第7話:藍の魔導師と黄金の誘惑
深い霧が立ち込める断崖の底。そこには、かつての炭鉱夫たちが非常用シェルターとして使っていた、堅牢な石造りの小部屋が隠されていた。
ルナは、魔法の灯火を灯し、冷たい石の床に魔法衣を敷いて、その上に「黄金の獣」――アレンを横たえていた。
「……信じられない。本当にアレンなのね、この姿……」
ルナは震える指先で、黄金の毛並みに触れた。
王城で共に学び、密かに想いを寄せていた第二王子。その気品ある面影は、今や手のひらサイズの愛らしい小動物へと変貌を遂げている。
だが、その首元に巻き付いた『呪鎖』を見た瞬間、ルナの瞳に鋭い魔導師の光が宿った。
「エリザベート様に、シルフィ様……。なんて悍ましい術式を。愛をエネルギーに変えて、対象を完全に固定化・愛玩物化するなんて。……これはもう、呪いなんて生易しいものじゃない。存在の抹殺よ」
ルナは即座に解呪の術式を展開した。彼女の手のひらから、透き通った藍色の魔力が紡ぎ出され、黄金の首輪へと浸透していく。
しかし――。
――キィィィィィィン!!
鎖から放たれた拒絶の波動が、ルナの魔力を霧散させた。
「……くっ! 外部からの干渉を全て『敵意』として認識するのね。しかも、私の魔力波長を記録して、次からはさらに強く弾こうとしている……」
天才と謳われたルナでさえ、この二重、三重に張り巡らされた「独占の檻」には舌を巻くしかなかった。
『……ん、んぅ……』
かすかな念話と共に、黄金の毛玉がもぞりと動いた。
碧色の瞳がゆっくりと開き、ルナの顔を捉える。
『……ルナ? ……夢、じゃないよね?』
「アレン! 気がついたのね! よかった……本当に、よかった……っ」
ルナは思わずアレンを抱きしめた。
かつての王子なら、こんな風に抱きつくことなど許されなかった。だが、今の彼は「もふもふ」だ。その感触は驚くほど柔らかく、黄金の魔力がルナの肌に心地よく馴染んでいく。
『ルナ、助けてくれてありがとう。……でも、僕に触れるのは危険だ。この鎖は、僕以外の誰かが僕を所有しようとすると、暴走するんだ』
「そんなこと、どうでもいいわ! 貴方をあんな化け物たちの手に、……ううん、あの狂ったお二人や、得体の知れないモンスターたちの手に渡したくないもの!」
ルナの言葉に、アレンはハッとした。
『……モンスターたちのことを、知っているのかい?』
「ええ。追跡の過程で視覚共有の使い魔を飛ばしていたわ。貴方が……あの淫らな蛇女や、浅ましい鳥女たちに囲まれて、あんな……あんなに甘やかされていたのも、全部見たわよ!!」
ルナの声が、急激に熱を帯びる。
再会の喜びは、瞬時にドロドロとした嫉妬心へと塗り替えられていた。
「アレン、貴方……。王城ではあんなに淑女たちの視線に怯えていたのに。辺境では、あんな……あんな薄汚いメスたちの王様になっていたなんて! しかも、あんな幸せそうな顔をしてブラッシングまでされて……不潔よ! 不真面目だわ!」
『ち、違うんだルナ! あれは彼女たちの恩返しというか、生存戦略の一環で……!』
「言い訳は聞きたくないわ! ……いい? 貴方を元の姿に戻すのは、この私、ルナ・アルマ。貴方の正妻……じゃなくて、筆頭守護魔導士である私の義務なの。だから、あのモンスターたちのところへは、二度と帰らせないわ」
ルナはアレンを抱きしめる力を強めた。
その時、アレンの鼻腔を、ルナの香り――知的な紙の匂いと、清潔な石鹸の香りがくすぐった。
(……ああ、落ち着く。……これが、人間の女の子の匂いだ)
モンスター娘たちの、野性的で濃密な「発情」の匂いとは違う、理性的で一途な香り。
アレンは、無意識のうちにルナの胸元に顔を埋めた。
「……ひゃ、ひゃうん!? アレン……貴方、今、どこに顔を……っ」
『あ、ごめん! マスコットの本能が……!』
「…………別に、嫌だなんて言ってないわ。……いいわよ、もっと。……あの蛇女たちの匂いを、全部私の魔力で上書きしてあげる」
ルナの頬が朱に染まる。
彼女はアレンを膝の上に乗せると、震える手で彼の黄金の毛をなぞり始めた。
だが、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
石造りのシェルターの壁が、不気味に震え始める。
――ズズ……ズズズ……。
「……!? 結界が、侵食されている!? まさか、あの二人がもうここに!?」
ルナが咄嗟に防御呪文を唱えようとした、その時。
シェルターの扉が、外側から「融解」して崩れ落ちた。
立ち込める緑色の煙。
そこから這い出してきたのは、半透明の液状の体を持つ、巨大な塊。
「……見ぃ、つけた……。私たちの、アレン様……」
スイだった。
彼女はアレンの魔力の匂いを頼りに、岩盤を溶かしながら地底を突き進んできたのだ。
続いて、背後の暗闇から、ミーシャの冷たい声が響く。
「泥棒猫……いえ、泥棒人間。……その方を、離しなさい。……それは、私たちの王よ」
ミーシャ、ピー、クゥ、そしてスイ。
四人のモンスター娘たちが、地の底までアレンを追ってきたのだ。
その瞳には、かつての慈愛は欠片もない。ただ、愛する者を奪い返すという、狂気に近い執念だけが渦巻いている。
「……不潔なモンスターどもが! アレンは王国の宝よ。貴女たちのような獣が触れていいお方じゃないわ!」
ルナが杖を構え、藍色の雷光を発生させる。
対するモンスター娘たちも、アレンから授かった黄金の魔力を滾らせ、戦闘態勢に入った。
『やめてくれ! みんな、喧嘩はやめるんだ!』
アレンの声は届かない。
女たちの「愛」が、狭いシェルターの中で激しく衝突する。
ルナの嫉妬、ミーシャの執着、ピーの独占欲、クゥの奉仕欲、スイの渇望。
それらの負の感情が渦を巻いた瞬間、アレンの首の鎖が、これまでで最大の輝きを放った。
「――っ、あああああ!!」
アレンの叫びと共に、鎖が爆発的に伸長した。
鎖はルナとモンスター娘たちの間に割って入り、物理的な壁となって部屋を二分する。
そして、鎖を通じて、アレンの「意思」が強制的に全員の脳内へ叩き込まれた。
『――聞け! 僕は、誰の物にもならない!!』
鎖の反動で、アレンの体から黄金の光が溢れ出す。
その光に当てられたルナたちは、あまりの高貴なプレッシャーに、その場に跪くしかなかった。
しかし、アレンの代償は大きかった。
鎖を無理やり制御したことで、呪いが彼の精神をさらに侵食する。
(……だめだ。……視界が、真っ白に……)
アレンの意識が途切れる直前。
ルナとミーシャが、互いに睨み合いながらも、同時にアレンの体を支えようと手を伸ばすのが見えた。
「……アレン。……貴方がそう言うなら、一時だけ、この獣たちと手を組んであげるわ」
「……ええ。……アレン様を『あの二人』から守るためなら……一時的な同盟も、やぶさかではないわね」
王女の幼馴染と、辺境のモンスター娘。
決して相容れないはずの彼女たちが、アレンという名の「愛の楔」によって、奇妙な共闘関係を結ぼうとしていた。
だが、その結託さえも、遠く王城で微笑む二人のヒロインにとっては、掌の上の出来事に過ぎないことを、彼女たちはまだ知らなかった。




