第二章 森の竜と、最初の手術
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離れの改装が始まったのは、それから三日後のことだった。
大工たちが古い家具を運び出し、レオンが前世の記憶を頼りに指示を出した「手術室」らしき部屋の設計図――採光を確保するための大きな窓、床は水を流しても腐らないよう石張りに、壁は拭き掃除がしやすい漆喰仕上げに――を見て、大工の棟梁は何度も首を捻っていた。
「坊ちゃま、これは……台所ですかい? やけに水はけと明かりにこだわりなさる」
「いや、患者を診るための部屋だ。清潔を保つことが、何より大事なんだ」
「清潔、ですか……」
棟梁には理解しがたい様子だったが、辺境伯からの指示ということもあり、黙って言われた通りに作業を進めてくれた。
改装が進む一方で、レオンにはもう一つ、やらねばならないことがあった。道具の確保だ。前世で当たり前に使っていたメスも縫合糸も注射器も、この世界には存在しない。
「まずは、最低限の代替品からだな」
鍛冶屋に発注した、薄く鋭い刃の小刀。これはメス代わりになるだろう。糸は、絹糸を煮沸消毒して使えば、簡易的な縫合糸になるはずだ。消毒には、蒸留酒を分けてもらうことにした。アルコール濃度が十分かは分からないが、何もないよりはずっといい。
「坊ちゃま、また変なものを集めていらっしゃいますね」
リゼッタが、酒瓶と糸巻きと小刀を並べた作業台を見て、呆れたように――しかしどこか面白がるように――言った。あの日以来、彼女はレオンの「不思議な力」を受け入れ、何くれとなく手伝ってくれるようになっていた。
「変なものじゃない。これから、人の命を救う道具になる」
「はぁ……。それにしても坊ちゃまは、本当にお変わりになりましたね。以前は剣の稽古を怠けてばかりで、女官たちに苦手意識を持たれていらっしゃったのに」
「そうなのか?」
「はい。すぐ照れて赤くなって、まともに口も利けなくなっていらっしゃいました」
(十五歳の少年らしいと言えば、らしいが……)
自分の前身の性質を聞かされるのは、なんとも据わりの悪い気分だった。だが、それと同時に、レオンはふと気づく。この身体には、まだ十五歳の少年としての「性質」――例えば、女性に対する免疫のなさ、照れやすさ――が根強く残っているのかもしれない、と。
事実、リゼッタが顔を近づけて何かを手渡そうとするたび、レオンの――正確には身体の方が――勝手に鼓動を速くすることが、最近何度かあった。三十年生きた精神の理性は「これは単なる生理反応だ」と冷静に処理しようとするのだが、身体の方がそれを裏切ってくる。
(厄介な話だ)
そんなことを考えていた矢先、屋敷の裏手にある森から、けたたましい悲鳴が聞こえてきた。
「何事だ!」
飛び出したレオンが見たのは、木こりの一団が、真っ青な顔で森の奥を指差している光景だった。
「り、竜が! 竜が森に落ちてきて……!」
「竜?」
半信半疑のまま、レオンは声のした方向へ走った。木々をかき分けて進むと、開けた場所に、巨大な白銀の鱗を持つ竜が横たわっていた。
体長は十メートルはあるだろうか。翼の付け根から、腹にかけて、大きく裂けた傷があり、そこから夥しい量の血が流れ出している。竜は苦しげに息をしながら、時折、身体を痙攣させていた。
「これは……」
木こりたちは怖気づいて遠巻きに見ているだけだったが、レオンは迷わず竜に近づいた。
「坊ちゃま、危険です!」
追いかけてきたリゼッタが叫んだが、レオンの意識は既に医師のそれに切り替わっていた。《解剖眼》を発動し、竜の体内を確認する。
(肋骨、複数骨折。肺に相当する器官の一部が損傷、内出血が広範囲に広がっている。腹部の裂傷から、大量に出血――このままでは、失血死する)
竜という生物の生理機能がどこまで人間と同じかは分からない。だが、出血している血管があり、それを止めなければ死ぬという構造自体は、恐らく共通しているはずだ。
「誰か! 布と、綺麗な水を持ってきてくれ! あと、酒蔵にある一番強い酒を全部だ!」
「坊ちゃま、まさか……」
「治療する。このままじゃ死ぬ」
木こりたちは唖然としていたが、レオンの真剣な様子に、慌てて指示に従い始めた。
竜は、近づいてくるレオンに気づいたのか、うっすらと目を開けた。金色の瞳が、レオンを睨みつける――いや、睨みつけるだけの力も残っていないのか、その目には諦めに近い色が浮かんでいた。
「大丈夫だ。今、助ける」
言葉が通じるかは分からなかったが、レオンは意識的に、落ち着いた声で語りかけた。前世でも、意識のある患者に処置をする前は、必ず声をかけていた。恐怖を少しでも和らげるために。
竜は、レオンの言葉の意味を理解したのか、それとも単にその声の調子から何かを感じ取ったのか、抵抗をやめて、身体の力を抜いた。
(信じてくれた、のか)
運ばれてきた酒を、まず自分の手と、応急の刃物代わりの小刀に振りかけて消毒する。それから、竜の腹の傷口を確認した。
裂傷は深く、内臓に届くほどの深さがあった。人間ならとうに絶命しているレベルの傷だ。だが、竜の生命力なのか、まだかろうじて息がある。
「よし……やるぞ」
前世の記憶が、手を動かす。出血源を特定し、圧迫止血をしながら、竜の血管に相当する太い管を、絹糸で結紮していく。竜の鱗の下の組織は、人間よりもはるかに硬く、通常のメス代わりの小刀では歯が立たない部分もあったが、幸い、裂傷そのものはある程度開いていたため、その中で作業を進めることができた。
木こりたちは、目の前で繰り広げられる異様な光景――少年が竜の腹に手を突っ込んで、何やら処置をしている光景――に、ただ呆然と立ち尽くしていた。リゼッタだけが、青ざめながらも、レオンの指示に従って布や酒を手渡し続けていた。
「リゼッタ、そこを押さえていてくれ。俺が縫合している間、傷口が開かないように」
「は、はい……!」
彼女の手が震えているのが分かった。当然だろう、竜の血にまみれながら、こんな処置を手伝わされるなど、普通の令嬢どころか、普通の人間には耐えられるものではない。それでも、リゼッタは逃げ出さずに、レオンの指示に従い続けた。
(肝が据わってる。それとも、俺を信じてくれているのか)
一時間近くかかっただろうか。太い血管からの出血を全て止め、開いた傷口を丁寧に縫合し終えた頃には、レオンの腕は疲労で震えていた。三十歳の熟練した外科医の技術があっても、十五歳の未成熟な身体には、それだけの負荷がかかっていた。
「……終わった」
竜の呼吸が、少しずつ落ち着いていくのが分かる。《解剖眼》で確認すると、内出血の広がりも止まり、肺に相当する器官への圧迫も、時間はかかるだろうが、自然治癒に向かうはずだった。
「坊ちゃま……これは……」
リゼッタが、震える声で呟いた。木こりたちも、遠巻きに見ながら、信じられないという顔をしていた。
竜が、ゆっくりと目を開けた。先ほどまでの諦めの色は消え、代わりに、深い驚きと、それから――どこか複雑な感情を湛えた金色の瞳が、レオンを見つめていた。
『……小さき者よ』
頭の中に、直接声が響いた。人間の言葉ではない、何か根源的な意志の伝達のようなものだった。
「喋れるのか」
『竜族は、意志を持つ種族には、言葉を通わせることができる。……お前は、何者だ。この傷を、人の身でありながら癒したその技は、いかなる魔法か』
「魔法じゃない。技術だ。医術と呼んでいる」
『技術、だと……?』
竜は信じられないという様子で、自分の腹の傷を見下ろした。既に縫合された傷口は、竜自身の治癒力もあってか、驚くべき速さで塞がりつつあった。
『我は、古き竜の一族、フィリアーヌ。とある因縁で人間の武人と交戦し、深手を負ってここに墜ちた。……このまま、朽ち果てるものと覚悟していたが』
金色の瞳が、レオンを見据える。
『小さき者よ、お前は我の命を救った。竜族の掟において、命を救われた恩義は、決して軽んじてはならぬもの。……お前に、我が命を預けよう』
「命を預ける、って」
『契約だ。我はお前の力となろう。お前が望むならば』
思いもよらぬ申し出に、レオンは戸惑った。だが、この世界のことをまだ何も知らない自分にとって、竜という強大な存在を味方につけられるというのは、決して悪い話ではない。それに――竜の目に浮かぶ、真剣な感情に、応えたいという気持ちが自然と湧いてきた。
「分かった。だが、契約というのは、俺がお前を使役するということか? それは、あまり気が進まない」
『……何?』
「命を助けたのは、俺がそうしたかったからだ。見返りを求めたわけじゃない。だから、上下関係みたいな契約は望まない。お前が、対等な立場で協力してくれるなら、それでいい」
竜――フィリアーヌは、しばらく無言でレオンを見つめていた。その金色の瞳に浮かぶ感情が、驚きから、やがて何か温かいものへと変わっていくのを、レオンは見た気がした。
『……面白い小さき者だ。よかろう。ならば、我は友として、お前の傍にあろう』
そう言うと、フィリアーヌの巨体が、眩い光に包まれた。木こりたちが悲鳴を上げて後ずさる中、光が収まった後にそこに立っていたのは――銀色の長い髪を持つ、人間の少女の姿だった。
「な……!」
「人の姿……?」
「竜族の中でも、上位の者は人の姿に化けられる。……この方が、話しやすかろう」
フィリアーヌは、事もなげにそう言った。年齢にして十七、八ほどに見える見た目だが、その瞳の奥には、レオンの《解剖眼》でも測りきれない、途方もない年月を生きてきた者の気配があった。それでいて、身に纏っているものが何もないという事実に、レオンは慌てて目を逸らした。
「フィリアーヌ、その、格好が」
「格好? ああ、人型は初めてか。少し待て」
彼女は、周囲の木の葉や、木こりが慌てて差し出したマントを使って、簡単に身を覆った。その一連の動作の無頓着さに、レオンはまた別の意味で頭を抱えたくなった。
(女性に免疫のないこの身体で、こんな状況は色々ときつい……)
「レオン、と言ったな。お前の名は」
「あ、ああ。レオン=ヴァンディアだ」
「レオン。改めて礼を言う。我の命、確かに救われた」
フィリアーヌは、まっすぐにレオンを見て、深く頭を下げた。その素直さに、レオンは少し面食らいながらも、頷いた。
「大したことじゃない。当然のことをしただけだ」
「当然、か。……人間にしては、変わった価値観だな。気に入った」
そう言って、フィリアーヌは初めて、柔らかく微笑んだ。竜の威厳を纏いながらも、その笑顔には、どこか少女らしい無邪気さも滲んでいた。
一部始終を見ていたリゼッタが、レオンの袖をそっと引いた。
「坊ちゃま……竜を、味方につけてしまわれたのですか」
「成り行きで、な」
「本当に、変わられましたね……」
呆れと、感心の入り混じったその呟きに、レオンは苦笑するしかなかった。
こうして、レオンの異世界での初めての「手術」は、思いがけない形で、心強い仲間を連れてくることになったのだった。
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