第6話 尾道に行こう②
三原駅を出た列車が、糸崎の方へ向かっていく。
窓の外を、低い建物と線路沿いの壁が流れていた。
村上結は、座席の真ん中でスマホを開いている。
「確認するよ」
向かいに座った宮本澪が、窓の外から顔を戻した。
「何を」
「今日の予定」
結は画面を指で送った。
「尾道着いたら、まず海鮮丼。それからモナカ。商店街通って、千光寺で桜」
隣に座った木梨陽もスマホを見ていた。
地図の上に、駅から山の方へ細い線が伸びている。
「帰りの電車は?」
「まだ見てない」
「見とけ」
「行きの電車には乗れたじゃん」
「帰れんかったら意味ないじゃろ」
「尾道なら歩いて帰れる?」
「無理じゃ」
陽が地図を拡大した。
「四時間」
「歩けるん?」
「歩きたくない」
「じゃろ」
結は検索画面を開いた。
「帰りは夕方。桜見終わってから考える」
「考えてないのと同じじゃ」
「予定を詰めすぎると楽しくないんよ」
「海鮮丼とモナカと千光寺は詰めとるじゃろ」
「食べ物は予定に入れんと忘れるじゃん」
陽の指が止まった。
「忘れん」
「陽はね」
列車が速度を上げた。
窓の向こうに、海が出た。
島と島の間に、春の光が細く落ちている。
結が、遠くの島を指した。
「魔王が住むとしたら、やっぱりあの島がよくないですか?」
澪も窓の外へ顔を向ける。
「なんで魔王の住む場所を決めよるん」
「山あるし、海に囲まれとるし。攻めにくそうじゃん」
「港が小さい」
「そこ見るん?」
「物資が入らんじゃろ」
陽がスマホから顔を上げた。
「通販」
「魔王も通販使うん?」
「使う」
「島まで届くんか」
陽の視線が、窓の向こうの島とスマホの画面を往復した。
「配下が受け取る」
「結局、人がおるじゃん」
車内放送が、次の駅名を告げた。
「尾道」
陽がスマホを閉じた。
尾道駅の改札を出ると、すぐ海だった。
駅前の道路。
その向こうに尾道水道。
対岸の家が、海を挟んですぐ近くに並んでいる。
フェリーが、水面に白い跡を残していた。
「相変わらず近いね」
結の足が止まる。
「何が」
「海」
「三原も近いじゃろ」
「尾道は改札出たら海じゃん」
「三原も歩けばすぐじゃ」
「歩かんといけんじゃん」
澪は駅前を左へ曲がった。
「まず飯じゃろ」
「待って。店、まだ決めてない」
「さっき予定に入れとったじゃろ」
「海鮮丼までは決めた。店は今から」
結が検索画面を開く。
「近い順? 評価順? 写真で決める?」
澪はもう歩いていた。
「澪さん」
返事がない。
「澪さん、どこ行くん」
一軒の店の前で、澪の足が止まった。
入口に、海鮮丼の写真が出ている。
その下に、本日の魚、と書かれた小さな板があった。
澪は暖簾をくぐった。
「入った!」
結が追う。
「まだ調べてないんじゃけど」
「海鮮丼あるぞ」
「もっと評判いい店あるかもしれんじゃん」
「腹が減っとる」
「決めるの早いよ」
陽も店へ入った。
「陽まで」
「海鮮丼」
「予定に従っとるだけなん?」
店内には、四人掛けのテーブルが三つあった。
壁に魚の名前が並んでいる。
三人は窓際へ座った。
注文してからも、結の指は画面を送っていた。
「ここ、評価高い」
「ならええじゃろ」
「でも、もう一軒気になる店がある」
「次行けばええ」
「海鮮丼二杯食べるん?」
「お前なら食べるじゃろ」
「食べんよ」
陽が水の入ったコップを持った。
「モナカある」
「それも食べるけん、今日は一杯でいい」
澪は窓の外へ顔を向けた。
「予定、詰めとるじゃろ」
「全部お腹に入る予定なんよ」
「坂も上るぞ」
「食べた分は消える」
「便利な計算じゃな」
海鮮丼が運ばれてきた。
白い器に、魚の切り身が重なっている。
中央に卵黄。
端に細く切った海苔。
陽は箸を持つと、すぐに食べ始めた。
結はスマホを置いた。
「三原でも食べられそうじゃない?」
澪の箸が止まる。
「食べたことあるんか」
「ない」
「じゃあ黙って食べんさい」
「港あるのに、なんで聞かんのじゃろ」
「店を探してないけんじゃろ」
「尾道の方が海鮮丼の顔しとるじゃん」
「どんな顔じゃ」
「観光地の顔」
澪は刺身を一切れ食べた。
「三原も観光地じゃ」
「花が聞いたら喜びそう」
陽が顔を上げた。
「海鮮丼、おいしい」
「陽、今まで一言も喋らんかったね」
「食べとった」
陽はまた箸を動かした。
澪も黙って食べる。
結は二人を見てから、器へ顔を戻した。
「うまい」
「黙って食べんさい」
「今、感想じゃん」
「冷めるぞ」
「海鮮丼って冷たいじゃろ」
澪の目が結へ向いた。
「ご飯が」
「ああ」
結も食べ始めた。
店を出ると、三人の足取りが重くなった。
「食べすぎた」
結が鞄の紐を握った。
「一杯じゃろ」
「刺身、思ったより多かった」
「ええ店じゃったな」
「澪さん、調べてないのに当てたね」
「海鮮丼の写真が出とった」
「それだけ?」
「それだけ」
「行動が雑なのに成功しとる」
「腹が減っとるときに迷う方が悪い」
商店街のアーケードが見えてきた。
通りの両側に、古い店と新しい店が並んでいる。
軒先に商品を出した店。
細い階段のある店。
シャッターに絵が描かれた店。
陽の足が止まった。
結は三歩進んでから振り返る。
「陽?」
陽は、店先の木箱を見ていた。
箱の上に、猫が一匹座っている。
白い前足を揃え、目を細めていた。
「猫おった」
陽が猫の前へしゃがんだ。
猫は動かない。
陽も動かない。
結は二人の横に立った。
「触るん?」
陽が手を出す。
猫の鼻が、指先へ近づいた。
一度匂いを嗅ぎ、顔を引く。
陽の手はそのままだった。
猫が、もう一度近づく。
今度は指先へ額を押しつけた。
「好かれとる」
澪が後ろから覗いた。
陽は猫の頭を一度撫でた。
「たぶん」
「自分のことなのに、たぶんなんじゃ」
猫は箱から下りた。
陽の膝の横へ座る。
「陽、行くよ」
陽は猫を見ている。
「モナカ」
結の一言で、陽の顔が上がった。
立ち上がる。
「モナカ」
「猫より強いんじゃ」
三人が歩き出す。
猫はついてこなかった。
陽が一度だけ振り返る。
猫は箱へ戻っていた。
「聞き分けええね」
「何も伝えとらんじゃろ」
「陽の顔で分かったんよ」
「何が」
「モナカ行くって」
澪は前を向いたままだった。
「猫に予定は分からん」
「陽なら通じそうじゃん」
「たぶん」
「陽まで乗らんでや」
商店街の途中で、陽がまた止まった。
「今度は何」
結が辺りを見る。
猫はいない。
陽の指が、一軒の店へ向いた。
「あった」
ガラス越しに、丸いモナカの皮が並んでいる。
店先の小さな札に、注文を受けてから餡を挟みます、と書かれていた。
陽はもう入口へ向かっている。
「ずっと探しとったん?」
頷く。
「猫見ながら?」
また頷く。
「両方見えるんじゃね」
店へ入る。
棚には箱入りの菓子が並び、奥にモナカの皮が積まれていた。
陽がスマホの画面を店員へ見せる。
「これ」
「粒餡とこし餡がありますよ」
陽の指が止まった。
「両方」
「一つずつ?」
「はい」
結が隣へ入る。
「うちも両方」
「二個食べるん?」
「半分ずつにする」
「誰と」
「澪さん」
澪が店の中へ入った。
「勝手に決めるな」
「粒とこし、両方食べたいじゃろ」
「一個でええ」
「じゃあ陽と半分」
陽はもう自分の二つを受け取っていた。
「食べる」
「一人で二個?」
頷く。
「じゃあ、うちも二個」
「お前も食べるんか」
「ここまで来たんじゃけ」
澪は粒餡を一つ頼んだ。
モナカの皮に餡が挟まれる。
薄い皮が重なる音がした。
店の端にある長椅子へ、三人で座った。
陽が一つ目を割る。
皮の破れる音が、思ったより大きかった。
結が顔を向ける。
「音からうまい」
自分のモナカを一口食べる。
皮が崩れた。
欠片が膝へ落ちる。
「うまい」
陽も食べている。
何も返さない。
結が横から覗き込む。
「どう?」
陽がもう一口食べる。
「うまい」
「陽が二回喋った」
「二個あるけん」
「一個につき一言なん?」
澪もモナカを食べた。
皮の欠片を、手のひらで受ける。
「花が来とったら、もっと騒いどったな」
「たぶん、うちらより先に二個食べるよ」
「三個じゃない?」
陽が二つ目の包みを開けた。
結の顔がそちらへ向く。
「もう二個目?」
「うん」
「まだ坂あるよ」
「食べる」
「陽、今日は迷いがないね」
「モナカじゃけ」
「基準そこなん」
陽は二つ目も食べ終えた。
紙を小さく畳む。
そのまま店員へ顔を向けた。
「持ち帰り、五つ」
結の手が止まる。
「五個?」
「はい」
「誰が食べるん」
陽は答えなかった。
店員が、皮と餡を別々の包みにしていく。
小さな紙袋が五つ、箱へ入った。
結はその箱を見る。
「全部、一人で食べるん?」
「違う」
「じゃあ誰の」
陽は箱を鞄へ入れた。
「後で」
「今教えてや」
「坂」
「話を変えた」
澪が立ち上がる。
「行くぞ」
「澪さんまで流さんでや」
「予定、詰まっとるんじゃろ」
結も立った。
膝からモナカの皮が落ちる。
陽の指が、床へ向いた。
「落ちた」
「分かっとる」
結は欠片を拾い、紙へ包んだ。
ロープウェイ乗り場の前で、三人は立ち止まった。
山の斜面を、小さな車両が上っている。
乗り場の前には人が並んでいた。
「これ乗ろう」
結が列の最後を指した。
陽は山の方を見上げる。
スマホの地図には、細い道がいくつも表示されている。
「歩く」
「乗る」
「歩く」
「海鮮丼とモナカ食べたんよ」
「じゃけ歩くんじゃろ」
澪も山の方へ顔を向けた。
「澪さんまで?」
「歩いた方が桜見える」
「ロープウェイからも見えるよ」
「止まれんじゃろ」
「止まらんでええんよ。上に着けば」
陽はもう坂道の方へ向いていた。
澪も歩き出す。
「二対一じゃ」
「多数決、いつしたん」
「今」
「うちの意見、数に入れただけじゃん」
結も後を追った。
「帰りは乗るけんね」
「空いとったらな」
「空いとるよ。帰りじゃけ」
「みんな帰るじゃろ」
「桜見たら、すぐ帰る人ばっかりじゃないよ」
「お前も帰らん側じゃろ」
「モナカ買ったけん、目的は終わった」
「千光寺は」
「今から」
最初の坂では、結はまだ喋っていた。
「ここ、家の間に道あるんじゃね」
「坂の町じゃけ」
「澪さん、尾道の人みたいに言うじゃん」
「来たことあるけん」
「試合でじゃろ」
「中学のときも来た」
「何したん」
「歩いた」
「今日と同じじゃん」
「モナカは食べてない」
陽が前を歩いている。
鞄の中の箱が傾かないよう、片手で押さえていた。
二つ目の坂に入るころ、結の返事が短くなった。
「まだ?」
「まだじゃ」
「どれくらい」
「分からん」
「陽、地図」
陽がスマホを見る。
「上」
「それは分かる」
細い階段が続いている。
石の端が丸くなり、ところどころに苔がついていた。
澪の歩く速さは変わらない。
陽も止まらない。
結だけが、三段ごとに息を吐くようになった。
「坂、嫌い」
「練習より楽じゃろ」
「今日くらいは楽したい」
「遊びじゃけ楽じゃろ」
「遊びで坂上る方が意味分からん」
陽の足が止まった。
結も止まる。
「何。休憩?」
陽は石段の横を見ていた。
塀の上に、茶色い猫が座っている。
「また猫じゃん」
陽が一段下りる。
「戻らんで!」
猫は尻尾だけを動かした。
陽が手を伸ばす。
届かない。
猫は塀の上を二歩歩いた。
陽も横へ動く。
「道から外れよるよ」
「陽」
澪が足を止めた。
陽は猫を見たまま答える。
「はい」
「置いてくぞ」
陽が猫を見る。
猫も陽を見る。
陽は階段へ戻った。
「聞き分けええね」
「陽が?」
「猫」
「陽もじゃろ」
澪はまた上り始めた。
結がその後ろへ続く。
「澪さん、全然疲れんね」
「疲れとる」
「速さ変わらんじゃん」
「変えたら余計疲れる」
「うち、もう変わっとるよ」
「見れば分かる」
陽が結の横へ来た。
「鞄、持ってや」
「モナカある」
「自分の荷物守りたいだけじゃん」
陽はそのまま先へ出た。
石段の途中で、結の足が止まった。
今度は猫ではなかった。
家と家の間から、海が見えた。
尾道水道。
向島。
その間を、小さな船が横切っている。
屋根の向こうに、春の光が広がっていた。
「あ、きれい」
澪も止まった。
陽は一段上から海を見る。
結がスマホを出した。
一枚撮る。
画面の中には、海と屋根と、澪と陽の後ろ姿が入っていた。
澪が振り返る。
「今、撮ったじゃろ」
「景色」
「うちも入っとった」
「たまたま」
「消せ」
「景色が消えるじゃん」
「切ればええ」
「澪さんだけ?」
「陽もじゃ」
陽が画面を覗く。
「猫、おらん」
「猫の写真じゃないよ」
結はスマホを鞄へ入れた。
「行こう。まだ上なんじゃろ」
「急に元気になったな」
「止まったら余計きついけん」
澪が先に進む。
今度は結がすぐ後ろへ続いた。
千光寺の近くまで来ると、人が増えた。
桜は、全部が開いているわけではなかった。
枝の先に薄い色が集まり、その間にまだ丸い蕾が残っている。
風が通るたび、開いた花が揺れた。
「着いた」
結が石段の端へ寄る。
「もう上らん?」
「展望台まである」
「まだあるん」
澪は先を見た。
「もうちょいじゃ」
「その言葉、今日三回聞いた」
陽は桜を見ていた。
枝ではなく、落ちてくる花びらの方へ顔が動いている。
一枚が石段へ落ちる。
風で浮く。
端へ寄る。
次の一枚が、その横へ落ちた。
陽が二歩動いた。
「何見とるん」
「流れ」
「花びら?」
「うん」
花びらが、石段の隅へ集まる。
風が変わる。
二枚だけが、別の方向へ滑った。
陽もそちらへ顔を向ける。
「陽、海じゃないよ」
「動いとる」
「それは分かるけど」
陽は手を出した。
落ちてきた一枚が、指先を外れた。
もう一枚は手のひらへ落ちた。
陽が手を閉じる。
結が覗く。
「取れた?」
陽は手を開いた。
花びらはなかった。
「落ちた」
「流れ読めてないじゃん」
陽が足元を見る。
「難しい」
澪が先へ歩く。
「置いてくぞ」
「また?」
「今度は桜か」
「たぶん」
三人はまた石段を上った。
展望台から、海が見えた。
さっきより高い。
尾道水道の向こうに、島と橋と家並みが重なっている。
船の跡は細く、途中で光に紛れていた。
結は手すりへ両手を置いた。
「ここまで上ったんじゃね」
「見れば分かる」
「澪さん、今日それ多いよ」
「お前が分かることばっかり口にするけんじゃ」
陽は海ではなく、手すりの下を見ていた。
風で花びらが舞い上がり、壁へ当たって落ちていく。
結が海の向こうを指した。
「三原、見える?」
澪は指の先を追った。
「見えん」
「どっち?」
澪の腕が右へ動く。
「たぶん、あの辺」
「ほんま?」
「方角はな」
「建物は?」
「見えん」
「三原城は?」
「見えん」
「祭りは?」
「やってない」
「花なら見えるって言いそう」
陽が二人の間から海を見る。
「モナカは?」
「ない」
「じゃあ尾道の勝ち?」
澪が結を見る。
「何の勝負なん」
「花が来たら始まるやつ」
「本人おらんのに始めるな」
結は手すりから離れた。
少し離れた場所に立つ澪と陽へスマホを向ける。
もう一枚撮る。
澪がすぐ振り返った。
「また撮ったな」
「今度は桜」
「うちも入っとる」
「たまたま」
「二回目じゃろ」
陽が結の隣へ来る。
「見せて」
「陽は消せって言わんの?」
画面を見せる。
桜の枝。
海。
その下に立つ二人。
陽は画面を指した。
「花びら、映ってない」
「そこ?」
陽はスマホを返した。
「次」
「撮り直すん?」
陽は桜の下へ戻った。
結がもう一度スマホを構える。
風が来る。
花びらは落ちなかった。
三人で待った。
「来んね」
「待つと来ん」
陽の視線は、枝に残っていた。
澪が歩き出す。
「帰るぞ」
「もう?」
「ロープウェイ並ぶんじゃろ」
結が顔を上げた。
「そうじゃん」
陽は桜を見ていた。
「次、来る」
「花びら?」
「うん」
「次来たとき撮ればええよ」
陽は枝を見上げたまま、二人分の距離が開くまで動かなかった。
それから後を追った。
ロープウェイ乗り場の前には、列ができていた。
建物の中から外へ伸び、階段の下まで続いている。
結は列の最後を見た。
先頭を見る。
もう一度、最後を見る。
「これ、どれくらい?」
「分からん」
「三十分?」
「もっとかもしれん」
「でも歩いて下りるのも三十分くらいじゃろ」
「歩くぞ」
「また歩くん!?」
「上った道を下りるだけじゃ」
「上ったけん下りたくないんよ」
「泊まるんか」
「ロープウェイ乗る」
「待つぞ」
「待つ」
列が動かない。
陽は鞄の中を確認した。
「陽、何見とるん」
「モナカ」
「潰れてない?」
陽が箱を持ち上げる。
「大丈夫」
「五個も持って坂下りるん?」
「うん」
「ロープウェイなら揺れんよ」
「歩く」
「モナカ基準でも歩くん?」
陽は箱を鞄へ戻した。
「早く帰れる」
「さっき桜待っとったじゃん」
「今はモナカある」
「陽の優先順位、分かりやすいね」
澪は列から離れた。
「行くぞ」
結は列を見たまま動かなかった。
「ほんまに?」
「帰りの電車、まだ見てないんじゃろ」
結の顔が変わった。
スマホを出す。
時刻表を開く。
「一時間後」
「歩けば間に合う」
「ロープウェイは?」
「待っとったら分からん」
結は列から離れた。
「歩く」
「決めるの早いな」
「帰れん方が困るじゃろ」
「行きと同じこと口にしよる」
三人は来た道へ戻った。
下りでは、結が一番先を歩いた。
「速すぎるぞ」
「電車あるけん」
「転ぶなよ」
「坂嫌いじゃけ、早く終わらせたい」
澪の速さは、上りと変わらなかった。
「澪さん、下りも同じなん?」
「変えたら危ないじゃろ」
「急いどるんよ」
「駅まで着けば間に合う」
「ほんま?」
「たぶん」
「たぶんなんじゃ!」
結が足を速める。
「走る?」
「坂で走るな」
「じゃあ早歩き」
「それくらいにしとけ」
陽は鞄を押さえたままついてくる。
モナカの箱だけは揺らさなかった。
商店街まで戻ると、さっきの猫がまだいた。
木箱の上で、丸くなっている。
陽の足が止まる。
結も止まった。
「時間」
陽は猫を見る。
猫は目を開けた。
陽が一歩近づく。
「帰る」
猫の耳が動いた。
陽はそれだけ残して、歩き出した。
猫はついてこなかった。
結が追いつく。
「聞こえたん?」
「たぶん」
「何が?」
「帰るって」
「猫、最初から帰る気ないよ」
陽が一度だけ振り返る。
猫は木箱の上に座っていた。
陽は前へ向き直った。
三人が尾道駅へ着くと、列車の発車まで十分あった。
結は改札の中で時計を見た。
「余裕じゃん」
「十分じゃろ」
「走らんでも間に合ったね」
「走っとらん」
「気持ちは走っとった」
陽がホームのベンチへ座った。
鞄を膝へ乗せ、箱を確かめる。
「無事?」
結が横から覗く。
「うん」
「モナカの話ね」
「うん」
「陽も無事?」
陽は自分の膝を見る。
「うん」
「確認する順番、逆じゃろ」
澪がベンチの端へ座った。
「本人がモナカから確認しとるけん」
列車がホームへ入ってきた。
三人は乗り込んだ。
帰りの車内では、陽が窓側に座った。
結がその隣。
澪は向かいに座っている。
列車が尾道駅を離れる。
海が窓の横へついてきた。
陽は鞄から、モナカの箱を出した。
「まだ食べるん?」
陽が一つ渡す。
「うちに?」
頷く。
もう一つを澪へ渡す。
陽は自分の分を一つ取る。
持ち帰り用の包みは、皮と餡に分かれていた。
結が開く。
「自分で挟むんじゃ」
餡を全部、皮へ乗せる。
「これ、閉まらん」
「入れすぎじゃ」
「全部入れたいじゃん」
「はみ出るぞ」
結が皮を重ねる。
横から餡が出た。
「出た」
「言うたじゃろ」
陽は自分の分をきれいに挟んでいる。
「なんで上手いん」
「見た」
「店の人を?」
頷く。
「ずっとモナカ見とったんじゃね」
「うん」
澪も包みを開いた。
餡を半分だけ皮へ乗せる。
「少なくない?」
「閉まる量じゃ」
「残りどうするん」
「あとで足す」
「慎重じゃね」
「お前が雑なんじゃ」
三人でモナカを食べた。
皮が、車内で小さく鳴る。
結が窓の外を見る。
「さっきも食べたのに、またうまい」
「作ってすぐの方がうまかった」
「今それ出す?」
「今も、まあうまい」
「褒め方が澪さん」
陽は黙って食べている。
箱の中には、二つ残っていた。
結が指差す。
「それ、誰の?」
陽が一つに触れる。
「花」
もう一つ。
「凪」
「最初から決めとったん?」
「うん」
「じゃけ五個じゃったんじゃ」
陽は箱を閉じた。
澪が包み紙を畳む。
「次は本人も連れてこいよ」
「澪さんも来るじゃろ?」
「予定が合えばな」
「合わせてや」
「花に頼め」
「花、来るかな」
「来る」
陽は箱を鞄へ入れた。
「なんで分かるん」
「モナカの写真、見とったけん」
「凪は?」
「たぶん」
「今度はたぶんなんじゃ」
陽は窓の外へ顔を向けた。
海の向こうで、重なっていた島影が離れていく。
列車が糸崎を過ぎた。
線路の向こうに、見慣れた港が出てくる。
倉庫。
岸壁。
遠くの島影。
車内放送が流れた。
「次は、三原」
陽がモナカの箱を、鞄の奥へ入れ直した。




