第39話:赤い糸の真実、心臓の共鳴
藍色の静寂が、王宮の最上階を支配していた。
ルナ・アルマの魔導研究室。そこは今、外界の喧騒から完全に切り離された、濃密な魔力の檻と化している。
実験台を兼ねた豪奢なベッドの上、アレンは人間姿のまま、幼馴染であるルナの細い腕の中に沈み込んでいた。
彼の全身を巡るのは、もはや自分自身の黄金の魔力だけではない。ルナが禁忌術式『藍の魔力浸透』によって流し込んだ、冷たくも熱い、執着の色に染まった藍色の魔力だ。
(……ああ。……頭が、ぼーっとする。……ルナが、僕の中に……居座っているみたいだ……)
アレンの碧い瞳は、ルナの魔力特性に侵食され、中心から藍色の火花が混ざり合っている。
彼は指先一つ動かすことさえ、ルナの許可――すなわち、彼女からの魔力供給がなければ叶わない。呼吸のたびに、肺の奥からルナの清潔な石鹸の香りがせり上がり、彼の生存本能は、目の前の少女を「唯一の酸素」として認識させられていた。
「……ふふ。……いい子ね、アレン。……もっと、私を欲しがりなさい。……貴方の心臓が動くのも、貴方がこうして美しい人の姿でいられるのも、……全部、私が貴方を愛しているからなのよ」
ルナが眼鏡を外し、潤んだ瞳でアレンの頬をなぞる。
彼女の指先がアレンの唇に触れると、そこから微かな藍色の電位が流れ込み、アレンの身体を甘い痺れが駆け抜けた。
「……あ、あぐ……っ。……ルナ、もう……お腹がいっぱいだよ……。……これ以上、君の魔力を入れられたら……僕、僕じゃなくなっちゃう……っ」
「いいのよ。……貴方は、私の『アレン』であれば、それで。……他の女たちの紋章も、匂いも、私の藍色で内側から全部焼き切ってあげるわ。……さあ、また『おかわり』の時間よ。……私の指を、噛みなさい」
ルナが自身の指先をアレンの口元に差し出す。
アレンは屈辱に震えながらも、枯渇しかけた自らの魔力回路が、彼女の供給を求めて悲鳴を上げているのを無視できなかった。
彼は吸い寄せられるように、幼馴染の白い指を、震える唇で迎え入れた。
その時。
パキィィィィィィン!!
ルナが部屋の周囲に張り巡らせていた、鉄壁の防魔結界に亀裂が走った。
それは物理的な破壊ではない。
「……あら。……おばさんと泥棒人間が、お兄様を独り占めしてる。……ずるいなぁ。……シルフィも、混ぜてほしいのに」
影の中から、音もなく一人の少女が姿を現した。
隣国の王女、シルフィ。
彼女の赤い瞳は、ルナの腕の中で蕩けた表情を見せるアレンを捉えた瞬間、絶望的なまでの悦びと殺意に染まった。
「シルフィ!? 貴女、どうやってここへ……っ! 私の結界は、概念レベルで封鎖していたはずよ!」
ルナがアレンを抱きしめたまま、鋭い声を上げる。
シルフィは巨大な鎌を背負うこともなく、ただ、自分の胸元をゆっくりと開いた。
「……結界なんて、関係ないもん。……シルフィの心臓が、お兄様を呼んでるんだもん。……ねえ、お兄様。……その汚い藍色の魔力、シルフィが全部吸い取ってあげるね?」
シルフィが自分の胸の真ん中、その白い肌に指を突き立てた。
彼女の指先が、自身の肋骨の隙間を潜り抜け、拍動する心臓に直接触れる。
そこから引き出されたのは、ドロリと、どす黒いまでに濃縮された、一本の『真紅の魔導糸』。
「――っ、まさか、それ……!! 自分の心筋から糸を紡いでいるの!? 貴女、狂ってるわ!!」
「狂ってないよ。……お兄様と一つになりたいだけ。……お兄様の鼓動を、シルフィの鼓動で、……上書きしてあげるの。 ――【強制一蓮托生・命の契約】!!」
シルフィが解き放った赤い糸が、ルナの腕をすり抜け、アレンの胸板へと突き刺さった。
アリアの糸のような外側からの操作ではない。
その糸はアレンの皮膚を、筋肉を透過し、彼の胸の奥でドクドクと震える「心臓」に直接絡みついた。
「――っ、が、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!?」
アレンが絶叫し、背中を大きく反らせた。
ルナの『藍の魔力』が回路を外側から満たし、シルフィの『赤い命糸』が心臓を内側から掌握する。
アレンの視界は、藍と赤の色彩が混ざり合い、強烈な不協和音を奏でながら崩壊していく。
「お兄様、お兄様! ほら、聞こえる? シルフィの心臓の音が、お兄様の中に流れてるよ……! シルフィが苦しい時は、お兄様も苦しいの。シルフィが幸せな時は、お兄様も幸せ。……もう、死ぬまで、どっちかが死ぬまで、一緒だね……っ!!」
シルフィがアレンの足元に縋り付き、その心筋から伸びる赤い糸を、愛おしそうに手繰り寄せる。
アレンの鼓動は、今やシルフィのそれと完全に同期していた。
ドクン、ドクン。
シルフィの情熱が高まれば、アレンの心臓は破裂せんばかりに脈打ち、強制的に彼女への「愛(という名の激痛)」を叩き込まれる。
ルナの支配する魔力回路が、シルフィの共有する生命活動と衝突し、アレンの体内では未曾有の魔力過負荷が起き始めた。
「……や、やめろ……。……ルナ、シルフィ……。……止めてくれ……っ。……僕の、僕の身体が……二つに、引き裂かれそうなんだ……っ!!」
アレンの両目から、黄金の涙が溢れ落ちる。
「離しなさい、シルフィ! アレンの魔力維持は私の管轄よ! 貴女のそんな不気味な糸で、アレンの寿命を削らせるわけにはいかないわ!!」
ルナが叫び、自身の藍色の魔力をさらに強引にアレンへと注ぎ込む。
だが、それは逆効果だった。
ルナが魔力を強めれば、アレンの生命活動は活性化し、それに連動してシルフィの心臓も熱を帯びる。
シルフィが歓喜すれば、その高揚した鼓動が糸を通じてアレンの心臓を叩き、ルナの魔力回路を激しく揺さぶる。
終わりのない、愛のデス・ループ。
「……ああ……っ、最高……。……お兄様の中で、シルフィが暴れてる。……シルフィの熱で溶かされてる……! ほら、もっと、もっとシルフィを感じて、お兄様ぁ……!!」
シルフィがアレンの脚を、腰を、情熱的に締め上げる。
彼女の全身からは、アレンと同じ黄金の魔力が、赤い糸を通じて逆流し、二人を包む「血の繭」を形成し始めた。
アレンは、ルナの腕の中で、シルフィの鼓動に焼かれ、白目を剥いて卒倒しかけた。
だが、ルナの魔力が彼の意識を強制的に繋ぎ止め、絶叫することさえ許さない。
(……だめだ。……逃げ場が、どこにもない。……身体の中まで、彼女たちの……『愛』という名の毒で、満たされていく……っ)
夜が更けていくにつれ、三人の関係はより深く、より歪に沈殿していった。
アレンの胸元には、ルナが刻んだ藍色の魔力印と、そこからシルフィの胸へと繋がる脈動する赤い糸が、この世で最も残酷な『所有権の図面』として描かれていた。
翌朝。
朝日が窓から差し込む頃、そこには精根尽き果て、泥のように眠る三人の姿があった。
アレンは人間姿のまま、ルナとシルフィに左右から挟み込まれ、心臓を共有したまま、微かな呼吸を繰り返している。
白金の鎖は、この多重拘束の情念を吸い込み、もはや透明に近い『白銀の輝き』を放っていた。
それは、解呪への一歩であると同時に、アレンが彼女たちの「共生生物」へと完全に堕した証でもあった。
アレンは、眠りの中でさえ、二人の女の鼓動と魔力に翻弄され、心地よい絶望の淵を彷徨い続けるのだった。




