第一章 十五の外科医
よろしくお願いします
「ー坊ちゃま! レオン坊ちゃま、朝でございます!」
叩きつけるようなノックの音と、若い女性の声で、レオンは目を覚ました。
見慣れない天井。石造りの梁がむき出しになった、しかし妙に趣のある内装。分厚いカーテンの隙間から差し込む朝日が、埃を照らしている。
「……ここは」
声を出して、レオンは違和感に気づいた。高い。自分の声にしては、随分と高い。喉に手をやろうとして、その手のあまりの細さに、思考が止まった。
少年の手だ。
一気に、プロローグの記憶――いや、それは記憶ではなく、たった今体験したことのはずだった――が蘇る。事故。女神。転生。十五歳の身体。
「レオン坊ちゃま? 入りますよ」
返事をする前に、扉が開いた。入ってきたのは、黒髪を後ろでまとめた、十六歳ほどに見えるメイド服の少女だった。表情はほとんど動かない。だが、レオンの――否、蓮の医者としての観察眼は、その無表情の下にある感情の機微を、はっきりと読み取っていた。
(心配、してるな。目の下に薄い隈。昨夜、あまり眠れなかったか、誰かの看病をしていた可能性がある)
「昨日、湖に落ちてから丸一日目を覚まさなかったんですよ。旦那様も奥様も、心配で心配で……」
「湖に、落ちた……」
そうか。レオン=ヴァンディアという少年の身体は、湖で溺れて、そのまま意識を失っていたところに、たまたま魂の器として空いていたところに、蓮の魂が入り込んだ、ということなのだろう。転生というより、憑依に近い形だったのかもしれない。詳しい理屈はどうでもいい。今、目の前に、この身体で生きていくという現実がある。
「大丈夫だ。もう平気」
「本当に? まだ顔色が優れないように見えますが……」
メイドの少女は、ベッドの脇まで来ると、遠慮なくレオンの額に手を当てた。ひやりとした指先の感触に、レオンは思わず身体を硬直させる。
(近い……!)
三十歳の精神が、十五歳の少年の身体に入っているという事実を、これほど強く意識した瞬間はなかった。年頃の少女に至近距離で顔を覗き込まれるという状況に、身体の方が勝手に反応して、頬に血が上るのが分かる。
「熱はなさそうですね。よかった」
彼女はほっとしたように、それでいて相変わらず表情はあまり動かさずに、そう呟いた。
「あの……君の名前は」
「リゼッタです。旦那様に忠誠を誓う身として、坊ちゃまが物心つく前からお仕えしております。……まさか、頭を打って、私のことをお忘れになったのですか?」
わずかに眉根が寄る。今度ははっきりと、動揺の色が見えた。
(しまった。この身体の――レオンの記憶は、俺にはほとんど流れ込んでいない。断片的な感覚があるだけだ)
蓮の記憶は完全な形で保持されているが、レオンとしての人生の記憶は、女神の話では特に言及がなかった。恐らく、この少年本来の記憶は薄れているか、あるいは眠っているのだろう。危険な兆候だ、と装うのは簡単だが、リゼッタという少女を無用に心配させるのは本意ではない。
「いや、名前は覚えている。ただ、湖で溺れたときの記憶が曖昧で……色々と、頭がはっきりしない部分があるんだ」
半分は本当、半分は誤魔化しだった。リゼッタは少し考え込むように黙ったあと、静かに頷いた。
「無理もありません。医師を呼びますか」
「いや」
レオンは即座に首を振った。この世界の「医師」がどの程度のものか分からないが、今の自分の状態を診察されるのは避けたい。それに――
(俺自身が、医者だ)
その事実を思い出した瞬間、レオンの中で、何かがすとんと腑に落ちる感覚があった。混乱していた思考が、急速に医師としての思考回路に切り替わっていく。
まず、自分の状態を客観的に評価する。脈拍、呼吸、意識レベル。指先を軽く握って開いてみる。動く。痺れもない。目眩もなければ、視野の異常もない。溺水からの回復状態としては、良好と言っていいだろう。
「リゼッタ、少し聞きたいんだが」
「はい、なんなりと」
「この国、いや、この世界には……病人や怪我人を診るための場所――『病院』のようなものは、あるのか?」
質問の意図を測りかねたのか、リゼッタは僅かに首を傾げた。
「病院、ですか。……教会には、治癒魔法を使える聖職者様がいらっしゃいます。大きな怪我や病気は、そちらに運ばれるのが普通ですが」
「治癒魔法で、治せない怪我や病気に遭遇したことは?」
「……ございます」リゼッタの声が、少しだけ低くなった。「三年前、隣村で流行り病があった際、聖職者様の魔力が尽きてしまって、間に合わなかった方々が……。あと、坊ちゃまの従兄弟にあたる方が、狩りの最中に大怪我をされて、内臓が傷ついてしまったとかで……治癒魔法をかけても、出血が止まらず……」
言葉が途切れる。レオンは、その先を予測できた。
(内臓損傷か。治癒魔法が組織の表面的な修復には効いても、出血源の特定と結紮――血管を縛って止血する技術がなければ、腹の中で出血し続けて、失血死する)
前世で、何百例と診てきた症例だ。緊急開腹して、出血源を確認し、縫合か焼灼で止血する。基本中の基本の手技。だが、この世界にはその概念自体が存在しない。
「その従兄弟の方は」
「……お亡くなりになりました」
静かな声だった。それでいて、そこに滲む悲しみは、決して薄いものではなかった。
レオンは、ベッドの上で拳を握った。三十年間、外科医として生きてきた自分にとって、「治せたはずの命が、技術がないという理由だけで失われる」という事実ほど、腹立たしいものはない。
(この世界で、俺にできることがある)
前世の記憶を取り戻したばかりの朝に、こんな重い話を聞かされるとは思わなかった。だが、それは同時に、レオンにとって一つの決意を固めるきっかけにもなった。
「リゼッタ」
「はい」
「俺は、この屋敷に――いや、この街に、病院を作ろうと思う」
リゼッタは、目を丸くした。表情の変化が乏しい彼女にしては、珍しいほどはっきりとした驚きだった。
「病院、ですか。坊ちゃまが……?」
「治癒魔法だけじゃ救えない命がある。でも、俺なら、その隙間を埋められるかもしれない」
「坊ちゃまは、魔法を学ばれたことすら……いえ、そもそも、まだ十五歳でいらっしゃいます」
もっともな指摘だった。この身体は、貴族の三男として、剣術や礼儀作法は多少学んでいるかもしれないが、医学的な素養など皆無に等しいはずだ。傍から見れば、頭を打った少年が、突拍子もないことを言い出したようにしか見えないだろう。
だが、レオンには根拠があった。前世で積み上げてきた十年以上のキャリアと、女神から授かったという力――《解剖眼》。
「見せてやろうか」
レオンは、ベッドの上に座り直すと、リゼッタの手を取った。突然のことに、彼女は珍しく狼狽えたように身を引きかけたが、レオンはそれに構わず、彼女の手のひらをじっと見つめた。
(意識を集中させる……)
女神から授けられた力の使い方など、教わってはいない。だが、直感的に「視よう」とする意志を込めると、視界が変化する感覚があった。リゼッタの手の輪郭が、薄く透けて見える。骨格、血管の走行、そして――
「リゼッタ、右手首。少し痛むだろう」
「……え?」
「三日前くらいに、重い物を持って捻ったな。骨には異常ないが、靭帯が軽く伸びてる。腫れは引いてきてるが、まだ完全には治ってない」
リゼッタの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「な、なぜそれを……。誰にも、言っていないのに……。旦那様にも隠していたのに」
「視えるんだ、俺には。身体の中が」
レオンは静かに、しかしはっきりと告げた。
「これが、俺の力だ。この力と、俺の中にある知識を使えば、この国の――いや、この世界の医療を、変えられるかもしれない」
リゼッタは、しばらく言葉を失ったように、レオンの顔をまじまじと見つめていた。やがて、ぽつりと呟く。
「坊ちゃまは……本当に、湖に落ちる前の坊ちゃまと、同じ方なのですか?」
鋭い指摘だった。三十歳の中身が透けて見えているのかもしれない。レオンは一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑って誤魔化すことにした。
「湖の底で、何か大事なものを拾ってきたのかもな」
「……変わったお方になられたのですね」
そう言ったリゼッタの口元が、ほんの僅かに、しかし確かに緩んでいるのを、レオンは見逃さなかった。
(この表情の変化、悪くない)
医師としての観察眼が、思わぬところで発揮されていることに、レオン自身が一番戸惑っていた。
⸻
その日の午後、レオンは屋敷の主――つまり、この身体の父親であるヴァンディア辺境伯に呼び出された。
「レオン。目を覚ましたと聞いたが、体調はどうだ」
執務室に通されたレオンを迎えたのは、四十代半ばと見える、精悍な顔つきの男だった。鎧を思わせるがっしりとした体格に、深い皺の刻まれた眉間。辺境の地を治める貴族らしい、威圧感のある佇まいだ。
「はい、父上。おかげさまで、すっかり」
「そうか。……本当に、無事でよかった」
厳めしい顔が、一瞬だけくしゃりと歪んだ。厳格な貴族の仮面の下に、息子を心配する父親の顔が覗いた瞬間だった。レオンは、その一瞬を見逃さなかった。
(悪い人ではなさそうだ)
前世の記憶しかないレオンにとって、この世界の人間関係は、これから一から築き上げていくものだ。だが、少なくとも、この父親という存在は、味方につけられそうな気配がある。
「父上、一つお願いがございます」
「なんだ、改まって」
「屋敷の使われていない離れがあれば、お借りしたいのです。そこで、私は――怪我人や病人を診るための場所を、作りたいと思っています」
辺境伯の眉が、大きく跳ね上がった。
「病院、ということか。お前が?」
「はい」
「レオン、お前がなぜ突然そのようなことを……いや、それよりも、お前に医術の心得などあったか?」
もっともな疑問だった。レオンは少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。
「湖で溺れて、生死の境をさまよった際に……不思議な力を授かった気がするのです。人の身体の中を視る力です」
半信半疑の表情の父に向けて、レオンは先ほどリゼッタにしたように、実演することにした。
「父上、少し失礼します」
近づいて、父の腕に軽く触れる。《解剖眼》を発動すると、辺境伯の体内の様子が透けて見えた。
「父上、左肩の古傷……若い頃に折れたことがありますね。完全にはくっついておらず、骨が少しずれたまま固まっています。雨の前などに、疼くのでは?」
辺境伯の顔が、驚愕に固まった。
「なぜ、それを……。その傷のことは、お前の母にすら話していないぞ」
「視えるのです。身体の中が、まるで透けているかのように」
沈黙が執務室を満たした。辺境伯は、しばらくレオンの顔をじっと見つめたあと、深く息を吐いた。
「……お前は、本当に、あの湖で何かを持ち帰ってきたようだな」
「はい。そして、この力を、正しく使いたいのです。この国には、治せるはずの怪我や病気で、命を落としている人々がいる。それを、少しでも減らしたい」
辺境伯は、しばらく黙考していた。やがて、静かに頷く。
「東の離れを使うといい。使用人を数人つけよう。……だが、レオン、簡単な話ではないぞ。お前がやろうとしていることは、教会の権威――治癒魔法の価値そのものに、一石を投じることになりかねない」
「承知しております」
「それでも、やるか」
レオンは、迷わず頷いた。
「治せる命を、治すだけです。誰かの権威を脅かすためではなく」
その言葉に、辺境伯は、初めて息子に対して見せるような、どこか眩しいものを見るような目をした。
「よかろう。……レオン、お前は今日から、変わったな」
「はい。生まれ変わったつもりで、頑張ります」
その言葉に込めた意味を、目の前の父親が知る由もない。だが、レオン――否、三条寺蓮は、確かにこの瞬間、新しい人生の一歩を踏み出したのだった。
よろしくお願いします




