第2話 ぽた
※このエピソードには、ホラー要素が含まれます。
潮球部の子が海へ入ると、水音が二つした。
一つ目は、岸壁のすぐ下だった。体が水面を割り、跳ねた水が石畳まで届く。
二つ目は、五秒後。
黄色い浮標の向こうから、まったく同じ音が返ってきた。
一学期の終わり、昇降口の掲示板に新しい紙が貼られていた。
【潮球部】
【創部一年目】
【部員 一名】
【初心者歓迎】
オレンジ色の球を抱えた女子の絵。問い合わせ先として、部室の場所だけが書かれている。
部長の名前はなかった。
同じクラスの子が、掲示板の前で足を止めた。
「まだ一人なんじゃ」
「一人で何しよるん?」
「海に入って練習しよるらしいよ」
「試合できるん?」
「分からん。何やるかも知らんもん」
三人は教室へ戻っていった。
私は掲示板の前に残り、紙入れから入部届を一枚抜いた。
家で名前とクラスを書いた。部長名の欄で、ペンが止まった。
潮球部の子を、校内で見たことはあった。同じ学年で、クラスは違う。廊下ですれ違ったことが何度かあるだけで、名前は知らなかった。
練習場所は、学校から歩いて十分ほどの港にあった。
防波柵の向こうに、黄色い浮標で囲まれた区画がある。
初めて見に行った日、岸壁には鞄が置かれ、その横に靴が揃えてあった。オレンジ色の球が四つ、水面に浮かんでいる。
潮球部の子は長い髪を後ろで結び直し、ゴーグルを下ろした。四つの浮標を順番に確認してから、海へ飛び込む。
ざぶん。
水飛沫が岸壁まで届いた。
五秒後。
ざぶん。
黄色い浮標の向こうだった。
私は防波柵の前で足を止めた。
船は通っていない。魚が跳ねた波紋もない。浮標だけが波に合わせて上下していた。
ロープが金具に擦れている。遠くでフェリーのエンジンが鳴り、造船所から乾いた金属音が届く。
海の上には、いくつもの音が重なっていた。
潮球部の子は、音のした方を見なかった。
オレンジ色の球を拾うと、胸元が赤く光る。そのまま潜り、緑色の水の中を赤い光が移動していった。球から手を離すと光が消え、浮かび直した球を拾ってまた沈む。
水面へ出るたびに息を吸い、また潜った。同じ動きを、日が傾くまで繰り返していた。
最後の球を網袋へ戻し、岸壁へ向かって泳ぎ始める。
途中で右手が上がった。
手のひらが、水面を一度叩く。
ぱん。
五秒後、浮標の向こうから音が返った。
ぱん。
泳いでいた手が止まった。
潮球部の子は顔を上げ、音のした方を見る。水面には何もない。泡も、広がる波紋もなかった。
十秒ほど浮いたまま待ち、それから岸壁へ向かって泳ぎ出した。
階段を上がり、ゴーグルを外す。タオルで髪を拭き、揃えていた靴を履いた。
私は、防波柵から離れた場所に立っていた。
鞄には、名前だけを書いた入部届が入っている。
声はかけなかった。
翌日も、入部届を鞄へ入れて港へ行った。
前日と同じ場所に鞄が置かれ、靴が揃う。潮球部の子は、オレンジ色の球を水面へ一つずつ放った。
一つ目は岸壁の近くへ残り、二つ目は浮標の方へ流れた。残りの二つも風と潮に押され、別々の方向へ離れていく。
ゴーグルを下ろしたところで、潮球部の子の手が止まった。
その日は海へ入らなかった。
岸壁の端へしゃがみ、右手を水面へ伸ばす。指先だけを浸け、水をゆっくり掻いたあと、手のひらで一度叩く。
ぱん。
右手を水につけたまま待っている。
三秒後、練習区画の奥から音が返った。
ぱん。
続けて、もう一度。
ぱん。
潮球部の子の右手が、水から上がった。
練習区画の中央には、オレンジ色の球が浮かんでいるだけだった。一つが波に運ばれ、黄色い浮標へ触れる。浮標をつなぐロープが軋んだ。
ほかに音はしなかった。
潮球部の子は海へ入らず、球を回収し始めた。岸壁近くの三つを網袋へ戻し、最後の一つは長い棒を使って引き寄せる。
球を掴んだ瞬間、胸元が赤く光り、すぐに消えた。
片づけを終えると、潮球部の子は鞄を持って歩き出した。石畳を数歩進んだところで足元を見て、岸壁へ戻る。
靴を履いていなかった。
揃えていた靴へ足を入れ直し、顔を下げたまま私の前を通り過ぎていく。
私は、鞄の肩紐を握った。
今なら声をかけられると思った。
口は開かなかった。
姿が見えなくなってから、練習区画まで下りた。さっきまで潮球部の子がしゃがんでいた場所に立つ。
真下では、波が岸壁へ当たって砕けていた。
私は右手を伸ばした。上下する水面へ手のひらを向け、音が返る場所を探す。
指先と水面の間には、まだ距離があった。
フェリーの低い音が、港の外から届く。
私は水へ触れず、右手を体の横へ戻した。
三日目。
岸壁には同じ鞄が置かれ、靴が揃っていた。オレンジ色の球も、四つ浮かんでいる。
潮球部の子は水面を叩かなかった。
飛び込まず、岸壁の階段から片足ずつ海へ入っていく。
ちゃぷ。
二度目の音はしなかった。
私は防波柵を握り、最初の球へ向かう背中を追った。
潮球部の子が右手で球を掴む。胸元が赤く光り、水面には残りの三つが浮かんでいた。
そのまま潜る。
赤い光が、緑色の水の中へ沈んでいく。浮標の手前で動きが止まり、右手の指が球から開きかけた。
ぽちゃん。
練習区画の反対側で、水が跳ねた。
赤い光が止まる。
潮球部の子の右手には、まだ球が握られていた。水面に三つ、手の中に一つ。四つとも揃っている。
顔だけが、音のした方へ向いた。
水面には何もない。泡も浮かんでこなかった。
潮球部の子は浮上する直前にもう一度振り返り、右手の球を握り直した。
水面へ出る。
息を吸う音が、岸まで届いた。
胸元は赤く光ったままだった。球を持って岸へ戻り、残りの三つも回収する。
その日の練習は、それで終わった。
潮球部の子は濡れたまま石畳を歩き、私の前を通り過ぎようとした。
「あの」
声が出た。
足が止まる。
初めて近くで顔を見た。頬に水滴が残り、唇の色が薄かった。
潮球部の子は私の顔を見なかった。
視線は、私の右手へ向いていた。
私は鞄の中の入部届を握る。
その目が、親指から人差し指へ動き、手のひらで止まった。
潮球部の子は顔を上げた。
目は合わなかった。
そのまま歩き出し、濡れた足跡が石畳へ続いていく。
私は追わなかった。
次の日、潮球部の子は来なかった。
岸壁には鞄も靴もなく、オレンジ色の球も浮かんでいない。
私は十分待った。
翌日も来なかった。雨の日にも、黄色い浮標だけが水面で揺れていた。
週が変わっても姿はなく、潮球部の部室には鍵がかかっていた。扉の上に、小さなプレートだけが残っている。
【潮球部】
昼休みに前を通り、放課後にも通った。中から音が聞こえたことは一度もなかった。
違うクラスだった。
名前も知らなかった。
職員室の前まで行ったこともある。引き戸の向こうから、先生たちの声が聞こえていた。
潮球部の子は、学校に来ていますか。
最近、港で練習していますか。
どこへ行ったか、知っていますか。
三つの言葉を口の中で並べ、右手を引き戸の取っ手へ伸ばした。
触れる前に、人差し指が曲がった。
引き戸は開けなかった。
入部届も提出しなかった。
鞄の底で、紙の角が折れていた。名前とクラスだけが書かれ、部長名の欄は空いたままになっている。
右下だけが波打っていた。
指で触れると、湿っていた。
鞄の底は乾いている。
夏休みに入る前、昇降口の掲示板から部員募集の紙が消えた。四隅に、剥がしきれなかったテープだけが残っている。
私は足を止めなかった。
夏休みの最初の日。
学校へ忘れ物を取りに行った帰りに、港の前を通った。
練習区画には黄色い浮標だけが残っている。水面にオレンジ色はなく、岸壁に鞄も靴もない。
風が強かった。
浮標が波に持ち上げられ、ロープが水面を擦っていた。
私は防波柵の前を、そのまま通り過ぎようとした。
ぱん。
練習区画の中央から音がした。
右足が止まり、遅れて左足も止まる。
水面は風に揺れている。何かが飛び込んだ波紋はなかった。
私は待った。
一秒。
二秒。
三秒。
次の音はしなかった。
防波柵から離れ、海へ背を向ける。
ぱん。
今度は、岸壁の真下だった。
水を叩く乾いた音。
私は口を閉じ、両手を体の横へ下ろしたまま歩き出した。
ぱん。
三度目の音がした。
海からではなかった。
右手の指が開いていた。
いつ開いたのかは分からない。
手のひらが、じんと痺れている。指先から落ちた水が、足元の石畳へ黒い点を作った。
海には、触れていない。
* * *
夏休みの終わり。
潮田花の部屋に、布団が三枚並んでいた。
壁際の机に一番近い布団が、石塚凪。中央が花。その隣に、村上結が座っている。
机の上には、開いたポテトチップスの袋と飲みかけの炭酸が置かれ、結が持ってきた菓子だけで半分ほど埋まっていた。
残りの端には、夕方の練習で凪が使ったゴーグルがある。乾ききっていないベルトから水滴が落ち、下に敷かれたタオルへ吸い込まれた。
窓の外では、蝉がまだ鳴いている。
花がエアコンのリモコンを押した。
「寒い」
結が布団の上で丸くなる。
「さっき暑い言うたじゃん」
「二十六度は寒いんよ」
「二十八度じゃ寝られんじゃろ」
「間の二十七度があるじゃろ」
花が設定温度を一つ上げる。
結はポテトチップスの袋へ手を入れた。
「お泊まり会って、怖い話するもんじゃろ」
「誰が決めたん」
「昔から」
「昔っていつ」
「昔は昔じゃん」
花は菓子の袋を結から遠ざけた。
「布団の上で食べんで。粉落ちるけん」
「まだ食べとる」
「机で食べ」
結は袋ごと机の前へ移動し、そのまま凪を見た。
「凪、なんか知らん?」
「何を?」
「怖い話」
「なんで凪に聞くん」
花が振り返る。
「海の怖いやつ、ありそうじゃん」
「どういう意味ですか」
「凪、海の変なとこばっかり見つけるけん」
「変なところではなくて、流れです」
「その流れが怖いんよ。急に止まったり、泡が消えたりするじゃん」
「全部、理由があります」
「理由が分からん間は怖いじゃろ」
凪は机のゴーグルを見た。
島影の中で見えなくなった青い光。足の下だけ水温が変わった場所。名前がつく前は、どれも分からないものだった。
「一つだけ、聞いたことがあります」
結の手が袋の中で止まった。
「ほんまにあるん?」
「怖い話かは分からないけど」
「それ、怖いやつの言い方じゃん」
花が炭酸を取る。
「誰から聞いたん」
「港で」
「誰に」
「分かりません」
「分からん人の話を聞いたん?」
「声だけ聞こえたから」
結が花を見る。
花も結を見た。
「やめる?」
凪が聞く。
「やめん」
結はすぐに答えた。
「電気消す?」
「消さんでええ」
「雰囲気が出んじゃん」
「怖いくせに」
「怖くないし」
結は立ち上がり、部屋の電気を消した。
机の小さなライトだけが残る。
白い光は、三枚の布団の端までしか届かなかった。部屋の隅は暗く、エアコンの風でカーテンが揺れている。
外を車が一台通り、音が遠ざかると、エアコンの低い音だけが残った。
凪は、タオルの上のゴーグルへ目を向けた。
「水面担当をしていた子だったらしいです」
「結みたいな?」
「泳ぐのが苦手で、いつも水面から四人を見ていた」
「うちより結じゃん」
「そこ張り合うところ?」
花の声が暗い部屋へ落ちた。
凪は続ける。
その子は、声を出すのが得意だった。
誰かが息継ぎに上がるたび、名前を呼ぶ。
右。
左。
深く。
水中へ声は届かない。選手に聞こえるのは、水面へ顔を出した一瞬だけだった。
だから、その子は待っていた。
誰が、どこから浮かんでくるか。次に誰の名前を呼ぶのか。
その日の練習区画では、四人が潜っていた。オレンジ色の球も四つ、水面に浮かんでいる。
一人が上がった。
「右!」
水面担当の子が叫ぶ。
選手は短く息を吸い、右へ潜った。
次の一人が上がる。
「奥!」
また沈む。
水面担当の子は、四人分の泡を追い続けていた。
泡が黄色い浮標の向こうへ離れていく。
そのとき、名前を呼ばれた。
自分の名前だった。
水面の下から聞こえた。
その子は振り返った。
誰も浮かんでいない。
四人分の泡は、浮標の向こうにある。
もう一度、声がした。
今度は真下だった。
「右」
その子が右を見ると、オレンジ色の球が一つ、すぐ近くまで流れてきていた。
水中の選手が浮かび上がる。
「どこ!?」
その子は球を指した。
「右! すぐそこ!」
選手が潜り、球を拾う。胸元が光り、そのまま仲間へ流した。
赤い光が、ゴールゾーンへ沈む。
水面担当の子は真下を見た。
水面に揺れる、自分の顔しかなかった。
「待って」
結の声がした。
凪は話を止める。
「水ん中から、そんなにはっきり聞こえるん?」
「聞こえない」
「じゃあ、誰の声なん」
凪は答えなかった。
花が炭酸を一口飲む。
「水の音が、声みたいに聞こえただけじゃろ。自分の息とか、耳の中の音とか」
「その子も、そう思ったらしい」
「ほら」
「次の日までは」
花の口が閉じた。
部屋の外から、水が流れる音が聞こえた。
三人とも動かない。
一階の水道だった。
しばらくして音が止まると、結が布団を鼻の下まで引き上げた。
「続き、あるんよね」
凪は頷いた。
次の日も、同じ練習があった。
水面担当の子は四人の動きを追い、一人が浮かべば「左」、別の一人には「そのまま」と声を飛ばした。
四人は、前の日よりよく動いた。
練習の途中で、また声がする。
「奥」
真下からだった。
その子が奥を見ると、まだ誰も向かっていない場所へ球が流れていた。
「奥! 一番奥!」
選手が一人、すぐに方向を変える。球へ先に届いた。
練習が止まったあと、キャプテンが水面担当の子へ近づいた。
「今日、よう見えとったね」
褒められた。
その子は頷いた。
声のことは言わなかった。
次の練習でも、声は聞こえた。
「右」
「浅く」
「まだ」
その子は、聞こえた言葉をそのまま叫んだ。四人は言われた方へ動き、前より早く球を拾えるようになった。
選手が浮かび上がる前に、名前も呼べるようになった。
誰かが失敗しそうになると、声が先に教えた。
「止まって」
水面担当の子が叫ぶ。
水中の選手が止まり、その直後を別の選手が横切った。
ぶつからずに済んだ。
キャプテンが笑った。
「お前がおったら、全部見えるね」
水面担当の子も笑った。
その真下から、声がした。
「見える」
自分と同じ声だった。
花が布団の上で体を起こした。
「同じ声?」
「その子の声だったらしいです」
「自分が頭の中で考えた声じゃろ」
「たぶん」
「たぶんって」
結が花の布団へ寄る。
「そっち行くなや」
「ちょっとだけ」
「暑い」
「二十七度じゃけ大丈夫」
花が結の肩を押し返した。
「続けて」
凪は机のゴーグルへ目を向けた。
ベルトの先から、水滴がもう一つ落ちた。
声が聞こえ始めてから、その子は泡を追わなくなった。
泡を見なくても、声が教えてくれる。
誰が上がるか。
球がどこへ流れるか。
次に何が起きるか。
声の方が、水面より早かった。
ある日の練習で、四人が一斉に潜った。
水面担当の子だけが残る。
「右」
声がした。
右を見る。
誰もいない。
「左」
左にもいない。
四人分の泡は、浮標の向こうにあった。
「後ろ」
振り返っても、波があるだけだった。
水の中で、息を吐くような音がした。
笑っているようにも聞こえた。
その子は真下を見た。
自分の足が、水の中へ伸びている。
その下に、人の形をした影があった。
水面が揺れるたび、輪郭も崩れる。
影の口が動いた。
「今」
その子は反射的に叫んだ。
「今!」
四人が同時に動いた。
オレンジ色の球が流れ、一人が拾う。一人が進路を塞ぎ、もう一人が受け取った。最後の一人が、球をゴールゾーンへ沈める。
赤い光が水中へ消えた。
四人が浮かび上がる。
「今の、すごかった!」
「なんで分かったん?」
水面担当の子は答えられなかった。
真下の影は、もう消えていた。
その日の帰り、キャプテンが言った。
「明日の試合も頼むね」
水面担当の子は頷いた。
声が聞こえれば、勝てると思った。
聞こえなくなる方が、怖くなっていた。
「いや、もう使っとるじゃん」
結が口を挟む。
「絶対だめなやつじゃん」
「何が」
「知らん声の言うこと聞いたらだめじゃろ」
花が布団の端を直した。
「でも勝てるなら、ちょっと聞くかもしれん」
「花!?」
「ちょっとだけじゃ」
「一番だめな人じゃん!」
花が結の額を押した。
「話止めんな」
凪は二人が静かになるまで待った。
試合の日。
その子は、いつも通り水面へ残った。
対戦相手の五人と、味方の四人が海へ入る。
試合が始まった。
最初、声はしなかった。
その子は自分で泡を追った。
味方が一人、水面へ上がる。
「右!」
考えて叫んだが、遅かった。相手に球を取られた。
次も声はしない。
四人がどこにいるのか分からなくなり、水面へ上がった選手がその子を見た。
「どこ!?」
「待って!」
球は、もう相手の手にあった。
青い光がゴールゾーンへ沈む。
その子は真下を見た。
声を待った。
聞こえない。
両手で水面を叩く。
「教えて」
味方の四人は水中にいる。
誰にも聞こえない。
「どこ」
もう一度、水面を叩いた。
「お願い」
真下から、小さな泡が一つ上がってきた。
泡は指先へ触れ、消える。
「下」
声がした。
その子は水面を覗き込んだ。
緑色の水が、底の見えないところまで続いている。
「下」
同じ声。
その子は、さらに顔を近づけた。
四人分の泡は、浮標の向こうへ続いている。
それでも真下から、泡が上がってきた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ目の泡が、その子の顔の前で弾けた。
「次は、下」
水の中で、自分の声がした。
エアコンの音が、部屋へ戻ってきた。
「次の練習に、その子は来なかったらしいです」
「鞄と靴だけ、岸壁に残っていたって」
結が布団から顔を出した。
「終わり?」
「はい」
「一番気になるところじゃん!」
結が布団を叩く。
花は凪を見ていた。
「港のどこで聞いたん」
「練習区画の近くです」
「誰が話しとったん」
「防波柵の向こうにいたから、見えませんでした」
「声だけ?」
「はい」
「男? 女?」
凪は少し考えた。
「女の人だと思います」
「思います?」
「水の音が重なっていたので」
結が布団を引き上げる。
「もう寝よ」
「お前が始めたんじゃろ」
「怖くないけど寝よ」
「電気つける?」
「つけて」
花が電気をつける。
部屋の隅まで明るくなった。
机の上には菓子の袋、炭酸のペットボトル、濡れたゴーグルがある。
何も変わっていない。
結がゴーグルを指した。
「それ、片づけて。水が落ちる音、気になる」
「凪のじゃろ」
「私のです」
凪はゴーグルを手に取り、ベルトをタオルで挟んだ。レンズの内側も確認し、残っていた水分を拭く。
机へ戻しても、もう水は落ちなかった。
三人は布団へ入った。
電気を消しても、結だけは机の小さなライトをつけたままにした。
「消さんの?」
「寝たら消す」
「誰が」
「最後まで起きとる人」
「それ絶対、朝までついとるやつじゃん」
しばらく、三人で話していた。
次の練習のこと。結が買いたい新しいゴーグル。花が町内会で任された祭りの片づけ。
話す声は、少しずつ小さくなった。
結が最初に眠る。
花も、しばらくすると返事をしなくなった。
凪は目を閉じた。
エアコンの低い音。
外を走る車。
一階の冷蔵庫が動く音。
花の家の夜だった。
花が目を覚ました。
部屋は暗い。
机のライトは消えていた。
左隣では結が眠り、右隣には凪の布団がある。凪も壁を向いたまま動いていなかった。
花は目を閉じようとした。
水の音がした。
ぽた。
凪の向こうにある、机の方だった。
ゴーグルから水が落ちたのだと思った。
凪が拭いたはずだった。
もう一度。
ぽた。
花は起き上がらなかった。
暗い机の上に、ゴーグルの輪郭だけが見える。下に敷いたタオルまでは見えない。
ぽた。
三度目。
花は布団の中で右手を握った。
水の音が止まる。
代わりに、声がした。
「右」
小さかった。
結の寝言にも聞こえた。
花は右を見た。
凪は壁を向いて眠っている。唇はわずかに開いていたが、動いてはいない。
右手だけが、布団の外へ出ていた。
人差し指が、右を向いている。
その先に、ゴーグルがあった。
ぽた。
花から見て右側のレンズから、水が落ちた。
花は声を出さなかった。
朝まで、その指の先を見ていた。




