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潮球部ですが、今日は海に入りません  作者: カミツキ


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第1話 ボールでええじゃん



文化祭の朝、三原中央高校みはらちゅうおうこうこうの廊下は、いつもの朝より騒がしかった。


 教室の前には段ボールが積まれている。

 窓には折り紙の輪飾り。階段の踊り場には、手書きの案内板が立っていた。


【三原中央高校 文化祭】

【部活動展示はこちら】


 矢印の先で、村上結むらかみ ゆいは腕を組んでいた。


「なんで、うちらだけなん」


 潮球部ちょうきゅうぶの展示スペース。

 長机が二つ。

 ホワイトボードが一枚。

 何も貼られていないパネルが三枚。


 廊下の端に、それだけが並んでいた。


 石塚凪いしづか なぎは、パネルの前に立っていた。

 手には黒いペン。足元には、二年生の宮本澪みやもと みおが置いていった紙袋がある。

 澪が紙袋を運んできたとき、長机もパネルも空だった。


「澪さん、用事って言ってた」


「花も商店街の手伝いじゃろ。知っとる。知っとるけど」


 結は長机に両手をついた。


「なんで文化祭の日に、潮球部の展示を一年生だけで作るん」


 木梨陽きなし ひなたが、紙袋から模造紙を出した。


「部活展示、優先」


「そういう話をしとるんじゃないんよ」


 廊下の向こうから、顧問の三谷が来た。

 文化祭の日でも、三谷はほとんど変わらない。


「展示、頼んだぞ」


 結の顔が三谷へ向いた。


「先生、頼むの軽すぎません?」


「軽くない。新入生が見る」


「まだ半年先じゃん」


「半年は、すぐだ」


 三谷の目が、白いパネル、空のホワイトボード、開いていない段ボールを順に通った。


「潮球部のことを、初めて見る人にも分かる形にしろ」


 凪はペンのキャップを外した。


「初めて見る人に」


「そうだ」


 結が眉を寄せた。


「でも、瀬戸内じゃ普通にやっとるじゃないですか。今さら分からんとかあります?」


「ある」


 三谷の声は早かった。


「やっとる人間ほど、分かっているつもりで説明が下手になる」


 結の指が、机の縁を一度叩いた。

 凪は外したキャップを握り直した。

 陽は模造紙を一枚、机に置いた。


 三谷は腕時計を見た。


「昼前に一度見る」


「それ、ほぼ丸投げじゃないですか」


「丸投げじゃない。任せた」


「同じ意味じゃろ」


 三谷は廊下の向こうへ歩いていった。

 革靴の音が、階段の方へ消える。


 三人の前には、空の展示スペースが残った。


 紙袋の中には、マーカー、色紙、両面テープが入っていた。

 透明なプラスチック球。

 オレンジ色の丸いシール。


 結がシールを指でつまんだ。


潮核ちょうかく?」


「たぶん」


「文化祭で潮核作らんでもよくない?」


 凪はホワイトボードの前に立った。


潮球ちょうきゅうとは】


 ペン先が止まる。


 潮球ちょうきゅう

 潮流ちょうりゅうを読む競技。

 五人で海に入り、潮核ちょうかくを相手のゴールゾーンへ沈める。

 三秒タッチ。

 ゼッケンの発光。

 潮目しおめ

 潮止まり。

 島影しまかげ


 書ける言葉だけが増えていく。


 凪は続きを書いた。


【潮球とは、瀬戸内を中心に行われている水中競技である。五人一組で行い、潮流、潮目、地形、選手の位置を読みながら、潮核を相手ゴールゾーンへ運ぶ。】


 結が横から覗き込んだ。


「硬っ」


「説明だから」


「教科書じゃん」


 陽は別のパネルに線を引いていた。

 細い線が何本も重なっていく。

 島の形。

 潮目。

 複合流。

 矢印。

 点線。

 丸。


 結の上半身が、陽の方へ傾いた。


「細かっ」


「潮流図」


「分からん人に見せるんよ?」


「分かる人には分かる」


「分からん人に分からんじゃろ」


 陽の手が止まった。


「……たしかに」


 結は自分の前に模造紙を広げた。

 赤いペンを持つ。


【潮球部!】

【海!】

【青春!】

【部員募集中!】


 勢いよく書いた。


 凪が顔を上げた。


「中身がない」


「勢いはあるじゃろ」


「ないよりは」


「その反応、傷つくんじゃけど」


 展示スペースには、三つのパネルが並んだ。


 硬すぎる説明。

 細かすぎる図。

 勢いだけのポスター。


 昼前、三谷が戻ってきた。


 凪の説明文を読む。

 陽の潮流図を見る。

 結のポスターの前で止まる。


 結が胸を張った。


「どうですか」


 三谷の目が、赤い文字の上を往復した。


「方向は悪くない」


「お」


「じゃけど、このままじゃダメ」


「何が足りないんですか?」


 三谷は腕を組んだ。


「一つ挙げるなら、氷だ」


 結の肩が落ちた。


「……氷?」


 凪のペン先が止まる。

 陽が顔を上げる。


 結の手が、ゆっくり上がった。


「先生」


「なんだ」


「かき氷やれってことですか」


 三谷の視線が、結の顔で止まった。

 廊下の向こうで、椅子を引く音が響いた。


 結の目が輝いた。


「……かき氷」


 凪の指が、ペンのキャップを強く押した。


 陽の声は低かった。


「冷却」


 三谷は腕時計へ目を落とした。


「まだ時間はある。各自、考えてみろ」


 革靴の音が、また遠ざかっていった。


 結は白いパネルを見た。

 次に凪。

 その次に陽。


「かき氷、いるんじゃない? 食べ物で釣るんよ」


 凪はペンのキャップを閉めた。


「違うと思う」


「でも先生、否定せんかった」


「三谷先生は、いつもそれっぽいことしか言ってくれない」


 陽が、オレンジ色のシールを一枚つまんだ。


「潮核、乗せられる」


「ほら、陽も乗っとる!」


「乗ってない」


 結は模造紙の空いた場所へ、大きく書き足した。


【潮球部特製 潮流かき氷】


 凪は、その文字を見た。


 潮球とは。

 潮流とは。

 潮核とは。


 全部より先に、かき氷が目に入る。


 結が頷いた。


「これなら、人は来るじゃろ」


 凪はホワイトボードへ顔を戻した。


 結の行動は早かった。


 廊下の向こうへ走り、五分後には調理部からかき氷機の情報を持って戻ってきた。


「借りられるって」


「早い」


「氷は購買横の冷凍庫にあるらしい」


「本当にやるの」


「やる流れじゃろ、これは」


 凪はホワイトボードを見た。


【潮球とは、瀬戸内を中心に行われている水中競技である。】


 その隣に、結の文字がある。


【潮流かき氷】


 凪の目は、赤い文字へ戻った。


 陽は机の上に透明な器を並べていた。

 その横に、青いシロップのボトル。

 オレンジ色のゼリー。

 白玉。

 ラムネ。


「どこから持ってきたの」


 凪の視線が、青いボトルへ向いた。


 陽はシロップを持ち上げた。


「調理部」


「調理部、貸してくれすぎじゃない?」


 結は胸を張った。


「潮球部の未来がかかっとるって伝えたけん」


「重い」


「新入生が入らんかったら、来年また人数で苦労するんよ」


 凪の視線が、空のパネルへ移った。


 結は新しい模造紙を広げた。


【潮流かき氷の遊び方】

【青いシロップ=潮流】

【オレンジゼリー=潮核】

【白玉=ゴールゾーン】


 凪の眉が寄った。


「白玉がゴールゾーン?」


「沈むけん」


「ゴールゾーンは沈める場所で、白玉そのものではない」


「細かい」


「細かくない。大事」


 陽が白玉を器の端に置いた。

 青いシロップを垂らす。

 シロップは削った氷の山を下り、器の底へ流れた。


 オレンジゼリーが、その筋に押された。


 陽の目が細くなる。


「流れる」


 結が覗き込んだ。


「おお。潮球っぽい」


「ぽいけど」


 青い線が、氷の溝を伝っていく。

 まっすぐではない。

 途中で曲がる。

 沈み方の違うゼリーが、遅れて動く。


 本物の海ではない。


 凪の目は、器から離れなかった。


 ペンを持ち直す。


【潮は、まっすぐ流れない】


 結が振り返った。


「お、さっきより分かりやすい」


「まだ途中」


「人間の言葉になった」


「さっきも人間の言葉」


 陽がもう一つ器を作った。

 氷の山を二つに分ける。

 間に低い谷を作る。

 シロップを流すと、青い線は谷へ集まった。


「潮目」


「それ、かき氷でやる必要ある?」


「ある」


 陽の手は止まらなかった。


 結が笑った。


「陽が一番乗り気じゃん」


「観察」


「かき氷の?」


「流れの」


 凪は、陽の作った器を見た。


 青いシロップが、氷の凹みに集まっている。

 オレンジゼリーを置く。

 表面では止まり、底では位置がずれた。


 凪の指が、器の縁に触れる。


「ここ、止まって見えるけど、下は動いてる」


 結が赤いペンを取った。


【止まって見えても、下は動いとる!】


「雑」


「分かりやすいじゃろ」


「雑と分かりやすいは違う」


「じゃあ凪が書いて」


 凪は白い場所へペンを置いた。


【止まって見える場所にも、流れがある】


 結の首が傾いた。


「うーん」


 陽も紙へ顔を寄せた。


「硬い」


「陽に言われた」


 結は赤いペンで、凪の文の横へ書き足した。


【だまされるな】


 凪の視線が、その四文字で止まった。


 展示スペースは、朝より賑やかになった。


 青いシロップ。

 オレンジゼリー。

 白玉。

 潮流図。

 説明文。

 手書きの矢印。


 長机の上で、どれも同じ強さを持っていた。



昼過ぎ、三谷が戻ってきた。


 机の上の器を見て、足が止まる。


「本当にかき氷になったな」


 結の顎が上がった。


「先生が氷って言ったんで」


「言ったな」


「つまり正解?」


 三谷の目が、ホワイトボード、潮流図、かき氷、赤い文字を順に追った。


「半分な」


「半分だけ?」


「人は来る」


「じゃろ?」


「じゃけど、来ただけじゃあ人は入らん」


 結の口が開いたまま止まった。


 三谷は、凪の説明文の前に立った。


「正確じゃ」


 凪の背筋が伸びる。


「陽の図も、よく見とる」


 陽が頷いた。


「結の字も、目立つ」


「ほら」


「じゃけど、三つとも強すぎる」


 結の口が、また開いた。


「強すぎるって、弱いより良くないですか」


 三谷は机に置かれた青いシロップへ目を落とした。


「ストレートは強い。じゃけど、喉が焼ける」


 結のまばたきが二回続いた。


「先生」


「どうした」


「なんの話してます?」


「説明の話じゃ」


 凪はホワイトボードを見た。


 正確な説明。

 細かい図。

 目立つ言葉。


 どこから入ればいいのか分からない。


 陽の声が、器の向こうから届いた。


「冷ます」


 三谷が頷いた。


「薄めるな。冷ませ」


 結が眉を寄せた。


「薄めるな、冷ませ……?」


「潮球を簡単なものにする必要はない。じゃけど、お前らの熱量をそのまま出しても、初めての人は飲めん」


 廊下の向こうで、吹奏楽部の音が鳴った。

 文化祭の午後が始まっていた。


 三谷は展示をもう一度見た。


「何を知ってほしいか、一つにしろ」


「一つ……」


 革靴の音が、廊下の向こうへ消えた。


 凪は、青いシロップの器を見た。


 表面では止まり、底では動いているオレンジゼリー。

 陽は何度も器の角度を変えていた。

 結は赤いペンを握ったまま、書く場所を探していた。


 凪は、最初の文字を消した。


【潮球とは】


 白くなったホワイトボードに、マーカーの跡だけが残る。


 結の目が丸くなった。


「あ、消した」


「一つにする」


「何を?」


 凪のペン先が、白い面を行き来した。


 潮流。

 潮核。

 ゴールゾーン。

 三秒タッチ。

 五人。

 海。

 声。

 見えない場所。


 どの言葉も消せない。

 最初の一行も決まらない。


 陽が器の中のオレンジゼリーを指差した。


「これ」


「潮核?」


「流される」


 結が器を覗き込む。


「まあ、確かに」


 凪は白いホワイトボードへ、新しく書いた。


【潮球は、流されるボールを、仲間と運ぶ競技です】


 結が文字を追った。


「ボール」


 陽も隣から覗いた。


「潮核じゃない」


 凪の手が止まった。


「初めて見る人には、ボールの方が分かる」


 結はオレンジ色のゼリーをつまんだ。


「考えてきたらさ」


「うん」


「潮核って名前も、まあまあムカつくよね」


 凪と陽の顔が、結へ向いた。


 結はオレンジゼリーを器の真ん中へ落とした。


「なんなん潮核って。ボールでええじゃん」


 青いシロップの上で、オレンジ色が揺れた。


 凪は白くなったボードを見た。


「でも」


「でも?」


「ボールだと、ただのボールになる」


 陽が頷いた。


 結は腕を組んだ。


「名前が変じゃけ覚える、みたいなこと?」


 凪の目が、オレンジゼリーへ戻った。


「たぶん」


「なんか悔しい」


 結は赤いペンを持ち、ホワイトボードの下へ書き足した。


【※正式名称は潮核。でも最初はボールでOK】


 凪はその文字を見た。


「結、それでいいの?」


「入り口じゃけ」


 三谷が残した二つの言葉が、ホワイトボードの前に並んだ。


 薄めるな。

 冷ませ。


 陽が新しい器を作り始めた。

 氷をならし、青いシロップを細く垂らす。

 結が矢印の紙を貼る。

 凪が説明文を削る。


【潮球って何?】

【流れを読んで、オレンジの潮核を運ぶ競技】

【泳ぐのが速いだけじゃ勝てない】

【見えない流れを、仲間と読む】


 凪のペン先が、最後の一文の下で止まった。


 しばらくすると、最初のかき氷は半分溶けていた。

 青いシロップが器の底で混ざり、オレンジのゼリーも沈んでいる。


「これ、文化祭終わるまで保たんね」


 陽は溶けた水を見ていた。


「水なら、残る」


 十分後、机の上には理科室から借りた透明な水槽が置かれていた。


 底に白い丸。

 その手前に、オレンジ色の球。


 陽が大きなスポイトで、青く色をつけた水を水槽の端から押し出した。

 細い青が伸び、その周りの水も動いた。


 凪が棒でオレンジの球を押す。

 まっすぐ進みかけた球が、青い筋の方へずれた。


「こっちの方が、潮球っぽい」


 結が水槽の横に紙を立てた。


【このオレンジを、流れに乗せてゴールまで運んでみよう】



文化祭の客足は、昼を過ぎてから増えた。


 廊下を歩く人の流れが、朝より太くなっている。

 焼きそばの匂い。

 紙コップを持った生徒。

 首からパンフレットを下げた中学生。

 どこかの教室から、笑い声が漏れていた。


 潮球部の展示スペースの前も、人が通る。


 通る。


 通る。


 結は長机の後ろで頬杖をついた。


「止まらん」


 凪は水槽の横に立っていた。


「見てはいる」


「見て通り過ぎるんよ」


「何がダメなんだろう」


 二人組の中学生が足を止めた。


「お、体験型」


 一人は制服の袖をまくっている。

 もう一人は、パンフレットを胸に抱えていた。


「これ、何ですか」


 結が椅子から跳ねた。


「潮球部!」


 声が廊下へ弾けた。

 中学生の肩が後ろへ逃げる。


 凪は結の袖をつまんだ。


「冷まして」


 結の声量が一段下がった。


「……潮球部です」


 中学生の目が、水槽へ落ちた。


「潮球って、海でやるやつ?」


「そうそう。五人で海に入って、このオレンジのやつ……」


 凪の指が、注意書きへ向いた。


「潮核」


「正式名称は潮核。でも最初はボールでいい」


 結が自分で書いた文字を指差す。


 中学生が笑った。


「ボールでいいんだ」


「最初はね。あとで名前を覚えたくなったら覚えればええんよ」


 凪は水槽の中に細い棒を入れた。


 オレンジの球を押す。

 まっすぐ進む。

 途中で、青い流れに取られて横へずれた。


 中学生の目が、球を追った。


「あ、流された」


「海だと、これがもっと強いです」


 凪は棒を止めた。


「力だけで押すと、ずれます。流れを読んで、仲間と運びます」


 自分の声が、水槽の向こうまで届いた。

 朝の説明より短かった。


 陽が水槽の端を指差す。


「ここ、通ると速い」


 中学生が棒を持った。


「やっていいですか」


「いい」


 結が場所を空けた。


 陽が水槽の端でスポイトを押す。

 細い青が伸びる。

 中学生は棒でオレンジの球を押した。


 最初はまっすぐ。

 途中で横へ流される。

 水槽の端にぶつかる。


「あー、むず」


 もう一人が横から覗き込んだ。


「こっちからじゃない?」


 棒を持つ手が変わる。

 今度は、青い筋が伸びるのを待って、斜めに押す。

 棒が離れたあとも、オレンジの球は横へ流れた。

 そのまま、白い丸の中へ入った。


 陽が拍手した。


「入った」


 結も手を叩いた。


「ゴール」


 中学生の頬が上がった。


「ちょっと面白い」


 結の背筋が伸びる。


「じゃろ」


 中学生は水槽をもう一度見た。


「でも、泳げんにゃ無理なんですよね」


 結の手が止まった。

 凪と陽の顔が、結へ向いた。


 結は足元を一度見て、胸を張った。


「できるよ」


 中学生の首が傾く。


「ほんまに?」


「うち、泳ぐの苦手じゃけど部員じゃけえね」


 廊下の向こうで、吹奏楽部の音が一段上がった。


 中学生は結の顔を見て、それから展示の文字を読み直した。


【泳ぐのが速いだけじゃ勝てない】

【見えない流れを、仲間と読む】


「泳げなくても、役割あるんだ」


「ある」


 結の声は早かった。


「水面で見る。声を出す。位置を教える。泳げんでも、できることはある」


 朝の展示にはなかった言葉が、廊下へ出た。


 中学生二人は、展示の前に残った。

 パンフレットの端へ何かを書き込む。


 やがて、隣の教室から友達に呼ばれ、人混みへ戻っていった。


 結は、その背中が見えなくなるまで動かなかった。


「ちょっと面白いって、言っとったよね?」


「言ってた」


「来年、入るかもしれん」


「まだ分からない」


「凪、そこは夢を見させて」


 陽が、水槽のオレンジを元の位置へ戻した。


「もう一回、来るかも」


 結は、自分で書いた赤い文字を指でなぞった。


【正式名称は潮核。でも最初はボールでOK】


「潮球って、やっぱ変な名前じゃね」


 凪はスポイトを水槽の横へ戻した。


「潮核も変。ゴールゾーンも変。三秒タッチも、冷静に考えたら何なんって感じじゃし」


「ルールだから」


「ルールって、だいたい後から見ると変なんよ」


 陽がオレンジの球をつまんだ。


「好き」


 結の口が止まった。


「何が」


「潮球」


 陽は球を水槽の真ん中へ置いた。

 残っていた流れが、オレンジの球を押した。


 結は陽の横顔を見て、頬をかいた。


「うちも好きじゃけど」


 凪は水槽の中へ目を戻した。


 青い水はまだ動いている。

 氷はない。

 本物の潮でもない。


 水槽の端で、青い筋が形を変えていた。


 結が赤いペンを持ち直す。


「凪、もう一枚書こ」


「何を?」


「泳げん人用」


 凪のペン先が宙で止まる。


「泳げない人用、は変」


「じゃあ何」


 陽の指が、水槽の水面をなぞった。


「水面から読む人」


 結が陽を見る。


「それ、かっこいいじゃん」


 凪は新しい紙を出した。

 マーカーのキャップを外す。


【水面から読む人もいる】


 結が隣に赤い字を書き足した。


【泳げんくても、役割はある】


 陽が、その下に小さな波線を描いた。


 文化祭の廊下は、まだ騒がしい。

 潮球部の展示の前で、また一人、足が止まった。


 背の高い中学生が、ホワイトボードを読んでいる。

 長い髪を後ろで結び、隣には来場者証を下げた女性が立っていた。


【流されるボールを、仲間と運ぶ競技です】


「部活、見学できますか」


 結の背筋が伸びた。


「できます!」


 声がまた跳ねた。


 凪は結の袖を引いた。


「冷まして」


「……できます。入学したら、いつでも」


 中学生はパンフレットの端へ、潮球部、と書いた。


 結は、その文字が人混みに消えるまで見送った。


 陽が水槽の球を元へ戻す。


「一人、止まった」


 結の顔が陽へ向いた。


「今日いちばんいい言い方」


 凪はホワイトボードの前に立った。

 さっきの文の下へ、もう一行足す。


【一人では読めない流れを、五人で読む】


 結が頷いた。


「いいじゃん」


 陽も頷いた。


「冷えた」


「それ褒め言葉なん?」


「たぶん」


 三谷が戻ってきた。


 片手に紙コップ。

 展示、水槽、ホワイトボード、赤い字を順に見る。


【正式名称は潮核。でも最初はボールでOK】

【泳げんくても、役割はある】


 三谷の口元が上がった。


「氷、入ったな」


 結の眉が上がる。


「先生、それ分かりにくいです」


「分かりやすくしただろ」


「してない」


 三谷は紙コップを机に置いた。


「朝より、人が止まる」


 凪は廊下へ顔を向けた。


 水槽を覗く人。

 赤い文字を読む人。

 潮流図の前で首を傾げる人。


 三谷の指が、凪の説明文へ向いた。


「これでいい」


 凪は文字を見た。


【一人では読めない流れを、五人で読む】


「正確ですか」


「正確さだけなら、朝の方が上だ」


 凪はマーカーのキャップを一度回した。


「じゃけど、今の方が届く」


 結は赤いペンを手の中で回した。


「届く、か」


「伝えたいことを、そのまま書けば届くわけじゃない」


 三谷は水槽へ目を落とした。


「形を変えろ。冷ませ。じゃけど、薄めるな」


 陽が頷いた。


「氷」


「そうだ」


 結は腕を組んだ。


「やっぱ、かき氷もちょっと正解だったんじゃ」


「半分正解って出したじゃろ」


「じゃあ半分はうちらの勝ち」


 三谷の口角が上がった。


「何に勝ったん」


「文化祭に」


 三谷は紙コップを持ち直した。


 放送が鳴った。


『まもなく体育館ステージにて、有志発表を開始します』


 廊下の人の流れが変わった。

 体育館へ向かう生徒が増える。

 展示スペースの前が空いた。


 結は椅子へ座り込んだ。


「疲れた」


「まだ終わってない」


「文化祭って、試合より別方向に疲れるんよね」


 陽の目が、水槽の水面へ落ちた。


「声、出したけん」


「うち、今日めっちゃ接客した。潮球部の未来に貢献した」


 凪は展示を見た。


 硬い説明は消えた。

 潮流図の横には、短い言葉が貼られている。

 勢いだけだった赤い字は、来場者の足を止めていた。


 水槽の端で、青い筋がほどけていく。


 廊下の向こうから、聞き慣れた声が飛んできた。


「おー、やっとるじゃん」


 花だった。


 手には紙袋。

 制服の袖をまくり、額に汗が光っている。


 結が椅子から跳ねた。


「花! 見て! うちら、文化祭を制した!」


「でかく出たじゃん」


 花は展示を見た。

 水槽を覗く。

 ホワイトボードを読む。

 赤い字のところで止まる。


【正式名称は潮核。でも最初はボールでOK】


 花が笑った。


「これ、結が書いたじゃろ」


「なんで分かるん」


「字がうるさい」


「字がうるさいって何」


 花の目が、その下へ移った。


【泳げんくても、役割はある】


 花の口元から笑いが消えた。

 文字を読み終えて、結へ顔を向ける。


「ええじゃん」


 結は顔をそらした。


「まあね」


「これ、澪さんにも見せたん?」


「まだ。澪さん来てない」


「さっき職員室の方で見たよ。もうすぐ来るんじゃない?」


 凪の指が、マーカーのキャップで止まった。


 ホワイトボードの端へ、小さく書き足す。


【見学歓迎】


 結が覗き込んだ。


「地味」


「必要」


「じゃあ赤で囲む」


「うるさくしすぎないで」


「冷ますんじゃろ。分かっとる」


 結は赤いペンで丸を描いた。

 一周で止まった。


 陽が頷く。


「冷えとる」


「それ、今後うちへの褒め言葉にするんやめて」


 花が紙袋から包みを出した。


「商店街でもらった。差し入れ」


 結の顔が上がる。


「何?」


「たこせん」


「神ー。調理部行って卵とソース借りようや」


 凪は紙袋を受け取った。


「やめときなよ」



廊下に、人が戻り始めていた。


 水槽の中で、青い水が広がる。

 オレンジの球は、その端から白い丸の方へ動いていた。


 凪の目は、その球を追った。


 澪が来たのは、そのあとだった。


 人の流れが途切れた隙に、職員室の方から歩いてきた。

 手には資料の束。

 髪の一房が、額へ落ちている。


「悪い。遅くなった」


 結がたこせんを持ったまま振り返る。


「澪さん! 見てください! うちら、潮球部の未来を作りました!」


 澪は展示の前に立った。


 凪はオレンジの球が入っていた空の袋を、机の端へ置いた。


 澪の目がホワイトボードを追う。

 水槽を見る。

 陽の潮流図を見る。

 結の赤い字で止まる。


【一人では読めない流れを、五人で読む】


「凪が書いたん?」


「はい」


「いい」


 澪は水槽の棒を持った。

 オレンジの球を押す。


 球が青い筋へ入り、白い丸の手前で止まった。

 凪の指は、机の縁に触れたままだった。


 結がたこせんをかじった。


「三谷先生に氷って出されたんです」


「氷?」


「はい。先生が意味分からんこと言うけ、うちら一回かき氷屋になりかけました」


 澪の顔が三谷へ向いた。


 三谷は紙コップを持ったまま、廊下の端に立っている。


「先生」


「なんだ」


「説明不足です」


「考えた方が覚える」


「それはそうですが」


 結が指を立てた。


「ストレートは強いけど、喉が焼けるらしいです」


 澪のまばたきが止まった。


「先生」


「説明の話じゃけ」


「分かっています」


「分かっとるならええ」


 澪は息を吐き、展示へ顔を戻した。


「よく直した」


 結は顔を上げた。


「じゃろ?」


 廊下の向こうから、背の低い子どもが走ってきた。

 来場者証を下げた男性が後ろから追う。


「走らない」


「だって、オレンジのやつ!」


 子どもは水槽の前で止まった。


「これ、動かしていい?」


 結が棒を渡す。


「いいよ。優しくね」


 子どもはオレンジの球を押した。

 勢いが強く、球は青い筋を抜けて端へぶつかった。


「あ」


 陽が棒を持ち、青い筋の手前で止めた。


「こっちから」


 球が青い筋に乗り、白い丸へ近づく。


 子どもの目が丸くなった。


「勝手に行った」


「流れに乗った」


 もう一度。

 今度は斜めから押す。


 球は白い丸へ入った。


「入った!」


 声が廊下に響いた。

 近くを通った二人が、展示の前で足を止める。


 結は机の下で、拳を一度握った。


「集客成功」


「言い方」


 花が笑った。


 三谷は紙コップを口元へ運んだ。


「入ったな」


「氷がですか」


「入口が」


 澪の目が三谷へ向いた。


「先生、それを最初から言えばよかったのでは」


「最初から出したら、ロックじゃないじゃろ」


「言葉遊び癖はやめてください」


「考えた方が覚える」


 澪はため息を吐いた。



文化祭は進んだ。


 水槽の青が濃くなるたび、陽が水を替えた。

 結の赤い字は、何枚か増えた。


【泳げん人、歓迎】

【見るだけでもOK】

【潮核はボール。でもボールだけじゃない】


 凪はその横へ、短い説明を足した。


【水の中と水面で、見えるものが違う】


 澪は表現を直した。

 花は人が減った時間だけ、呼び込みを手伝った。

 三谷は離れたところから見ていた。


 夕方、潮球部の展示スペースには、小さな列ができていた。


 体育館のステージや飲食の出し物に比べれば短い。

 それでも、朝にはなかった列だった。


 文化祭の終了を知らせる放送が入った。


『本日の一般公開は、まもなく終了します。ご来場の皆さまは――』


 展示の前にいた子どもが、最後に球を押した。

 青い筋へ乗る。

 白い丸へ入る。


「できた」


 結が手を叩いた。


「ナイス潮核」


「ちょうかく?」


「オレンジのボールの正式名称」


「変な名前」


 結が笑った。


「じゃろ」


 子どもは、もう一度水槽を覗いた。


「ちょうかく」


 廊下の音に、その三文字が混じった。

 一般公開が終わると、廊下の音が低くなった。


 呼び込みの声が消え、机を引く音、段ボールを畳む音が続いた。

 窓の外は夕方の色だった。


 花は商店街の手伝いへ戻った。

 澪は職員室へ資料を返しに行った。

 三谷は「最後まで片付けろ」と言い残して、どこかへ消えた。


 また、凪と結と陽が残った。


「結局、うちらなんよ」


 結が長机の紙コップを集める。


「最初も最後も、うちら」


「作ったから」


「作ったけんって片付けまで担当とは限らんじゃろ」


 陽は水槽の横に立っていた。

 中の水は、薄い青になっている。

 底に沈んだオレンジの球が、くすんで見えた。


「捨てる?」


 凪は水槽へ近づいた。


「水は捨てる」


「球は?」


「残す」


 結が顔を上げた。


「記念?」


「来年、使えるかも」


「来年」


 机を引く音が、廊下を横切った。


 結が赤いペンで書いた紙を一枚剥がした。


【正式名称は潮核。でも最初はボールでOK】


 紙の端が、結の指の中で揺れる。


「これ、澪さんに公式説明では使うなって止められとったけど、役に立ったよね」


「立った」


「凪が素直」


「事実だから」


 陽が頷いた。


「入口」


 結は紙を畳まず、机の端へ置いた。


「入口かあ」


 凪はホワイトボードの字を消した。


【一人では読めない流れを、五人で読む】


 布を動かす手が止まる。

 結が横から覗く。


「それ、残したかったん?」


「別にそんなんじゃ」


「別にって顔じゃないじゃろ」


 凪は布をもう一度動かした。


 陽がスマホを出した。


「写真」


 凪と結の顔が、陽へ向く。


「撮った」


 画面には、展示スペース、水槽、ホワイトボード、赤い字。

 結が大きく手を広げ、凪が水槽の横に立ち、陽の指が端へ写り込んでいる。


 結が吹き出した。


「陽、指」


「入った」


「入ったじゃないんよ」


 凪は画面を見た。


 水槽。

 短くなった説明文。

 赤い文字。

 ホワイトボードの前に立つ三人。


「送って」


 結の顔がすぐ動いた。


「凪が写真欲しがった」


「記録」


「はいはい、記録ね」


 陽が頷いた。


「送る」


 片付けは、夕方まで続いた。


 模造紙を外す。

 両面テープの跡を剥がす。

 かき氷機を調理部へ返す。

 溶け残った氷を流す。

 余ったシロップを返す。

 オレンジの球を布で拭く。

 水槽を洗い、理科室へ運ぶ。


「結局、かき氷屋はやらなかったね」


「研究には使ったけん」


 最後に残ったのは、空の長机と、何も貼られていないパネルだった。


 机の縁には、剥がしきれなかった両面テープが残っていた。


 結が腰に手を当てる。


「終わったー」


 陽の息が長く抜けた。


「終わった」


 凪は、袋に入れたオレンジの球を手に持っていた。


 軽い。

 本物の潮核とは違う。

 沈み方も違う。


 今日一日、何人もの手がこの球を押した。


 結は空になったパネルを見た。


「こんなんで本当に通じたんかな」


 凪の指が、袋の口を閉じた。


「来年、部員増えんかったらうちらのせいにされそう」


 陽が机のテープを剥がした。


「一人、止まった」


 結が陽を見る。


「届いたと思う」


「三十人くらい来たり?」


「来ても一人じゃないかな」


「まーた、凪は夢見せてくれん」


 結は空になった展示スペースを見た。


「まあ、来てくれるだけでええか」


 凪はオレンジの球を紙袋へ入れた。


 廊下の窓から、夕方の光が差していた。

 校庭では、片付けを終えた生徒たちが笑っている。


 結が伸びをした。


「帰ろ。うち、潮流かき氷のこと考えすぎて、普通のかき氷食べたい」


「結局かき氷」


「だって氷じゃろ」


 陽が頷いた。


「氷」


 凪の口元が上がった。


「三谷先生の思う壺」


「なんか、やだ」


 三人は荷物を持って、展示スペースを離れた。


 水槽は理科室へ返した。

 シロップも調理部へ戻した。

 ホワイトボードの字も消えた。


 青い水を流したあと、凪の爪の脇に色が残っていた。

 結が先を歩きながら振り返る。


「凪、早く」


「うん」


 凪は歩き出した。

 文化祭の廊下には、甘い匂いが残っていた。

お読みいただきありがとうございました。


不定期ですが今後も更新予定です。


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