第十話 悪魔付き
「……っ」
もう、何も聞こえなかった。風の音も、葉が擦れる音も、さっきまで遠くで鳴っていた怒声も、全部がどこかへ行ってしまったみたいだった。
俺は母さんをずっと見つめていた。冷たくなっていく手を握ったまま、呼びかけることもできずにいた。
そのとき、草むらが揺れた。
「おっ、本当に女に刺さってんじゃねぇか! やっぱり隊長の投擲はすげぇな!」
下卑た笑い声とともに、男がひとり姿を現す。肩を揺らして笑いながら、母さんの背中に突き刺さり床に転がる剣を見下ろしていた。
続いて、また草むらが動く。
「この村はのどかで良い村だったんだけどなぁ、残念だよ」
そう言って現れた男の顔を見た瞬間、アルナの呼吸が止まった。
見覚えがある。
ピクニックに行った日、セレスにあの紋章を知っているかと尋ねてきた男だった。
「……おまえ」
喉の奥から掠れた声が漏れる。
男は一瞬だけ目を細め、それから薄く笑った。
「やっぱり覚えてたか。まあ、そりゃそうか。あの日は少し話しただけだったからな」
アルナの指先が冷えた。
母さんの背中から目を離せないまま、男を睨みつける。
「なんで……」
「なんで、か」
男は肩をすくめた。
「そうだな。仕事だよ、仕事」
もうひとりの男が、剣を見て笑う。
「隊長、ほんと容赦ねぇな。わざと逃がしたと思ったら、ちゃんと仕留めるしよ」
「そっちのガキも生きてるじゃねぇか。妙だな」
アルナの頭の中で、何かが繋がる。
セレスを探していた男。
紋章。
あの夜の襲撃。
追手。
そして、今ここにいるこいつら。
「……おまえら、最初から」
「まあ、そういうことだ」
紋章を知っていた男が、あっさり言った。
「村に入る前から目星はついてた。あとは、全部見つけるだけだったってわけだ」
アルナの奥歯がぎり、と鳴る。
「ふざけんな……」
「ふざけてないさ」
男は面倒くさそうに笑った。
「お前らは運が悪かった。それだけだよ。大人しく隠れてりゃ、もう少し長生きできたかもしれねぇのにな」
言葉の端々が、やけに軽い。
それが余計に腹立たしかった。
アルナは母さんの手を強く握りしめる。
返事はない。
だけど、離したくなかった。
「……おい」
「なんだよ」
「母さんに、触るな」
掠れた声だったが、はっきりそう言った。
「はっ、怖ぇ怖ぇ」
手下らしき男が鼻で笑いながら近づいてくる。無造作にしゃがみ込み、母さんの顔をじろじろと眺めた。
「……っつーか、この女、改めて見るとすげぇ美人だな。これなら人買いに売れば――」
殺す。
頭で考えるより先に、身体が動いていた。
アルナの掌に熱が集まる。
赤い光。
揺れる火。
胸の奥から噴き出した感情が、そのまま魔力に変わっていく。
「――っ!」
次の瞬間、炎球が男の顔面に叩き込まれた。
「ぎゃああああああッ!!?」
男の顔が炎に包まれ、地面を転げ回る。皮膚の焼ける臭いが森に広がった。
「あっ、熱っ! 熱ぃ!! た、隊長ぉ!!」
アルナは立ち上がっていた。
呼吸が荒い。
涙で視界が滲む。
それでも、目だけは真っ赤に燃えていた。
「殺してやる……!」
喉が裂けそうなほどの声だった。
「お前ら全員、殺してやる!!」
空気が震えた。
ばち、とアルナの周囲に火花のような魔力が散る。
隊長と呼ばれた男の表情から、初めて薄い笑みが消えた。
「……お前、本気で言ってんのか?」
隊長の男は、顔を抑える手下を一瞥しながら低く呟いた。
その目には、さっきまでの気怠げな色がなかった。
「やってみろよ、糞ガキ」
その瞬間だった。俺は地面を蹴っていた。
右手に生み出された炎球が、怒りに呼応するみたいに激しく揺れる。熱い。だけど止まれなかった。
「うあああああああ!!」
叫びながら、アルナは炎球を隊長へ向かって投げつける。
普通の相手なら避けるしかない速度だった。
だが。
「甘ぇな」
隊長は腰に掛けていた短剣を一瞬で抜いた。
銀色の軌跡が走る。
次の瞬間、炎球が真っ二つに裂かれた。
「――は?」
思考が止まる。
斬られた炎が左右へ弾け、後方の木々を燃やした。あり得ない。
魔法を、斬った?
理解が追いつくより早く、隊長の姿が消えた。
「っ!?」
気づいた時には、目の前にいた。速いなんてもんじゃなかった。獣みたいな踏み込み。
隊長の足が、腹へ容赦なくめり込む。
「がっ――!?」
肺の空気が一瞬で潰れた。
身体が宙に浮く。
そのままアルナは数メートル吹き飛び、地面を転がった。
「ぁ……が……っ」
息ができない。胃の中身が逆流しそうになる。
腹が焼けるみたいに痛かった。
それでも、アルナは震える腕で地面を掴む。
「……はは」
隊長がゆっくり近づいてくる。
「確かにガキにしちゃ魔力量が多いが」
男は短剣をくるりと回した。
「戦い方が素人すぎんだよ」
アルナの視界が揺れる。
悔しかった。何もできない自分が情けなかった。
母さんを守れなかった。
目の前のこいつにすら届かない。
隊長は倒れ込むアルナを見下ろし、冷めた声で言った。
「才能だけで勝てるほど、現実は甘くねぇんだよ」
そう言って、隊長はアルナの頭を無造作に踏みつけた。ぐしゃ、と湿った土が沈む。
「がっ……!」
頬が地面に押し付けられる。小石が皮膚に食い込み、鈍い痛みが走った。
「ほら、どうした。さっきまで威勢良かったじゃねぇか」
隊長の声は冷たかった。まるで道端の虫でも見ているみたいな目だった。アルナは歯を食いしばる。
悔しい。
悔しい悔しい悔しい。力が足りない。何も守れない。
母さんは死んだ。自分のせいで。
弱かったからだ。
「……ぁ」
喉の奥から、獣みたいな声が漏れる。
隊長は少しだけ眉をひそめた。
「……まだ睨めんのか」
足に力が込められる。骨が軋むように痛い。
「普通のガキなら失禁して泣いてる頃だぞ」
アルナの指先が震える。地面に爪が食い込んだ。
隊長はため息混じりに短剣を構える。
「……まあいい。死ぬ前に何か言うことはあるか?」
切っ先が、アルナの喉元へ向けられる。冷たい殺気だ。アルナは荒い呼吸のまま、震える唇を動かした。
「……殺してやる」
「……あ?」
隊長が眉をひそめる。
「何も聞こえねぇよ。もっとハキハキ喋れよ」
アルナはゆっくり顔を上げた。
額から血が流れ、片目は腫れかけている。それでも、その瞳だけは異様なほど濁っていなかった。
まっすぐ、隊長を睨んでいた。
「……また生まれ変わったら」
掠れた声。けれど、はっきりとした憎悪がそこにあった。
「必ずお前を見つけ出して……殺してやるからな……!」
その瞬間だった。隊長の表情が変わった。
今までの余裕が、一瞬だけ消えたようだった。
まるで、何かを思い出したみたいに。
「……お前、悪魔付きか?」
突然の言葉に、アルナは眉を歪めた。
「……悪魔付き?」
喉が焼けるみたいに痛い。
それでも、睨むのだけはやめなかった。
「何だよ、それ……」
隊長は短剣を向けたまま、小さく「あー」と声を漏らす。
「知らねぇのか。まあ、こんな辺境で育ったガキじゃ無理もねぇか」
男は少し考えるように目を細めた。
「お前――前世の記憶があるか?」
その瞬間、アルナの呼吸が止まった。心臓が嫌な音を立てる。どうして、それを。
アルナは何も答えなかった。
だが、その沈黙だけで十分だったらしい。
隊長はゆっくり口角を上げる。
「図星か」
「……だったら、何だよ……」
掠れた声だった。すると、近くで顔を焼かれた下っ端が悲鳴みたいな声を上げた。
「ひえええええっ!? こ、このガキ悪魔付きかよ!!」
男は後ずさる。
「気持ち悪りぃ……! マジかよ、おい! だから小せえガキが魔法なんか使えんのか!?」
「落ち着け」
隊長は鬱陶しそうに言った。
「別に珍しいもんじゃねぇ。数は少ねぇが、たまにいる」
「でも悪魔付きって、人の皮被った化け物だろ!? 魂を喰われたとか、呪われてるとか――」
「噂は大体誇張だ」
隊長はアルナを見下ろした。その目は、さっきまでとは少し違っていた。
敵を見る目ではある。
だが同時に、何かを値踏みするみたいな色が混ざっていた。
「だがまあ……確かに普通じゃねぇな」
アルナは歯を食いしばる。
前世。その言葉を聞いた瞬間から、胸の奥がざわついていた。
誰にも話したことがない。
話せるはずもなかった。
なのに、こいつは知っている。
「……お前、何者なんだよ」
隊長は少しだけ黙り、それから鼻で笑った。
「さてな」
その空気を壊すみたいに、顔を焼かれた下っ端が叫ぶ。
「た、隊長! 早くこんなガキ殺しましょうよ! 悪魔付きなんて気味悪ぃ!」
剣を握る手が震えている。さっきの炎がよほど恐ろしかったのか、男はアルナをまともに見ようともしなかった。
だが隊長は、逆に興味深そうな目でアルナを見下ろしていた。
「……いや」
ぽつり、と呟く。
「面白ぇ」
「は?」
下っ端が間抜けな声を出す。
隊長はしゃがみ込み、アルナの顎を乱暴に掴んだ。
「お前、死にかけてるくせに目が死んでねぇな」
ぐ、と指に力が入る。
「普通のガキなら、とっくに壊れてる」
アルナは睨み返した。
今すぐ噛み殺してやりたいくらい憎かった。
隊長はそんな視線を受けながら、楽しそうに笑う。
「決めた。お前は殺さねぇ」
「……なに……」
「奴隷として売ってやる」
アルナの瞳が揺れた。下っ端がすぐに叫ぶ。
「はぁ!? 悪魔付きのガキなんて誰が買うんですか!?」
「普通ならな」
隊長は立ち上がる。
「だが、珍品好きってのはどこにでもいる。しかもこの魔力量だ。研究機関、魔術師崩れ、貴族の道楽――欲しがる奴はいくらでもいるさ」
「いやいやいや! 危険すぎますって!」
「だったら首輪でも嵌めりゃいい」
隊長は平然と言った。
「それに、もし本当に“悪魔付き”なら、ただ殺すのは惜しい」
その言葉に、アルナの背筋が冷える。
値踏みされている。人間としてじゃない。
モノとして。
「……ふざけんな」
掠れた声だった。隊長は笑う。
「安心しろ。死ぬまでこき使ってやる」
「誰が……」
アルナは血の混じった唾を吐いた。
「誰が、お前なんかに――」
言い終わる前に、隊長の蹴りが顎に入り、俺の意識は消えた。
「俺の名前はガルドだ。って、もう聞いてねぇか」




