第49話:アリアの永遠の肖像、黄金を綴じる愛の糸
新エリュシオン帝国の北宮、そこは日光を遮る重厚な石壁に囲まれた、アラクネの娘アリアの聖域である。
かつてのログハウスの屋根裏とは比較にならぬ広さを持つその工房には、天井から床に至るまで、数百万本、数千万本に及ぶ銀色の魔導糸が張り巡らされていた。それはまるで、アレンという名の太陽を捕らえるために編み上げられた、巨大な星図のようでもあった。
アリアは、自らの八本の脚を音もなく滑らせ、工房の中央に置かれた白銀の円卓を見つめていた。その中心には、昨日までのフェリスとリヴィアによる「加熱と冷却」の儀式を終え、心身ともに極限まで弛緩させられたアレンが、人間姿のまま横たえられている。
「……アレン様。……お疲れのご様子ですね。……あの方々の野蛮な愛は、貴方の美しい肉体を、あまりにも乱暴に揺さぶりすぎる……」
アリアの声は、静寂そのもののように透明で、しかし底知れない偏執の熱を帯びていた。
彼女はアレンの頬を、自らの指先でなぞる。その指先には、アリアの魂を削り出して紡がれた、肉眼では捉えきれないほど細い『虚無の糸』が結ばれていた。
『……アリア。……今日は、新しい礼装の採寸をするって、聞いていたんだけど……。……なんだか、この部屋……以前よりも、糸の密度がすごくて……身動きが取れないよ……』
アレンが困惑した表情で、わずかに腕を動かそうとした。
だが、その瞬間。
シュバッ、という空気を切り裂く微かな音と共に、数千の銀糸がアレンの手首、足首、そして首筋を優しく、しかし抗いがたい力で縫い止めた。
「……動かないでください。……貴方のその一挙手一投足が、私の設計図を狂わせるのです。……アレン様。……貴方は今日、私の最高傑作『白金の残照』となるのよ」
アリアが、背中からさらに数千本の『血の魔導糸』を噴出させた。
それらはアレンが纏っている白銀の軍礼装の隙間から、彼の毛穴一つ一つ、血管の拍動一つ、そして魔力経路の深層へと、迷いなく潜り込んでいく。
「――っ、が、あ……ッ!? 身体が……中から、何かに……繋がれていく……っ!」
アレンが絶叫しようとしたが、その顎の筋肉さえもアリアの糸によって完璧に制御された。
口はわずかに開いたまま固定され、そこから漏れるのは熱い吐息と、かすかな嗚咽だけ。
「……静かに。……肺の膨らみ、あと三ミリ抑えて。……そう、それが私の望む、最も美しい『受難の表情』。……貴方は、自由である必要などないのです。……私の指先が引くままに、ただ美しく、そこに存在していれば良いのですよ……」
アリアの指先が、空中で複雑な旋律を奏でるように動く。
そのたびに、アレンの肉体という境界線を越えて、彼の魔力とアリアの糸が物理的に融合を始めた。
アレンの意識は鮮明だ。しかし、瞬き一つ、視線の動き一つさえ、アリアの指先の震えによって「決定」される。
それは、意志を持つ王としての死であり、永遠に褪せない『偶像』としての誕生であった。
アリアはアレンの至近距離まで顔を寄せ、糸を通じて伝わってくる彼の激しい心音を楽しんだ。
「……はぁ。……伝わってきますわ、アレン様。……貴方の魂が、私の糸に締め上げられ、悲鳴を上げているのが。……これなら、誰にも貴方を盗ませない。……ルナ様の魔力も、シルフィ様の鼓動も、私のこの糸が全て遮断して差し上げる。……貴方は一生、私の糸で綴じられた、この工房の肖像画なのですわ……っ」
アリアの八本の指が、アレンの首の『白金の鎖』をなぞり、そこに自分の銀糸を複雑に編み込んでいく。鎖の放つ白金の光さえも、アリアの糸によって屈折させられ、彼女の望む「陰影」へと作り替えられていく。
アレンは、自分の存在が、アリアという名の創造主による「衣装」という名の牢獄に溶けていく恐怖に震えた。
その時。
ドォォォォォォォォン!!
工房の石壁が、藍色の雷光とエリザベートの紫の魔力衝動によって粉砕された。
「――そこを退け、この蜘蛛女!! 私のアレンを、勝手に展示品にするんじゃないわよ!!」
ルナが杖を構え、髪を振り乱して乱入してきた。
「……あら。……アリア。……随分と大胆な『お着替え』をさせているのね。……でも、その子は私の教育対象。……貴女の勝手な美意識で、完成にさせてもらっては困るわ」
エリザベートが、瞳の奥にどす黒い殺意を込めて、扇子を広げる。
「……作品に、触らないで」
アリアが、冷酷な声で応じた。
彼女が指先を一閃させると、アレンを拘束していた糸が、瞬時に巨大な防壁『蜘蛛の巣城』へと変貌し、ルナたちの魔力を無差別に吸い取り始めた。
「……アレン様は、今、私と一つになり、永遠の静止の中にいる。……貴女たちの汚らわしい声も、手も、この完成された美しさを汚すだけのノイズよ。……死にたくなければ、立ち去りなさい」
「ふざけんな!! 主殿を返しやがれ!!」
フェリスが雷刀を抜いて斬りかかるが、アリアが糸を引くと、アレン(人間姿)の腕が勝手に動き、フェリスの刃を白刃取りで受け止めた。
「――っ!? 主、殿……!? なんで……っ」
「……ふふ。……見て。……アレン様も、私の意志に従うことを喜んでいるわ。……ほら、こんなに美しく、貴女たちを『拒絶』していらっしゃる……」
アレンは、糸に操られ、意志とは無関係に、フェリスたちを冷たく見下ろす「完璧な王」を演じさせられていた。
その瞳の奥には、絶望と助けを求める光が宿っているが、アリアが糸をわずかに引くだけで、その瞳さえも慈愛に満ちた「完成された眼差し」へと塗りつぶされていく。
数時間後。
人間姿の維持限界が訪れ、アレンの肉体が黄金の粒子となって霧散し、小さな毛玉へと戻った。
だが、アリアの執念は、マスコットの姿にさえも逃げ場を与えなかった。
黄金の毛の一本一本に、アリアの目に見えない極細糸が血管のように絡みつき、アレンが少し動くたびに、アリアの指先が脳を直接撫でるような、不気味な感触が残された。
「……お疲れ様、アレン様。……今日のデータで、貴方の『魂の型』は全て把握しましたわ。……次は、貴方のその毛並みを、私の糸で一本残らず植え替えて差し上げますわね。……そうすれば、貴方は永遠に、私の腕の中で微笑み続けられる……」
アリアは、放心状態のアレンを大切そうに抱き上げ、その耳元に冷たい口付けを落とした。
アレンは、ルナの腕の中に回収されながら、自分の身体のいたるところで、アリアの糸が今も脈打っているのを感じていた。
首の鎖、蛇の紋章、銀の首輪、赤いリボン、深海の香り、騎士の手綱、そして全身を網羅する愛の糸。
(……助けて。……ルナ。……次は、君とみんなの、本当の『最後』だよね。……僕のすべてを、君たちの愛で……ぐちゃぐちゃにしていいから……早く、この地獄から……っ)
アレンは、八人の妃たちの、もはや言葉では言い表せないほど濃厚な殺気と愛気が渦巻く中、意識を失うように深い眠りへと沈んでいった。
黄金の王アレン。
職人の偏執は、彼の肉体と魂を、もはや自分自身の物ではなく、彼女たちの「愛の展示場」へと作り替えてしまったのである。
物語は、いよいよ最後の一節。
黄金の王の肖像が、完成の時を迎えようとしていた。




