02-04.平和の代償
アドラスティア聖王国の街道は、驚くほど平穏だった。
かつて北の国境付近で見かけた無骨な石造りの砦や、兵士たちの鋭い眼光はどこにもない。代わりに視界を埋め尽くすのは、陽光を浴びて黄金色に波打つ麦畑と、どこまでも続く真っ白な石畳の道だ。
馬車の車輪が立てる規則正しい音だけが、静かな昼下がりの空気に溶けていく。時折すれ違う商隊の荷馬車からは、香辛料や干し草の匂いが漂い、御者たちは「いい天気だな」と気さくに手を挙げて通り過ぎていく。
街道沿いには、旅人の喉を潤すための清らかな水場と、唯一神ネメシスを象った小さな石像が等間隔に並んでいた。
この国の人々は皆、知っているのだ。
たとえ北の果てで魔王が不穏な動きを見せようとも、この国からは必ず勇者が現れ、全てを払いのけてくれることを。路傍に咲く色鮮やかな花々や、手入れの行き届いた街道は、その絶対的な安心感の象徴のように見えた。
けれど、その平和の象徴であるはずの聖剣は今、皮袋に包まれ、私の隣を行く連れの背で沈黙している。勇者が命を落としたと知る者が果たしてどれだけ存在することだろう。既にこの辺りまで噂は届いているのだろうか。
柔らかな風が頬を撫でるたび、この穏やかな景色と、背負っている厄介事の重さとのギャップが、奇妙な現実感を伴って胸に迫ってくるようだった。
「この辺りは平和なものね」
「そうですか? エコーさんの故郷は違いましたか?」
「ええ。一日出歩いて魔物と出くわさないことなんてなかったわ」
「えぇ!? どんな魔境に住んでいたんですかぁ!?」
失敬な。小さいながら温かな我が故郷を。そりゃあ魔物の出現率は高かったけれども。平穏とは言い難いけれども。
「普通の村よ♪」
そうそう。普通普通。ここまで街道が整っている、この国の方がおかしいのだ。
「エコーさんの普通って本当に普通なんでしょうか」
モニカも含めて、この国の民は恵まれているのだと知るべきだ。
この抜けるような青空も、手入れの行き届いた石畳も。それらが「当たり前」として存在していること自体、どれほど多くの奇跡……あるいは犠牲の上に成り立っているのかを。
私の隣を行く、旅の連れの背で沈黙している『それ』が、かつてはその平和を担保する唯一の絶対的な力だった。
だが今は、ただの重い遺産に過ぎない。
この国において、勇者とは女神が選ぶ尊い称号であると同時に、使い潰されればまた補充される『高価な消耗品』に過ぎない。一つの火が消えれば、次の火を灯すだけ。人々はただ、その光が途絶えないことだけを求め、光を維持するために誰が薪になったのかには興味を示さない。
「……ねえ、エコーさん」
モニカが少しだけ真剣な声を出した。背負った皮袋の揺れに合わせて、彼女の肩がわずかに上下する。
「私、リブラへ行ったら、勇者様がまたすぐに選ばれるんだって信じてるんです。この聖剣が新しい誰かに渡れば、またきっと、みんなが笑って暮らせるんですよね?」
彼女の瞳には、一切の疑いがない。
この国の人々にとって「勇者」とは、日没の後に朝日が昇るのを信じるのと同じくらい、絶対的な希望で、当たり前の存在なのだ。
私はその横顔を見て、喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
モニカの懸念は見当違いだ。誰も勇者の不在なんて気にも掛けない。誰の笑顔も曇ってなどいない。勇者が失われるのは別に珍しいことでもない。この国の平和が脅かされることなんてあり得ない。
北の最果てで何が起き、誰が散っていったのか。それを知らないままでいられることもまた、恵まれているということなのだろう。
「そうね。きっと女神様と教会が、今度こそ相応しい者を選んでくれるわ」
なんとなく歩幅を早める。
この穏やかな春の風が、北から吹き付ける凍てつくような死の気配に塗り替えられる前に。私たちはこの重荷を、届けるべき場所へ届けなければならないのだ。
……でなければ、次にそれを背負わされるのは私たちになるかもしれないのだから。
「あ、ちょっと! 置いてかないでくださいよぉ!」
慌てて追いかけてくるモニカの足音が、静かな街道に場違いなほど明るく響いた。
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「……南の連中は、これだから笑いが止まらねぇぜ!」
石畳を血で汚しながら、盗賊の一人が下卑た声を上げた。
路傍には、派手な装飾を施された馬車が横倒しになり、その周囲には数人の騎士が無残な骸となって転がっている。
北の国境付近で魔物相手に日々命を削っていた彼らにとって、聖王国の騎士たちはあまりにも脆かった。平和に慣れ、儀礼的な剣しか振るうことのなかった者たちの末路は、略奪者にとっての「ボーナス」でしかなかった。
「お、おい……こっちを見てみろよ。上玉じゃねえか」
盗賊のリーダー格が、ひっくり返った馬車の残骸ににじり寄る。
そこには、震える令嬢をかばうようにして立つ、一人のメイドの姿があった。
メイドは顔を青ざめさせながらも、折れた護衛の剣を必死に握りしめている。だが、その手元は隠しようもないほどにガタガタと震えていた。
「寄るな……! それ以上近づいたら、この私が……!」
「ハッ、その震え声でか? お前も、そのお姫様も、まとめて俺たちが『可愛がって』やるよ♪」
リーダーの男が斧を肩に担ぎ直し、獲物を追い詰める悦びに瞳を細める。
絶体絶命。
慈悲など欠片も持ち合わせていない荒くれ者たちの手が、あわや少女たちの身に届こうとした、その時だった。
「……ねえ。その辺にしておいたら?」
緊張感の欠片もない、それでいて凛とした女の声が、惨劇の場に響き渡った。
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「あ……? なんだてめぇ、死にてぇのか……っ!?」
吠えながら振り返ったリーダーの男が、その言葉を最後まで紡ぐことはなかった。
エコーの姿が視界に入った瞬間、男の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。斧を握る太い腕が、先ほどのメイド以上に激しく震え始めた。
「……あ、ああ、ありえねぇ。なんで、なんであんたがこんな場所に……!」
北の魔境で這いつくばり、死に物狂いで逃げ延びてきた彼らにとって、その女の姿は「悪夢」そのものだった。
軍隊ですら手を焼く凶悪な魔物の群れを、たった一人で、無表情に、作業のように掃討していく背中。魔王領に近い北の国々で、その界隈の盗賊たちが最も恐れる、歩く天災。
「エ、エ、……『エコー』だ! 黒魔女が! なんで南の街道なんかにいんだよぉっ!!」
「ひぃっ! 逃げろ、殺されるぞ!」
先ほどまでの下卑た威勢はどこへやら。
一人が脱兎のごとく駆け出すと、残りの男たちも蜘蛛の子を散らすように、奪った金品さえ放り出して走り去っていった。
「あら。まだ何もしていないのだけど」
リリスは呆れたように肩をすくめると、隣で目を丸くしているモニカと、地面にへたり込んだままの令嬢たちに視線を向けた。




