第九話 ごめんね
母さんに引っ張られながら俺は必死に考えていた。何が起こっているのか、どう逃げるべきか、セレスは無事なのか――考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
森の奥へ進むほど、足場は悪くなっていった。
湿った土が靴裏にまとわりつき、木の根が何度も足を引っかけてくる。息が苦しい。肺が熱い。なのに空気は冷たかった。
後ろではまだ怒鳴り声が聞こえていた。
「探せ! 遠くには行ってねぇ!」
「灯りを持て!」
その声が近づくたび、背筋が粟立つ。
母さんが俺の手を強く握る。
「アルナ、止まっちゃ駄目」
「……っ、うん」
でも足は限界に近かった。前世の記憶があっても、今の体はまだ子供だ。呼吸が追いつかない。喉が焼けるみたいに痛い。
その時だった。
――ドォンッ!!
森の奥まで響く爆音。
空気が揺れた。
俺と母さんは同時に振り返る。木々の隙間の向こう、赤い光が一瞬だけ膨れ上がった。
「セレス……!」
思わず名前が漏れる。
母さんの顔が強張った。
けれど彼女は立ち止まらない。
「行くの!」
「でも!」
「今戻ったら、セレスの意味がなくなる!」
その言葉に、俺は唇を噛んだ。
分かってる。
分かってるけど。
また爆ぜる音がした。
風が森を揺らす。葉がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ羽音が響いた。
セレスはまだ戦ってる。そう思った瞬間だった。
「――いたぞ!」
右後ろに男の声。
「っ!?」
俺は反射的に振り返る。木々の間に、人影が見えた。ひとりじゃない。二人。いや、三人。
「ガキと女だ!」
「追え!」
見つかった。
心臓が嫌な跳ね方をする。
母さんが俺を庇うように前へ出た。
「アルナ、下がって」
「母さん……?」
その声は震えていた。
でも、逃げようとはしなかった。
男たちが剣を構えながら近づいてくる。
「へぇ……随分綺麗な顔してるじゃねぇか」
「死んだって聞いてたが、本当に生きてたんだな」
母さんの表情が歪む。
「……セドリックの命令?」
「ああ。面倒だから大人しく死んでくれりゃ助かる」
その瞬間、母さんの目が変わった。今まで見たことがない目だった。
怯えていたはずなのに、その奥に冷たい光が宿る。
「……そう」
静かな声。
次の瞬間、母さんは地面へ片手を向けた。
「《ルート・バインド》」
足元の土が盛り上がる。
「なっ――」
地面から伸びた無数の根が、男たちの足へ絡みついた。
「ぐあっ!?」
「なんだこれ!」
木の根は蛇みたいにうねり、男たちの動きを止める。剣を振ろうとしても、腕まで締め上げられてまともに動けない。
俺は目を見開いた。
「母さん……魔法……?」
母さんは振り返らない。
「アルナ、走って」
「で、でも――!」
「走って!!」
初めて聞くくらい強い声だった。
俺の足が、反射的に動く。その瞬間、後ろで男の怒号が弾けた。
「クソ女がァ!!」
男たちは足に絡みつく根を剥ぎ取ろうと、乱暴にもがいている。だが母さんの魔法は想像以上にしぶとく、簡単にはほどけそうにない。
母さんは肩で息をしながら、それでも俺の方を見ていた。
「お願い……アルナ……」
俺を見るその目は、揺れていた。
前々から母さんが魔法を使えるのは知っていた。けれど、こんなふうに無理をしてまで使うところは見たことがなかった。たぶん、魔力量が多くないんだろう。顔色も、さっきより明らかに悪い。
俺はそれを見て、また一歩踏み出しかけて――止まった。
「アルナ!? 何してるの!」
母さんの声が、森の闇に鋭く響く。
でも、足はもう動かなかった。
頭の中に、ずっと前から積み重なっていた感情が一気に浮かび上がる。
逃げるだけでいいのか。
また、守られるだけでいいのか。
違うだろ。
何のために魔法を練習してきた?
何のために、毎日手を動かして、何度失敗しても繰り返してきた?
何のために、やり直すって決めたんだ?
ここで逃げたら、前世と同じだ。
何もできないまま、誰かが傷つくのを見ているだけの自分に戻る。
「……嫌だ!」
声が、喉の奥から絞り出される。
母さんの目が見開かれた。
「アルナ、行きなさい!」
「嫌だ! 俺、逃げない!」
「何言って――」
「逃げたら、また無くなる!」
自分でも驚くほど、強い言葉だった。
次の瞬間、男たちが根を振りほどきながら吠えた
「ガキは後回しだ! まずあの女を殺せ!」
男のひとりがそう叫んだ瞬間、空気がさらに重くなった気がした。
母さんの顔から血の気が引く。
俺はそれを見て、奥歯を噛みしめた。
――今だ。
「大気を漂う水よ、我が魔力に応え形を成せ――《ウォーターボール》!」
口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
手のひらの前に、震える水の球が生まれる。小さいけど、確かに形になった。
「なっ……!」
驚いた男の顔面に、それを叩きつける。
バシャッ、と水が弾けた。
「ぶっ!? 目が……!」
男が顔を押さえてたたらを踏む。
完全に致命的じゃない。けれど、視界を奪うには十分だった。
「アルナ……!」
母さんの声が、信じられないものを見るみたいに揺れた。俺は息を切らしながら、もう一歩前へ出る。
「母さん! 一緒に逃げよう!」
俺はそのまま母さんの手を掴んだ。
細い。
震えてる。
こんな手で、ずっと俺を守ってくれてたのかと思った瞬間、胸の奥が苦しくなった。
「アルナ……」
母さんが呆然と俺を見る。
その間にも、拘束されていた男たちは少しずつ根を引きちぎっていた。太い根が裂ける嫌な音が森に響く。
「早く!」
俺は母さんの腕を引っ張った。
母さんは一瞬だけ迷うように目を伏せ――小さく頷く。
「……っ、分かった」
その言葉を聞いた瞬間、俺は走り出した。
二人で森の奥へ飛び込む。
枝が顔に当たる。息が苦しい。足がもつれそうになる。それでも止まれない。
後ろから怒声が飛んだ。
「逃がすな!!」
「追え!!」
足音が迫ってくる。
「アルナ、左!」
母さんの声に反応して進路を変える。直後、後ろの木に剣が叩きつけられた。
ガンッ!! と鈍い音。
「ひっ……」
思わず喉が鳴る。
あと少し遅れてたら当たってた。
俺は母さんの声に従って、必死に足を動かした。
枝が服を引っかく。土に足を取られそうになる。肺が悲鳴を上げていたけど、それでも止まらなかった。
背後から聞こえていた怒鳴り声は、少しずつ遠ざかっていく。
「……っ、は……」
息を吸うたびに喉が痛い。
それでも、走るのをやめられなかった。
しばらくして、後ろの足音が途切れた。
一人、二人、三人――さっきまですぐそこにあった気配が、森のざわめきに紛れていく。
「……母さん」
俺が振り返ると、母さんも肩で息をしながら立ち止まった。
耳を澄ませるみたいに目を閉じて、しばらく周囲をうかがう。
やがて、小さく息を吐いた。
「……追って、きてない」
「ほんとに?」
「たぶん、ね」
その声はまだ掠れていたけど、少しだけ落ち着いていた。
俺はその場にへたり込みそうになるのを、なんとかこらえた。
膝が震えている。手も熱い。さっき魔法を使ったせいで、魔力がぐっと削られた感じがした。
でも、それ以上に――胸の奥が熱かった。
やった。
やったんだ。
俺の魔法が通用した。
あの男の顔面に、ちゃんと当たった。
足止めもできた。
ただ練習していただけじゃなかった。
何度も失敗して、球が小さすぎて、形も崩れて、それでも続けてきた意味が、今ここにあった。
「……っ、はは」
思わず、笑いがこぼれた。
自分でも変な声だったけど、止められなかった。
「アルナ?」
「母さん、俺……」
「うん」
「できた……!」
俺は息を切らしたまま、拳を握った。
「俺の魔法、通用したんだ!」
言いながら、胸がいっぱいになる。
嬉しい。怖い。まだ全然安心できない。なのに、確かに嬉しかった。
母さんはそんな俺を見て、少しだけ目を丸くしてから、ふっと笑った。
「ええ。通用したわ」
「本当に?」
「ええ、本当に」
その言葉が、やけに優しかった。
俺はようやく立ち上がり、母さんのもとへ近づく。
彼女はかなり疲れているみたいで、片手を木の幹についたまま呼吸を整えていた。
「母さん、大丈夫?」
「平気……と言いたいところだけど、まあ、平気ではないわね」
「ごめん、無理させた」
「あなたが謝ることじゃない」
母さんはそう言って、俺の頭を軽く撫でた。
「でも、よくやったわ」
「……うん」
その一言で、さっきまで張り詰めていたものが少しだけほどける。
その時だった。
「……うっ」
小さな声だった。あまりにも小さくて、最初は何の音か分からなかった。
「……母さん?」
俺が顔を上げる。その瞬間、視界が止まった。
母さんの体が、ぐらりと揺れていた。
背中から、銀色の刃が突き出ている。
「……え?」
理解が追いつかない。
剣。剣が、刺さってる。なんで?
母さんの腹部を貫いて、赤黒い血がじわりと服を染めていく。
時間だけが妙にゆっくりになったみたいだった。
「か、あ……」
母さんの口から苦しそうな息が漏れる。
次の瞬間、膝が崩れた。
「母さんっ!!」
俺は叫びながら駆け寄る。けれど、どう掴めばいいのか分からない。倒れ込む体を受け止めようとして、両手が震える。母さんは地面に膝をつき、そのままぐらりと横へ傾いた。
「しっかりして、母さん……!」
「……アル、ナ……」
声が、弱い。
背中に刺さった剣が抜ける音がして、熱いものが一気に溢れた。俺は息を呑む。見たくないのに、目が離せなかった。
「そ、そうだ……ヒール……!」
セレスに教えてもらった。あの時、何度も何度も練習した。怪我を治す魔法。焦るな、落ち着け、呼吸を整えろ。
でも、今の俺には何一つまともに頭に入らない。
それでも、やるしかない。
俺は母さんの前に手をかざした。
「……あたたかな光よ、この身に宿り、傷を包め――《ヒーリング》!」
何も起こらない。
「……え?」
もう一度。
「……あたたかな光よ、この身に宿り、傷を包め――《ヒーリング》!」
何も、起こらない。手のひらは空っぽのまま、冷たい空気だけを撫でた。
「なんで……?」
喉が、嫌な音を立てる。
「出ろよ……っ、今出さないでいつ出すんだよ!」
焦りで呼吸が乱れる。魔力の流れが、手の中で全然まとまらない。さっきまで使えたはずの感覚が、まるで霧みたいに散っていく。
「お願いだ、出てくれ……!」
もう一度。
「……あたたかな光よ、この身に宿り、傷を包め――《ヒーリング》!!」
やっぱり、何も起きない。
「くそっ……!」
俺は歯を食いしばって、何度も何度も唱えた。
「ヒーリング!」
「ヒーリング!!」
「あたたかな光よ――!」
出ない。出ない。出ない。
手が震える。声が震える。目の前が滲む。母さんは地面に倒れたまま、浅い息を繰り返していた。
「……アルナ」
「喋らないで、今……今やるから!」
必死に手をかざす。
なのに魔法陣みたいな光すら浮かばない。
「何でだよ……!」
「……落ち着いて……」
「落ち着けるわけないだろ!」
叫んだ瞬間、自分の声が森に跳ね返った。
俺はまた詠唱を繰り返す。舌がもつれそうになりながら、それでも何度も。
「……あたたかな光よ、この身に宿り、傷を包め、ヒーリング!」
「ヒーリング!」
「ヒーリング!!」
だめだった。胸の奥が、冷えていく。
さっきまであんなに嬉しかったのに。
俺の魔法が通用したって、少しだけ前に進めたって、そう思えたのに。
全部、足りなかった。
「くそ……っ、なんで……なんで出ないんだよ……!」
俺は母さんの手を握る。
冷たかった。さっきまで握ってくれていた手が、どんどん力を失っていく。
「母さん、頼む……起きてよ……」
「……アルナ……」
返事は、かすかすだった。
その声が余計に怖かった。
今ここで、何もできないまま失うのだけは、絶対に嫌だった。
俺はもう一度、声を振り絞った。
「ヒーリング……っ! ヒーリング!!」
それでも、光は生まれなかった。
「……アルナ……もう、いいの……」
かすれた声だった。息が混じって、今にも消えそうなほど弱い。俺は首を振る。何度も、何度も。
「よくねぇよ……!」
喉が痛い。目が熱い。なのに、涙なんて邪魔だとばかりに視界が滲む。
「いいわけねぇだろ!!」
母さんの手を、両手で強く握る。
「俺! やり直すって決めたんだよ!」
「アルナ……」
「それなのに、それなのに……母さん一人救えない……!」
声が途中でひび割れた。
嫌だった。
認めたくなかった。
さっきまでできたはずだった。魔法だって通った。走って逃げることもできた。なのに、肝心なところで、何ひとつ間に合っていない。
「くそっ……!」
拳で地面を叩きたくなる。でもそんなことをしている暇もない。俺はただ、母さんの顔を見た。青ざめて、それでも俺を見ていた。
「ねえ、母さん……頼むよ……」
「……アルナ……」
呼吸が、もう浅い。
「起きて……」
「……」
「起きてよ……っ」
返事はなかった。
俺は何度も魔法を唱えようとして、でも喉が詰まって声にならない。手のひらは熱いのに、光は出ない。さっきまで必死に積み上げていたものが、全部崩れていく。
そのとき、母さんの指が、わずかに俺の手を握り返した。弱くて、でも確かに。
「アルナ……」
「うん、うん……!」
「私が……母親で、ごめんね……」
その言葉に、俺は息を止めた。
「……は?」
何を言ってるんだよ。
なんで、そんなことを言うんだよ。
「違う……違うだろ……」
声が震える。頭が真っ白になる。
「ごめん、ね……」
それ以上は、もう言えなかった。
母さんの手から、少しずつ力が抜けていく。
目に光が、少しずつ消えて行く。
「母さん……?」
「……」
「母さん!!」
叫んでも、もう返事はなかった。
森の音が遠のいた気がした。
風も、鳥の声も、追手の気配も、全部が薄くなって、ただ目の前の現実だけが残る。
母さんは、もう動かない。
「だめだ……」
かすれた声が落ちた。
「ダメだダメだダメだ!」
俺は母さんの手を握りしめたまま、そこから動けなかった。動いたら、全部終わってしまう気がした。だから、何度も何度も呼ぶ。
「母さん……」
「……」
「母さん……っ」
でも、もう戻ってこない。
俺は呆然とその顔を見つめた。
ついさっきまで、怒ってくれて、撫でてくれて、一緒に走ってくれた人が、こんなに静かに、こんなに簡単にいなくなるなんて、信じられなかった。
「……なんで」
「なんでだよ……」
握った手が冷たくなっていく。
「俺、ちゃんと……」
「ちゃんとやるって……」
言葉が続かない。
胸の奥で何かがひどく軋んで、壊れた。




