Ep.4 整う
私たちは、扉の内側に足を踏み入れた。
その瞬間——空気の密度が変わった。
背後で閉まる音が聞こえた。
そして、視線も感じた。
振り返ると、緋雨嘉孝と見人が、最後尾に立っていた。
距離は保たれているのに、やけに近く見える。
口元は緩やかに弧を描いている。
けれど、目だけが動かない。
――楽しんでください。
声にはならないはずの言葉が、はっきりと届いた気がした。
内部は、外観の印象を裏切るように、過剰だった。
金の装飾が壁にも柱にも絡みつくように施されている。
光を受けているはずなのに、鈍く沈んでいる。
天井を見上げる前に、まず目に入ったのは、広いホールの壁だった。
そこに、ずらりと並んだ肖像画。
額はすべて同じ大きさ、同じ黒い木枠。
一代目から八代目まで——八枚の写真が、整然と並んでいる。
全員、男だった。
一代目は、厳つい顔立ちの老人。白髪をきっちり撫でつけ、冷たい目でこちらを見下ろしている。
二代目は、少し若い。けれど目が同じように冷たい。
三代目、四代目……と続くにつれ、顔立ちは少しずつ変わっていく。
しかし、どこか共通する冷たさと、口元の薄い微笑みが、血の繋がりを物語っていた。
どの写真にも、共通して小さな赤いものが写り込んでいる。
一代目は手に持ったトマト。
二代目は背景の赤い花瓶。
三代目はネクタイのピン。
八代目——緋雨嘉孝のすぐ前の写真では、胸ポケットに赤いトマトの刺繍が入ったハンカチが覗いている。
八人とも、笑っている。
けれど、その笑顔はどこか機械的で、底が抜け落ちたように感じられた。
私は、思わず足を止めた。
「……これ、歴代のオーナーさんですか?」
隣で有馬が小さく息を飲む気配がした。
緋雨嘉孝が、穏やかな声で答えた。
「ええ。初代から八代目まで、私の先祖と私です。」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
全員、同じような冷たい微笑みを浮かべている。
私は、八代目の写真——緋雨嘉孝本人の肖像画に視線を移した。
写真の中の彼は、今目の前にいる人物とほとんど変わらない。
ただ、目だけが少しだけ若く、どこか飢えたような光を帯びている気がした。
「すごい……みんな似てる。」
有馬が、軽い調子で言った。
けれど、その声には微かな震えが混じっていた。
緋雨は微笑んだまま、静かに頷いた。
「血は、薄れませんから。」
私は、八枚の写真をもう一度見回した。
すべて、同じような冷たい視線を、未来の「九代目」に向けているように感じられた。
自分の輪郭が、少しずつ薄くなるような感覚。
「さあ、どうぞ。」
緋雨の声に促され、私たちはさらに奥へ進んだ。
天井を見上げる。
そこには一面の絵が広がっていた。
長い卓。皿。杯。
人々は笑いながら、赤い果実を口に運んでいる。トマトだ——と、すぐに分かった。
指先から滴る果汁が、皿へ、布へ、そして床へと落ちていた。
絵の中だけで完結しているはずなのに、どこか続いているように見えた。
「……すげえな。」
隣で、有馬が小さく呟いた。
その一言だけが、現実に輪郭を与える。
「羽瀬川様。」
呼ばれて振り向くと、そこに立っていたのは一人の女性だった。
年齢ははっきりしない。ただ、時間だけが丁寧に重ねられているような顔立ち。
「三日間、お世話を担当いたします。南と申します。」
一礼。
動きに揺れがない。
「こちらへ。」
中央の階段へ導かれる。
一段、踏み出す。
踏みしめた感触だけが残り、他はどこにも現れない。
同じことが、次の段でも繰り返される。
自分の輪郭が、少しずつ薄くなるような感覚。
「右手がゲストルームでございます。
左手はダイニングルームになります。
ダイニングルーム以外には、お立ち寄りにならないようお願いいたします。」
柔らかな響きだった。
けれど、その言葉には、余白がなかった。
扉の前で足が止まる。
開かれる。
室内は、整いすぎていた。
誰かが過ごすためというより、誰かを迎えるためだけに整えられた空間。
壁にはトマトの絵画。
テーブルの上の小物も、取っ手も、装飾も、形を変えてそれをなぞっている。
視線が、浴室へ流れる。
白い空間の中に、ひとつだけ色があった。
丸く、艶のある赤。
トマトの形をしたバスボム。
手に取れば、軽いはずなのに、なぜか触れる気になれなかった。
「ごゆっくりお過ごしください。」
南の声に促され、私は浴室へ入る。
湯気が立ち上る。
輪郭が曖昧になる。
湯に身を沈める。
重さがほどけていく。
こんなふうに時間を使った記憶が、ほとんどないことに気づく。
窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。
湯から上がり、皮膚に残る熱が、なかなか逃げていかない。
部屋に戻ると、南が待っていた。
言葉は少ない。
ただ、手が動く。
私の髪が乾かされる。
触れられているのに、どこにも力がかかっていないようだった。
クローゼットが開く。
取り出されたのは、一着のドレス。
深く、底の見えない赤。
「こちらを。」
促されるまま、袖を通す。
布が、肌に沿う。
鏡の前に立つと、そこにいるのは、見慣れた自分ではなかった。
南は何も言わず、化粧を施す。
色が重ねられていく。
髪がまとめられ、形を変える。
首元に、冷たい感触があった。
「お履き物を。」
差し出されたのはハイヒールだった。
「え……私、履き慣れていなくて。」
「では、こちらを。」
キトゥンヒールに替えられる。
また鏡を見て、やはり、誰だか分からない。
「とてもお似合いでございます。」
その言葉は、評価のようでいて、確認のようでもあった。
「……ありがとうございます。」
私は鏡から目をそらした。
見続けていると、自分が自分でなくなってしまいそうだった。
「ダイニングルームへご案内いたします。」
扉が開く。
廊下の空気が、少しだけ冷たい。
一歩踏み出すと、胸の奥で何かが触れたまま離れない。
名前のない感覚だった。
——それは、何かが「そこにある」のに、形が見えないような、そんな感覚だった。




