プロローグ 最後の手術と、最初の光
よろしくお願いします
「――時刻、午後十一時四十二分。死亡確認」
自分の声だったかもしれない。いや、あれは同僚の声だ。天宮総合病院、外科の三条寺蓮、三十歳。夜勤明けの帰り道、信号無視のトラックに撥ねられて、自分自身が患者になった。
皮肉なものだ、と蓮は思う。十年間、他人の腹を開き、血を止め、命をつなぎ止めてきた手が、自分の身体には届かない。運ばれた先が自分の勤める病院で、駆けつけた後輩医師が泣きながら胸骨圧迫を続けているのが、妙に他人事のように見えていた。
痛みはなかった。ただ、視界が白くぼやけていくのと同時に、意識だけがすっと浮き上がって、天井のあたりから自分の身体を見下ろしている感覚があった。
(ああ、これが臨死体験ってやつか。学会で聞いたことはあったが……)
そんな冷静な感想を最後に、蓮の意識は完全に途切れた。
*
気がつくと、そこは何もない場所だった。
上も下も、壁も床もない。ただ乳白色の光だけが満ちていて、蓮は自分の身体が――手術着のままの、生前の姿のまま――そこに浮かんでいることに気づいた。
「三条寺蓮。三十年間、お疲れ様でした」
声は、どこからともなく響いた。若い女性の声のようでもあり、老婆の声のようでもある、奇妙な声だった。振り返ると、光そのものが人の形を取ったような、輪郭の淡い女性が立っていた。
「あなたは……」
「わたくしはアストレア。あなたが今からご縁を持つことになる世界の、管理を任されている者です」
管理を任されている者。要するに、女神とか、そういう類のものなのだろう。蓮は自分でも驚くほど落ち着いていた。医者という仕事柄、死というものと向き合いすぎたせいかもしれない。
「率直に聞きます。俺は、死んだんですね」
「ええ。あなたの肉体は助かりませんでした。搬送先の医師団は最善を尽くしましたが……ちなみに、あなたが最後に担当した患者さんは、無事に退院されましたよ」
その一言で、蓮の中に張り詰めていた何かが、少しだけ緩んだ。
「そうですか。それは、よかった」
「あなたに一つ、提案があります」
アストレアと名乗った女神は、蓮の周りをゆっくりと歩きながら続けた。
「あなたの魂は、本来ならばこのまま輪廻の環に還るべきものです。けれど、わたくしが管理するもう一つの世界――医の術が未熟なまま、多くの命が『治せるはずなのに、治す方法を知らない』という理由だけで失われ続けている世界があります。そこに、あなたの魂と知識を、託したい」
「託す、というのは」
「転生です。今のあなたの記憶と技術、そして経験を保持したまま、その世界の住人として、新しい生を生きていただきたいのです」
蓮は少し考えた。医者としての性なのか、断る理由よりも先に、条件を確認したくなる。
「新しい生というのは、どんな環境になるんですか。俺の技術が活きる場所なんですか」
「その世界には、『治癒魔法』という力があります。傷を癒し、病を退ける力です。けれど、それは万能ではありません。魔力には限りがあり、複雑な内臓の損傷、感染症の進行、原因不明の毒――そういったものの多くは、いまだに『神の御業を待つしかない』と諦められています」
「つまり、外科的なアプローチという概念自体が、存在しない」
「その通りです。あなたなら、お分かりでしょう。止血の技術一つ、清潔操作の概念一つで、救える命がどれほどあるか」
蓮の脳裏に、研修医時代に何度も繰り返した基本手技が浮かぶ。ガーゼの当て方。縫合の糸の締め方。感染を防ぐための、当たり前すぎて誰も意識しないような手順の数々。それがまだ存在しない世界があるというのなら。
「一つだけ、力を授けます。あなたの新しい生を、少しだけ助けるための異能を」
女神が指先を蓮の額に触れさせると、温かい光が染み込んでくる感覚があった。
「《解剖眼》。対象の体内の状態――出血、骨折、臓器の損傷、毒の巡り――を、視るだけで把握できる力です。あなたの持つ知識と組み合わされば、この世界の誰も持ち得ない診断能力になるでしょう」
「……随分と、便利な力をくれるんですね」
「代わりに、と言ってはなんですが」蓮の言葉に、女神は初めて少し困ったように笑ったような気配を見せた。「あなたの魂は、その世界の十五歳の少年の身体に宿ることになります。前世の記憶は完全な形で引き継がれますが、身体は十五歳。あなたの経験と、少年の身体との間に、多少のギャップが生じるかもしれません」
十五歳。三十路まで生きた自分の精神年齢と、十五の身体。想像するだけで、なんとも据わりの悪い話だった。だが――
「構いません」
蓮は即答した。
「治せる命があるなら、治したい。それが、俺の性分なので」
女神は満足そうに頷いたように見えた。
「良い返事です、三条寺蓮。いいえ、これからは――」
光が急速に強さを増していく。
「レオン=ヴァンディアとして、その世界で生きてください。あなたの手が、多くの人を救うことを願っています」
意識が、また白く塗りつぶされていった。
よろしくお願いします




