を無理やり裂いていく。
「がっ――!?」
声を出そうとした。
だが、出なかった。
代わりに口から飛び出したのは、空気とも血ともつかない濡れた音だけだった。
ガルドの剣は、喉仏を深く抉っていた。
完全に首を断ったわけじゃない。皮膚を裂き、筋肉を断ち、呼吸の通り道の一部まで届いている。
アルナは何が起きたのか理解するより先に、自分の首を押さえた。
ぬるい。指の隙間から、熱い液体が溢れてくる。
「っ、ぁ……!?」
息を吸った瞬間、喉の奥で泡立つ音がした。
血だ。
呼吸のたびに、空気と一緒に血が混ざる。
肺が酸素を求めているのに、うまく吸えない。
視界がぶれる。立っていられない。
膝から力が抜け、アルナはその場に崩れ落ちた。
地面に手をついた瞬間、血がぼたぼたと土へ落ちる。黒い森の地面に、月明かりを反射した赤が広がっていく。
視界の端で、ガルドがゆっくりと立ち上がるのが見えた。焦げた地面の上で、何事もなかったように呼吸を整えている。
アルナの喉からは、血の味もろくに分からないまま、掠れた息だけが漏れた。
「……ほらな?」
ガルドの声は静かだった。
「お前は、俺を殺せねぇ」
アルナの視界が揺れる。ルークが何か叫んでいるのは見えるのに、その声はもう聞こえない。
体が冷えていく。さっきまで燃えるようだった熱が、指の先から少しずつ抜け落ちていく感覚だけが、妙に鮮明だった。
そして、アルナの意識は静かに闇へ落ちていった。




