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潮球部ですが、今日は海に入りません  作者: カミツキ


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第5話 ようこそ、三原市へ

「鬼の豆ください」


 声が、商店街の向こうから聞こえた。


 店先に並んだ赤い旗が冷たい風に揺れ、小さな紙袋を持った子どもたちが数人ずつ店を回っている。今度は乾物屋の前で声が重なり、店の人から小袋を受け取ると、そのまま次の店へ走っていった。


 石塚凪いしづか なぎの足が止まった。


「あれ、何してるんですか」


 隣を歩いていた宮本澪みやもと みおが、遠ざかる子どもたちへ顔を向ける。


「節分」


「それは分かります」


「店を回って、お菓子もらうんよ」


 紙袋の中で、色の違う包みがいくつか揺れていた。


「うちの辺りでは、やってませんでした」


「うちも、この辺に来て知った」


「澪さんも?」


「住んどる場所が違えば、やっとることも違うじゃろ」


 澪はまた歩き始めた。凪も一拍遅れて続く。


 二人は、部室で使うマーカーを買い足すために商店街へ来ていた。澪の持つ文房具屋の紙袋には、黒と赤と青が二本ずつ入っている。


「買いすぎじゃないですか」


「なくなってから買う方が面倒じゃけ」


「赤は、まだ残ってましたよね」


ゆいが使う」


 それなら、残っていないのと同じだった。


 商店街の中央へ近づくにつれ、子どもの数が増えていく。菓子屋、洋服屋、酒屋。店の種類に関係なく声をかけ、閉じたシャッターの前だけは通り過ぎた。


 白く塗られたシャッターの端から、古い青色が覗いている。


「凪」


 澪の声で前を向くと、店先から一人が手を振っていた。


 潮田花うしおだ はなだった。


 制服の上から紺色の前掛けをつけ、片腕にはお菓子の箱を抱えている。もう一方の手には、ポケットから直接出した硬貨が並んでいた。


「十円足りん」


 長机の向こうにいた女性が、紙コップから十円玉を一枚取る。


「あとで返しんさい」


「返す返す」


 花は十円玉を前掛けのポケットへ入れた。


「何しとるん」


 澪が足を止める。


「見たら分かるじゃろ。手伝い」


「金を借りとるところしか見えんかった」


「テープ買いに行ったら足りんかったんよ」


 花の目が、澪の紙袋へ移る。


「マーカー?」


「部室の」


「赤、うち用に一本置いといて」


「結に取られるぞ」


「名前書くけん」


「部のじゃ」


 花はお菓子の箱を長机へ置くと、凪と澪を交互に見た。


「二人、暇?」


「今から帰るところじゃ」


「帰ったあと何するん」


 澪の返事が止まる。


 花は凪へ向いた。


「凪は?」


「特には」


「じゃあ手伝って」


 返事を待たず、花は店の奥へ入っていった。


「どうしますか」


「もう人数に入れられとる」


 店の奥から、段ボールを引きずる音がした。花が押してきた箱の蓋から、赤い角が飛び出している。


「鬼」


 中には、赤と青の着ぐるみが入っていた。


 丸い頭に、大きな角。牙の並んだ口。赤い胴体には虎柄の布が縫いつけられ、青い鬼の片方の角は少し曲がっている。


「これを、どうするんですか」


「着る」


「誰が」


 澪が赤い鬼の頭を持ち上げた。


「うちじゃろ」


「着るんですか」


「鬼がおった方が、子どもが喜ぶんじゃろ」


 花が大きく頷く。


「話が早い」


 澪は文房具屋の紙袋を長机の下へ置き、赤い胴体へ足を通し始めた。迷いがない。


 花が青い鬼を凪へ差し出す。


「はい」


「私も?」


「澪さんが着とるじゃん」


「澪さんは、そういうことをする人だから」


 赤い胴体の首元から、澪の顔が出た。


「どういう意味じゃ」


「必要なら、先にやる人です」


「分かっとるなら着んさい」


 花がもう一度押し出してくる。凪は一拍置いて、青い鬼を受け取った。


 着ぐるみの内側には、古い布と埃の匂いが残っていた。胴体へ足を入れると袖が長く、手を伸ばしても指先が外へ出ない。


「これ、大きい」


「鬼じゃけ」


「理由になってない」


 花が青い頭を持ち上げる。


「かぶるよ」


「待って」


 頭が上から落ち、視界が二つの穴だけになった。正面に花の顔があり、その横では赤い鬼が長机を動かしている。


「こっちの方が列を作りやすい。花、お菓子は左へ置け。子どもが自分で取らんように、机から離しとけ」


「鬼が仕切り始めた」


「お前が何も決めとらんけんじゃ」


 澪は赤い頭をかぶっても動きを止めなかった。袋を並べ、通路を空け、風を受けていた看板を壁際へ移す。


「澪さん、鬼になっても澪さんじゃね」


「現場で考える方が強いんよ」と花が続ける。


「行き当たりばったりを言い換えるな」


 商店街の向こうから、子どもが三人やってきた。先頭の男の子が赤い鬼に気づくと、後ろの二人も一緒に足を止める。


「鬼」


 赤い鬼が片手を上げた。


「一人ずつ来んさい」


 誰も動かない。


 花がお菓子の小袋を三つ取り出した。


「鬼の豆ください、は?」


 男の子は赤い鬼を見上げたまま、口を開いた。


「鬼の、豆ください」


「はい」


 花から受け取った袋をその場で開け、中から豆を一粒つまむ。


 赤い鬼の胸へ投げた。


 豆が澪の胸に当たり、床へ落ちる。男の子が笑うと、後ろの二人も袋を開け、「鬼は外」と赤い胴体へ投げ始めた。


 澪は避けなかった。両手を腰へ当てたまま立っている。


 一粒だけ、青い鬼の袖へ入った。


「青い方にも投げてええ?」


 女の子が聞く。


「ええよ」


「こっち弱そう」


 凪は青い頭の中で目を閉じた。豆が肩と腕へ当たり、曲がった角にも一粒ぶつかる。


 赤い鬼が半歩前へ出た。


「顔は狙うな」


「澪さん、鬼のまま注意せんでや」


 子どもたちは笑いながら豆を投げ終え、次の店へ走っていった。青い鬼の足元に、豆が散らばっている。


 凪が頭を外そうとすると、花に止められた。


「まだ。次、来よる」


 今度は、小さな子どもが母親と手を繋いで歩いてきた。赤と青の鬼を見つけた途端、母親の後ろへ隠れる。


「ほら、鬼さんおるよ」


 子どもは首を振った。


 花がお菓子の袋を見せる。


「お菓子だけもらう?」


 母親の後ろで、頭が小さく動いた。


 赤い鬼はその場へしゃがみ、手袋へ小袋を載せて前へ差し出した。膝の辺りで布が大きくたるんでも、澪は動かない。


 しばらくして、小さな手が伸びた。


「ありがとう、言える?」


「ありがとう」


 赤い鬼が頷く。


 子どもの目が、青い鬼へ向いた。


 凪も同じ高さまでしゃがもうとした。余っていた足の布を踏み、体が前へ傾く。


 赤い手袋が、すぐに青い肩を掴んだ。


「危ない」


「前が見えないです」


「先に言え」


「言う前に倒れました」


 子どもが笑った。母親も口元へ手を当て、花は長机へ両手をついている。


「青鬼、人気出たじゃん」


「転びかけただけだから」


「体張っとる」


「張ってない」


 子どもは袋から豆を一粒取り、青い鬼の胸へ投げた。


「鬼は外」


 小さな声だった。


 凪は返事に迷った。


「はい」


「鬼が返事した」


 花の笑い声が、店先へ響いた。


 * * *


 子どもの波が途切れると、花は箒を持ち出した。豆を一か所へ掃き寄せる横で、凪は青い頭を外す。


 冷たい空気が顔へ当たり、静電気で髪が頬に張りついた。


「暑い」


「二月よ」


「中は暑い」


 澪は赤い頭をかぶったまま、長机の小袋を数えていた。


「残り二十三」


「脱いでから数えたら?」


「見えとる」


「その状態で数えられるん?」


「数えられる」


 花は箒を壁へ立てかけた。


「赤鬼、仕事できすぎじゃろ」


 澪が頭を外す。髪が片側だけ潰れていた。


 花の口元が上がる。


「写真撮ってええ?」


「だめ」


「まだ撮ってないよ」


「今からもだめ」


 花はすでにスマホを出していた。澪が手を伸ばすと、箒を抱えたまま後ろへ下がる。


「保存用じゃけ!」


「何の」


「部の記録」


「消せ」


「まだ撮ってないって!」


 凪が青い胴体から腕を抜くと、長い袖の中から豆が二粒落ちた。一粒は床へ転がり、もう一粒は靴の中へ入る。


 足が止まった。


「どうしたん」


「靴に入った」


「福じゃね」


「歩くたび痛いやつです」


 花がしゃがみ込んで笑う。商店街には、まだ子どもの声が残っていた。


「鬼の豆ください」


 少し離れた店先で、また同じ言葉が重なる。


 凪は靴を脱ぎ、中から豆を取り出した。


「三原には、こんな行事もあるんですね」


「三原、ええとこじゃろ」


「花が始めた行事じゃないじゃろ」


 澪は着ぐるみを箱へ畳みながら、曲がった青い角を蓋の内側へ押し込んだ。


「うちも参加しとるけん」


「今日だけじゃ」


「今日はうちがおらんかったら、鬼おらんかったよ」


 花は凪を振り返った。


「来週は神明市もあるし」


「祭り、多いよね」


「年四回」


「それ、前も言ってた」


「三原の強みじゃけ」


「祭りの数で街の強さを決めるの、やめた方がいいよ」


 花は聞いていなかった。


「港もある。城もある。祭りもある。ラーメンもある」


「最後、店になってる」


「店も街の一部じゃろ」


 凪は青い鬼の頭を箱へ戻す。


「観光ツアーみたい」


 花の手が止まった。


 箱の上には、節分用の小さな旗が置かれている。赤い字で「鬼の豆あります」と書いてあった。


 花は旗を持ち上げた。


「本日は、わたくしウシオダルクが三原をご案内します」


「ウシオダルク?」


「旗持って先頭歩く人」


「ジャンヌ・ダルクなら知ってます」


「近いじゃろ」


「潮田とジャンヌは近くない」


「旗持っとる」


 澪が箱の蓋を閉じた。


「それ、店の旗じゃろ。先に返しんさい」


 花は旗を元へ戻し、観光パンフレットの棚から一枚取った。細長く丸め、旗の代わりに肩へ載せる。


「これならええじゃろ」


「読めんようになっとる」


「案内するけん、読まんでええ」


 澪は文房具屋の紙袋を持ち上げた。


「じゃあ、導いてもらうか」


「乗るんじゃ」


「帰ってもすることないけん」


「暇じゃん」


「今はな」


 * * *


 花は丸めたパンフレットを肩へ載せ、商店街の先へ向けた。


「ようこそ、三原市へ!」


「住んでるけど」


「観光客の気持ちで聞きんさい」


 最初に止まったのは、さっきまでお菓子を配っていた店の二軒隣だった。


「ここ、コロッケがおいしい」


「一か所目がコロッケなんですか」


「昼過ぎたら売り切れるけん」


 店先には、すでに「売り切れ」の札が出ている。


「もうないね」


「おいしいけん」


「食べられないものを案内されても」


「次来たとき買えばええ」


 花は止まらず歩いていく。


 向かいの店から、女性が顔を出した。


「花ちゃん、鬼終わったん?」


「終わったよ!」


「青い鬼の子、転びよったね」


 凪の足が止まる。


 花は迷わず凪を指した。


「この子」


「言わなくていい」


「似合っとったよ」


 女性は笑って店へ戻った。


「もう知られてるんだけど」


「商店街じゃけ」


「早くない?」


「青い鬼が転びかけたら覚えるじゃろ」


 澪も隣で頷く。


「目立っとった」


「澪さんも鬼でしたよね」


「うちは転んどらん」


 花は路地へ曲がった。商店街の声が少し遠くなり、建物の間から駅の高架と石垣が見える。


「次、城」


 凪は石垣から、その上へ続く駅を見た。


「駅ですよね」


「城でもある」


「どっちですか」


「両方」


 澪が石垣へ顔を向ける。


「城跡の上に駅がある」


「駅が城に入ったんじゃ」


「花、それは雑すぎる」


「近いじゃろ」


「近くない」


 花は気にせず石垣の横を歩いた。


「昔はもっと広かったらしいよ」


「どれくらいなの」


「いっぱい」


「単位が曖昧」


「観光客は細かいね」


「住民です」


 階段の上を電車が通った。車輪の音が石垣へ当たり、少し遅れて戻ってくる。


 花は階段を見上げた。


「ここ、練習にも使えるよ」


「なんの練習?」


「階段ダッシュ」


「結みたいなこと言ってる」


「城を有効活用せんと」


「城跡を部活の施設にしないで」


「三原独立国になったら使う」


 凪が花を見る。


「その話、結局なんですか。前にも言ってましたよね」


「計画は続いとる」


「続けなくていいよ、そんな怪しい計画」


 澪が紙袋を持ち直した。


「国王は決まったんか」


「澪さんは衰退するって、結が言いよった」


「次の練習増やす」


「高圧的じゃけ衰退するんよ」


「花も一緒に増やす」


「なんでうちまで!」


「報告せんかったけん」


「独裁じゃん!」


 花の声が石垣へ返り、通りかかった人が一度だけ振り返った。花は何事もなかったように歩き出す。


 駅の下を抜け、港側へ出た。


 冷たい風に潮の匂いが混じる。停まっていたバスが動き、駅前から港へ続く景色が開いた。


 花は丸めたパンフレットを海へ向ける。


「港」


「それは知ってます」


「三原港」


「毎日見てます」


「フェリー乗れる」


「乗ったことあります」


「島に行ける」


「知ってます」


 花の腕が下がった。


「案内しにくい」


「知っている場所ばかりだから」


「さっき節分知らんかったじゃん」


「港と節分は別だから」


 花は腕を組み、しばらく考えた。


「駅の近くに、来々軒がある」


「それも知ってます」


「うちが連れてったけんじゃろ」


「うん」


「じゃあ案内成功しとるじゃん」


 花が胸を張った横を、澪が先に歩く。


「続きは」


「待って。今考えよる」


「案内しながら考えるな」


「現場で変える方が強いんよ」


「さっきも聞いた」


 花は観光パンフレットを開いた。丸めた跡で端が内側へ戻ろうとするのを両手で押さえながら、現在地を探す。


「うちら、今どこ?」


「案内する側が聞かないで」


「地図と道が合わんのよ」


 澪が横から覗き込んだ。


「逆じゃ」


「何が」


「地図、上下逆」


 花がひっくり返す。


「ああ」


「今ので案内されてたんですか」


「着いとるじゃろ」


「住んでいるからね」


 花の指が、地図の上を動く。


「ここが、さっきの商店街」


「そうじゃな」


 澪が別の一点を指した。


「ここに映画館があった」


 花の指が止まる。


「映画館?」


「商店街に」


「映画館なんかあったん?」


「あったらしい」


 凪は地図へ顔を寄せた。澪が指している場所には、今ある店の名前が印刷されている。


「今は別の店ですよね」


「うん」


「澪さん、行ったことあるんですか」


「ない。うちが生まれる前に閉まっとる」


「なんで知っとるん」


「親に聞いた。映画を見るなら、そこじゃったって」


 花が地図と商店街を交互に見る。


「どんな映画館?」


「知らん」


「大きかったん?」


「知らん」


「何席?」


「知らん」


「何を知っとるん」


「あったこと」


 花の口が閉じた。


 澪は地図から手を離し、一定の速さで歩き始める。今度は花が一拍遅れ、凪も二人の後ろへ入った。


 駅前の広場まで戻ると、澪が横断歩道の向こうを指した。


「ここにも、デパートがあった。満天屋っていうんじゃけど」


「デパート?」


「屋上に遊園地があったらしい」


 花の顔が上がる。


「観覧車?」


「そこまでは聞いてない」


「ジェットコースター?」


「屋上から落ちるじゃろ」


「小さいやつ」


「知らん」


 凪は澪の指した場所を見る。


 車が一台、三人の前を横切った。通り過ぎると、今ある建物がまた現れる。


「澪さんのお母さんが行ったんですか」


「小さい頃にな。屋上の乗り物に乗ったって」


「何に?」


「聞いてない」


 花が澪を見る。


「そこ大事じゃろ」


「今度聞いとく」


「明日聞いて」


「なんで花のために」


「気になるじゃん」


 信号が青へ変わり、三人は横断歩道へ出た。半分まで渡ったところで、花が駅前を振り返る。


「ここに遊園地あったん」


「屋上にな」


「全然分からん」


「ないけんね」


 信号の音が変わり始めた。


「渡るぞ」


 澪が歩調を上げ、花も駆け足になる。


「待ってや。観光客置いていくん?」


「案内役じゃろ、お前」


「今は澪さんの昔ツアーじゃん」


「昔じゃない」


 歩道へ上がった澪は、駅前へ顔を向けた。


「うちも知らん三原じゃ」


 花の足が止まった。


「親に聞いただけ。行ったことも、見たこともない」


 信号が赤へ変わり、車が三人の前を流れ始める。


 花は開いたままの観光パンフレットへ目を落とした。映画館も、デパートも、屋上の遊園地も載っていない。


「うち、知らんかった」


「うちも見とらんけん」


 花は地図を畳もうとした。折り目が合わず、端が横から飛び出す。


「貸して」


 凪が受け取った。


「畳める?」


「たぶん」


「うちは無理じゃった」


「見たら分かる」


 折り目に沿って一度畳み、違うと気づいて開き直す。映画館のあった場所と、満天屋のあった場所が内側へ隠れ、表には今の三原駅が出てきた。


 このまま返せば、赤い旗も、閉じたシャッターも、澪の知らない映画館も、地図の内側へ戻る。


 凪は畳んだ地図を開いた。


「澪さん、赤を一本借りてもいいですか」


「部のじゃぞ」


「あとで返します」


 澪が文房具屋の紙袋から赤いマーカーを取り出した。


 凪は映画館のあった場所へ小さな丸をつけた。横に「映画館」と書き、駅前にも一つ丸を置く。


「満天屋は、この辺ですか」


「もう少し右」


 澪の指に合わせて位置を直し、「満天屋」と添えた。


 赤い文字が、今ある店と道の上へ残る。


 花が横から覗き込む。


「コロッケも書く?」


「それは今もあるから」


「今日はなかったよ」


「売り切れただけです」


「明日はある」


「だから書かなくていい」


 澪がマーカーを取り返す。


「部の記録へ戻すぞ」


 凪は地図を畳み直した。今度は、赤い丸の端が表側へ少しだけ残った。


 * * *


 商店街へ戻ると、節分の子どもたちは減っていた。豆を配り終えた店では長机が片づけられ、赤い旗も一本ずつ外されている。


 閉じたシャッターの前に、豆が一粒だけ残っていた。


 花が靴先で通路の端へ寄せる。


「お腹減った」


「豆食べればよかったじゃろ」


「子どもの分じゃけ」


「靴の中にも入っとったぞ」


 凪は首を振った。


「靴に入った福は、ちょっと嫌です」


 花が商店街の先を見る。


「来々軒、行く?」


「行くか」


 澪が先に歩き出し、凪も続く。花は二人の半歩前へ出た。


 来々軒の暖簾が見えた。


 花が先に引き戸を開けると、醤油と出汁の匂いが冷えた商店街まで流れてきた。


 店主が厨房から顔を出す。


「花ちゃん、また来たんか」


「今日は三人」


 花が指を三本立てる。


「見たら分かる」


「三原を案内してきた」


 店主は澪と凪を見た。


「大きく出たな」


「ウシオダルクじゃけ」


「何じゃそれ」


「三原を導く人」


 澪が先に店へ入る。


「半分も回っとらん」


「残りは次」


「次もやるんか」


「まだ港をちゃんと案内してないし、神明市もあるし」


「祭りは案内せんでも見えるじゃろ」


「見方を案内するんよ」


 花は一番奥の、いつもの席へ進んだ。凪が向かいへ座り、澪は隣の椅子を引く。


 店主が三人分の水を置いた。


「何にする」


 花はメニューを見なかった。


「いつもの」


 澪も壁へ一度だけ目を向ける。


「同じので」


 店主が凪を見る。


「私も同じので」


「三つな」


 厨房へ戻った店主の後ろで、鍋の蓋が鳴った。


 花はポケットから観光パンフレットを取り出し、机の上へ広げる。折り目はまだ少しずれ、今の駅の横から赤い丸が半分だけ覗いていた。


「次、どこから回る?」


 澪が水を一口飲む。


「まだ続くんか」


「案内、途中じゃけ」


「今日は終わりじゃ」


「じゃあ次」


 花の指が、地図の空いている場所へ動く。


「澪さん、お母さんが乗ったもの、聞いておいてください」


 凪が言うと、澪の顔が上がった。


「凪まで乗るんか」


「気になるので」


 花が大きく頷く。


「次は、澪さんの知らん三原からじゃね」


「お前の知らん三原じゃろ」


「どっちも知らんのなら、一緒じゃん」


 厨房で、湯切りの音がした。


 今ある道の上に、赤い丸が二つ残っている。


 花の指は、その隣の空いている場所を探していた。

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