第十二話 収容所
鼻を突く鉄の臭いで、アルナは目を覚ました。
湿った藁。錆びた鉄。汗と血と、吐瀉物が混ざったような臭気。
「っ……」
薄く目を開けた瞬間、頭に鈍い痛みが走る。視界が揺れた。白い精神世界の感覚がまだ残っていて、自分がどこにいるのか、一瞬分からなくなる。
でも、すぐに現実が追いついてきた。
硬い木の床。揺れる感覚。耳障りな車輪の音。
「……馬車?」
掠れた声が漏れる。
両手を見ると縄で縛られていた。手首が擦れて跡ができていて、足にも簡素な拘束具が嵌められてまともに動けない。
「お、悪魔付きが起きたぞ」
低い声が飛んできた。
アルナが顔を上げると、鉄格子の向こうに髭面の男が立っていた。革鎧を着た中年で、腰には短剣を下げている。
「しぶてぇガキだな。あんだけ暴れてまだ生きてやがる」
「……」
アルナは黙って睨み返した。
記憶が蘇る。
母さんの死。
森。
ガルド。
そして、白い世界。
胸の奥が熱くなる。けれど今は怒鳴らなかった。あの胡散臭い神の言葉が頭に残っていたからだ。
――監視の目、地理、人間関係。全部見ろ。覚えるんだ。
アルナは視線だけを動かした。
馬車の中には、自分以外にも数人いた。痩せた男。俯いた女。十歳くらいの子供。全員、縄で拘束されている。
奴隷。そうだ、俺は奴隷になったんだ……。
その現実が、胃を重くした。
「……どこに行くんだ」
アルナが聞くと、男は鼻で笑った。
「商品が行く場所なんざ決まってんだろ。収容所だ」
「……」
「ま、安心しろ。下手に壊しちゃ商売にならねぇからな」
男はそう言って、水袋を投げて寄越した。アルナは少し迷ってから受け取る。
喉が焼けるほど乾いていた。
飲もうとして、ふと手が止まる。
「……毒とか入ってないよな」
「ガキのくせに疑り深ぇな」
「村を焼いたやつを信用できんのか?」
男は一瞬ぽかんとしたあと、妙に愉快そうに笑った。
「ハッ、確かに」
アルナは少しだけ水を口に含んだ。ぬるい。だが、生き返るみたいに身体へ染み込んでいく。
改めて周囲を見る。俺以外のみんなはもう疲れ果てて眠っているか、ぶつぶつ何か唱えている。神に祈っているんだろう。
すると1人の少女がチラチラと自分の方を見てきた。
アルナが視線を向けた瞬間、その少女は肩を震わせて後ずさった。縄でまともに動けないはずなのに、できる限り距離を取ろうとしているのが分かる。
「ひっ……」
顔色は真っ青だった。年はアルナより少し上くらいだろうか。ぼさぼさの茶髪に、泥の付いたワンピース。怯えた目が、まるで化け物を見るみたいにアルナを見ていた。
「……何だよ」
アルナが言うと、少女はびくっと身体を跳ねさせた。
「や、やめて……来ないで……」
「来ねぇよ。縛られてんだろ」
そう返しても、少女の恐怖はあまり消えない。
馬車の隅にいた痩せた男が、小声で呟いた。
「悪魔付きは、人を喰うって聞いたことがある……」
「は?」
アルナは眉をひそめた。
すると今度は別の女が口を開く。
「頭の中に悪魔が住んでるんでしょ……? 王都で暴れた悪魔付きが、兵士を何十人も殺したって……」
「子供の姿で近づいて、油断したところを呪い殺すって……」
好き勝手言われ始める。
アルナは思わず顔をしかめた。
(……何だよそれ)
悪魔付き。
前世の記憶を持つ人間。
神は確かにそう言っていた。だが、こいつらの話を聞く限り、この世界では完全に“化け物”扱いらしい。
「俺は人なんか食ってねぇし、呪ってもねぇよ」
そう言った瞬間、少女が半泣きで叫んだ。
「う、嘘っ! 悪魔はみんなそう言うって……!」
「誰情報だよ……」
思わず呆れた声が漏れる。
鉄格子の外にいた男が、ゲラゲラ笑った。
「ははっ、坊主。お前、もうこの辺じゃ相当有名だぜ。“悪魔付き”ってのはな、災厄の前触れだとか、まぁ色々言われてんだ」
「……」
「実際、珍しい力を持つ奴が多いらしいしな。昔ぁ国一つ滅ぼしたって話もある」
アルナは黙る。
国を滅ぼした。
その言葉が妙に引っかかった。
(……俺みたいなのが、他にもいるのか)
前世の記憶を持つ人間が。
神は“珍しい”とは言ったが、“自分だけ”とは言わなかった。
その時、馬車が大きく揺れた。
ガタンッ、と車輪が石を踏み、全員の身体が跳ねる。少女が小さく悲鳴を上げた。
「おい奴隷ども! 着いたぞ、収容所だ!」
外から怒鳴り声が飛んだ。
馬車がゆっくり速度を落とし、ギィ、と重たい音を立てて停止する。直後、鉄格子の扉が乱暴に叩かれた。
「降りる準備しろ!」
アルナは身体を起こしながら、木板の隙間から外を見た。
そして、目を細める。
いつの間にか、巨大な建物が目の前に現れていた。
灰色の石壁。高くそびえる見張り塔。鉄柵。壁の上には弓兵まで立っている。まるで砦だった。
その周囲には、同じような奴隷馬車が何台も並んでいる。
泣いている子供。
怒鳴られる老人。
鎖を引かれる男。
空気が重かった。
「……刑務所じゃねぇか」
アルナが呟くと、髭面の男が鼻で笑った。
「似たようなもんだ。ここで選別される」
「選別?」
「売れる奴は売る。使える奴は鉱山。死にそうなのはその辺で捨てる。悪魔付きは……まぁ、特別扱いだろうな」
最後だけ、少し声色が変わった。
アルナは聞き逃さなかった。
(……俺だけ別枠か)
嫌な予感がする。
馬車の扉が開かれ、眩しい光が差し込んできた。
「降りろ!」
兵士に縄を引かれ、奴隷たちが次々と外へ降ろされていく。少女も半泣きになりながら引っ張られていった。
アルナも立ち上がる。その瞬間、足元がふらついた。
「っと……」
何日気絶してたのか分からない。身体に力が入らない。腹も減っている。
だが倒れるわけにはいかなかった。
アルナは歯を食いしばって馬車を降りる。
地面はぬかるんでいた。泥と雨水、それから黒ずんだ何かが混ざっている。
視線を上げると収容所の正門には、巨大な紋章が掲げられていた。
剣と天秤を組み合わせたような紋章。
その下に、鎧姿の兵士たちが並んでいる。
「次! 名前と出身を言え!」
机に座った役人らしき男が、奴隷を一人ずつ確認していた。
だが――
「悪魔付きは後ろへ回せ」
その一言で、空気が変わった。
周囲の視線が、一斉にアルナへ集まる。
嫌悪。
恐怖。
興味。
まるで珍獣を見る目だった。
「……」
アルナは無言で睨み返す。
すると、奥の建物から一人の男が出てきた。
「――三日ぶりだな、悪魔付き」
聞き覚えのある低い声だった。アルナの目が細くなる。建物の奥から歩いてきたのは、あの男だった。
大柄な体。
無精髭。
鋭い目。
ガルド。
森で母を殺し、アルナを叩き伏せた男。
周囲の兵士たちが、ほぼ反射みたいに背筋を伸ばした。
「ガルド隊長!」
一斉に敬礼が飛ぶ。
アルナはその光景を見て、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
(……偉そうにしやがって)
ただの荒くれじゃない。
こいつ、この収容所でもかなり立場が上らしい。
ガルドは兵士たちを軽く手で制し、そのままアルナの前まで来た。
鎧が鳴る。
「いやぁ、お前が三日も目ぇ覚まさなかった時は、流石の俺もヒヤヒヤしたぜ」
「……三日?」
アルナの喉が動く。
「そ。丸三日だ。途中で熱まで出しやがるしな。商品が死んだら報告書めんどくせぇんだよ」
軽い口調だった。だが、その言葉の端々に滲むのは、人間を見る目じゃない。
アルナは拳を握ろうとして、縄で縛られていることを思い出した。
「……母さんは」
口から勝手に出た。ガルドは少しだけ黙る。
周囲の兵士たちも空気を読むみたいに口を閉ざした。数秒後、ガルドは頭を掻きながら、面倒そうに鼻を鳴らした。
「知らねぇよ。カラスの餌にでもなったんじゃねぇの?」
「……なっ!」
アルナの顔が一気に熱くなる。
縄を引きちぎりそうな勢いで前に出ようとして、兵士に肩を押さえつけられた。
「おい!」
「落ち着け悪魔付き!」
周囲がざわつく。
アルナはガルドを睨みつけた。喉の奥から、自分でも抑えきれない声が漏れる。
「てめぇ……!」
だがガルドはまるで気にしていなかった。
むしろ、その怒りを確認するみたいにアルナを見下ろしている。
数秒後、ガルドはふっと息を吐いた。
「なぁアルナ」
初めて名前を呼ばれた。アルナの眉がわずかに動く。
ガルドはしゃがみ込み、アルナと目線を合わせた。
その目は相変わらず鋭かったが、さっきまでとは少し違った。
「今は死んだママの事なんか気にしてる場合じゃねぇだろ」
「……」
「自分の事に集中しろよ」
アルナは言い返せなかった。
悔しいが、言ってる事自体は間違っていない。
ここで感情に飲まれれば終わる。
逃げられない。
弱い。
何もできない。
現実だけが、冷たくそこにあった。
ガルドは立ち上がる。
「よし、こいつを男性棟に入れろ」
ガルドがそう言うと、周囲の兵士たちが一瞬だけ顔を見合わせた。
「……え?」
「男性棟、ですか?」
若い兵士が思わず聞き返す。ガルドは眉をひそめた。
「あ?」
「い、いえ……悪魔付きは普通、地下監房に」
「死なれたら困る」
短く、それだけだった。
周囲が静まる。
ガルドはアルナを顎で示した。
「見ろよ。このガキ、ガリガリじゃねぇか。今地下に放り込んだらマジでくたばるぞ」
「ですが規則が……」
「責任は俺が持つ」
その一言で、兵士たちは口を閉じた。
どうやら本当に立場が強いらしい。アルナは黙ったまま聞いていた。
(……地下じゃない?)
だが安心はできない。男性棟とやらがマシな場所とは限らないからだ。
「ほら行くぞ」
兵士が縄を引っ張る。
アルナはバランスを崩しかけながら歩き出した。
収容所の中は想像以上に広かった。
石造りの建物が並び、鉄格子付きの窓がいくつも見える。遠くでは怒鳴り声が響き、どこかから金属を叩く音も聞こえてきた。
鼻につく臭いも酷い。
汗。
血。
汚物。
薬品みたいな臭いまで混ざっている。
「……」
歩きながら、アルナは周囲を観察する。
見張り塔は四つ。
兵士はざっと三十以上。
門は正面と裏側に一つずつ。
その時、前を歩いていた若い兵士が小声で隣に漏らした。
「本当に男性棟でいいのか……?」
「ガルド隊長の命令だ。逆らうな」
「でも悪魔付きだぞ? 夜中に暴れたら――」
「だったら隊長が殺すだろ」
さらっと怖い会話が聞こえてくる。
アルナは顔をしかめた。
(物騒すぎだろ)
やがて、一つの建物の前で止まった。
他より少し古い建物だった。
鉄扉には傷が多く、窓には太い格子が嵌まっている。
兵士が扉を開ける。
瞬間、むわっと熱気が溢れた。
「新入りだ!」
中にいた男たちの視線が、一斉にアルナへ向く。
痩せた男。
筋骨隆々の大男。
片目のない老人。
鎖付きの首輪を嵌めた奴までいる。
そして。
「……ガキ?」
「子供じゃねぇか」
「いや待て、あれ……」
誰かが気づく。兵士がニヤつきながら言った。
「悪魔付きだとよ」
次の瞬間、部屋の空気が変わった。
ざわっ、と全員が距離を取る。露骨だった。
アルナの周囲だけ、不自然に空間が空く。
「おいおい冗談だろ……」
「なんでそんなもんここに入れるんだ」
「クソ、俺あいつの近く嫌だぞ……」
怯えた声と嫌悪の視線が、まとわりつくみたいにアルナへ刺さる。
初っ端からもう嫌われてるらしい




