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赤い晩餐を口にした  作者: 宮山悠


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Ep.5 熟れたもの

南に導かれるまま、私はダイニングルームの前に立った。


扉が開く——その瞬間、空気が変わった。


一歩踏み入れただけで、それまでとは違う場所に来てしまったと分かる。



静かだった。


音がないわけではない。


けれど、すべての音が抑え込まれているような静けさだった。


中央には、一本の長いテーブル。


磨き上げられた天板は、照明を受けて鈍く光り、どこか水面のように揺れて見える。


席は左右に四つずつ。


それぞれの席には、すでに食器が整えられていた。


ナイフとフォーク。白い皿。そして、その上に置かれている赤いナプキン。


丁寧に折られ、丸くかたどられている。まるで、熟れすぎた果実のようだった。


テーブルの両端には、花瓶が一つずつ。


赤い薔薇が活けられていた。庭で見たものと同じだ。棘は見えないように処理されている。美しさだけが、残され

ている。


「お、こっち。」


すでに席についていた有馬が、軽く手を上げた。


その仕草だけが、この空間の中でわずかに現実的だった。


私は迷わず、その隣に座った。理由は考えなかった。ただ、そこがいちばん遠くなかった。


有馬は黒のジャケットに、少し崩したシャツ。整っているのに、どこか馴染みきっていない。


「似合ってるね。そのドレス。」


「ありがとうございます。」


私は小さく頷いた。


そのとき、扉が開いた。


一人、また一人と招待客が入ってくる。


最初に入ってきたのは鷲宮翔理だった。彼は部屋の中央で立ち止まり、視線を動かさずに空間を把握している。政

治家らしい、冷たい計算高い目。


「相変わらず早いな。」


後ろから神代恒一が声をかける。鷲宮は振り返らずに応じた。


「神代さんほどではありません。」


短いやり取り。笑っているのに、温度がない。


久我真司が椅子を引きながら口を開く。医者らしい冷静で分析的な声。


「今年は顔ぶれが若い。」


「新陳代謝は必要でしょう。」


神代の返しに、誰も笑わない。同意とも違和感ともつかない沈黙が、一瞬だけ落ちた。


ノア・ジェームス・峯は天井の絵を見上げたまま、研究者らしい好奇心を隠さない声で呟いた。


「今年も同じ構図か。」


「変える理由がない。」


鷲宮が淡々と返す。そのやり取りには、すでに共有された前提があった。


最後に、双子が並んで現れる。五味怜と梓。


同じ顔。違う温度。


「今年も無事に集まりましたね。」


怜が言う。


「ええ、予定通りに。」


梓が続ける。


その言葉に、何人かが小さく笑った——何に対する笑いなのか、私には分からなかった。


これで、八人。


誰も席を立たない。誰も急がない。ただ、この場に慣れている。


やがて、扉が再び開いた。


緋雨嘉孝と、その三歩後ろに見人。


「皆様、お越しいただきありがとうございます。」


穏やかな声。崩れない微笑み。


「今年も、この場を共にできることを嬉しく思います。」


わずかな間。


「また、本年は初めてのお客様が二名いらっしゃいます。」


その視線が、私と有馬へ向けられる。


「どうぞ、短い三日間ではございますが、お楽しみください。」


緋雨は微笑んだ。


「それでは、ザ・テーブルについてご説明いたします。」


声は滑らかに流れる。


「この催しは、六代目——私の祖父がスペインのトマティーナに参加したことをきっかけに始まりました。」


「トマトを投げ合うという、極めて単純な行為が、人の内側にあるものを解放する。」


「それを、この場で再現したのがザ・テーブルでございます。」


誰も口を挟まない。


「本日のディナーは、皆様ご自身でお取り分けください。」


「どうぞ、ご自由に。」


緋雨が、軽く手を打った。


乾いた音が、空間に落ちる。


その直後だった。


扉の奥から、従業員たちが現れる。


足音はない。同じ歩幅、同じ速さ。


一人が、大皿をテーブルの中央に置いた。


最初の皿は、生ハムだった。薄く、透けるほどに切られた肉が幾重にも重なり、花のように広がっている。赤と

も、薄桃色ともつかない色。縁だけがわずかに濃く、境界が曖昧だった。


続いて運ばれてきたのは、別の皿。厚みのあるハム。中に細かく刻まれた野菜が練り込まれている。


さらに別の皿。ハムで巻かれた野菜。筒状に整えられ、切り口が均一に並んでいる。中には、トマト。種の部分

が、やけに鮮やかだった。


香辛料をまぶしたもの。燻製の香りがわずかに立つもの。脂が白く縁取られたもの。


同じハムのはずなのに、すべて違う。数が、多すぎる。


チーズが置かれる。中央がくり抜かれ、赤いソースが満たされている。


サラダ。緑の中に、赤が点在している。


パン。小皿。そこにも、赤。


最後に、グラスが配られる。水。ワイン。そして、トマトジュース。八つ。同じ高さ、同じ濃さ、同じ色。


すべてが揃ったとき、テーブルは完成していた。


赤が、中心に集まっている。


「今年も見事だ。」


「種類も増えているわ。」


「研究の成果でしょう。」


「ありがとうございます。」


緋雨は微笑む。


「日々、改良を重ねておりますので。」


その言葉に、数人が頷いた。まるで、それが当然であるかのように。


神代が、ゆっくりと口を開いた。


全員の動きが、ほんのわずかに止まる。


「どうだい。今年の“出来”は。」


誰に向けた言葉でもない。けれど、全員に向けられている。


「悪くない。」


久我が答える。医者らしい冷静な分析。


「むしろ、年々精度が上がっている。」


「ええ。」


ノアが頷く。研究者らしい好奇心を覗かせて。


「バランスがいい。」


「甘さも、塩も。」


五味怜が続ける。


「無駄がない。」


神代は満足そうに微笑んだ。


「そうだろう。」


そして、ふと。


神代がフォークの先でトマトを軽く押す。


「ところで——果実というのは、不思議だと思わないか。」


唐突な話題だった。だが、誰も違和感を示さない。


「熟れた瞬間が、いちばん価値が高い。だが、そのままにしておけば、すぐに崩れる。」


「だから人は——」


梓が言葉を継ぐ。


「ちょうどいいところで“取る”のよね。」


フォークで赤をすくい上げる。


「一番美味しい瞬間に。」


私は皿を見た。切り分けられたトマトの断面が、そこにあった。


「市場でも同じだ。」


神代が言う。


「価値があるうちに回収する。遅れれば、無価値になる。」


「つまり、早い者勝ちってことだろ。」


鷲宮が笑う。政治家らしい冷たい軽さで。


「乱暴だが、間違ってはいない。」


ノアが静かに言う。


「最適なタイミングで介入する。それが合理だ。」


「でも——」


久我がナイフを置いた。


「すべてを救うことはできない。だから、選ぶしかない。」


「残すか。」


怜が言う。


「切り捨てるか。」


梓が続ける。


沈黙。


その空気が、ゆっくりとこちらへ向く。


「君たちはどう思う?」


神代の声。やわらかい。だが、逃げ場はない。


「もし、ひとつだけ——特別に“出来のいい果実”があったとする。」


一瞬の間。


「それをどうする?」


意味は曖昧なはずなのに、曖昧ではなかった。


有馬が、すぐに笑った。


「食べますよ。」


あっさりと。迷いがない。


「一番いいタイミングで。」


フォークを軽く振る。


「せっかくなら、価値が最大のときに。」


肩をすくめる。


「放っておいてダメになる方が、もったいないでしょ。」


その言い方は、軽い。けれど、どこか正確だった。


何人かが、小さく頷く。


「合理的だ。」


ノアが言う。


神代が笑う。


「いいね。」


そして——


視線が私に向く。


喉が乾く。


私は、皿を見る。


赤。切り分けられた断面。整いすぎた形。


「……怖いです。」


思わず、そう言っていた。


自分でも驚くほど、素直な言葉だった。


空気が、わずかに揺れる。


「怖い?」


梓が首を傾げる。


「はい……。」


うまく説明できない。


「理由は、分からないですけど……」


言葉を探す。


「それを“取る”っていう考え方が、少しだけ、怖いです。」


沈黙。短く。だが、はっきりと。


「なるほど。」


神代が小さく頷いた。


「いい反応だ。」


評価するように。


「恐怖を感じるのは、自然だ。」


久我が言う。


「だが——」


鷲宮が笑った。


「そのうち慣れる。みんな、そうだから。」


軽く。あまりにも軽く。


神代がグラスを持ち上げる。


赤が、光を受けて揺れる。


「実にいい。」


有馬と、私を見比べる。


「楽しむ者と、恐れる者。」


わずかな間。


「どちらも、必要だ。」


その目は——どこか、楽しんでいた。


私はフォークを持ったまま、動けなかった。


隣で、有馬はまた一口食べる。笑いながら。本当に、美味しそうに。


その姿が、なぜか少しだけ遠く見えた。


誰かがグラスに手をかける。


それに続くように、全員が同じ動きをする。


八つのグラスが、同時に持ち上がる。


赤が、光を受けて揺れた。


「乾杯。」


その一言は、誰のものともつからない——八人の声が、ひとつに重なったように聞こえた。


その一言で、


すべてが始まった。

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